「…………ルル」

 低く、低く。限りなく低い声が、口から零れ落ちる。それを真正面から受けた彼女は、肩を小さく竦ませながら、僅かに姿勢を正した。

「確かにここ最近は、ラティウムにしては珍しく気温が高いと言えます。涼を求める気持ちもわかります」
「う、うん……」
「ですが」

 一度そこで言葉を切り、大きく息を吸う。

「―――だからといって、誰も噴水に飛び込みたいなどと発言した覚えはないのですが?」

 盛大な溜め息とともに告げた言葉に、ルルはますます身体を縮こませるのだった。



 事の発端はこうだ。
 連日の異常とも言える暑さの中、僕は街へと下りていた。
 例え魔法で涼を得ていたとしても、限界がある。本来ならば部屋で大人しくしていたいところだったが、今度行う実験にどうしても必要な材料が不足していたためそうもいかなくなった。
 今では、無理して外出したことを心底後悔している。こんなことになると予見できていたのなら、絶対に外に出なかったのに。
 目的のものを買い終えた僕は、さっさと寮へと戻るべく噴水の傍を通りがかった。ここまではいい。問題はこの後だ。
 偶然にも同じく暑い中外出していたらしいルルと遭遇したのは、そのときだった。彼女は僕の姿を見るなりいつものように大きな声で名前を呼び、恒例の如くその場を急ぎ離れようとした途端に駆け寄ってきた。悲劇が起きたのは、そのときだった。
 ちょうど運悪く、彼女の靴紐が解けていたらしい。それが駆けだした瞬間足に絡まり、躓いたルルは僕の方へと倒れ込んできた。
 自分の方へと倒れ込んできたルルを受け止めたまでは良かった。ただ、ここ数日の異常気温で消費していた身体はうまく動かなかったらしく、加えて勢いよく飛び込んできたルルを支えようとしたことで背中から転ぶ羽目となってしまった。―――それも、噴水の中へと。
 天高く舞い上がる水、集まる人々の視線。そして水面の揺れが収まる頃、そこには全身ずぶ濡れになった僕の姿があったのだった。



「確かにこの数日は暑いです。ですが、僕はこのような形で涼みたいなどと頼んだ覚えはありませんよ」

 苛立つまま、髪を掻きあげて不機嫌も露わに告げる。前髪からは水滴が滴り、纏わりつく衣服の感覚が不快だった。

「ご、ごめんねエスト。私も悪気があってやったわけじゃないのよ?」

 そう言う彼女は、ほとんど濡れていない。せいぜい飛沫が上がった際、髪にかかったくらいだろう。そのことに、僅かながら安堵する。

「当たり前です。こんなことを故意に行うようならば、人間性を疑いますね」
「うう……」

 にべもなく言い放つと、ルルはますます申し訳なさそうに眉を下げた。しかし、いったい誰がこんな結末を予想できただろう。これも偏にルルだからこそ起こしえた事態なのだろうけど。
 唯一の救いは、魔導書と荷物が水没の被害を免れたことだろうか。

「はあ……もういいです」

 噴水に落ちて、早数分。いくら今日の気温が高いとはいえ、いつまでも水に浸かっているわけにもいかないだろう。周囲の目も気になってきたことだし、そろそろ上がらなければ。
 そう思って、立ち上がろうとしたそのときだ。本日二度目の水柱が立ったのは。

「な…なにをやっているんですか、あなたは!」

 ありえない。突拍子もないことをしでかす人だとは常々思っていたけれど、まさかこんな奇行に走るなんて。
 呆然と視線を送った先では、僕と同じく全身ずぶ濡れとなったルルの姿があった。

「だってだって、私のせいでエストが濡れちゃったんだし……」
「だからといって、あなたまで噴水に入る必要はないでしょう…! お願いですから、もっと後先を考えて行動してください」

 座り込んだままのルルの腕を取って、すぐに噴水から抜け出す。水分を吸って重くなった制服が煩わしい。

「で、でもでも……!」
「【でも】も何もありません」

 水から上がってすぐに手袋を外し、魔導書を拾い上げる。即座に風の魔法を発動させても、漂う湿気でせいぜいマントくらいしか乾かない。全身を乾かすにはもう少し時間がかかりそうだったが、日の傾き具合を見るに、寮へ戻った方が良さそうだ。

「……一度、寮へ帰りましょう。すぐに制服を乾かすことはできそうにありませんから」

 ため息をついて振り返り、乾いたマントを押しつける。それを受け取ったルルは、目を丸くして見返してきた。

「エスト?」
「風邪を引かれても面倒です。寮に着くまでの間、それを羽織っていてください」

 憮然として答えると、彼女は目を大きく見開いて首を左右に振ってみせた。

「そんな、悪いわ! これはエストが使って。私もすぐに乾かすから」
「ルル、こういうときに起こす自身の行動パターンをいい加減理解してください。あなたのことです、魔法が成功するよりも、惨事を招く確率の方が高いですよ」
「だけど、それだとエストが……。私は滅多に風邪を引かないし、大丈夫よ」

 なかなかマントを羽織ろうとしないルルに苛立ちが募る。
 全部伝えなければ理解しないのか、この人は……!

「この場合、男女の違いを理解していただけると助かるのですが。あなたも女性なら、少しは恥じらいを持ってください」
「どういうこと?」
「ですから……! ああもういいです、貸してください」

 こちらの心情を全くと言っていいほど汲み取ってくれないルルに焦れ、渡したマントを奪い去るとそのまま彼女へと巻きつけた。すぐに外されないよう、魔法をかけることも忘れない。

「エスト、私は大丈夫だってば!」
「残念ながら、あなたの考えと僕が危惧していることには齟齬が生じているので。ここでくだらない問答を繰り返すくらいなら、さっさと寮に戻りますよ」

 未だマントの使用を渋る彼女の手を取って、さっさと帰るべく寮への道を歩き出す。
 まったく、本当に手間のかかる。



「うう……ごめんなさい」

 歩き出して、しばらく。さすがに諦めたのか、大人しく腕を引かれていたルルは呻くようにして謝罪を口にする。

「……もう、慣れました」

 ため息をつくと、もういい頃合いだろうかと思って繋いだ手を緩める。考えてみれば、ずっと手袋を外したままだった。

(咄嗟のこととはいえ、迂闊だった)

 今さらだが、後悔が胸を占める。そのままさっさと離してしまおうと握った手から力を抜く。しかし僕の思惑とは裏腹に、手は繋がれたままだった。

「ルル?」

 思わず、立ち止まって振り返る。視線の先には、未だに繋がれたままの手。ただ先程と違うのは、今度はルルによってしっかりと掴まれていることだろうか。

「どうかしたの、エスト」
「いえ、それは僕の台詞なのですが」
 困惑したまま見つめ返しても、ルルは首を傾げるのみだ。

「僕は手を離したいのですが」
「どうして?」

 心底不思議そうに彼女は言う。

「必要がありません。元々、あの場からあなたを連れ出すために繋いだんです。こうして歩いている今、繋ぐ意味も理由もないでしょう」

 僕の言葉を黙って聞いていたルルは考え込むように繋がれた手を見つめ、すぐに顔を上げた。

「理由なら、あると思う」

 突然なにを言い出すのかと見つめると、満面の笑みを載せてルルは予想もしていなかった言葉を発した。

「私が、エストと手を繋ぎたいから!」
「……は?」
「さ、はやく行きましょ! 部屋に戻って、着替えないと」

 気づけばさっきと立場が逆になっている。今度は僕がルルに手を引かれ、寮への道を歩いていた。普段は遠い温もりが、今は掌を伝って感じられる。今更になってそのことを意識して、動揺した。

「……っ、ルル、離してください!」

 必死に抗議の声を上げても、当人は聞いているのかいないのか。

(いや、これは絶対に聞いていない)

 呑気に笑うルルを視界に収めて、諦めるしかないのだと悟る。こんな姿を誰かに見られたらと思うと頭が痛いが、もうどうでもいい。考えることさえ億劫だ。僕も大概、この暑さにやられたのかもしれない。
 先程とは打って変わって上機嫌に先を行くルルを見やって、繋がれた手にほんの少し、彼女に気づかれないよう微かに力を込めた。

ある暑い日のはなし
(その瞬間応えるように握り返されたのは気のせいなのかそれとも、)



あまりにも暑かったので突発的に書きなぐったもの。最初はただ噴水に落ちたエストがルルを叱るだけの話のはずが、いつの間にやらシリアスなんだかほのぼのなんだかといった終わり方に。
時期としてはゲーム中。まだ恋愛未満の二人です。

2010.09/12掲載
2012.01/30修正

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