novel


 あ、と間抜けな声を上げて彼女が視線を固定する、その先に何があるのか瞬間分からずに、諏訪は眉間にしわを寄せた。不意に割れた人波の合間に、きらりとガラスが光ったのを見て、ようやく肩の力を抜く。正面に戻した顔はあきれとも取れる複雑な形にゆがんでいたが、なまえはそんな諏訪の表情になど目もくれず、ほとんどにらみつけるような眼力で、じっと一点を見つめているのだった。
「おい、なまえ、いい加減にしとけ、メガネの背中に穴が開いちまうぞ」
 煙と一緒にはき出した言葉に引きずられるように、ようやく彼女の瞳が動いた。向けられた恨めしそうな視線に、諏訪は、梅雨時の密度を増した空の色を思い出す。今にも水滴が落ちてくるような気がして、トリオンでできた屋根の下、思わず首筋を押さえた。
 しかし、そこを伝う雨粒があるはずもなく、浮いた右手はすぐに行き場を失う。いくらか宙をさまよい、それは最終的にむくれるなまえの額を弾いて止まった。戦闘体ではない白い肌は指先に軽い弾力を伝えてくる。感触を反芻するより早く、短い悲鳴が諏訪の鼓膜を揺さぶった。お世辞にも可愛らしいは言えない、何かのつぶれたような声が、彼には決して不快ではない。
「諏訪さんひどい、今の地味に痛かった!」
 なまえがいくら吠えようと、気にせずいられる自信はあった。けれど、頬を膨らませる彼女の隣で、チームメイトが困ったような苦笑いを向けてくるものだから、諏訪はぐっと咽を詰まらせて、火を付けて間もない煙草を灰皿に押しつけたのだった。何も言われてはいないのに、妙にばつが悪い。そんな心中を知ってか知らずか、なまえは大仰な涙声をあげて隣に座る少年を向いた。「ちょっと見てよ笹森くん、諏訪さんのせいでおでこ赤くなったよう」
「鏡も見ねえでなんで赤くなったってわかるんだよ、」
 そもそも、おまえが玉狛のメガネにガン付けてたのが始まりじゃねえか。
 あきれが半分、話題をそらしたいのが半分でそう言えば、勢いづいていたなまえの唇は不意に閉ざされた。突き出されたそれはつまんで下さいとでも言っているかのようで、けれど行動に移したらまた同じようなやりとりが繰り返されるのだろうと思うと、とても面倒で手は出ない。「いったい何だってあいつを、親の敵見るような目だったぜ」
 ぶすくれた表情をしばらく晒して、なまえは次に返す言葉を探していた。「……だって、」逡巡したあげくに、絞り出した声は今までになくトーンが低い。とがらせた唇も相まって、子供か、と言いたくなるような反応だった。それでも諏訪は、つっこみを入れたくなるのを我慢して、だって、の続きを待つ。
「あの子、風間さんと相打ちになったっていうんだもの」
 唐突に出てきた同級生の名前に、わずかに目を見開いて、それから深く息をつく。思い切り吐き出してから、一瞬でも呼吸をとめていたことに初めて気づいた。先ほど飲み込んだ一言を、やはり口にしてやればよかった、と思う。癇癪に巻き込まれた玉狛の少年のことを哀れにも感じた。「あのななまえ、おまえ、そりゃあ、ただの八つ当たりだろ」
「それは、分かってるけど、」
「分かってるなら睨むなよ。中学生相手に大人げなさ過ぎるぜ」
 諏訪の言い分はもっともであるはずだった。事実、なまえも反論できずに黙り込んでいる。だのに、彼女の瞳の奥には今も小さな炎がくすぶっていて、それは明らかな冷たさをもって背筋をひやりとなでていった。
 おそらく、それに気づいたのは、真正面から目を合わせた諏訪だけだった。二人の間に降りた沈黙を中和させるように、笹森が努めて明るい声を出す。「ええと、焦らず行きましょうよ、みょうじさん。いつかは風間さんにも勝てるようになるかも知れないじゃないですか」――違う、と言葉が浮かんだと同時、なまえがあいまいな笑みを隣に向けた。「そうね、そうかもしれないわね」
 ありがとう、笹森君。言われた少年は、なまえがようやく笑顔を見せたことに満足したのか、明らかにほっとした表情で椅子から立ち上がった。個人戦の予定があるという彼にひらひらと手を振って、見送る。諏訪は、そんな彼女をじっと見つめていた。
「……わたしにも穴が開きそうだよ、諏訪さん」
 顔を戻したなまえと目が合う。苦笑の形に弧を描く唇の、柔らかな曲線とは対照的に、その瞳の奥にはやはりほの暗い何かが凝っているのだった。
 彼女が、A級屈指のアタッカーである彼に執着して、何度も個人戦を挑んでいることは周知の事実である。彼がそれに応じるのはごくまれであることも、また。その光景は、自称・実力派エリートの周りを飛び跳ねる、子犬のような少年に重なって見えていた。だからなのか、理由を気にしたことはなかった。気にしなかったことが間違いだったのだと、いまさらになって諏訪は気づいた。
 なまえ、と名前を呼んだ唇が乾いている。のどを潤す酒も、口寂しさを紛らわせるタバコも目の前にはない。彼女は再び口角を上げたが、その表情はどこかぎこちなく諏訪の目に映った。
「だって、ねえ。あの人がわたしと一緒に生きてくれるはずが、況して、一緒に死んでなど、」
 だからわたしは、死ねないあの部屋で、あの人と相打ちになりたいの。
 そう言って笑う。諏訪はひどいめまいを覚えて額を押さえた。目をつぶっていれば、彼女の顔を見ずに済んだ。少しだけ、息が楽になる。閉ざした視界の向こうで、かざまさん、とかすれた声が呟いた。ゆるゆる顔を上げると、なまえがまた、諏訪を通り過ぎて背後を見ている。
 そこに誰がいるかなど、振り返らずともわかるというものだった。赤を映して、静かに細めた瞳の奥で、どろどろの炎が揺らめいている。ぎこちなく、口元にだけゆがんだ笑みを浮かべたなまえの顔を、それでも美しいと思った。美しいと思ってしまった、その事実がひたすら苦々しく、諏訪の眉間には再び深いしわが刻まれたのだった。

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