灰色の悪夢


 雨が無情に降り注ぐ草原に跪き、サヤは恋人の体を抱き締めていた。厳密には、人間の上半身のみを。

 濃い霧と灰色の雨は嫌いだ。アイツらのことを思い出す。そしてコイツも恐らくは、これが一生忘れられない景色になるのだろう。
 親しい者を殺した巨人を憎み、笑顔が絶えなかったサヤからは想像も出来ない程に、助けられなかった自分を呪う人生と変わり果てるのだろうか。

「じきに撤退命令が出る。班と合流するぞ」

 雨音でも聞こえるよう真上から呼び掛ければ、精気のない茶色い瞳が俺を見上げる。真っ白で、死人のようなそれに一瞬頭を殴られたような激痛が走った。

 なんってぇ面だ、そりゃ。

「まだお前の部下の安否を確認していない。生き残ってる奴がいるなら今のうちに指示を出しておけ。俺の班と合流してもいい」

 今すべき最善の指示を、この口はつらつらと喋りやがる。この状況でも冷静でいられるのは、幾度もの地獄絵図に慣れた賜物だろう。

 指が食い込むほどに死体を胸に抱くサヤ。
 悲しみも恐怖も感じない。泣き喚きもしない。ただ、呆然と目の前の光景を理解することを拒絶している。

 それがまるでサヤを内側から瓦解させていくようで、焦りに似た何かが胸を汚していった。

「オイ、何でもいいから立て。俺にお前を此処に置いていく選択肢はない」
「…兵長」

 初めて声を発したサヤの血塗られた頬から一筋の雫が落ちて、みるみる表情が歪んでいく。

「…かり、ません……。分かりません、兵長、わたし……っ」

 ぼろぼろと溢れるサヤの熱い涙は、雨に次々と攫われて。

「大切な人が――大好きな人が居なくなりました…っ。分からないんです……っ生きたいのか、分からない…これから私はどうしたら―――」

 真っ赤な指先で瞼を擦る姿が痛々しい。
震える手を止めようと刃をボックスに収納し片膝をついた俺を、虚ろな顔が見つめてきた。
 乱れた前髪を掻き上げてやる。冷たい雨でずぶ濡れの顔を拭ってやったところで何も変わらないだろうに。

「サヤよ、此処で死ぬことは許さねぇ。死に場所なら他に掃いて捨てるほどある。テメェの後悔は俺が全て聞いてやる。だから死ぬんじゃねぇ」

 ここでの判断が、サヤが俺を憎む選択になってもいい。それでも生きて帰ってくれるならばと、俺はらしくもなく必死になっていた。

 俺の言葉に眉を下げたサヤは指先から逃げるように身を引く。その後頭部にすかさず手を伸ばし粗雑に胸に閉じ込めれば、僅かに息を詰める音と嗚咽。
 滅多に泣くことのなかったコイツの声が、鼓膜に焼き付いていくのが分かった。

「帰るぞ、サヤ」
「…壁の中のどこにも、あの人は居ないのに?」
「お前が死んだら、その時がソイツの本当の”死”だろうな」
「っ」

 悲痛な声を漏らして、冷たいそれは腕の中で震える。

「残酷ですね、兵長は…」

 困ったように、諦めたように自嘲するサヤが此方を見上げる。その丸い瞳に片手で目隠しをして、自分の手の甲に唇を宛てた。

「どうせ誰も聞いちゃいねぇ…今だけ泣け。そうしたら腹も減るだろ」

 雨音に混ぜてそう言えば、暫くの沈黙の後、それは僅かに頷いて俺の胸に顔を埋める。
 縋り付くように背中に爪を立てるサヤは、誰にも聞かれたくないのか悲痛に声を噛み殺して泣いた。健気な奴だ。せめてこの灰色の雨が、全てを沈めてしまえばいい。

 肉塊や破片が散らばる悪夢の向こうで、黄色の信煙弾が物悲しく撤退を告げていた。


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