心臓の距離


ネシユグ
ユグドラ・ユニゾンより





窓から外を眺めながら、ユグドラは背後に人の気配が現れたのを感じた。
空は青く澄んでおり、日差しが城下の町とそこを往来している人々とを照らしている。その明るい光景とは対称的な、暗い紫を纏った人物をユグドラはゆっくり振り返った。

「何かご用ですか?」

「特には。何もありませんよ。」

彼女の部屋に転移してきたネシアは同じく窓辺に近づくと城下を見下ろした。しかし瞳は目隠しに覆われているため、その光景は些か不自然でもある。
目が見えないはずなのに読書を楽しむ彼であるから見慣れたものではあるのだが、ユグドラの視線はいつの間にか外の明るい風景からほとんど露出していない顔へと移っていた。

「どうかしましたか?」

同じく、ネシアの顔も窓の外からユグドラの方へと向く。いえ、何もありませんよ、と、先程のネシアと同じ内容の言葉を返してユグドラは小さく微笑む。
しかし彼女は何かに気づいたかのように目を少し大きく開くと、その表情を陰らせてしまった。

「何も無い、という訳ではなさそうですが。」

首をかしげながら、ネシアは再び問いかけた。視線をしばらく迷わせたユグドラは、窓の外、町の方へとそれを向けるとそっと口を開く。

「その……一つ、気になってしまって。一応異性である貴方にこんな事を頼むのもどうかとは思うのだけど。」

一応、という言葉に苦笑しつつネシアは先を促した。
彼にとって性別というものは大して意味を成していない。それは周囲のネシアに対する評価も似たもので、顔のほとんどが隠れている上に少し女性的な部分を感じさせる言葉使いをし、華奢な体の上に纏ったヒラヒラとしたローブが彼が男性であるという意識を薄れさせる。
…そしてその内面を窺えない神秘性は、同時に周囲に人間離れした印象を与える。

「その、貴方の心臓の音を聴かせてもらっていいかしら?」

ユグドラからの言葉は、まさにネシアに対してそういった印象を持っている、という告白を含んでいた。
ほう、と、ネシアは興味深げな声を上げる。彼にとってもそれは予想外の言葉だった。

「心臓の音とは意外ですね。構いませんが、何故ですか?」

問い返され、ユグドラは躊躇う。
いつもこちらの心を見透かすネシアの事だ。隠したところで、自分の焦りもきっともう見えているのだろう。
そう思いながら、言葉を選んでゆっくりと話した。

「その、もっと失礼な話になってしまうのだけど。時々、貴方が本当に生きているか不安になるの。」

「……生きていますよ。そうでなければ、私はここにいないと思いますが。」

「確かにそう。でも、どうしても気になってしまって……。ごめんなさい。こんな事、話すべきではなかったわ。」

「別に気にしていませんよ。私の心音を聴いて安心するのなら、どうぞ。」

しゅんとしてしまったユグドラに、ネシアは向き直る。
ユグドラは少し迷う素振りを見せたが、ほどなくして、身を屈めてそっとネシアの左胸の辺りに耳をくっつけた。
血が流れている、脳も動いている、体温もきちんとあるし、自分の体は人間として正常に作用している。ならば心臓も動いていて当然だ。なのにユグドラに指摘された時、ネシアは少しだけ動揺した。
本当に、動いているのだろうか。

「……聞こえますか?心臓の音。」

「ええ。ちゃんと鳴っているわ。」

内心安堵したが、音の間隔の変化で自分の感情の動きを悟られたのではないかと焦る。ユグドラの方を見れば特に変化には気づいていないようで、穏やかな顔で鼓動に耳を澄ませていた。

突然、ネシアは自分とこの王女の間に大きな隔たりを感じた。
体温が伝わるほど触れてはいるが、その存在はどうだろうか。今は人間の体をしているとはいえ、死を迎えても転生し生き返る。生命が生から始まり死で終わるものならば、その道理から外れた自分は果たして生きていると言えるのだろうか。

そこでようやく、ネシアはユグドラが抱えていた不安を理解した。相手が自分から遠い存在なのではないかという考え。孤独感に似たそれは、ユグドラが感じていたものよりも明確な形になってネシアに降り注ぐ。

「ごめんなさい、長くなりすぎたわね。もう大丈夫。」

耳を離し、立ち上がったユグドラは先程よりも晴れやかな顔をしていた。照れているのかはにかんでいるが、その表情は満足気だ。

「……そうですか。」

ネシアはいつもと変わらない声音で返したつもりだったが、今度は感情の揺れを隠しきれなかったらしい。
ユグドラの表情から笑みが消えたのが、目隠し越しでもはっきりと彼に伝わった。

「ごめんなさい、やっぱり気を悪くしてしまったかしら……。」

「そうではありませんよ。ただ……」

珍しく口籠りながら、ネシアは窓の外に顔を向ける。
日の当たる広場で元気に走り回る子供達、談笑に華を咲かせる母親達、ロマンを語らう恋人達、活気良く商品を売り出す商人達。
町のそれらの光景は、二人に人間の生を思わせるには十分な光景だった。

「貴女は、私が“生きている”と思いますか?」

別に、自分が命の輪廻から外れた存在であろうと構わない。今更そんな事は気にしないし、気にする必要もない。
ただ、少しだけ。少しだけ、“違う”という事に寂しさを感じてしまっただけだ。
ネシアの問いに、ユグドラは優しく微笑む。彼女が同じく抱いていた不安は、もうすでに消えていた。

「生きていると思うわ。貴方の心臓の音は確かに聞こえたし、そもそも、死んでいる人は美味しそうにバナナンの実を食べたりしないもの。」

「……それもそうですね。」

思わずお互いに笑い合う。城下の光景のような明るさが、小さいながらもこの部屋に生まれた。
同時にネシアは、ユグドラの言葉に確かに安堵を感じていた。彼女はネシアの状態を完全には理解していないし、天使という存在についてもきっと知らないだろう。しかし、今はそれでも良いと思えた。

「姫様、お茶の用意ができましたのでご案内します。」

ノックの音と共に、忠実な騎士デュランの声が聞こえた。
本来ならこういった事は騎士の役目ではないのだが、ユグドラに対して少しだけ過保護な面のある彼は自ら進んで行なっている。

「ありがとう、デュラン。どうぞ入って。」

「ハッ、失礼します。……なっ!?」

部屋に入るや否や、デュランの視線はユグドラの隣に当たり前のようにいる男に向く。
涼しげな顔でこっちを見ているネシアに対して、デュランはわなわなと震え始めた。

「ネシア殿!勝手に姫様の部屋に転移で入らないでいただきたい!」

「おやおや、私はきちんと正面から入りましたよ。」

「それが嘘なのは分かっています!兵から貴方が入ったとの報告はありませんでしたよ!」

「フフフ、バレていましたか。いやはや、何故そこまで把握しているのか。」

言い合う二人を交互に見、ユグドラはくすりと笑う。間違いない、こんなに生き生きとしている者が死んでいるわけがないのだ。

「ほら、二人共。行きましょう!」

「あ!は、はい!」

二人の間を割って、ユグドラは部屋の出口へ向かう。言い争いに夢中になっていたデュランは慌ててユグドラを先導した。
デュランの隙を見て、ユグドラはそっとネシアの袖を引き目配せした。気づき、ネシアも小さく微笑む。

目の前の娘はただの人間でしかない。しかし、彼女の言葉に確かに心を揺らされている自分に気づき苦笑しつつ、ネシアは二人に続いて部屋を後にした。









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