雨が上がったら、始まる恋


その日は今暁から続く雨で、調査兵団の誰もが兵舎にこもり大人しくしていた。今日は兵站行進の訓練もなく、糠(ぬか)んだ地面では危険だと各班長が室内待機命令を出したのだ。
もちろん上の上司や幹部たちは書類や会議に忙しく、今のサヤ達のように部屋で同期とおしゃべりなどしていない。

「雨の日は嫌いだけど…たまにはキツい練習から開放されるのもいいわねー」
「そうかなぁ?じっとしてるの、嫌だけどな…」

向かいのベッドに座る同室の少女に振られ、サヤは首を傾けながら答えた。

「もう…貴方に振った私が馬鹿だったわ」
「サリー、いいじゃないサヤなんだから」
「そう言えば彼とはどうなったのよ?」
「あっ、そうだわ!この間手紙が来たのよ」

いつもは厳しい練習で満足に出来ない世間話が、小さな室内に華を咲かせる。
ルームメイト達の会話にすっかり置いていかれたサヤは、むっすりとした口のまま窓の外に視線をやった。

雨がぱちんと水溜りを跳ねて、波紋になってゆく。
雨の日は今でも嫌いだ。家の中で遊ぶより、陽射しの下で蝶を見る方が楽しい。昔からサヤはそんな、幼心が溢れ出る性格だった。だから両親にとても可愛がられたし、兵士になることをひどく心配された。

慮外サヤの身体能力は素早さに恵まれ、この調査兵団に所属する身となっている。

水の流れる音が鼓膜を抜ける。この分なら夕方には止むだろうか。

その時。

「…ニャー……」
「っ?」

パチパチ窓を打つ雨音と共に、微かにそんな鳴き声がした。





不思議がる彼女たちを適当に誤魔化して、サヤは声のした場所へ小走りでやってきた。
傘もささずに走ったせいで髪は重く、足元は跳ねた泥に茶色く染まっている。

あの声は何処だろう。
自室の窓の向かいにある茂みにじっと耳を澄ました。聞き間違いでなかったら、あの声は――。

「ニャー」

はっとして駆け寄る。
奥は大きな木々で真っ暗だ。

そこに居たのはやはり、雨にびっしょりと濡れた亜麻色の子猫だった。
覚束ない足で地面を踏みしめ、ふるふると震えている。バニラ色のタビーが束になって、雫を落としていた。つぶらな瞳がサヤを見上げると、またか細く鳴く。

ゆっくりと近付く。
怖がっていないのか、それとも逃げる体力も無いのか。それは何の抵抗もしないままサヤの手のひらに収まった。

小さい少女の手に、小さい猫が震えている。

「どうしよ…」

見つけたは良いが、サヤは眉をハの字にして項垂れた。室内に連れて行こうにも部屋には彼女達がいる。無論ペットは禁止だ。見つかったら即取り上げられてしまうんだろう。こんな小さな猫なのに…。

「お前、お母さんはどうしたの?」

問いかけながら、雨を遮るように胸に包み込んだ。ぬるいが少し温かい。

この雨が止むまでなら…なんとかなるだろう。
よし、とサヤは決意したように立ち上がった。





「――ねぇリヴァイ、最近食料庫のミルクの減りが早いらしいんだ。何か知らない?」
「知らん」
「別に肉や贅沢品じゃないだけ可愛いよ?でもさあ、何でミルクを盗むの??どうしてミルク??」
「五月蝿い」

入室早々荒ぶって髪を掻くハンジを一瞥して、リヴァイは手にある資料へ視線を戻す。
しかし頭の中はハンジの言葉に思考を巡らせていた。確かにここ数日食料庫に何者かが出入りしているという情報は、食事係の兵士の愚痴から小耳に挟んでいた。ただミルク以外は全く異常がないので、エルヴィンも犯人を本腰を入れて探す気はなさそうなのである。

しつこく独り言を言いながら歩き回るハンジに、いい加減苛々してきた。

「さっさと仕事に戻れ。どうせ乳離れ出来ねぇガキでも居るんだろう」
「毎晩ちょっとずつ調査兵団の貴重な食料庫に忍び込むっての?あっはは、大した肝っ玉だね!今度罠でも仕掛けてみようか」
「…」

冗談と思えない提案に、リヴァイは舌打ちごと言葉を呑み込んだ。




―――あの日から何日経っただろうか。
雨に濡れた子猫を助けて以来、サヤはそれを外でこっそりと育てるようになった。育てると言っても親が迎えに来るまでか、或いは子猫がこの敷地からふらりと出て行ってしまうまで。…そう思っていたのに、猫はすっかりサヤに懐き居座ってしまっているのである。

これは困りものだ。

いつかは誰かに見つかって、規則に従って外に追い出されるのだろう。寂しいけれどそれならまだマシなのだ。最悪処分されかねない。それだけは、何としても阻止したい。

「困ったなぁ…」

今晩も食料庫からミルクをちょっとだけくすねて、一回り大きくなった子猫に会いに行く。そんないつもの日課を考えながら、サヤは溜息をついた。


―――その日の夕方。
街外れの森で立体機動の訓練を行っていたサヤ達の頬に、キンと冷たい水滴が滴り落ちた。

「えっ、雨?」
「なにやってるのサヤ!項狙って!」

見当違いな場所を刃で削ぎ落とし、木に着地する。
向こうの山で雷が轟いている。胸騒ぎがした。思わぬ速さでそれはどんどんと激しさを増し、班員である仲間の声が掻き消されるほど頬を叩いてくる。

集合命令は下らない。恐らくこのまま訓練を続行するのだろう。今夜の帰りは長引く筈だ…。



結局、帰ってくるのは十時を過ぎた頃だった。
皆が疲れ果て食堂に、或いは風呂へと散っていく。

「サヤ、大丈夫?今日調子良くないんでしょ?」
「顔色悪いわよ…」

今日の練習に身が入っていなかったサヤを心配して、食堂へ向かう途中ルームメイトにそう話しかけられた。

「ん、あぁ…だいじょうぶだよ。でもちょっと疲れたから、先にお風呂に入って寝るね」
「分かったわ。おやすみ、サヤ」
「おやすみ、みんな!」

見送る彼女らに手を振って、自分の部屋へと方向を変える。みんなが見えなくなる廊下の曲がり角で…サヤは鞭に打たれたように駆け出した。


豪雨が雷と共に暗闇を支配する。
泥水が跳ねる音。草が風に荒ぶる音。

とうにびしょ濡れだったサヤの体を、容赦なく汚していく。

サヤだって雷は苦手だ。だけど怖がっているのは、震えているのは自分だけじゃない。

「おいで、出ておいでっ。ひとりにさせてごめんね…!」

雨音に飲み込まれないように、必死で子猫を呼んだ。茂みに身を乗り出して見ても、視界が悪いせいか亜麻色のそれは姿を見せない。
今頃どこに隠れて、鳴いているんだろう。

長時間の容赦無い冷たい雨が体温を奪っている筈だ。幼いそれは熱をうまく維持出来ていなかったかもしれない…。
仕切りの代わりになっている茂みを乗り越えて、暗闇に近づいた。少しでも声が聞こえれば、探し出せるのに。

そのとき、何かが動いた。
背の低い草を掻き分けて走ってくるのは、見慣れた亜麻色の子猫。

「よ、よかったぁ…」

脱力したようにへたり込んだサヤの膝を登って来た子猫は、まるで恐怖を体現するように泣き喚いた。
よしよし、と安心させるように頭を撫でて体を温める。生憎自分もすぶ濡れで拭いてやれるものが無いが。

今日はもう、流石にミルクを取りには行けないし、食堂の食べ物も与えられない。その代わり今夜は側に居てあげようと、サヤはしゃがみ込んで爆音に耐えた。雷が恐ろしいのか、子猫は赤子のように鳴いている。

「…おい、そこに誰かいるのか」
「っ」

突然誰かの声が背後から飛んできた。
驚いて動けないサヤを他所に、誰かはこちらへ近付いてくる。猫は鳴き止んでくれない。

枝を踏む乾いた音。近い。
逃げようとして立ち上がったサヤの視界が、雷鳴と共にピカッと明るくなった。

「ぁ…」

そこにいたのはなんと、リヴァイ兵士長であった。
男にもこちらの姿が見えたようで、歩調を早めて近付いてくる気配がする。

「止まれ、動くな」
「ご、ごめんなさい!できません!」
「おい…」

雷よりも、こわい人に見つかった。
涙目になって茂みの奥へと逃げようとする影を、リヴァイの手が捕えた。冷たい体温が掴まれた腕から伝染する。
無理やり振り向かされバランスを崩しかけたが、子猫をしっかりと抱き踏み止まった。

「ミャー…」

リヴァイは女の胸の中で鳴いた猫を見下ろす。
寒さだか恐怖だか分からない感情で、サヤは口をはくはくとさせた。

「…リヴァイ、へいちょう……」
「ここで何をしてる」
「あの、ちょっと、失くし物を…」
「その猫のことか」
「ち、ちがうんです。これは…偶然見つけて、寒そうだったから…」

話したこともない、遠くの存在だった人物に思いがけず遭遇して、頭の中は混乱していた。よりによってこんな不味い状況でだなんて。リヴァイという男の恐ろしい噂をよく聞く分、恐怖が増大しているように思える。
とにかく誤魔化さなくては。そう思うのに目線が泳いで仕方なかった。

「なら、そいつを渡せ」
「っ!嫌です!」

その言葉におどおどしていた態度は一変し、サヤは猫とリヴァイを背中で隔てる。大人しく観念して渡したとして…処分されない保証なんかない。
睨んでいるのか、震えて見上げる濡れた瞳。
リヴァイは目を細めてその体から手を放す。

「…そのままだと風邪を引く。一旦戻るぞ」
「えっ」

そう言って、猫ごとサヤを引っ張った。





「こ、こんなところ、良いんですか――」

連れてこられたのは恐縮にも、なんとリヴァイの自室であった。確かにペットは禁止されているが、人類最強の男の部屋など死んでも入ることはないと思っていた。
殺風景な部屋に家具が申し訳程度に収まっている。雷の断続的な光で雰囲気が出て、そこはいわくつきの屋敷のようにも見えた。そう感じるのは、もしかしたらサヤが緊張しているからかもしれない。

念入りに水分を含んだ服を拭いていたリヴァイは、新しいタオルをサヤに投げつけた。

「部屋のシャワーを使って完璧に泥を洗い流して来い。汚い」
「ひいっ」

サヤは堪らずシャワー室へ飛び込んだ。


―――子猫と共に湯気を立てながら、静かに扉を開けて奥の様子を伺う。数日間泥だらけだった猫の体は白さを取り戻し、毛並みも綺麗に光沢を放っていた。これも部屋に入れてシャワーを貸してくれた上司のおかげだ。
しかし、サヤの心臓は相変わらずうるさい。

「終わったか」
「はい、ありがとうございました…。!?」

目の前には、上着を全て脱いだリヴァイの姿があった。無駄一つない筋肉を黒髪から落ちた雫がなぞる。くらっとしたのは、風邪を引いたからだろうか。

「お前がそいつを飼っていたのか」

びく。
しかし熱い頬は一気に青ざめる。

「なんのことでしょうか」
「ほう?惚けられるとでも思っているのか。お前が毎晩くすねる食料庫のミルクに、誰も気付いていないとでも」
「…!」

分かりやすく顔を上げた後で、サヤは激しく後悔した。深い碧に目を奪われて、うごけなくなる。

「お、お願いですから…この子、殺さないでください。私、罰なら受けます…っごめんなさい」

サヤは最後の砦を無くして謝るしかなかった。
やはり怖い。嘘をつく余裕すらない。

泣いて許されるとは思っていないから、喉を引き締めて耐える。
胸の中の子猫は温もりに包まれて眠くなったのかウトウトとしていた。どうしてこんな状況で、他人事のように眠れるんだ。半ば恨めしく思いながら子猫をより強く抱きしめると、ふいに冷たい手が頬に添えられる。

驚いて身じろいだ。

「わっ」

突然のことに力が入らず身体が傾く。今度はだめだ、崩れてしまう――。しかしパシッと腕が掴まれたかと思うと、次いで鈍い痛みが背中を刺した。
ひやりとした感触…床、だろうか。後頭部には手が添えられているようだ。

腕の中の子猫は無事。相変わらず目は開いていない。

聴こえるのは猫の寝息と、窓の外の雨、そして…鼻先の男の吐息。

「ご、めんなさ…」
「お前なのか」
「え…?」

さっきと同じ事を問いかけられている筈なのに、心なしか優しさを孕んだそれに顔を見上げた。
ぽたぽたと垂れる雫はサヤの頬を滴る。なんだか、くすぐったい。無意識に男の唇を見ていた。ぼうっとして身体が浮いているみたいだ。自業自得ながら男に組み敷かれているというのに、どうして。

「…誘ってるのか」
「っふぇ、ん!」

冷たい唇が呼吸を封じた。
喰むようにゆっくりと、サヤから熱を奪うかのように、それは角度を変えて重ねてくる。

「ぷはぁ…っ」

やっと開放された口から思い切り息を吸い込めば、低い声が鼓膜を擽った。

「約束しよう…。お前の仕業もこいつのことも、他の誰にも言わないでおいてやる」
「えっ」
「その代わり、今度こいつに会いたかったら俺の部屋を訪ねることだな」
「…。へ…」

リヴァイの部屋を?
どういうことだろうか。

意味が分からず理解しあぐねていると、胸に体重のある何かが乗り上がってくる。

「ニャー…」

さっきまで寝かけていた子猫。あろうことかそれはリヴァイの鼻に擦り寄ったかと思うと、慣れたように頬を舐めた。
それは、まるで――ずっと前から知っていたかのように。

「ま、まさか…」
「兵団内を彷徨かれたら堪らねぇから、いずれ飼おうと思っていた。育て親がお前なら、引き離すのも可哀想だからな…」

そう言って猫を抱きながら体を離すリヴァイに、サヤは呆然と天井を見上げる。
どくどくと速い心臓。なんだ、そうか…子猫は知っていたのか。
兵長が優しい人だという事を、知っていたのか。

「兵長…わたし誤解してたみたいです…」
「なんの話だ」

今は柔らかくなった雨の音が、満たされた胸を優しく包み込む。

「きっと…たくさん、会いにきますよ」

笑ってそう宣言すれば、再び眠たげに目を瞑る子猫も、満足そうに喉を鳴らした。


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