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それから駐屯兵団になって数ヶ月後、エレンが巨人になったことを聞いた。
壁を大岩で塞いだことも、それ込みで念願の調査兵団に入ったことも。
その時のことはあんまり憶えていない。動揺する同僚の人達の騒ぎ声だとか、悲鳴の様に噂する声だとか、そんな音を聞きながらただ彼の姿が目に浮かんだ。
あぁ……本当に遠いひとだったんだな、と。
「…サヤ・アンドレア、何をぼけっとしている?今夜の配属を聞いていたか?」
「へ、は…はい!クロルバ区巡回ですよね」
「あぁ、そうだ。あんまり気を抜くなよ新人。壁から落ちて餌になるぞ」
「はい!」
一方、駐屯兵団に入った私は平凡な日々を過ごしている。壁の整備や見廻りなど、危険な仕事は殆どないと言っていい。
上司に注意され壁の上で固定法の点検をしながら、壁外の景色を眺めた。青い空と緑の大地で二分された世界に、巨人が点々と彷徨いている。それでもすごく綺麗な景色だ。ちっぽけなことは忘れてしまうくらい。
だけど壁の上から外へ飛び立つ調査兵団を眺めるような日は、エレンを思い出さずにはいられなかった。きっとあの大勢の中に彼がいるんだろう。蒼くて綺麗な風を浴びて走っているんだろう。
そんなことを考えては溜息が出るのだ。
この気持ちを認める前に、離れてよかった。
もう二度と、会うことは無いんだろうと…その時は思っていたから。
◇
「はぁ…」
ところで夜の巡回は正直怖い。
酒臭い男達で賑わう道端を眺めながら、赤く揺れる炎の横を通りすぎて、小物を売る出店の間を行く。
自分で言うのもなんだけど、本当ならこんな時間に女の子が出歩くもんじゃない。護身用に拳銃は持っているけれど、それで誰かを撃つ肝は座ってないし御免だ。
だから早いうちに引き上げよう…。
そう思っていた矢先、随分出来上がった男達に捕まった。
「あの…」
「よぉ、お譲チャン」
肩を抱かれふらふらと体重をかけられる。
灯火に照らされる顔はそう老けてはいない。だとすると周りでニヤつく男達も若者なのだろうか。
「ちょっとよぉ、酒の相手になってくれねぇか?」
「目、ちゃんと見えてますか…?見廻り中なんです。邪魔すると捕まえますよ」
「おお怖え、こいつは税金泥棒の駐屯兵団さんじゃあありやせんか。しかしそんな細い体で夜歩きなんかするもんじゃないよ」
「美味そうに見えて仕方ねェ」
「う」
汚く吊り上がった口から酒臭い息がかかる。
余りの吐き気に顔を背けると肩に担いでいた拳銃をするりと奪い取られた。
これは不味い。慌てて手を伸ばすけれど宙を切る。肩を押されて身体が傾いた。背後にいた男に羽交い締めにされる。
「俺達から搾り取ってる税金の帳尻合わせでもしたらどうだ?」
「お前達に毎日扱き使われるのはウンザリなんだよ」
振り上げられた拳が一瞬月光に映る。殴られて、憂さ晴らしにでもされるのだろう。覚悟を決めて目を瞑った瞬間、頬に風が抜けていった。
「…っ?」
この距離で殴り損ねる訳がない。
薄目を開けて見た視界には、黒い影が立ち塞がっている。
その後ろ姿を見た途端、私は目玉がぽろりと落ちてしまうかと思った。
間違いなかった。
綺麗な襟足、華奢な背中、そして…心が乱れる声。
「おっさん達…ここでなにやってんだよ」
「……見て分かんねぇのか小僧…。お前も殴り殺されたくなきゃそこを退け。小便垂らして泣き喚いたって聞いやらねェぞ」
「あぁそうかよ…」
地を這う低い声が、怒りに震えている。
ほんの少し浮かれていた私も急に怖くなった。
エレン…確かにエレンな筈だ。忘れもしない真っ直ぐな声をしていて、私を助けてくれたその人。
だけどその背中には隠し切れない怒りが溢れていて、今にも彼らに噛み付きそうだった。
「よっぽど殺されてぇらしいな……」
砂を蹴る音と共にエレンが男に殴りかかる。男のポケットから嫌に光る何かが振り下ろされた。
血の、匂い―――。
いけない。
本能的にそう思って、私は後ろの男の腕を滑りぬけ投げ捨てられていた銃を拾った。男達はがエレンの暴走に見入っている。
これ以上巻き込んではいけない。
「エレン!」
「はぁ!?」
走り出した勢いでエレンの腕を掴んで、無理やり暗闇の中に駆け出した。
「やめろサヤ!放せよ!まだアイツらやってねぇだろ!?」
「もういい!もういいから…逃げよう!」
抵抗する引き締まった腕を意地でも掴んで引っ張る。どうしてこんな事になってるんだろう。慌しく駆けながらもエレンの熱が指先を火照らせていって、なんだか無性に泣きそうになった。ミカサはいつもこんな煩い心臓に堪えてるんだろうか。
ううん、そんなことで落ち込んでる場合じゃない。頬を叩いて再び前を向こうとした瞬間――急に腕を掴まれ右へ引っ張られた。反動で足が縺れて地面に転がり込む。…しかし思ったような石が刺さる痛みはなく、どこかの床と、人体の温もりが体を包み込んでいた。
ここは…。
空き家だろうか。月光しか頼りにならないため部屋の僅かな特徴しか捉えられない。埃や蜘蛛の巣の積もり方からして、人が長い間手入れしていない建物なのは明らかだった。
体全体に感じる温かい重みがもぞりと動く。
「いってぇ…」
「大丈夫…ですか…」
真下から声をかければ大きな瞳がはっとしたように見開かれた。
「わりぃ」
直ぐに起き上がり私の上から降りる。
急に消えた熱にがっかりする自分がやになった。
「……久しぶり」
「…あぁ」
探した言葉にエレンが曖昧に頷く。
この場合久しぶりなんて言って良かったのだろうか。訓練兵時代に一瞬だけ助けてもらって、いたたまれなさの余り逃げ出した自分が言っていい台詞だとは思えない。
恥ずかしくなってチラリとエレンを盗み見た。
大人らしくなった横顔に胸がきゅうと締まる。ほんとうに久しぶりな気がする。
殺気立ったエレンの表情は、徐々に落ち着いているようだった。
「あの、助けてくれてありがとう」
何かを思いつめるそれに声をかける。
そこでやっと感じていた違和感に気付いた。
「どうしてここに?」
素っ頓狂に尋ねれば、エレンははぁ?と言いそうな口で顔を向けてくる。そしてそりゃそうか、と呟いて口を開いた。
「兵団の買い出しがすっかり遅くなっちまって…その帰りにアンタを見つけたんだ」
「そう、だったんだ」
改めてこの状況を把握すると、やっぱり夢みたいだ。
なんて偶然なんだろう。だけど、半分悲しい。
未だ胸の動悸は収まらず、エレンを見る度に苦しくなっている。
でも、半分はすごく嬉しかった。
「もう会わないんだと思ってた……」
消え入りそうな声で呟く私に視線をやったエレンは、ぎょっと眼を見開く。
ぽろぽろ目から溢れるそれに驚いて固まっていた。
そりゃそうだ、突然泣き出されたら驚くに決まってる。でもとまらない。もっとエレンを見ていたいのに、擦っても擦っても視界がぼやけている。
「サヤ、なんで、泣いてんだよ…。まさか、何かされたのか?」
「ちがうよ、ほら…怖い思いしたから、急に実感しちゃっただけ」
ほんとうは違う。くるしいんだ。
会えて嬉しい。でも、認めたら痛いの。
"―――サヤ…"
その時、急に私を呼ぶエレンの声が脳内に響いた。
……そうだ…。
違和感の正体はこれだっだんだ。
「エレン…そういえば、どうして私の名前を知ってるの…?」
泣き顔を晒しながら問えば、それは少し焦った顔で肩をヒクつかせる。
「お前もオレの名前知ってるんだから…別に普通だろ」
私の場合とちょっと違う気がするけれど…気まずそうに横目を伏せるエレンにこれ以上食い下がる気は起きなかった。
そっか、と相槌を打って頷く。
沈黙。
なんの音もしなくなった部屋の中で俯き、暗闇を眺める。彼らはもう追ってこないだろうか。…そろそろ、私も帰らなきゃいけない時間だ。
横たわる拳銃を今度こそしっかり胸に抱いて立ち上がる。脚に付いた砂をそっとはたけば、ぼうっとこちらを見上げるそれと目があった。
「助けられてばっかりだね、私」
自然と出た笑顔と共に呟く。
――そういえば、あの日、ちゃんとしたお礼を言ってなかった。
なんだか今なら落ち着いて言える気がした。
あの時はすごく動揺していたけれど、今は違う。今は、この最後の瞬間を大切に出来る。
「今日も……あの時も。助けてくれてありがとう」
――嗚呼、言えた。
今まで何度も脳裏に見てきたエレンの姿が思い出となって駆けた。風のように吹き抜けるそれに感情が溢れて、目が熱くなる。
自分でもびっくりするぐらいの速さでエレンに背を向けた。
がんばってね、そう声を投げて扉に手をかける。
差し込んだ月光が床を銀色に染めていって。
「っ」
温かい引き締まった腕が肩に回された。
引き寄せるように引っ張られるとバタンと扉が隙間を埋めてしまう。
扉に触れていた手は行き場をなくし宙を掴んで固まった。
何が、起こって…。
「悪い」
すごく長い沈黙のあと、エレンは耳元でそう言った。
どんな表情をしているのかは、わからないけれど、なんだか辛そうな声だった。
「お前は弱くねぇよ。あの時…お前がオレを庇ってくれただろ」
「え…?」
その言葉を理解するのに、どれだけの時間がかかったんだろう。私は口をぽかんと開けていた。
あの時……それは訓練兵だった頃の、エレンが私を守ったくれた時の。
だけど庇うだなんて大層なものをした覚えはない、筈だ。
「なぁ、なんであの時オレを庇ったんだ」
「そ…れは…」
エレンを悪く言う男達に腹が立ったからだ。
何も知らないのは私だって一緒なのに。無関係な人なのに。
ただ、エレンに惹かれていただけなのだ。
「もう…放して…」
また慣れた痛みが胸に刺さった。もうこんな苦しいのは嫌だ。
距離を取るように胸を押し返す。俯いて、吸い込まれそうな瞳から逃げる。力の入らない情けない手で、胸に回る手を掴む。
――そのとき初めて、エレンの腕から上がる蒸気に気が付いた。
「こんな化物でも、あの時みたいに言えるか…?」
私は弾かれたようにエレンを見上げる。
辛そうな顔が私の手首を掴んでいる。そこから溢れるのは熱い蒸気。ゆっくりと、ゆっくりと傷付いていた筈のそこを修復していく。
『――あの人の方が、よっぽど、人間ですから…!』
エレンはそう言った私の事を覚えていたんだ。
そうして、その言葉が、少しでも彼を支えられていたんだ。
私は静かにその手を重ねた。
心なしか気持ちは安らいでいて、相変わらずエレンに恐怖なんか抱いていない。
「当たり前だよ…。そんなことで、悲しい顔しないで。エレンは私の恩人だよ。…ありがとう」
今度こそ笑いながら言えた。
もう十分だ。エレンと会えた、話ができた、ありがとうと言えた。もうそれだけで、幸せな気がする。
「……サヤ」
「え?」
重ねていた手が急に強く握られる。
私が驚く間もなく、エレンの顔が間近に迫っていた。
「キスしたい」
痺れるような声で言われては、どうすればいいか分からなくなってしまう。
「え…?」
私は混乱していた。
近付いてくるそれに、成す術もなく硬直する。
どうして、エレンには…ミカサが居るはずだ。一緒に調査兵団へ行った、一番エレンの側にいて、私なんかじゃ敵わない…。
「エレン…わからないよ、やめて…」
「…んで、泣くんだよ。オレ、お前が笑ってないと嫌なんだよ」
「関係ないよ、エレンには…!」
「ある」
「っ」
私の抵抗を遮るように手をきつく握ったエレンが、真剣な顔で私を見下ろした。
「すきだ」
その口から零れた言葉に、呆然とする。
「今…なん…、」
聞き間違いだろうか。それとも、願望だったんだろうか。
「これで分かったかよ…。お前が泣いてたら側に居てやりたいし、助けるのもオレがいい」
「う、そだ」
「はぁ?ここまで言わせといてふざけんな」
「ふざっ、だって、ミカサが」
「ミカサ…?あれは違ぇよ、そんなんじゃ」
ため息と共に俯いたエレンが、上目遣いに私を睨む。
その仕草が、本当に愛しいと思った。
私は泣いていた。
悲しい涙じゃなくて、どうしようもなく胸が踊って。
エレンも私みたいに、私のことを思い出したりしてくれていたんだろうか。離れていても、ふとした時に苦しくなったり、会いたくなったり。図々しいと落ち込んだり―――。
「…目、閉じろ」
「まっ待って?言いたい事があるの」
「なんだよ」
照れ隠しで呆れたように眉を寄せる彼と向き合って、深呼吸をする。
一番言いたかったことが、伝えられる。
そんな実感に自然と頬は緩んで、間抜けな面、と頬をはたかれた。
「…私もエレンが好き」
そう言うとエレンは耳を赤くする。
暗闇なのに、月光でも十分わかるくらい染まっているそれを背伸びをして抱きしめた。
柔らかい感触が唇を軽く触れる。
きゅうと閉まる胸から幸せがこぼれ落ちそうだ。
ん、と掠れた返事を耳元で囁いた彼は、いっそう強く私を抱きしめた。
大きくて綺麗な瞳が私をまっすぐに捉える。
ねぇ、聞いて。
あなたのことが、ずっと好きでした。
ずっと、伝えたかった。
だから、先を越されたのが少し悔しいのだ。
【完】