閉幕




 建物を囲う山々の影が、日の傾きと共に長くなる。
 二人が呪術高専に着地し一息ついた頃、青筋を立てた夜蛾が物凄い剣幕で校舎から現れた。一も二もなく連行された二人は覚悟していた通りみっちりと絞られ、指導室から解放されたのは橙色の夕陽が沈もうとしている時刻である。

「あー、始末書とかクソほど面倒臭ぇ」
「同感だ。私達もこってり絞られた」

 寮へ向かう渡り廊下のドアを開けると、そこには久方ぶりに見る夏油の姿があった。

「夏油さん…」
「お疲れ様、瀬亜。よく頑張ったね」

 柱に背中を預けていたそれがゆっくりと近付いて来て、優しく頭を撫でられる。ふ、と緊張が解れる心地がする…が、隣に居た五条がすかさず手首を掴んで阻止した。

「おやおや、分かりやすい牽制があったもんだ」
「胡散臭い手で触ってんじゃねぇよバーカ」
「良かったね瀬亜、過保護な番犬が出来て。首輪でも買って来てやろうか」
「上等だよその煩い口ごと引き摺り回してやる」

 突に散った火花に瞑目しているうちに、長身二人組は抗争を繰り広げながらグラウンドに消えていく。お礼を言いそびれてしまった、と肩を落とす瀬亜はしかし、遠くに硝子の姿を認めて、気付けば駆け出していた。

「硝子……っ!」

 息を切らす瀬亜に気付いて、硝子は煙草の煙をふうと吐いた。流石に説教と始末書で参ったのだろう、疲れの色をみせるそれに何と声をかければいいか考えあぐねる瀬亜に、硝子はふと口角を上げる。

「おかえり」

 すとんと落ちたその言葉。目を丸くしていた瀬亜はやがて噛み締めるように微笑んで、ただいまと頷いた。

「硝子」
「ん?」
「あの時…まだ小さかった頃、私と友達になってくれてありがとう」

 命を救ってくれてありがとう。
 この高専に、居場所を作ってくれてありがとう。

 音の一つひとつ、丁寧に並べるように感謝の意を伝えた瀬亜に、硝子は眉を下げて笑う。吸いかけの煙草を地面に踏みつけ、起き上がりがてらごみ箱に放り投げた。

「別に、そんな大袈裟に考えなくたって、瀬亜は最初からここにいて良い存在だったんだよ。…でも、他でもない瀬亜自身を受け入れて、救い出してくれたのは、あのしょうもない王子様だったんだろうね」

 親友の視線を辿った先には、相変わらず喧嘩中に中指を立てることを忘れない男の姿がある。

 “何の感情だったら納得いくんだよ。”
 瀬亜は五条の言葉を思い出していた。
 彼の吸い込まれそうな碧眼が好きだ。低く心地よい声も、身体を包み込んでくれる大きな手も綺麗だと思う。けれどそれ以上に、血が沸騰するような狂おしい香りと、どうしようもない衝動に名前を付けていいのなら、それは。

「―――“恋”だといいな」

 ぽつりと呟いた声は、夕陽の残光に紛れた。


「そろそろ戻ろう。夕飯の時間だ」
「あ…先に帰ってて」

 暗くなったのを合図に、クラスメイトは寮へと解散していった。彼らの背中を見送った瀬亜はポケットから返却されたばかりの携帯を取り出し番号を探す。
 少しの緊張と、浮き足立つ心を落ち着けている間にコール音が止んだ。すぐに聞き慣れた罵声とそれを宥める低い声がして、瀬亜は覚悟を決めるように大きく息を吸う。

 呪術師としてここへ来た当時は、自分の居場所に選択肢など無いと思っていた。けれど、嘘で偽っていた自分へ手を伸ばし、待つと言ってくれた彼女達は、瀬亜にとっての新たな世界だった。
 友達だと頷いてくれた彼らに応えたい。自分の手で守っていいのだと、仲間達が教えてくれたから。

「あ…明日の放課後! この前言ってたレストラン、開拓しに行こう」

 ぎこちなく放たれたその言葉。
 口から飛び出そうな心臓を抑えるように黙り込む瀬亜を、電話越しの二人がふと笑う気配がした。


【完】


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