「……あの人は、どうしているかな」
ぽつりと零した言葉が、誰もいない空間に響く。嫌になるほど見飽きた、しかしそれとは似て非なる風景に囲まれたここは、胸に鈍い痛みをもたらした。
「なんだって……こんな」
元々、ミルス・クレアを彷徨う亡霊がつくり上げた世界だ。この空間がミルス・クレアを象っていても不思議ではない。
「理解はできても……納得はできないな」
ため息とともに吐き出すと、ちくりと胸を刺す痛みが再び襲う。
胸を去来した想いを振り払うように教室をぐるりと見回すと、ついこの間までの日々が甦った。
僕はいつもこの席に座っていて、彼女はいつも窓際の席にいた。講義のときにはたまに居眠りをして、実技のときには必ずと言っていいほどトラブルを引き起こして。
無意識に浮かぶ笑みに気づいて、慌ててその感情を打ち消そうと頭を振る。
―――でも、
「……この風景には、馴染みがありすぎる」
彼女と過ごした日々、一緒に過ごした時間。それらすべてが、目の前の景色と重なって見える。
彼女と初めて出会った湖のほとり、
休日に二人で忍び込んだ空き教室、
雨について話した中庭、
迫りくる動物から逃れようと駆けずり回った外壁、
食が細いと散々文句を言われた食堂、
二人並んで一緒にクロスワードパズルを解いた娯楽室、
無理やり散歩に巻き込まれた庭、
いつの間にか彼女を待つようになった玄関ホール、
熱心に見つめていた不思議な絵、
一緒に勉強しようと誘われた自習室。
―――そして、彼女と一緒に見つめた帰り道の夕焼け。
それらすべてが、瞼の裏に焼きついて離れない。……離れてくれない。
いつまでも引き摺り続ける自分が滑稽で、口元には歪んだ笑みが浮かんだ。
「……ここまで惨めだったなんて、知らなかったな」
未練がましく、失った彼女の面影をこんなにも求めている。
『―――エスト』
響く声は優しくて、気がついたらその声ばかりを求めていた。
「―――ルル」
それは、自身が紡いだ言葉とは思えないほど穏やかな響きをもっていて。不意に、泣きそうになった。
「ルル、」
僕は、愚かだ。面倒な関わりなんて持たないと、馴れあうことなんて絶対にしないのだとあんなにも強く戒めていたのに。たったひとりの女の子が、それをいとも簡単に打ち砕いてしまった。
そうして僕の世界に踏み込んできた彼女を失うのは、怖くて。彼女が去ってしまうのが、恐ろしくて。
(……だから、自分から手放したっていうのに)
何故この瞳は、この心は、彼女を求めて止まないのだろう。
「ルル……ルル」
狂おしいほどに、彼女が愛しい。それはもう、認めるしかない。
好きだから、何よりも大切だからこそ、この道を選んだ。
なのに、どこかで彼女ならこんな僕を受け入れてくれたんじゃないかと淡い期待を抱いている。
そんな都合のいいこと、起きやしないのに。
「ルル」
壊れたように、この口は彼女を呼び続ける。それがどんなに罪深いことか、知っていても。
闇の淵で紡ぐ
(それは、愛の言葉にも似て)
最終試験、エスト失踪時。霧に取り込まれてからルルが来るまでいったい何を考えていたんだろうと思うと、なんだかしんみりとしてしまいます。
2010.02/08掲載
2011.08/09修正