伝わる体温


 目が覚めてから体調が安定し出した頃、瀬亜は補助監督付き添いのもと、とある施設へと移動させられた。高専の敷地内にあるそれは、窓のない室内に無数の札が張り巡らされており些か独居官房のようだ。
 それでも完全に隔離という訳でなく、毎日施設の担当が食事を持ってくるし、外の情報や多他愛ない世間話も出来ている。部屋に鏡がないことを考えると、夜蛾が言っていたように呪霊の性質上、この空間が観察に最適ということなのだろう。瀬亜は申し訳なさそうに見送る担任の顔を思い出していた。

「久しいな、瀬亜」

 だから、聞き慣れた声が飛び込んできたことに酷く驚いた。

「硝子…」

 薄っぺらいベッドに座り天井を眺めていた瀬亜を、静かな笑みが見下ろす。ここで会えるとは思わず喜びと戸惑いが混じり合って動けないでいる少女の横に、硝子はすとんと腰掛けた。煙草の匂いも久しぶりだ。

「呪霊はどうなってる。まだ声は聞こえるのか」
「…ううん、目が覚めてからは聞こえない。けど、まだ祓えない」
「そう」

 相槌を打つ、あまりにも落ち着き払った親友に眉を寄せてしまう。訝しむ自分に気付いているだろうに、部屋をゆっくりと見回した硝子はそのまま独り言のように呟いた。

「知ってたんだな、私の血だって」

 それだけでペンダントの事を言っているのだと分かり、瀬亜はぎこちなく頷く。

「……いつも、ありがとう」
「それがあの時言いかけたことか」
「うん…お礼を言いたいってずっと思ってた。けど、硝子が呪霊の血だって気を利かせてくれていたのも、わかったから」
「どうして気付いた」
「硝子の味がするもん」
「ふ、美味しかったか?」
「人の血を美味しいだなんて…言いたくない」

 顔を歪めたそれを、硝子は肩を竦めて見つめた。知っているよ、と硝子は胸の中で呟く。

「知ってる、瀬亜は昔からそうだった。私が気に入ったその優しさに、呪霊は取り憑いたんだな」
「…?」
「悟のはどうして特別なの」

 首を傾げていた瀬亜はしかし、その問いかけに体を強張らせた。蝋燭に照らされた瞳が、揺れる黒を静かに覗き込む。
 どうして。その真意を考えた。最初は、安直に呪力が洗練されている血液だからだと思った。けれど呪力に反応しているならば、今まで出会った呪力量の多い術師からも、遠かれ近かれ似た香りがする筈なのだ。なのに瀬亜が鼻腔の刺激に硬直し、動けなくなった経験をしたのは、高専以来…唯の一人だけ。

「分からない…分からないから、逃げたくなる」
「アイツから離れれば、制御できると思ったのね」

 その答えが正しいのかさえも分からない。ただ、傷付けるのがこわい。鏡の中に見た赤に染まる彼が、こわい。
 瀬亜は咄嗟に頭を押さえた。黒い霧が渦巻き、何かが蠢いている気配がする。今にも呪霊の声が聞こえてきそうで、目を瞑り、息を止めた。しかし怯えて耳を塞ごうとする手を、なにかが阻止する。

「勝手だな」
「ッ」

 手首に触れる体温は、親友のものじゃない。驚いて目を見開く瀬亜を、蒼い双眸が不貞腐れたように見下ろしていた。
 ―――五条悟。名を口ずさんだ瞬間に騒めく身体を押さえ込むように手を振り払って、硝子の方を向く。

「どうして」
「私が手引きした」

 たったのそれだけ言うと、硝子は徐に立ち上がった。頭が付いていかない瀬亜を他所に、それは迷いなく出口へと歩みを進め、いつもの涼しげな顔を見せる。少し荒療治だけど、と前置きして。

「頼んだよ、王子様」

 そう言うと、硝子は部屋を立ち去った。
 とうとう訳のわからぬまま沈黙が訪れて、瀬亜は目の前に突っ立っている男を盗み見た。否、正確には足元を凝視した。とてもじゃないが壮絶な匂いを放つそれを直視することなど恐ろしくて、距離を取るように壁際に背中をつく。冷め切ったベッドの物悲しく軋む音。さっきから何一つ把握できない。

「瀬亜」
「っ、…はい」

 思わず反射で返事をした。相手に届いたのかも分からない空気のようなそれ。

「近くにいっていいか」

 その言葉に瀬亜は瞑目した。
 傀儡のように何度も響きを反芻するけれど、意味が呑み込めず整った顔を凝視してしまう。やっとのことで吐いた拒絶に、五条は苦しそうな表情をみせた。

「なんでいつも“駄目”なんだよ」
「ごめんなさい…でも」
「俺のこと殺していいって言ったら? 側に居ていいの?」
「あ…」

 ギシリ、と木枠が鳴く。長い脚を折り身を乗り出した五条が、少女の横に両手をつき檻を作った。逃げ出そうと厚い胸を押し返す細い手を、節くれだった男の指がねっとりと撫でる。

「ッひ……!」

 ぞわりと皮膚に感じる熱と、噎せ返ってしまいそうな耽美な香りに身体中の血液が逆流して、瀬亜は悲鳴を上げた。
 来た、と霞がかる意識の中で警告音が鳴る。

「いやだ、でてこないで…」

 それは内側で高笑いをする声に向けてのものだった。抵抗も忘れて俯く瀬亜は、眉間に皺を刻み必死に口を塞いでいる。
 けれど衝動に抗い汗を滲ませる白い肌を、冷たい体温が優しくなぞった。

「なぁ、あの時みたいだな、この状況」

 怖いほど甘美な声が耳元に届く。あの時とはきっと瀬亜が攫われた日のことだろう。そのときも同じように、五条が壁際に瀬亜を捕らえていた。
 思い出すと、不明瞭な記憶の中に喉を掻き毟りたくなるほどの濃い匂いと、男の薄い唇の感触が蘇って、思わず視線をそこへ向けてしまう。見逃さなかった五条が悪戯に顔を歪めて、その顎を捉えた。

「俺の唇奪った感想はどうだったよ? あっ、それとも俺の血の味が忘れらんない? 気に入ったならこれから好きなだけ味わえば良いよ。俺もアンタのこと気に入――」
「ふざけないで」

 顔に触れる手を振り払って、心底嫌悪の色を見せる。男の言葉に、思考が急激に凍て付いていく音がした。
 分かっていない。分かっていないのだ、この男は。この飢えがどんなに理性を焼き切るのか。その香りがどんなに自分を残酷にさせるのか――。

「……私は、鏡の中に、血だらけになった貴方を見ました。貴方も視たんでしょう? あの化け物は…私です。貴方を餌としか考えられず、衝動のままに血を啜りたいと嗤っている……醜い化け物です」

 “彼女”が正しい。
 だって今も、目と鼻の先に薫り立つ極上のソレに抗うのが精一杯で。辛うじて押さえた口元からは、あられもなく涎が滴っている。
 こんな姿、見せたくなかった。なのに身体は男の熱い血液が迸る首筋から目が離せない。

「ん、いいよ」

 無音の中に、綿毛のように呟かれたそれ。
 逃げ場のない飢餓感に目を瞑ろうとしていた瀬亜は、呆然と五条を見上げた。

「は…」
「だから、それでも良いっつってんの。但し、やるからには今後一切 俺以外の血を呑むなよ。呪霊のもな。嫉妬して塵にしちゃうから」
「な、なにをふざけて」
「冗談なんかにさせないよ。もうお前に逃げ場はやらねぇ」

 血を這うような声が脳を痺れさせる。言葉通り自由を拘束するように後頭部を抱かれ、男の体と密着した。嫌でも伝わる体温が恐ろしくて激しく震える瀬亜の肩に、五条の顎が乗せられる。

「これはアイツの受け売りだけどな、お前、何の感情だったら納得いくんだよ」
「え…?」
「衝動も、同情も、快楽も、誰かに執着する意思が在ればそれは立派な呪い…らしい。恋慕っていう、すげぇ陳腐な名前のな」

 そういう意味では、俺、アンタに呪いをかけたよ。
 ぽつりと放った声の主がどんな顔をしているのか、抱きしめられる瀬亜には分からない。けれど掠れた音の中に、胸が締め付けられるような甘い何かを感じて、瀬亜は息を止めた。


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