今度はいったい、何を考えているのか。
何も言わず、笑みを浮かべてこちらを見つめるルルに、自然と重いため息が落ちた。
静かな空間に、ページを捲る音が落ちる。
湖のほとりには静寂が満ちていて、微かな音でもよく聞こえる。思いの外大きく響いた音に、静かに息をはいた。
(駄目だ、全く頭に入ってこない)
文面を辿るのを諦めて、読みかけの本を閉じる。それというのも、すぐ隣に座る彼女が原因だった。
乾いた音をたてて閉じられた魔導書を見て、ルルはもの問いたげな視線を送ってきた。それだけで彼女の抱いた疑問は容易に知れたが、あいにくと言うつもりはない。
「ルル」
名前を呼べば、笑顔を返してくれる。多少の照れはあれど、ルルのその表情を見るのは嫌いじゃない。だけど、今日ばかりは眉を顰めずにはいられなかった。
嬉しそうに細められる瞳も、綻ぶ口元も、いつも通りだ。―――ただ、ひとつを除いては。
「ルル。あなたは何故、一言も話さないんですか」
そう、声が。僕の名を呼んでくれるあの声だけが、足りない。
「いったいどうしたんです、いつものあなたらしくない。朝から今に至るまで、何も話していないじゃないですか」
体調が悪いのかと思えば違うようだし、彼女を怒らせるような真似をした覚えもない。心当たりなんてなくて、内心途方に暮れた。
……そんなこと、口が裂けても言えないけれど。
「話せないというわけでもないんでしょう?」
躊躇いつつも頷いたのを確認して、目に僅かに力をこめる。
「でしたら、何故」
僕の問いにも、ルルは曖昧に笑みを返すだけだ。そのことが、無性に僕を苛立たせる。
だんだん居心地が悪くなってきたのか、ルルは視線を泳がせ始めた。往生際悪く、必死に追求から逃れようとする彼女に本日三度目のため息がもれた。
いったい、なんだというのか。
「そんなに、僕と話すのが嫌なんですか」
我ながら、子供じみた問いかけだ。
そう思って零すと、小さく息を呑む気配が伝わった。ついで、淡い桃色が視界の隅で大きく翻る。
「そんなこと、ない!」
そして次に目に映ったのは、間近に迫る飴色だった。突然のことに、息が止まる。
目の前には、呆けた顔をした自分の姿が映りこんでいた。
「……ルル、」
呆然と名を呼ぶと、彼女は我に返って身を引いた。
「ご、ごめんなさい!」
やっと聞けた、ルルの声。たった二言だったけれど、それだけで胸は満たされる。どうやら、僕は自分で思っていた以上に単純にできているらしい。
浮かぶ苦笑をため息でごまかして、改めてルルへと向き直った。
「それで? 僕と話すのが嫌でもないなら、理由はなんです。言っておきますが、中途半端なごまかしは通用しませんよ」
先に釘をさすと、ルルは一瞬不服そうな顔をしたもの、このまま沈黙を保つのは不可能だと判断したらしい。渋々といった様子で頷くと、こんな行動をするに至った理由を説明してくれた。
それは実に単純明快で、想像もしていなかった理由だった。
「……今、なんと?」
「だから、誕生日プレゼント。エスト、今日が誕生日だから」
返ってきた答えはあまりにも理解できる範囲を超えていて、思わず額を押さえる。
(確かに、普段から突拍子もない発言をする人だったけれど)
心なしか、頭痛がしてきたような気もする。
「つまり、あなたは僕の誕生祝いに、こんな嫌がらせまがいのことをしたと?」
「あ、ひどい! だって、エストが言ったんだよ」
「何をです」
別に、彼女に何かを強制した覚えも強請った覚えもない。眉を寄せて問い返すと、ルルは視線を落として呟いた。
「前に、エストに【何かほしいものはない?】って訊いたとき、【せめて一日でもあなたが大人しくしてくれれば、静かに過ごせていいですね】って」
「…………」
確かに言った、かもしれない。確かに言ったけれど、それは。
「他にないのか何度尋ねても、エストは答えてくれないし。他に何も用意できなかったんだもん……」
「……それは、確かにそう発言した僕に非がありますが、なにも本当に実行することもないでしょう」
「だって、エストに喜んでもらいたかったんだもの。エストがほしくないものをプレゼントしても、そんなの意味がないわ」
そう言ったルルは、すっかり拗ねてしまったようだ。膝を抱えて地面ばかりを見つめている。
「でも、駄目だね。本当にエストをゆっくりさせてあげたいなら、近くにきちゃいけなかったのに。エストの傍にいたら、何も言わないでいるなんてできっこないのに」
「……ルル」
「エストの傍にいると、お話ししたいって気持ちでいっぱいになっちゃうんだけど、でも、傍にはいたくて」
苦笑して、ルルは伏せていた顔を上げた。僅かに曇った笑顔に、小さく胸が痛む。
「ごめんね、エスト。ちゃんとプレゼントをあげられなくて」
心底申し訳なさそうに謝罪する彼女に、首を振る。
「謝らないでください。謝罪を口にするべきなのは、僕の方です。気づけなかったとはいえ、今回のことは僕に非がある」
「でも、」
「確かに、静かな時間はほしいとは思います。それと同時に、あなたが落ち着いてくれればいいとも」
「う、」
「……ですが、」
それでは、足りないのだ。
ルルが来てからは、平穏な一日とはまったくと言っていいほど無縁で。騒がしいのも煩わしいのも好きではないけれど、それでも、ルルと過ごす時間を厭っていたことなど、一度もなくて。
第一、想いを寄せている人と過ごすことに、否と答えるはずがない。
(だから、)
だから、僕はあなたさえ隣にいてくれれば幸せなんだ。
―――なんて、今は口が裂けても言えそうにはないけれど。だから、今はこうとだけ言っておく。
「今さら大人しいルルなんて想像できませんよ。……あなたは、そのままでいいんです」
「エスト……」
「プレゼントなんて、僕には不要です。……十分、受け取っていますから」
そう言って、ぎこちない動作で頭を撫でる。されるがままだったルルは、手を離すとゆっくりと首を振った。
「エストはもっと、欲ばりでいいと思うの」
「今のままでも贅沢が過ぎると思うのですが」
「もっとよ。そんなんじゃ、まだまだ足りないわ」
いいのだろうか。本当に、もっと欲ばりになっても。とても自分ではそうは思えないのだけど。
満面の笑みで【もっと】と繰り返すをルルを横目で見つめていると、ふとこちらを向いた飴色と視線がかち合った。その途端、ふわりと広がる笑み。
(ああ、)
足りなかったものが、満たされていくのを感じる。
やはり、僕にこれ以上望むものなんてないんじゃないかと思ってしまう。
隣にはルルがいて、笑顔を向けてくれて、名を呼んでくれる。それだけで十分じゃないかって。
十分、幸せですよ
(でも、それを言うと彼女はまた否定するんだろうけど)
生誕祝いSS。絶対エストはルルと二人で幸せになるべき。
2011.01/12掲載