novel


「御無沙汰でございましたね、沖田様」
「えらく腹に据えかねるってツラしてるじゃねェか」

 羽飾りのついた豪奢な扇子で顔を隠すなまえに対して、沖田はいつも通りの冗談を舌に乗せた。半年ぶりだと言うのになんて男だとなまえは苦々しく思った。こちらは膝に畳の跡がつくほど待ったというのに、この男ときたら平然としている。ようやく会えた恋人同士というものは、もっとこう、情欲のままに抱き合ったりするものだと思う。それが秘密の愛なら尚のこと。
 沖田がこういう態度だから、なまえも言うべきでないことを言ってしまう。

「わたくし、あなたがいらっしゃらない間に身請けが決まりました」
「はぁ? どこのどいつだよ」
「沖田様には関係ございませんので言いません」
「お前あんだけ愛してるっつっといてその言い草? 営業トークならそう言ってくれよ、俺純情な青少年だからさァ、そういうのわかんねェから」

 本当のことを嫌みたらしく言ってやれば、沖田からは倍ほどの嫌みが返ってくる。逢瀬の度に愛している、手紙を書いては愛していると言ったのは確かになまえだが、俺もそうだと答えたのは沖田ではないか。ああもう本当に、なんてふざけた男だろうか!

「わたくしの髪の毛、さしあげたでしょう! 女にとって髪は命ですよ! きちんと持っているでしょうね!」
「ああアレなァ。なかなか高く売れたぜ。今頃ハゲ親父のカツラの一部にでもなってんじゃねェか」
「あ、あ、あなたという人は…!」

 なぜこんな人を好きになってしまったのだろう。他の男に何度抱かれようとも心はあなたのもとへとの誓いを、わたくしの気持ちなど考えもせず売ってしまったと言うではないか。それでわたくしの借金を払う足しにしたのならまだしも、どうせ甘味でも買う金に消えたに違いない。よよ、と着物の袖で口元を隠して泣くなまえを、沖田は馬鹿にするように笑った。

「酒も飲んでねェのに酔うねィお前も」
「なんですって!」
「それじゃあお前には俺の命をやろう」
「え、」
「当代きっての天才剣士の首でさァ。それなら女の命に釣り合うだろィ」
「………どういうことです」

 鈍いねェ、と沖田はため息をついた。

「心中しようって言ってんでさァ」

 そうして涙の跡も乾かぬなまえを無理やり抱え、窓から飛び降りてしまった。

 走って走って、朝の鐘が鳴る前に海に着いた。舌を噛むまいと黙っていたなまえがここぞとばかりに口を開く。化粧は汗ですっかり取れたし、足は生まれたての小鹿のように震えている。裸足の爪先は血塗れだ。常連の呉服屋がくれた純金の簪はどこかで落としてしまった。金がかかった豪奢な刺繍の色内掛は重いから脱ぎ捨てたし、髪は崩れて見るも無残な女がいるだろう。さすがにしんどそうな沖田も砂浜に座り込み、肩で息をしながら海を見つめている。

「ま、ったくこんなこと、して、忘八に見つかったら、とんでもないですよ」

 息も絶え絶えのなまえは砂を握り締めながら言う。沖田は潮風に金髪を揺らして「用心棒に負ける侍がいるかよ」と小さく笑った。

「嬉しくねえんですかィ」
「そ、そんなんじゃ、なくて、心の、準備ってものが、い、いるで、しょう」
「ここまでついてきた癖に、文句の多い女だなァ」

 俺の首じゃあ不足かィ、とぽつり。迷子の子供のように寂しげに、沖田が呟いた。ああ。なまえは下半身の疼きを感じながら沖田を抱きしめた。わたくしはこの人のこういうところが好きなのだ。とんでもなく自信家で口が悪いくせに、時折顔を覗かせるこのもの悲しさ。たったそれだけで死んでもいいくらい愛おしくなる。

「真選組に居て遊女なんか買えるわけがねェ。お前と一緒に生きることは出来ねえが、お前と一緒に死ぬことぐらいはしてやりやしょう」
「ええ、沖田様。それでこそなまえが惚れた男です」

 なまえはうっとりと沖田を見つめた。口を吸ってくださいなと視線で訴えるのを無視して、沖田はなまえの腰帯を解いてなまえに差し出した。

「解けねえように強く結べよ。俺たちの愛のように強くな」
「わ、かっ、て、ま、す」

 ムードを無視した沖田の態度に、なまえは不満げに刺々しい声を出す。乱れた髪を撫でつけて、沖田がこれまで聞いたこともないようなとびきり優しい声を出した。

「心配しなくてもお前をひとりで死なせたりしねぇよ。続きは冥土でな」

 この男の本当にわからないところは、わたくしのことなんて毛ほども想っていなさそうな口ぶりなのに、こうした時に優しくしてみせるところだ。だから勘違いして愛してみようという気にもなるのだ。

「…そんなことを言って、その刀はどうするんです。わたくしが死んでから紐を切る気じゃないでしょうね」
「刀は武士の命でィ。俺が死ぬならこいつも道連れなのは当然だろ? こいつがなけりゃ、お前を地獄で鬼や亡者から守ってやることもできねえじゃねェか。空手は得意じゃないんでねィ」
「わたくし極楽に行きたいですけども」

 そうは言えども、沖田の言う通りも癪なので、ついついなまえは言い返してしまう。可愛くないなァ、と沖田の指が耳を引っ張る。

「お前がいくら数多の男どもを昇天させてきた天の使いと言えどもねィ、心中者の行く末は地獄と決まってるんでさァ」

 そうして、片方の足首と手首を結びつけ、春先の冷えた海に入水した。息苦しさの中で見た沖田は笑っていた。だからこれが幸福なのだと思った、それで、そしたら。





 きつく結んだはずの紐は解けて、入水した場所からそう遠くない海岸に流されていた。体ついた細かい傷が簡単に流れ着いたわけではないことを示していたけれど、手足がふやけていないところを見ると長い間海に浸かっていたわけでもないらしい。凍えるような潮風に晒され唇が紫色になっている。先に目覚めたらしい沖田が、心中前と同じように海を見ながら座っていた。

「……なんでィ、お前の愛とやらも大したもんじゃねェな」

 いつものような冗談のはずだった。悲しみの色の混ざったその声は、なまえの口元から笑みを零れさせた。ふふふ。それを見た沖田も笑った。はは。けらけら、げらげら。面白くもないのにふたりとも笑った。意味のある会話などひとつもせず、奇異の目を気にもせず、ずぶ濡れのまま来た道を帰り、沖田は真選組の屯所へ、なまえは遊郭へ、道を別つにあたってようやくまともな口を利いた。

「では、また」
「ああ、またな」

 口角を上げすぎたせいで顔の筋肉が引きつった。沖田も似たような顔をしていた。二度と会わないくせに滑稽だ。愛とともになまえも沖田ももう死んだ。向こうの道を歩く沖田総悟はもはや同じ形をした肉の塊でしかない。なまえはすっきりとした気持ちで遊郭の戸を鳴らした。すると楼主が飛び出てきて、その顔を認めるなりなまえの頬を叩いた。地が震えるような声で「この馬鹿者が!」と叫ぶ。隣で花車が「相手は真選組のあの方だね」と言った。なまえは叩かれた頬を押さえて頷いた。

「気は済んだかい」
「……はい」
「じゃあ、いいよ。さっさと風呂にでも入って来な。これは内緒にしといてやるから、他の子に見られるんじゃないよ」

 やかんのように真っ赤になっている楼主と違って、花車は落ち着いた様子だった。てっきり棒叩きにされるか、お上に突き出されて人非人になるかと思っていたなまえは茫然と花車の顔を見ていた。深い皺が刻まれた目尻が僅かに吊り上がる。

「なんだ、疑問かい」
「………」
「アンタは馬鹿だね。こっちはアンタの旦那からもう大金を戴いてんのさ。それに真選組の男が相手なのに届け出られるわけもないだろう。死なずに戻って来ただけで結構だ。まったくあんな人の好い旦那に貰われて何が不満かね。“傾城の恋は誠の恋ならず、金もってこいが本のこいなり”と言うだろうに。意中の相手じゃなかろうと身請けしてもらえるだけ有難いと思いなよ。ほら、もういいだろ。その辛気臭い顔洗い流して来るんだね」

 花車の言うことはまったく正論だと思った。あの優しそうな旦那と結婚できるなんて、遊女にはない幸運だろう。しかし癖のある男のほうが女を惹きつける、これもまた真実だとなまえは思う。まあそれももう関係ないことだ。手ぬぐいでシャボンを作りながら、あの海とそれを見つめる紺碧の瞳を温かい湯の底へ沈めていった。

 それから五日後になまえは貰われていくことになった。本当ならあと十日は準備のための時間があったというのに、また逃げられては敵わないからさっさと“納品”してしまえということらしかった。爪も生え揃わぬままに、なまえは白無垢を着て婚礼の儀を済ませると、新しい屋敷で旦那様が用意した赤の着物を着て、座敷遊びをしたり、舞いを舞ったり、琴三味線を嗜んだりした。

「何もする必要はないよ」

 そう男は言った。苦海十年を四年で抜けたことを喜ぶべきなのだろうが、これまで身代金を返すために必死で働いていたことを思うと、何もしないことの方が退屈だった。店を手伝うと言えばそんなことはしなくていいと返すし、夜の相手をすると言っても無理はしないでいいと笑う。まるで道楽で買われたのかと思うほどだった。

「おまえが僕を愛してくれるまで、いつまでも待つからね」

 これが“本の恋”というやつであろうか。なまえは自分の身を焼き尽くすような、奪い奪われるような恋しか知らない。なまえにとって恋とは、男のために指を切り落としたり、男の名前の刺青を入れたり、男の性器に自分の名前を書いたり、そういうものだ。それにもうわたくしは死んだ身だから、これから一生人を愛することなどないのに、可哀相な方だ。

 しかし死んだ心でも情は湧くらしい。二月も経てばなまえはすっかり商人の妻になり、番台に仕事の指南を受けるようになっていた。旦那もいつの間にかなまえを抱くようになった。

「やあ、弁当が出来たかい」
「ええ、もうすぐに」

 そして次の春に、店の皆と花見見物に行くことになった。弁当を作るのは女中の役目だが、嫁に来て初めてのことなので腕を見せるのを兼ねてなまえが作ることになった。四段の重箱をふたつ、手ぬぐいできつく包んだ。下男がそれを持ち、十数人が並んで桜を見物に行く。

「なんだ柄の悪いのがいるなあ」
「ああ、ほんとだ。あれですよ、真選組のやつらだ。場所を変えましょうか」

 旦那が顔を顰めた。なまえは彼の後ろをついていく。見ようと思って見はしない。進行方向に金髪の後ろ頭。それが足音に気づいたように振り向く。紺碧の宝石がなまえを映して、すぐそっぽを向いた。その態度がなまえにはこう言っているように見えた。

 ―――お前の愛とやらも大したもんじゃねェな。

 ふと涙が伝うのに気づいた。下男が驚いた顔をしている。それでも歩調を乱れさせず進み続けた。これは体が勝手に流すものだ。あのときなまえの心は沖田と一緒に死んだのだから、悲しい苦しい辛い、ましてや恋しいなんて思って泣くはずがないだろう。

 ここは地獄と呼ぶには温過ぎる。

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