novel


 いつも通りではなかった。
 夕飯は私の大好きな鶏の唐揚げで、お父さんとお母さんはにこにこと笑って穏やかだった。お父さんがお母さんのことを怒鳴ることも私を殴ることもなかった。どこにでもあるような家族の団欒の一場面に、私はようやく普通に戻れたのだと喜んだ。また前のように公園に一緒に遊びに行けるかもしれない。誕生日にケーキを買ってきてくれるかもしれない。お父さんが肩車をしてくれて、お母さんがそれを写真に撮ってくれるかもしれない。たくさんの幸福なかもしれないを思いつきわくわくしながらも、これは夢じゃないかと思った。目が覚めたら、お父さんは乱暴なままでお母さんが泣いてるのかもしれないと不安になりつつも、私はその晩眠りについた。
 次の朝も普通のままだった。私はこれは夢じゃなくて現実で、もう普通なんだと思った。普通に戻れているのだと安心した。だけど二人とも疲れているようで静かに朝ご飯を食べていた。私はどきどきしながら、学校に行く準備をしたが、静かである点を除いてまだ普通だった。そして、玄関で靴を履いているとお母さんとお父さんが見送りに立ってくれた。それが普通への第一歩なのだと私は素直に思い二人に振り返った。お父さんは「今日は学校休んでも良いんだぞ」と言ったが、私は学校に行くことが普通だったし、なによりそれは普通を演出するための冗談だと思ったのでくすくすと笑って首を振った。お母さん「いってらっしゃい、しっかり勉強するのよ」と頭を撫でてくれた。私は「いってきます」と明るく言って二人に手を振りながら学校に行った。
 そして、学校が終わり帰ってくると玄関を開けて、私は「ただいま」と元気よく言った。靴を脱いでテレビがありご飯を食べる部屋の隅にランドセルを置いた。いつもなら、お母さんは台所に立っているかこの部屋に座っている。でも、いない。買い物だろうかと思ったが、玄関に靴はお母さんのもお父さんのもあった。朝の様子を思い出し、二人とも寝ているのだろうかと廊下に出る。寝室がある廊下の奥から異臭がした。夏場のトイレの臭いがした。襖をそっと開けると、二人がいたが寝てはいなかった。薄暗い部屋の中で箪笥と棚の上にかけた物干し竿に縄をかけ首を吊っていた。二人の下半身は濡れており、畳が汚れていた。私はこれは何だろうと思った。二人は何をしているのだろう。二人は私に向かって「おかえり」と言ってくれないだろうかと思ったが、いくら待っても言ってくれなかった。どこからかトロイメライが聞こえた。ひどい汚臭に耐えながら私は日が落ちるまでそこにうずくまり救急車を呼んだ。


 いろんな人にいろんなことを訊かれたが、うまく答えられなかった。薄々はわかっていたが、実際はどうなっていたのか知らなかったのだ。お父さんは暴れるだけでお母さんは泣くだけだったと答えた。
 学校を転校することになり、その手続きで先生と会った。「これからは大変だろうけど、頑張るのよ」と励ましてくれたが、私はピンとこなかった。私は今までも大変だった。これからも大変なのだ。あなたは知っていたくせに関わろうとしなかったではないか。けれど、仕方のないことなのだと思った。私の家は普通ではなかったのだから。


 新しい家には、遠縁であるおじさんとおばさんとその息子がいた。もう一人子どもはいたのだが、結婚し独立しているのでその子の部屋を使うようにと言われた。おじさんもおばさんも私にはたいそう同情してくれて、ここを自分の家だと思って欲しいと言ってくれたがその言葉によりかかることなく自分で出来ることは自分でするようにした。新しい家に馴染もうと私なりに努力はしてみたものの、気おくれが先に立った。
 同い年の息子はどこからか湧いた正義感で私に構ってくれたのは有難いことだとは思うが、勉強があるからと誘いを断り続けた。もう少しすれば彼の関心は新しいものへと変わっていくだろうと考えたのに、予想に反してなにくれと話しかけてきては学校であったことを話した。世話になっている家の人間の機嫌を損ねることは嫌であったので仕方なく勉強の片手間に話を聞いた。それはきっと犬が欲しかったのに飼えなかった欲求の顕れのようなものだと思った。私は甘んじてその地位をこなし、彼らの慈悲を受けつつその家で中学までを過ごした。


 意外なことに彼は熱心な飼い主なようで、中学3年の時に遂には私のことを好きだと言ってきた。いつか結婚して欲しいとまで言われて、私はようやく彼は頭がおかしかったのだと気付いた。頭がおかしいから私のことが好きだと言い親切にしてくれていたのだ。私は初めて他人に同情した。頭がおかしい彼は、君が好きなんだとしつこく繰り返し、君もそうなんでしょうという風に体を擦り寄せてきた。
 恐るべき無邪気さで相手も自分と同じ気持ちを持っていると信じこむ子どもっぽさに呆れ、私はあなたのことが好きではないと諭した。拒絶に彼は簡単に激情した。反射的に私は腕で頭をかばった。縮こまりながら、誤解を与えるような素振りをとってしまったことを謝るのでどうか叩かないでくれと返すと、彼はぐしゃぐしゃに顔を歪め唸り声を上げながら私の首に手をかけた。私は畳の上に押さえ付けられたが家に誰もいないようで助けは来なかった。私の家と同じだなと思った。助けは来ないのだ。彼はこんなに好きなのになんでわかってくれないんだと絶叫し、苦しくてたまらないよと言うが苦しいのは私の方だと思った。
 だんだん体の力が弱まり頭がぼうっとしてきて、もうここで死ぬのかと思った時、彼は理性を取り戻したようで、わっと泣くと、ぐったりとした私の体を力強く抱き締めた。ごめんね、ごめんなさいと何度も謝罪を口にするのをぼんやりと聞いた。また死に損なったなと思った。
「どうしてこんなことをしたんだ」と彼に抱かれたまま尋ねると、彼は「好きなのに受け入れて貰えないから、君を殺して俺も死ぬつもりだった」と泣きながらもはっきりとした声で言うので、彼の本気さと馬鹿さ加減を感じ取った。両親はどちらから提案したのだろうとも考えた。
「でも、そんなのは嫌だ。死んでなくて良かった。君が生きてて良かった。死ななくてありがとう。生きてくれてありがとう」あれからそう言ってくれたのは彼が初めてだった。腫れ物扱いは慣れている。彼だけがずかずかと私の領域に入ってきた。
「君が好きだから生きてて欲しい。君が好きなんだ。君だけなんだ」私は殺されそうになりながらも、彼のことを可哀想に思えてきた。力の入らない手で彼の背中をさすってあげた。昔お母さんが私を慰めてくれたように、優しくさすった。彼は落ち着いてきたようだが、私の体を離さなかった。さきほど激情に駆られた時とは異なるどこか懐かしい雰囲気を感じた。
「どうしたら俺の愛をわかってくれるの」と彼は尋ねた。私は返事に窮し、「どうしてあなたは私のことを好きだと言うのか」と逆に質問した。私が好かれる理由がわからなかった。一緒にいて話をしていただけではないか。それだけなのだから、どうせそんなものは気の迷いであり、まやかしで、いつか薄れてしまうものだと思った。そんなものに振りまわされるのはとても馬鹿馬鹿しいことだ。
 彼は何度かまばたきをして、それから「君が可愛いから」と言った。私は、彼は頭だけでなく目も悪いのだと気の毒に思った。そして、「それだけじゃないよ。優しいし、気がつくし、頭も良い。君には良いところがたくさんある」と勢い込んだ。それは誰のことを言っているのだろうと不思議に思った。
「俺の話を聞いてくれたし、家のことをよく手伝っているのに勉強も怠らない」「それは普通のことだ。人の話は聞くものだし、手伝いも勉強も当たり前のことだ」「君はそう思っているけど、すごいことだよ。だから俺は君が好きなんだ」「その気持ちは気の迷いだ。いつか薄れてしまうものだ」「違う。薄れない」きっぱりと言い放つその自信はどこから湧いてくるのだろうと思った。彼は不思議な人だと思ったが、襲われかけ殺されかけたのを忘れていないので、私は離れて欲しいと言った。彼は少し傷ついたような顔をしたが、言うことを聞いてくれた。彼の暖かい体が離れていくのを私は感じた。
 私は「中学を卒業したらこの家を出て働くしかない。だから、どうなったって私達は一緒にはいられないだろう」と冷静に考えを述べると、「俺が土下座でもなんでもするから、高校には行って欲しい」とお願いされた。「君は頭が良い。だから勉強を続けるべきだ」と彼は言った。私はそこまでの善意を人に期待していなかったが、おじさんもおばさんも快く私の進学に賛成してくれた。最初から考えていたことらしい。大学まで私を行かせてくれることを二人は約束してくれた。


 あのあと、彼はもうあんな乱暴なことはしないと誓い、私に直接触れないよう気を付けると真面目な顔をした。殴ったりはしないのかと訊くと、彼はひどく驚き、そんなことは絶対にしないし、あの時は本当にどうかしていたのだと言った。それを信じてみようと思った。彼は彼だ。私の父ではない。人は間違うものだし、それは仕方のないことなのだ。いつかまた何かしでかすのではないかという不安はあったが、紳士的に振る舞おうとする彼との時間が増えるにつれ、それは徐々に無くなっていった。
 彼との時間では私は主に聞き役だったが、彼の声は心地良かった。彼の話には何度も部活のバレーの話が出てきたので、時々、試合を見に行ったがそのことは告げなかった。汗をかいた彼はコートできらきらと光っていた。チームに支えられ輪の中心にいる彼のことを好きになる女子はたくさんいるのに、なぜ私のことを好きだと言ったのだろうと思った。しかし、あれはもう過去のことだ。彼が私に危害を加えないという言葉を信じているが、あとはただの同情が残っているだけだろうと思った。彼はどこから湧いてきたのかわからない自信と正義感を持っていた。そうじゃなければ私に構おうとはしなかっただろう。


 だから私は試合を見に行くことをやめ、受験生だし、勉強に集中したいのでこれまで通り彼と時間を過ごせないだろうということを告げると、彼はひどく残念そうな顔をしつつも、わかったと了承してくれた。私は少し申し訳なく思ったが何も言わなかった。
「学部は違うけど、俺も同じところ受けるから」と教えられた時、「あなたほどのバレーの腕前があるなら推薦を受けられるんじゃないか。あれはとてもすごいものだった」と私はうっかり口を滑らしてしまった。私が試合を見に来ていたことを知ると彼はとても喜び、照れたように笑ったが、その笑みにふっと影がさした。
「…でも、本当の天才にはね、俺みたいな凡人は敵わないんだよ。いくら努力してもいつかは必ず抜かれる」「けれど、それでも私はあなたがすごいと思った。特にあのサーブは誰にも真似できないと思う。みんながあなたを信頼しているのが試合を見ていてわかった」珍しく自信なさげに言うので私はらしくもなく躍起になってそう言うと、彼は「ありがとう」と子供のようにはにかんだ。
 その時、私に好きだと打ち明けてきた彼は何かに追い詰められていたのかもしれないなとふと思った。「今日は学校休んでも良いんだぞ」と言ったお父さんと同じ目を彼はしていた。追い詰められ逃げ場がなくなった時にする目だ。お父さんにそう言われた時、そのままみんなで公園に行こうと誘えば良かった。どこだっていい。あの家から連れ出して昔のように笑い合えば良かったのだ。あの時私は置いていかれたと思ったが、私が二人を置いていったのではないか。彼らを残していくべきではなかったのではないかと思うようになった。彼らは救われたかったのだ。目の前の彼のように。


 それからは彼との時間は減ったが、彼が本格的に受験勉強を始めると休日は一緒に図書館で勉強するようになった。おじさんもおばさんも私達が勉強に打ち込むことを応援してくれた。図書館の行き帰りに、彼は息抜きだと言って寄り道をしながら話すことが増えた。新しい刺激に今まで聞き役だった私も少しずつ自分のことを話すようになり、その変化を彼は喜んでくれた。
 ある時、図書館から帰る途中で手を繋いでもいいかと訊かれたので頷いた。断る理由が見つからなかった。手袋越しに彼の指を感じながら雪道を歩いた。いつも饒舌な彼が黙りこくっていたので、連日の受験勉強で疲れたのだろうと推測し、黙々と真っ白な道に二人の足跡を残していった。それから、雪道は危ないからと手を繋いで歩くようになった。


 大学には合格した。春から今までお世話になった家を出ることになり、私は慌ただしく準備した。奨学金も受けられるようになり、順調だった。
 おじさんとおばさんと別れる時、「あなたが来た時、新しい娘が出来たようでとても嬉しかった。家を出ることをとてもさびしく思う」と言われた。そういうことに慣れてない私は、この家はとても居心地が良かったし、感謝してもしきれないということをなんとか伝えると、彼らは私のことをかわるがわる抱擁した。
 その時、私は家族の匂いを思い出した。それまでは家族のことを思い出せばあの日嗅いだトイレの臭いだった。しかし、それよりも前には暖かなひだまりのような匂いに私は確かに包まれていたのだ。彼に殺されそうになった後、抱き締められた時にこれと同じような匂いを嗅いだことも思い出した。


 学部が違うため、大学では彼と会う機会があまりなかった。私はこうやって疎遠になっていくのだろうと思ったが、誕生日に携帯電話をプレゼントされて混乱した。こんなものほ受け取れないと固辞したが、「俺がバイトして買ったものだし、これでいつでも連絡が取れるよ」と嬉しそうに言うので私は仕方なく受け取った。白い折り畳み式のシンプルなものだ。アドレスには必要最低限の連絡先と彼しか登録されないだろうけれど、大切にしようと思った。華やかな彼が持つ携帯には私と違ってたくさんのアドレスが登録されており、友人も多いだろうに、なぜ同情だけで高価なものをプレゼントし、私に構うのだろうと思ったので訊くと、彼はひどく驚き、そして赤面した。
「君が好きだからだよ。昔から、ずっと。なんでわかんないかなあ」焦れったそうな彼の言葉を聞き、私はじっと受け取った携帯を見つめながら彼とのやりとりをあれこれ思い出す。
「あなたはバレーがうまいのだから目は悪くないだろう。この大学に入れるくらいなんだから、頭も悪くないはずだ。なのに、どうしてそうなのかやっぱりわからない」「俺が君のこと好きだって思うからじゃだめなの?好きだから好きなんだよ」自信家らしい彼の言葉だと思った。
「君が俺のことすごいって誉めてくれたでしょ。天才には敵わないって言っても『そんなことない、あなたはすごいと思う』って。それと同じ。根拠なんて理由なんてそんなもんなんだよ」コートにいる彼はきらきらと光って見えた。眩しくて近寄ってはいけないと思った。目の前の彼もまたとても眩しい。対して私はまだ暗やみでうずくまったままだ。
「私は死に損ないなんだ。あの時、死ぬはずだった。二人と死ぬべきだったのではないかと考えたこともある。だけど、今はもうわからなくなってしまった」お父さんの言う通りに学校を休んでいたら、私はここにはおらず、彼と出会わなかった。殺されそうになった時は抵抗しなかった。ただ死なないから私は生きている。生きているから母の言葉のとおり生きてきた。それしか無かったのだ。置いていかれたと思った。置いていってしまったと悔やんだ。どうすればいいのかわからなくなった。
「君は死にたいの」と静かに彼が訊く。「わからない」と途方に暮れたように答える私に彼は「じゃあ、死ぬなら一緒に死のう」と明るく言った。「でも、今は嫌だ。君といろんなことがしたい。たくさんやりたいことがある。それを何十年も君としてから、俺と君がしわくちゃのおじいちゃんおばあちゃんになってから、それから、一緒に死のう。それまで、俺とたくさん笑ったり泣いたりしながら一緒に生きよう。死ぬまで俺と生きて。君のことが好きだよ。いつか結婚して欲しいと思ってる」あの時と同じ台詞なのに、あの時と違って私は涙が出るほど嬉しいと思った。言葉を詰まらせながら頷くと力一杯抱き締められた。彼からは暖かなひだまりの匂いがした。
 大学を卒業し就職し、結婚をした。彼の両親は私達のことに驚きつつも「いつかこうなると良いと思っていた」と微笑みながら祝福してくれた。身内だけのささやかな挙式だったが、それが私にとっての普通でそれがずっと続くのだと思った。彼の隣で生きることが私の普通になったのだ。
 私は仕事をしながら家事をし、妊娠した。
 そして育児休暇を取った私は鶏の唐揚げを作りながら彼の帰りを待っている。どこからかトロイメライが聞こえてきた。明かりの付いた家で私は帰宅した彼を満面の笑みで迎える。

「ただいま、なまえ」
「おかえり、徹」


 いろいろなことがあったけれど、私は徹とこれから産まれる我が子とたくさんの幸福なあるかもしれないを携えて暖かな家庭を築いていきたいと思う。

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