novel


 たまには一人、外で飲みたい。
 そう思って出向いた、あまり馴染みのない店に馴染み深い顔がいた。いや、訂正しよう。こちらが一方的に馴染み深く思っている顔だ。
 その女は、カウンターの一番奥に一人で腰かけて黙って盃を傾けていた。夕暮れで、まだ夜とは言い難い時間であるせいか店の中に客は少なく、余計その女は目立っている。少ないながらもそこにいた男共に遠巻きから好奇な視線を、不躾に送られていたが、彼女はさして臆する様子もない。気が付いていない、わけでもなさそうだ。
 記憶の中の彼女の姿と比べてみて、微妙な違和感を感じたが、こんなチャンスは滅多にない。俺は注文した猪口と徳利が出て来るとそいつを手土産に、彼女の隣にスルリと腰かけた。

「……こんばんは」
「ドーモ。お嬢さん御一人なの?」
「ええ、まあ……どこかでお見かけしましたっけ」

 ツンと取澄ました彼女の横顔が、俺の顔を見た途端、目をくるんとまあるくして尖った空気がフッと抜けた。ぱちぱちと目を瞬いて記憶を引き出そうとしているようだったので、俺はその様子だけでふわりと椅子から浮き上がるような心地がする。覚えていてくれたとは。

「甘味屋」
「甘味屋……ああ、常連さん同士でしたね。よくお見かけしてました」
「こちらこそー」

 俺がよく行く甘味屋で、彼女もよく甘いものを食べていたのだ。常連同士、一度も話したことはないけれども、見かけるたびについ彼女をチラチラと盗み見ていた。ここ数か月はパッタリ見かけなくなり、心のうちで少々、いやかなり残念に思っていたのだが。

「なーんか久しぶりだなァ」
「ええ、そうですね……近頃忙しくって」
「……あァ、そういや知りたかったんだ。名前は?」
「……なまえと申します。あなたは?」

 話してみれば予想以上にいい子だった。甘味屋で見かけていた頃、いつもさまざまな甘味を如何にも美味しそうに幸せそうに平らげていた彼女の印象そのままがそこに生きて、俺と酒を飲んでいた。鈴を転がすような声で笑い、時には俺の話に目を丸くして驚いて、話上手というよりも聞き上手というのがしっくりくる。
 二人で次々と杯を空けて飲み続け、夜更けの頃には互いにすっかり千鳥足になっていた。
 どろどろに酔っぱらった頭が、会話のときの距離を近くし、奇妙な空気を互いの間に作り出していたが、俺はそれを好機だと思ったし、彼女も別段嫌そうな感じでもなかった。
 だからこそ、日付も変わった頃、店を二人で出て、俺は「なまえの家で飲みたいなァ」と言うことができた。躊躇いが無かったわけではないが、なまえはいやに色っぽい顔で「いいですよ」と頷いてくれたから、それで一息に酔いが全身に回ったようにクラクラし始めた。
 飲みたいだなんて口は、ただの建前でしかないということは、当然互いに理解の上である。


 なまえの部屋は薄暗い長屋の中の一つだった。陰気な空気のその場所を、俺の溶けた頭は彼女に似合わないなとチラリと考えたが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
 ただ行為を覚えたばかりのガキのように彼女に溺れた。初めのうちは、やけに冷えた肌だと思ったがそれもしつこく俺と重ねてしまえば、俺との境など初めから無かったかのように熱っぽくなる。

 漸く息をついて、肌を離した頃にはもうすぐ空が白み始めるような時間になっていた。


「銀さん」

 掠れた声のなまえが差し出してくれた水を呷る。彼女も自分で注いできた水を、ちびちびと口に運んでいた。
 簡単に羽織っただけの襦袢から除く鎖骨や首筋に見惚れていたら、視線に気づいたなまえがくすりと艶やかに笑う。

「なァ、なまえ。お前もしかして」

――いつもそうやって客取ってんのか?

 彼女の笑みにつられて、聞かないでおこうと思ったことが口から滑り落ちかけた。咄嗟に口を噤んで、「いや、何でも」と誤魔化す。

「何が聞きたいのか、なんとなく分かりますよ」

 ふふっと笑ったなまえが、空になった湯呑を受け取る。俺は見透かす彼女の視線に居心地が悪くなって、改めて胡坐をかいた。

「大体お考えの通りです。こうしないと生活するお金なんて、とてもとても」
「……俺ァ今日、金なんざねェぞ」
「知ってますよ。飲み屋の勘定、ギリギリでしたもの」
「じゃあなんで、」

 問いかけた俺の口に、スッと細い人差し指が押し当てられる。唇を軽く押さえたその白い指先は、すぐに離れたが、その行為の艶っぽさと裏腹のあまりの指先の冷たさに、俺はその刹那僅かにゾッとした。氷が一つ、胸にトンと落とされたような心地だった。

「ねェ銀さん。私ねェ、死んでるんですよ」

 彼女が頬に浮かべた笑みは今日一番美しかった。が、それは俺が今まで甘味屋で見たことのあるなまえの姿とは、最もかけ離れた表情だった。

「……ンなわけねェだろ。現に、こうして、ここに、」
「身体は死に損なったんです、間抜けな話ですよ。聞いてくれますか?」

 唾を飲み下した音が自分の耳に大きく響く。沈黙を肯定と取ったのか、なまえはますます笑みを深くして口を開いた。

「心中したんです」
「しんじゅう」
「そうです。ありふれた話ですが、ずっと、身分違いの恋をしていました」

 部屋に満ちる冷たい空気と異なって、彼女の口ぶりは柔らかだった。彼女が大切に大切に抱えてきたものの包みをそっと開いてみせてくれているような。


「女中として下働きをしていた私と違って、彼は大きな商家の跡取り息子で……ずっと密かに私たちは想い合っておりました。でも、ついに、彼が良家の娘さんと結婚することが決まって、それで、この世で私たちが一緒になることは矢張り無いのだと失望しました。そして決心したんです。この世で一緒に生きれないならば、いっそ共に死のうと」

「私たちは互いの身体を縄で結び、重石をその先に括りつけ、川へ飛び込みました。夜更けの冷たい川に」

「けれど私だけ死ねませんでした。
括り付けた紐が解け、彼だけが重石と沈み、私は翌朝河岸に打ち上げられていたところを助けられました。
彼一人を、あの世に送ってしまったのです。
……この世に残ってしまったのは、無様なこの私だけ。女中としては当然もう働けません。逃げるようにここへ越して、こうして生活しているわけです。
……ね、つまらない話でしょう」


 笑う彼女がやけに泣きそうに見えた。座った膝の上に置かれた拳が痛々しい。
 俺は彼女と男が身を投げた、その夜更けを思い浮かべた。
 そして、心の底から彼女がいってしまわなくて良かったと、浅ましい気持ちの中で思った。彼女を括り付けた男の手が緩んでいたのかもしれない。わざとか、たまたまか。そんなことは分からないが、もしかしたら俺の恋心が彼女を此の世に引き留めてしまったのかもしれない。
 酒と女に酔った後の頭では、そんな酔狂な考えが至極妥当なものに思えるのだ。

「なんで……なんで私だけ生きてるのか、そう思いながらも一人ではなかなか死に切れないんです……」

 気丈に笑う彼女の声が段々か細いものになっていく。終いには、俯いてしまった。肩は震えていないが、膝の上で作られた両手の拳は関節が白くなっている。
 半年前、甘味屋でいつも見かけていたなまえの姿を思い浮かべた。餡子や生クリームを口に頬張って、この上なく幸せそうな顔をしていたのだ。今、目の前にいる彼女にそのときの雰囲気はない。無いけれども確かに俺が惹かれていた彼女であることは間違いなかった。

「ソーゼツな話だなァ」

 俯く彼女の髪をそろりと撫でる。梳くように髪を弄んで、ゆっくり顔を上げたなまえと顔を覗き込むようにして目を合わせる。涙で潤んでいるわけではなかったが、迷子の子どものような頼りない顔だった。

「俺には難しいことは言えねェけどさー、俺はなまえがこうやって今生きててよかったってことだけなら言えるなァ」

 死んでしまった男がどんな人間だったのか俺には知る由がない。けれどもソイツを置いてなまえがここにいることが、俺にとっては幸福だった。どれほどなまえがそれで思い悩んでいるとしても。

「俺はその男のことを知らねェよ。そいつはなまえと一緒に死ぬ覚悟ができてたのかもしれねェ。けどなァ、俺ァどうなってもお前と一緒に生きていける覚悟のある人間をオススメするけどなー」

「……銀さんって、」

 なまえが目を細める。笑った……のなら嬉しい。

「最初、あの人に似てるなと思ったんですけど、実のところ全然似てないんですね」

 口元を綻ばせて、今度こそしっかり微笑んだなまえに胸の底がむず痒くなる。
 お前と一緒に死のうとしたそいつの想いと、お前と一緒に生きたい俺の想いのどちらが強いのかは分からない。比べたってどうしようもないし、どちらが良かったか分かる日が来るとは思えない。それでも生きている彼女とこうして出逢えたことが、俺にとっては幸福だった。いつかはその幸福が、俺一人のものでなく二人で共有されるものであってほしい、心からそう願う。
 目の前のなまえの微笑みは、いつも甘味屋で見かけていた幸せそうな笑みに少し似ていた。
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