novel


いつからだろう、随分と長いこと俺の世界は静かで凪いでいた。まるでたった一人、孤独に取り残されたように。

といってもそれは心情だけであって、実際俺が立っているのは生徒が喧しく行き交う廊下の中央なのだがそれでもやはり俺の世界からは色が失せひどく静かに感じられた。少し昔の白黒テレビのように殺風景で映像も所々乱れている。現実味がなく、地に足のついてないような感覚。なにが足りないのかと手元にある、ぎっちりとデータを書き込んだノートを繰る。凪いでいた俺の世界に突風が吹いて、ページがザワザワと音を立て捲れていく。慌てて手を差し入れて、捲れあがるページを抑えるとそこには紛れもない自分の字でみょうじなまえと書いてあった。


バチっと目の奥がショートして世界が段々と色付いていく。

そういえばなまえをしばらく見かけていないではないか。しばらく?どうして気付かなかったのか。確かに最近部活や生徒会活動が忙しく構えていなかった。なにかに没頭すると他を忘れてのめり込んでしまうのは悪い癖だが、こんなにあいつに会わないのはいつぶりだろう。隣にいるのが当たり前だったのになぜ忘れていたのだろうか。会っていない日数を導き出すより前に俺の足はなまえのいるであろう、あいつの教室へと向かっていた。そんなことよりもいかに機嫌を取るかを考えなければいけない。構ってもらいたがりのあいつのことだ、きっと拗ねて手がつけられないことになっているだろう。拗ねる前に寂しいと一言言ってくれればこちらも対処の仕様があるものの、と思いはするがこればっかりはこちらの落ち度なので仕方がない。さて、行きたいと言っていた海へ連れて行こうか、それともあいつの気に入っているアイスクリーム屋だろうか。買い物、映画、遊園地と喜びそうなものを並べあげて廊下を突き進めばお目当ての奴の姿を見つけた。廊下の角を曲がろうとする後ろ姿に名前を呼びかけながら足早に近づいてその肩に触れようとした、すんでのところでするりと交わされ逃げられてしまった。……無視を決め込まれるとは、これはどうやら本当に怒ってしまっているらしい。参ったな……。テニスのデータなら山ほどあるのだが、生憎女子を喜ばせるデータは品揃えが悪い。昼休みまでに過去のあいつの言動、又それによる反応を列挙して統計を取りそこから導き出される最善を尽くさねば。手のかかる彼女を持つと苦労も絶えないが、難しい問題程腕が鳴る。

手始めに、次の休み時間にジャッカルを訪ねた。人選の理由はクラスが近かったからだ。ジャッカルは目立つのですぐに見つかった。それはどうやら向こうも同じらしく、俺を見つけるとすぐにドアのところまで出てきてくれる。単刀直入にあいつはなにをしたら喜ぶか、と聞くと呆気に取られた顔をしてからあー、とか、そうだな、とブツブツ言葉を濁す。

「……あいつってみょうじのことだよな?」
「そうだ。それ以外になにか?」
「いや……その、お前ってデータのことになるとけっこう唐突な時があるっつーか…思考回路が独特だから追いつけないんだよ」
「そうか、それはすまない。」
「というか俺はあいつとそんなに仲良いわけじゃねーし、よくわかんねぇよ。お前が一番わかるんじゃないか?」
「そうだろうが、たまには奇を衒ってみるのもいいだろうと思ったんだ。」
「自分が一番わかるってことは否定しないんだな…」

丸井や仁王はあいつと仲がよかったよな。と思い出したように呟くジャッカル。そういえばそうだったな。あの二人は女子とも仲が良いし何か役に立つ助言がもらえるかもしれない。ジャッカルに礼を言って、自分の席に戻るとちょうど休み時間の終了を示すチャイムが鳴る。次の授業は現国だ。準備してあった教科書とノートを開き、授業が終わった後に丸井と仁王を訪ねる計画を立てる。あの二人のことだ、見返りを求められる確率は72%。引き合いに出せそうな条件を探すため、二人のデータを書き記してあるページを開いた。丸井が精市の大事にしていた鉢を割ったことを赤也のせいにしたことがいいか、それとも仁王が弦一郎の書を破ったことがいいか。どちらならば快く交渉に応じてくれるだろうか。


急な授業変更で次の授業は移動教室になったため、戻りがけに丸井たちの教室を訪ねたのだが今度はあちらが移動になったらしくすれ違ってしまった。これでは無駄足になってしまったな、さてどうするべきかと考えていたところへ精市が通りかかる。

「どうしたんだい、こんなところで。」

珍しいね、と続ける精市に、丸井と仁王に尋ねたいことがあったもので、というと蓮二があの二人に聞きたいことってなんだい?興味があるな。と返ってくる。そういえば精市には妹がいたな。丁度いい。

「なまえはなにをしたら喜ぶだろうか。」
「ああ、あの二人は彼女と仲が良かったっけ」
「今までと違う手法を試してみたくてな。」
「本人には聞けないしね。」
「そういうことだ。」

そうだなあ。精市はううんと首を傾げてからやっぱり花じゃない?といった。なるほど。

「花を贈ると。」
「そう、やっぱり単純だし王道だけどこういうストレートなのがいいんじゃないかな?」
「確かに普段の俺からは想像もつかないな。」
「うん、そういうのがいいんだよ。綺麗だし、儚いけどその分気持ちも込められるし、綺麗なものを見ると心って安らぐからね。花言葉もたくさんあるし、そこらへんは蓮二が自分で調べなよ。得意だろう、そういうの。」
「流石は精市、礼を言う。」

昼休みの予定が決まったところで、そろそろ自分の教室へ戻らねば授業が始まってしまう。俺の肩を叩いて精市が「元気だしなよ。」といった。……そんなに参っているように見えていただろうか。咳払いをして、心配は無用だと返した。

昼休みになると昼食もそこそこに俺は図書室へ急いだ。まだ時間が早いせいかそこは人気がなく昼の放送がひっそりと流れるくらいで静まりかえっている。三年間ほぼ毎日のように通っているせいでどの本棚にどのジャンルの本があるかなどすっかり覚えているのでまっすぐに図書室の一番奥の、図鑑などが並んでいる棚へ向かい、花言葉や花の写真の載っている本を数冊引っ張り出してきて机の上に置いた。ふと、さっきまでなかった人の気配に顔をあげる。いったいどこに隠れていたのだろうか、パタパタと上履きの音を立てながらなまえがドアへ向かって走っている姿が目に入った。

「待ってくれないか!」

咄嗟に障害となる机や椅子を避けなまえのところまで辿り着く時間を計算するが今から追いつくには遠く間に合わない。更に先ほどの追いかけようとして逃げられてしまったデータから、動かず声をあげて引き止める。この方が可能性が高いというだけで、止まってくれるかどうかは正直賭けだったがなまえは立ち止まってこちらを振り返った。慎重に言葉を選んで、今日の放課後は一緒に帰りたいと告げるが首を振って去ってしまった。……これは所謂破局の危機、の確率……いや、そんなことが万に一、いや億に一もあるわけがない、あってはいけない。想定しうる可能性の最悪のところに行き着いて俺はかぶりを振った。いいや、そんなことがあるわけがない。きっとなにか計算ミスがあるはずだ。


何度計算をし直してもその最悪の結果は“起こりうる可能性”のうちから消えず、午後の授業はどうしても身が入らなかった。ひたすらに考えを巡らせてもあいつの言動は今までのデータやそれから導き出される理論に適っていない。まずいくら怒ったからといってあんなにあからさまに人を避けたりするようなやつではないし、俺が謝る姿勢を見せたら拗ねた素振りは見せてこそ、なんやかんや許してくれただろう。腹の底から湧き上がるどうしようもない焦燥を持て余して授業が終わるなり俺はあいつの教室へと急いだ。だがしかしどこにも姿は見当たらない。もう帰ってしまったのだろうか。気持ちばかりが急いて思うようにいかない。焦りが胸の底から湧き上がってきて心臓の底がぞわぞわした。

こうなっては直接あいつの家に行くしかあるまい。どうしようもなく嫌な予感がして今日中に蹴りをつけなければいけない気がした。データにもなにも裏付けされていないただの俺の勘に過ぎないがなにがなんでも今日中にあいつに会って話をしなければいけないと思った。なんとしても会う口実を作らないと、と思い一分一秒を惜しむ中花屋へ寄った。適当に花を包んでもらうがその時間すら待っていられないほどに気持ちが早って鼓動が早鐘を打つ。二人で幾度となく歩いた道を早足で歩く。いつの間にかそれは全力疾走になり、あいつを見つけた頃には俺の息は完全に上がっていた。人や車の音でごった返す交差点の、横断歩道の信号にもたれかかるようになまえは立っていた。頭の奥がドクンと痛む。

「おい、」

俺が震える声で呼びかけると意外にも素直にあいつはこちらを向きなおって、俺の顔を直視して姿勢を正した。妙に畏まってしゃんと伸ばされた背筋に面食らう。まるで怒りなど感じられないその表情と雰囲気に全ては杞憂だったかと勘違いしそうになる。そんなわけがないのに。昼間の態度は明らかに異常だった。しかしあまりに平然と、微笑みを浮かべてそこに立っているので俺はどう切り出していいかわからずぎこちなく、これを、と花束を差し出した。なまえに差し出されたその手と俺の手が触れ電流が走る。それは脳の奥にまで届き俺の頭を蝕む。目眩がするほどの衝撃だったのに、なまえは痛くもかゆくもないという様子でそこへ立って笑みを浮かべていた。愛しいものを見つめる目で花束を胸に抱き、その姿は夕焼けに溶けていくようだった。本能でこれではいけないと察して俺は慌ててなまえの腕を掴む。花束が地面に落ちて軽い音を立てた。さっきまであんなに五月蝿かった周囲の音はまるで耳に入らない。いけない、と言われた気がした。それはなまえの声だったのだろうが、どこか違和感があるような、覚えと違うような… …背中を嫌な汗がつたった。

むしろこいつはどんな声をしていた?

なまえは今にも泣きそうな顔をして腕を振りほどこうとしたが有無を言わせず元来た道を引きずって走った。走って、走って、駅のホームへ続く階段を駆け上がり丁度ホームへ着いた電車へ飛び乗る。夕方のこんな時間なのに駅も電車の中もがらんとして無人だった。音を立てドアが閉まり電車は発車する。ここまでくればもうこいつも逃げれまいと安心して手の力を緩めると直ぐ様なまえは腕を振り切った。

「どうして?!どうしてこんなことするの?」

やっと俺に浴びせられた声は怒声だったけれどこの声が聞きたくて俺は一日中頭を悩ませていたのだ。怒り狂うなまえとは対照的に俺はやっと肩の荷が下りた気がしてほっと息を吐く。胸のつかえが取れたように軽い。ガタンガタンと音を立てて電車は走る。流れていく街並みは見覚えがあるような気もしたし、ないような気もした。とにかく辺り一面夕日で明るく照らされ輪郭が朧げになっている。走っている最中は呼吸が乱れ苦しくて仕方なかったのにここへ着いたらスッと落ち着いた。まあ、座らないかと適当な座席へ座って隣を叩くがあいつは立ったまま俺のことを睨みつけていた。

「どうして、と言われてもそうしたほうがいいと思ったから、以外になんとも言えない。」
「そんなの蓮二らしくない」
「それだけ必死だったということだ。」
「どうするの、これから。わたし、もう蓮二と一緒にいられないの。わたしのこと忘れられてもよかったのに、蓮二には幸せになってほしいの、かえってお願いだから」

わぁっと顔を覆ってなまえは泣き出した。しゃくりあげて肩を震わせてわあわあ大声で泣く。
どうする?どうしようか。

「お前と一緒に居られるのなら、どうなっても構わないよ。」

だから泣き止んでもらえないだろうか。腕を軽く広げるとなまえはすがりつくように俺の肩に顔を埋めて泣いた。最初はひんやりとしていた身体がだんだん暖かくなってきて、抱きしめるとその暖かさと柔らかさが腕に馴染む。何度も何度も繰り返し抱きしめてきたなまえの身体に違いなかった。




***

土砂降りの大雨が辺りを覆っている。
パラパラとノートを捲ると見慣れた字で淡々と部員やその他の学校、周りの人間などのことが綴られている。みょうじなまえと書いてあるページがふと目に留まり、開いてみるとある日付を境にそのページはぴたりと止んでいる。

『嘘だ。信じられない。こんなことがあってなるものか』

何があった、こういう心理でこういう行動に至ったなど、的確なことしか書かれていないこのノートの中でその一文だけが異質で異端だった。そしてその次の日から彼はぴたりと彼女のことを話さなくなった。

「精市、」

弦一郎が掠れた声で俺を呼ぶ。ああ、とだけ答えて俺はノートを閉じた。
線香と雨と悲しみのにおいで辺りは満ちていた。

昨日の夜、慌てた様子の母親から連絡が入った。蓮二が遠くの駅で発見されたとのことだ。終点なのに車内に人影を見つけた駅員が確認すると蓮二は死んでいたのだという。持ち物からすぐに身元が分かり親御さんに連絡がいって、そこから俺の親へと連絡が回ったようだ。
みょうじなまえはつい最近死んだ蓮二の彼女だ。
信号待ちをしている時にトラックが突っ込んできて、それに巻き込まれて死んだ。幸運にも、と言っていいのかわからないがちょうど蓮二はコンビニで飲み物を買って出てきたところだったらしく巻き込まれずに済んだ。俺たちは蓮二だけでも助かってよかった、と言い聞かせたがあんなにひどく取り乱した蓮二を見るのは初めてだった。そんな彼が次の日からまったく、ぴたりと彼女のことを話さなくなったのだ。まるで忘れたかのように。明らかにおかしい事態だったが俺たちはそれを見て見ぬ振りすると決めた。そうしてしばらくやってきて、ほとぼりが冷めたような時にあいつから彼女の話を持ち出されたのだ。
もう一度ノートを開いて最後の日付を確認する。昨日は彼女の七七日忌、彼女が死んでから四十九日目だった。
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