僕は最近、ルルに毒されていると感じることが多くある。
「おはようエスト! 今日もいい天気ね」
「おはようございます。……今日も朝から元気でなによりですね」
ため息とともに告げれば、返ってくるのは満面の笑み。本当に、朝から元気なことだ。
「はい、エスト」
声に誘われて視線を向けると、ルルが両手を差し出していた。その上には、きれいに包装された袋が乗せられている。
「これは?」
「今日はバレンタインだから、エストにプレゼント! 頑張ってつくったから、食べてくれると嬉しいな」
バレンタイン。今まで自分には縁遠かった行事だけに、こうして渡されると不思議な気分になった。
「作ったんですか? ……あなたが」
「大丈夫! アミィに手伝ってもらったから、味は問題ないはずよ」
確かめるように問うと、小さく拳をつくってルルは答える。アミィが手伝ったのならば、確かに大丈夫だろう。彼女はお菓子作りが得意だと聞くし。
……それに、
「せっかくですし、いただいておきます。ここで受け取らなければ、あなたが落ち込むのは目に見えていますしね」
憎まれ口をたたいて、包みを鞄へとしまいこむ。わざとそっけなく言ったものの、少し嬉しかった。
「うんうんっ、あとで感想を教えてね!」
ルルはというと、照れたような笑みを浮かべて返してきた。どうやら、こちらの心情などお見通しらしい。
「でも良かった。エストに一番に渡せて」
……一番?
いったいどういうことだろうと思うと同時に、肩から提げた大きな紙袋が目に映った。
「そちらの袋はいったいなんです? 見たところ、授業に使うものではなさそうですが」
「ああ、これ?」
ルルは肩から袋を下ろして、掲げて見せる。
「これは他の人たちの分よ。ユリウスとか、ノエルとか」
他の人たち。
「……そうですか」
「うん、皆にはいつも助けてもらってるから。渡したい人はたくさんいるから、作るのが大変だったわ」
こちらの胸中など知らずに、ルルは無邪気に言葉を紡ぐ。無意識に、魔導書を抱える腕に力がこもった。
ルルは当然それに気づくこともなく、懐中時計を確認して顔色を変える。
「もうこんな時間! これからみんなに渡してくるから、先に行くね。またあとで!」
そう言って、ルルは振り返ることなく行ってしまう。
僕はというと、そんな彼女を呼び止めることもできずに立ちつくしたまま。先ほど感じた温かさなど、どこかに消えてしまった。
ルルと別れてから時間は流れ、時刻はもう夕方になる。あれから彼女とは顔を合わせていない。正しくは、会えなかったと言っていい。
姿だけは、学院内でよく見かけた。ユリウスにノエル、ビラールにラギ、アルバロ。顔馴染みの学友達に渡す姿は、校舎の至るところで目撃できた。
古代種二人のところにも行っていたようだし、この分ではアミィにも渡しているのだろう。
「…………」
おもしろくない。
彼女が、呆れるほどに優しい性格をしているのは知っている。そしてその性格を熟知しているなら、皆へ平等に渡すことも容易に想像がついていた。
(……だけど)
おもしろくない。
自分にこんな子供じみた感情があったなんて、知らなかった。
「いや、違うな」
ルルといるようになってからだ。こんなことを考えるようになったのも。
「…………」
そっと、視線を下へと移す。手の上には、ハートの形をしたクッキー。感想を求められた以上、食べないわけにはいかない。
つい先程、一枚だけ口にしたけれど、甘さが控えめで僕にもちょうどいい味だった。素直においしいと思う。
けれど心が浮かないのは、昼間に嫌というほど見かけた光景のせいなのか。
ため息をついて、残りのクッキーを包みへと戻す。今は、これを食べる気にはなれなかった。
寮へ帰ろうと向かう僕の耳に、聞き覚えのある声が届く。
「あァ、エスト」
かけられた声に振り向けば、ゆったりと歩いてくるビラールの姿があった。その腕には、うず高く積み上げられた包みが抱えられている。今日という日を思えば、その中身は言わずと知れた。
質量を感じさせない歩みで横に並んだ彼は、「奇遇デスね」と言って笑った。自然、並んで歩くことになる。
「今日ハ、ラティウム中が賑やかな日。とても楽シイ」
「……そうでしょうか」
斜陽のかかる廊下には、静寂が満ちている。もう他に生徒はいないのか、人影は僕たち以外には見当たらなかった。
しばらくは無言で歩いていたビラールは、「そういえバ」と言ってこちらに顔を向けた。
「ルルの手作りクッキー、とても美味しかったデス。ルルにそう、伝えてくれまセンか?」
「……ええ、構いませんよ」
なるべく平静を装って答えると、ビラールは上機嫌に続ける。
「ここのところ、ルルは毎晩練習していたようデスネ。そのためか、すごく上手にできていまシタ」
「はあ」
気のない声を返し、ひたすらに歩き続ける。正直なところ、これ以上この話題を続けたくはなかった。ため息をつこうとした、そのとき。
「フフ。星の形なんテ、随分とかわいらシイ」
ふと引っかかりを覚えて、隣を歩く長身を見上げる。
「……星?」
「ハイ。たくさんの、星型クッキー。とてもおいしかったデス。みんなもそう言ってマシタ」
にこにこと笑みながら告げられた言葉を受けて、思わず鞄の持ち手を強く握りしめた。顔が、ひどく熱い。
鞄の中には、先ほど封を切った包みが入っている。その中にあるのは、ハートの形をしたクッキー。
(ああ、いつから僕はこんなに単純になったんだろう)
たったこれだけで嬉しいと思ってしまうのだから、相当の末期だ。
僕は最近、彼女に毒されていると感じることが多くある。
それはみっともなく嫉妬してしまうことだったり、振りまわされても結局は許してしまうことだったり―――今回のように、不意打ちを食らったりしたときとか。
帰ったら、ルルに会いにいこう。そして、おいしかったと伝えよう。羞恥はあるけれど、これだけは伝えておきたい。
そう心に決めて、少しだけ歩調を速める。前を向くと、寮が遠目に見えた。
(そういえば、まだお礼も言っていなかったな)
本当に、ルルといると乱されてばかりだ。心が落ち着くことを知らない。
少しずつ近づいていく距離をもどかしく思いながらも、そっと鞄へと触れる。そこには確かに、彼女の想いがあった。
ハートに想いをこめて
(あなただけは、特別)
だけど、このときの僕はまだ知らない。包みの一番下、ハート型のクッキーに埋もれるようにして存在するメッセージを。
そして、部屋に戻ってからそれを見つけて赤面することになるのはまた別の話。
バレンタインSS、エスルル版でございます。
ハート型のクッキーを贈ったのはエストだけ。エストが一番だよっていうルルからのメッセージでした。
2010.02/14掲載
2011.05/02修正