novel


昔は少しでも腹が立つことがあれば他人に当たっていたという彼も、時の流れと共に成長したらしい。思えば、荒々しく物にぶつかる姿をほとんど見たことがない。それが大人になった証拠なのかはさておき、現在、目の前の彼は物静かにタバコを吸っている。ただそこに平常心は無く、時に頭をかきむしりながら、溜め息を吐きつつ灰皿に吸い殻を強く押し付ける。彼の手中にあるセブンスターの箱が力いっぱい潰されてクシャリと繊細な音を立てた。ペースが早すぎてもう何本目かも分からない、注意したってどうせ聞きやしないだろう。私はテーブルに頬杖を突いて、何をするわけでもなくぼんやりと彼を見つめていた。

「見てんじゃねえよ、ブス」

「タバコ、買って来ようか?」

気を利かせたわけじゃない。彼が素直にお願いしますと言うなんて全く思っていない。予想通り、彼は私の真心を大仰に鼻で笑い飛ばした。優しい言葉をかけてあげるのが正解なんだろうか。だけど私の馬鹿な脳みそではそこまで理解しても、何が優しい言葉で、何が彼の欲しがっている言葉なのかなんて分かるはずもない。もし、安易に地雷を踏んでしまえばすごい形相でこの部屋から追い返されるんだろう。だから私は今一歩踏み込めずに、彼の住処でゆっくりとまばたきを繰り返している。ただ、今、ここに置いてくれているだけで私の居場所は見つかったような気がしている。もちろん、この状況でそれを安直に発すれば彼は私の横にあるごみ箱をめいっぱい蹴り飛ばすだろうけれど。

「今日、良い天気だね」

私の声に、彼の肩がピクリと跳ねた。もはや返事をする気力さえ無いのかもしれない、息を、白い煙を柔らかく吐いて会話を自己完結する。ぐしゃぐしゃに潰れた小さな箱をテーブルに置くと、私の横をすり抜けて台所の方へフラフラと消えて行った。

「…私も、麦茶」

彼の恋人が亡くなって、今日で一週間になる。短いようで、地獄のように長い七日間だった。彼と、その恋人は中学時代からの付き合いで高校を卒業した現在も、交際は続いていた。そうは言っても学生時代の彼は浮気を悪びれもなく繰り返していて、特に高校時代になると、もはや誰に手を出していないのかさえも分からない状態だった。引っ掛けて抱くだけ抱いて飽きたら捨てて、そんな関係ばかりの中で唯一、彼が離さなかったのが彼女だったのだ。彼とはまるで正反対な、控えめでおとなしい性格の女性だった。とは言っても、私と彼が出会ったのは学生時代ではないから、全部彼や、彼の知り合いから聞いた話になる。彼を最低な奴だと言う人も、二人は釣り合っていないと嘲笑う人も少なからず居た。タイムマシンは無いから私は過去の彼や、彼女との付き合いを知ることは出来ないけれど、これだけは分かる、長い間、お互いに深く愛し合っていたんだろうな、と。どう足掻いたって、私の最高順位は2番でしかない。それを飲み込んだ上で、もう居ない彼女を傷付けていたことも承知している。だけど正直に言うなら、申し訳ないと思うようになったのは彼女の死を知ってからだった。病気に蝕まれていく彼女を、彼はどんな瞳で、どんな心境で見ていたんだろうか。私は彼女の死因を聞くのがやっとだったのもあって、本心なんて当然聞けていない。つらかっただろう、それしか分からない私なんかが彼の心を知ろうとしてはいけないのだ。通夜にも葬儀にも出なかった彼は、一週間食事はおろか、睡眠すらろくに取っていない。カタンと小さな音を立てて、テーブルに水の入ったコップが置かれた。

「…ありがとう」

彼女がこの部屋に来なくなってから、彼の生活は一気に変わった。彼女がよく置いて行っていた手作りのおかずはもう食べられないし、掃除も洗濯もしてくれる人は居ないのだ。決して綺麗な部屋ではないのに、そこは生活感を垣間見せない空っぽの箱になってしまった。麦茶も、どうせティーバッグがどこにあるのか分からないか、面倒だから淹れないんだろう。私は水道水を口に含んで喉の渇きを潤した。

「ねえ、祥吾」

「何だよ」

彼女は、間違いなく一生、彼の心の中で呼吸を続けるんだろう。思い出は古びても彼女の存在が過去になることを、彼は最期まで許さないんだと思う。入退院を繰り返していた彼女を不器用ながらに気遣う彼を知っている。彼女のことになると、少しだけ優しい表情になる彼もたくさん見てきた。それでも、二人がどれだけお互いを愛しく思っていたかなんて、知りえない。もう、知ることは無いのだ。性悪だと言われても構わない、私はもう心音のしない彼女を未だに妬んでいる。この先、彼に触れることはない、口を聞くことすらない、でも心の真ん中というかけがえのない居場所を手に入れた、そんな気がするのだ。二人のバッドエンドは、これからもずっと彼に絡みつくに違いない。

「一緒に、死のうか」

「…は?」

彼の逆鱗に触れる予感はしていた。だけど、私の答えはそれくらいで揺らぐことは無い。部屋から放り出されるのも、覚悟している。

「…彼女のところ、行きたいでしょ」

「何でお前まで死ぬ必要があんだよ」

彼が私の発言を否定しなかったところで、本音を知る。私の予想はやっぱり的中していた。この一週間毎日、迷惑がられてもこの部屋に通っていて良かったと心底思う。勝手に一人で消えられたら残った方はたまったもんじゃない。もし彼が一人で居なくなったら私は…私は…ああ、もしかしたら彼もこんな気持ちで、現実を抱え込んでいるんだろうか。

「祥吾が居なくなるなら、私も生きてる意味ないかなって」

その言葉に嘘はない。きっと彼も彼女に対して同じ気持ちを抱いているんじゃないだろうか。一人でこの先、生きていったとしても前を向ける気が全くしないのだ。ましてや違う人と結ばれたり最期を遂げるなんて、考えたくもない。私だって、彼を深く愛しているから。

「言っとくけど、私は本気だよ」

真っ直ぐに彼を見据えたら、切なげには足らない曖昧な表情が返された。たった一人、大切な人を失っただけじゃないかと、他人は言うんだろう。恋愛感情を抱く相手なら将来また出会えると、お前はお前だから強く生きろと、届いているかは別として周囲の声はもう彼にも聞こえているだろう。後悔してもどうしようもない。でも、胸の中が痛みと悲しみで埋めつくされる。たった一人の、大切な人を守りきれなかった現実を受け止めたくなんか無いのに。ただ一緒に生きていきたい、それだけだった。大切な人をどうせ守れないなら、一緒に呼吸を絶つ方が、私は救われる。

「どうやって死ぬわけ?」

「簡単だよ、そこのベランダから一緒に飛びおりたら良い」

この高さなら一瞬の苦痛を味わって二人で天国へ行けるんじゃないだろうか。私は立ち上がってベランダに繋がるドアを開けた。肌寒い風が体の熱を冷ます。命を捨てたら、もっと冷たくなれるんだろう。すると彼が私の横に来て、右手を掴んだ。このまま一緒に、ずっと一緒に。

「怖いの?祥吾」

「怖くねえよ」

「…もし、天国で祥吾の彼女に会えたらさ、次は正々堂々、戦いたいな。私だって、彼女に負けないくらい、祥吾のこと好きだから」

「馬鹿じゃねえの」

「…泣いてるの?」

「泣いてねえよ」

泣いても笑ってもいない彼の頬に、背伸びしてキスをした。強く抱きしめられると、あたたかい。彼の涙も弱々しい言葉も、生きている奇跡も全部ひっくるめて心臓が脈打っていた。

「ありがとう、な」

唇をぶつけ合った。私だって言いたいことはたくさんあるはずなのに、何も出てこない。頷いて、もう一度キスをした。まぶたを落としたときに彼から香ったセブンスター、それが私のラストシーン。

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