「いやぁぁぁぁ無理ィィィなにあれキモいちょうキモい!!」
「バカお前声デカい捨ててッていーんだな?」
「いくないですいくないですごめんなさいッ」
「いやだ」
「いやだをいやだ!!」
「何ソレ意味分かんねーし」
なまえは半泣きのままびったぁとオレの腰に手を回して引っ付いてきていた。ぬくい暑い動きづらい。でも悪い気はしない。
ずるりずるりと何かが這いずる音。それを聞いたなまえはさっきよりは小さな声で叫ぶ。「こっち来んなぁぁぁぁあ!」
ざーんねん。こういうの、そういうときばッかこッち来んだよな。ま、オレにとっちゃ都合イイケド。
案の定、なまえはぎゅぅぅううっとオレにしがみつく力を強めた。半泣きだったのがマジ泣きに近くなってる。
……つーかお前、スーツ着てンの忘れてねェ?スーツオシャカにしたらマジ置いてくから。
「や、やだぁ……本当に、嫌いぃ……」
本当に、泣きそうだ。
コイツがここまで弱りきった様子を他人に見せるのは珍しい。
「……やーめた」
そう言って、すぐ脇の塀の上へ飛び乗った。
見下ろすと、なまえの顔に「何が?何を?」と書いてある。鼻で笑って、答えてやった。
「あんな図体デカいだけの雑魚殺っても点数なんかたかが知れてるだろ。めんどくせーから玄野にでも偽善者にでもくれてやるよ」
ホントはコイツのためだけど。
バカなまえでもさすがにこれは分かったのか、オレの隣に飛び乗って座り、しょんぼり俯いた。
「……ごめんなさい」
ありがとうと言ったらお前のためじゃねー勘違いすンなって言ってやろうと思っていたのに、コイツはごめんなさいと言った。
オレにとってのコイツは、びっくり箱みたいな物だ。何が出てくるか未だに分からない。
例えば、今がそうだった。
以前一回キスをした。
ただそれだけの関係。
朝が来れば、コイツはただのクラスメイトで、愚民共と同じ制服を着て、オレとの何の関わりもない生活を送る。
「つうかオマエ、あんな怖がり方すんだな」
それも意外だった。
普段すまして、何を考えているか分からない。感情の起伏が小さく見える。
極力波風を立てないように、周囲の愚民共の言うことにいちいち反論しない。
話の流れを切ることもしない。ただ大人数が作り出す流れに流されている。
だけどコイツはホントは、存外感情の起伏が大きい。
自分の意見だッて持ッてるけど言わない。どこまでも利己的に、自分を殺す。自分を守るためだけに。
それは偽善でもなんでもない。
オレにハッキリそう言ッて憚らないところも、やり口は甘いが気に入ッた。
「……ああいうの、ムリ。気持ち悪いおぞましい生物だなんて認めない」
ややあって、小さな応えが返った。
まぁオレだッて好き好んで近付きたいようなシロモノじゃない。
人ひとり分くらいの距離を空けて座ったオレは、なまえが気紛れにぶらぶらしている足の先をしばらく見ていた。することねーし。
ずるずる這いずってた黒いナメクジもどきの気配もいつの間にか消えている。
……つーか、
「おッせえ」
動きも鈍くて目から光線出すわけでもない星人に何を手間取ってんだか。
その場に落ちた夜の奇妙な静寂を破ったのは、なまえの訝しげな声だった。
「……西くん。なんか、酢の匂い、しない?」
「………」
確かに、さっきまでは感じられなかった酢のにおいがする。
「こッちだ!」
偽善者の声が響いた。
「……まさか」
徐々に濃密さを増していく強い酸の刺激臭が鼻につく。
ずるりずるりという音と、
さっきまでは聞こえなかったしゅうしゅうという音。
「なまえ、足引ッ込めてろ」
神妙な表情で頷いたなまえは、そろそろと塀の上に足を引き上げてしゃがむ。立ち上がったオレは、暗闇に目を凝らした。
街灯に照らされて、Xガンで半壊させられたソイツの体がぼんやりと浮かぶ。
半壊して、内容物が見える状態で。
「……ッ」
つながった。
つまり、アレの体液が、アスファルトも溶かすような強い酸であるッて、そーいうこと。
あの体液に触れたら、人間なんかひとたまりもない。
偽善者たちがXガンを構える。
都合よくYガンを持ってるようなヤツは──誰もいない。
そして、アイツらが構えたXガンの引き金が引かれたら危ないのは、それなりの距離をとっているアイツらではなく、こッち、だ。
「…クソッタレ……!」
説明している暇はない。
なまえの首根っこ、猫でもぶら下げるみたいにスーツの後ろ襟を捕まえて、一気に民家の屋根に跳ぶ。
一呼吸おいて、もう一度。
背後で何かが爆発、四散する派手な音がした。
どこかの屋根に着地、なまえを抱えて受け身をとる。
大きく息を吸いながら、なまえを開放してやると、胸を喉を押さえてゲホゲホ咳き込んでいた。軽く涙目だ。
助けてやったのに軽い罪悪感が芽生えてきそうになって、オレは慌ててソレを打ち消した。
ごろりとなまえとは反対方向に転がって、大の字になる。
さして鍛えてるわけでもないオレの筋肉は、いくらスーツのアシストがあるとはいえ限界に近かった。
女でもオレとさして身長の変わらないなまえを片腕一本でぶら下げて跳ぶのは、思った以上に空気抵抗もある上に、何よりオレはそういう力業に慣れていない。
そういうのは玄野とか偽善者の領域だった。
だが。
少しくらい、慣れた方がいいのかもしれない。
なまえは決して無能でも、動けないわけでもない。かと言って超使える、というわけでも、もちろんないが。
でもコイツだって、いつだって同じ状態で動けるわけじゃない。
前なら放っておいていた。
それで死ぬならそれまでだと。だけど。
オレは気付いてしまった。
利己的に周囲との衝突を避け続けるみょうじなまえ。
コイツがたったひとつ、愚民共に抗って、会話の流れを変えてまで、密かに守り続けているものに。
背後で、なまえがすーはー、と呼吸を整えて、オレを呼んだ。西くん。
その声に、オレは時々耳を塞いでしまいたくなる。
同時に、その声がオレに向けられることに、どうしようもない歓喜が身体を駆け巡る。
「助けてくれて、ありがとう。ごめん、役に立てなくて」
そっちを見ていないから分からない。
でも多分ぺたりと座り込んだまま、なまえは未だに少し震える声で言った。
ネオンや何かで、無駄に明るい夜空。
それでも僅かに見える星から視線をずらして、顔を背けた。なまえから絶対に、オレの表情を見えないように。
そうして、オレの本心で、核心からいちばん遠い部分を声に乗せた。
「……別に、役になんかたたなくていい」
拳を握る。開く。
──そうだ。
お前だけは護ッてやるッて決めた。