Funny Girl 1


第三土曜日、午前8時30分。

早春の休日のJR永田駅に止まった快速から降車した客は、ゆうに片手で数えられるほどの顔ぶれであった。夜勤を終えた医療職に、アルバイトに従事する若者たち。改札をくぐった彼らは何の変哲もない永田駅前の街のなかへ消えてゆく。

どこか気だるい暖気がしのびよる春先の朝。
JR永田駅、つまり鈴蘭高等学校の最寄り駅に立ち寄る人間はわずかだ。

明け方、重たい空のうっすらと雲がかかっていた。その厚い雲もふたつにわれて、都市の片隅には、雲間から穏やかな光がさしこんでいる。

日頃ブラックスタイルの不良少年であふれているはずのコンコースは閑散としている。かつては前衛的な落書きがそこらじゅうにあふれていたという話だけれど、市長交代により、街の治安向上が図られた。駅舎うえにうっそうと茂っていた植栽もすべて伐採されて、落書きはこまめに除去された。
結果、相応に清潔で平凡な快速停車駅が生まれた。しかし、この駅に集うこどもたちの本質は、現代を迎えてもソリッドで、挑戦的で、今なお獰猛な顔ぶれだ。

なまぬるい春の朝といえど、昨夜のなごりか、この街にしみこんだ油のような暴力のにおいか、すこしの緊張感も残っている。

数少ない利用客の姿が街のなかへ消えて見えなくなった頃、改札口をシンプルなデザインの革のパスケースが叩いた。

ショートパンツからすんなりとした長い足がのびて、ホワイトのソックスと合わせたパラブーツのローファーが、清潔感に欠ける駅舎の床を軽快に蹴った。

やがてJR永田駅駅前広場にあらわれたのは、ひょろりと痩せた体を誇る一人の女子高校生だ。

羽根のように軽やかなブラウンヘアが、朝の光にきらきらと透けた。軽やかな髪質は少女に抜け感をもたらしている。少女らしい顔だちを構成するパーツのひとつひとつはどこかこぶりで、すっきりとしたパーツがさっぱりと整っている。こざっぱりとした顔に彫られた陰影は、チープなメイク道具を駆使して作り上げたテクニカルなものだ。ブラウンの髪は肩口で整えられて、器用に外側を向いて撥ねている。羽根のような髪質の生え際に漆黒が少しだけのぞいている。

閑散と、そしてわずかな殺気の名残も残った永田駅前広場に、やがて少女はぽつりと立ち、ショートパンツのポケットからスマートフォンをとりだした。カレッジスウェットのネックから清潔な白シャツの襟がのぞく。薄いグリーンのスウェット地は、真っ白の肌を引き立てた。

すんなりのびた細い足が黄昏の街の朝のアスファルトをしっかりと踏みしめ、iPhoneをとりだした少女は、やがて画面に一心に見入り始めた。

スマートフォンに目を落としている少女のすがたは、春の朝に、いやに目立つ。


整った眉をすこししかめた彼女のなまえは茉優という。

すっきりとした目元をゴールドのアイシャドウでかざった茉優の視線には、すこしとげがよぎっている。陰ではなく、はっきりとしたとげだ。カレッジスウェットとショーツで決め込み、フレッシュな顔だちとムードには、カジュアルなスタイルが実にマッチする。そんな茉優の細く長い足は、余計なものも呼び寄せる。

「……」

小さな両手で抱えるiPhonepro13の大きな画面をにらみつけていたとき、茉優のすんなりとした体に、少しの影がさした。

黄昏の街の空に雲が翳ったわけではない。

彼女にさしたのは、大きな男たちの物騒な影だ。

カラフルな気配が忍ぶメゾソプラノには媚びといったものがない。さっぱりと乾いた洗濯物のような音色といったところか。茉優の声はとかく、南欧の空気のように乾ききっていて、いつもこざっぱりと響いた。その音色にはどこか常時コミカルさもにじむ。それは彼女の気性によるものだ。

茉優がおもむろに振り返ると、振り向く前から抱いていた嫌悪感は、やはり茉優の予測通りのものであった。

ほっそりとした華奢なからだをあっさりと覆い隠すほどの影は、茉優の手厳しいジャッジをくだすのであればだらしない、清潔感に欠ける、そういった形容が似合う男たちのものだった。

茉優が振り返れば、ひとりなのかだとか、どこへいくのかだとか、よかったらあのカラオケへいこうだとか、粘ついた声が茉優をここから誘い出そうと試みている。

どうやら休日の朝から、茉優はナンパ被害に遭っている。

茉優は、そんな状況を少しだけ遅れて理解した。


振り向いた顔を器用に元に戻す。今の茉優の用は画面のなかにあるからだ。

いらねーわ。
そんな軽口が整った唇から飛び出しかけたところで、どうにか引っ込める。茉優は心の内と言葉が直結している性分だったけれど、明和女子高校に入学後、生まれ持った正直さを保ちながら言葉を選ぶ技術も身につけた。高校で出逢った友人たち、そして画面の向こうにいる少年のおかげかもしれない。


「人違いですよー」

軽妙なメゾソプラノでそう応対すると、男たちの気配が少し鼻白んだことがわかった。

どこか男好きする顔とはときおり評価される。
けれど口を開けば、逃げていく男もいれば、そばから離れない男もいる。
茉優はただ好きに生きているだけなのに、不本意なジャッジや評価も寄せ付けてしまう。
男たちは一歩もひかず、またも茉優に迫る、
茉優のこぶりなパーツがコミカルに動く。少女の表情の豊かさの理由はそれだ。

しかし、あるとき、男たちは、はた迷惑な気配を一気に弱体化させた。

煙草の臭気と過剰な柔軟剤の臭気をまとわりつかせて茉優につきまとう男たちは、意外に早く、茉優の傍から引いた。

愛くるしい眉間にしわをよせた茉優が、もう一度背後を振り向く。

「あー!」

茉優がコミカルなカラーを帯びたメゾソプラノを、いっそう好奇心に満ちたものにする。

jR永田駅前に、ひんやりとした気配がしのびよっていたのだ。

その気配の持ち主が、およそ数メートルほど離れた場所から、ナンパ現場をただぼんやりと観察していたからだ。

否、ひやりとした気配はずっとまえから、そこに在ったのだ。

茉優はただ、それを悟らなかった。茉優にとって、悟るほどの意味をもたなかったのだ。


「……」
「マーシーじゃーん、はよ!」

まるで炭酸のぬけたソーダのような声だ。
そんな声で、茉優は、高校入学後から親交を深めている男友達のニックネームをよんだ。

真志井雄彦。

JR永田駅前広場にぽつねんと突っ立っていた大男は、ここより徒歩3分の鈴蘭高校にその名をとどろかせる、おおいなる不良少年であった。

今日もブラックシャツスタイルをえらんでいるのは、オールを敢行したわけでもなければ、ケンカ明けといった事情をもつわけでもない。一人親家庭で、アルバイトで稼いだお金は他の10台の若者たちのようにハイブランドの洋服や鞄に注ぎ込むわけもゆかず、食費や光熱費に消えてゆくからだ。残ったお金で選び抜いた衣装が限られているからである。


「つかそこいたのかよマーシー」
「……」

いやなんかゆって。

男友達にぞんさいな言葉でじゃれつづける茉優はけして真志井に助けをもとめたはずもなく、ただ友人とコミュニケーションを取っただけだ。

しかしどうやら、朝方から茉優にからんだ男たちは、真志井という青年に畏怖をいだき、二人の関係性を見当違いの方向へ決めつけたようすがある。

186センチメートルの巨体の気配は、けして威風堂々、そんなムードに満ちているわけではない。

黄昏の街の朝に、ただ気だるくたたずんでいるだけだ。

誰かを守るために威圧感を発揮しているわけでもない。ましてや茉優をすすんで救ったわけではない。


なぜなら、サングラスの下の切れ長の瞳は、見事に死んでいるからだ。


その名前は虚無。

大男の瞳は、そんなものを表現している。

ともあれ、茉優に絡んでいた男たちは、ただ虚無をにじませた瞳で早朝永田駅に悄然と突っ立っている大男におびえ、情けなく退散し、朝の都市のなかへ消えていった。


「…」
「マーシー!はよ、なんでそこに立ってんのー」
「おはようございます茉優さん。杏がくるからだよ」
「あー杏ねはいはい。まって私も杏に会えるってこと?やったー昨日も会ったけど」
「クラスはちがうんだろ?」
「ちがうけど毎日しゃべってる。12日連続一緒にべんとーくった。私がつかまえてる。そーか杏とデートかーやるなーマーシー、あ、杏だけじゃなくて今から孫六にも会えるよー」
「言わなくてもわかるぞ…」

孫六というなまえは、二人の共通項だ。
そして二人に友人関係をもたらしたきっかけの人物でもある。


「おれはいいんだよ、孫六に会っても。ただ、孫六はキレるだろうなあ」
「それなー。土日は人に会いたくないんだって。あれで孫六、疲れてる」
「おまえは別か」
「やーーーーそんなことは、ないでしょ」

連れ出すの大変だったわ。

茉優と真志井の距離は数メートルほど離れていて、閑散とした駅前広場に、少女のヘルシーなメゾソプラノボイスはよく通る。

あの気難しそうでいて実はシンプルな一匹狼を土曜の朝に、この場所へ引きずり出せる女でいて、真志井雄彦に軽口をきける女。

つまりこの少女は、茉優は、山口孫六の彼女だ。

にらみつけているiPhoneProの画面には、一向に動かぬ孫六とのチャット画面が表示されている。清潔な液晶をにらみつけたまま、茉優は、家近いんだから杏迎えにいけばいいのにと真志井に告げた。いや、きょーはここが便利でな。虚無にみちた瞳で宙空を眺めている真志井も、気安い口調でそうこたえる。大男がわざわざこたえてくれた返事を、茉優はふーんと鼻を鳴らして、聞き流した。そんな真志井もスマートフォンをとりだした。

ふたりで並んで植え込みの縁にでも腰をかければいいけれど、二人ともその選択肢はない。
足腰の丈夫な若者は、ただ立ったままおのおのの待ち人を待ち、通信機器のなかへ没頭する。


「孫六はおまえ相手だと、この時間におきるのか」
「いや起きてない。だから鬼ラインしてんの」


ほら。来てみ。
メンズのスウェットから少しだけとびだしたのは小さな手だ。ほそい指先が気安く真志井を招き寄せた。真志井がその指によばれ、165センチメートルの肩越しに彼女の手元をのぞきこむ。杏のスマートフォンとちがって女子高生らしくしっかりとデコレートされたチャット画面には、茉優が孫六を呼び続ける文面が連なっている。

「既読はついてっから、起きたんだね」
「…」
「こーしてたら、完介が報告してくるんだよ。ね今来たでしょ。ほら完介。今出たみたいです、だって」
「完介にカムイみたいなことさせてるのか…」
「ちげーよ完介が勝手にやんだよ。あいつは私にびびってる。つかマーシーも杏相手だとこの時間起きるんだー」
「おきてねえ。おれの目は、死んでるだろ」
「んっとだ。死んでら。彼女くんのに最悪だな」
「そうだよ、おれはせいかくが終わってるんだ」
「え杏と遊ぶがいやってこと?まじ終わってんねマーシー…」
「ちがうんだ。時間を間違えちまった。早すぎた」

今度は真志井が茉優へ、スマートフォンを手渡してみせる。使い古したiPhoneミニを受け取った茉優が、彼の恋人とのトーク画面をじっくりと観察した。

真志井の恋人と茉優は、学び舎をともにしている。ふたりとも戸亜留市トップの公立女子校公である明和女子高校に通っている。成績を争ってみたり、行事で活躍してみせたり、英語スピーチコンテストの学校代表の座は杏に譲ったが、理系科目の成績は茉優のほうが上だ。1年次のクラスは同じで2年次でわかれた。どのみち3年次のクラスは、国立文系選抜クラスと理系選抜クラスに別れるだろうけれど、お昼をともにすることもあれば、放課後いつまでも語り明かしたり、仲の深い友人である。

彼女のラインの文面は、茉優と長々とやりとりするときと何も変わらない態度だ。素直で丁寧な文面で、真志井との逢瀬の約束をかわしている。そして、駅舎の時計とラインの画面を見比べる。
彼女が指定した時間まで、あと25分ある。

「はは。うけるー」
「うけるだろ
「ん」

茉優のiPhoneから通知音が聞こえると同時に、彼女の細いのどから短い声があがる。iPhoneを真志井に投げてよこした茉優が手早く画面を確かめた。

「まにあわねーからそのままいくわ、だって」
「何がまにあわねーんだ?」
「来たらわかるよー。あっ!!」

またも短い声をあげた茉優につられて、真志井も彼女の気配を辿って振り返った。杏は永田駅前へ訪れるルートにバスを使ったようだ。真志井は地下鉄で訪れた。バスの時刻のほうが、待ち合わせ時間にすりあわせやすい。誠実な性分の彼女らしく、待ち合わせより15分前に到着したようだ。スマートフォンをつかんだまま、茉優が両腕を大きくふって、杏を迎えた。
正統派のトレンチに白シャツとデニムを合わせて、生来の身長をそのまま生かした足下は赤いバレエシューズだ。マニッシュなアイテム選びのなかで、母から拝借したスカーフをむすびつけたレザーのミニバッグがひかっている。
少し小走りにかわった杏は、真志井の名を呼ぼうとしたところで、そばにいる深い仲の友人のすがたに目をとめて、大きな瞳をますます輝かせた。

「茉優だーー、おはよー!」
「杏ちゃんおれは…」
「マーシーはいいんだよ。そこに立ってろ。杏おはよー」

真志井から祓われようとした虚無は、ふたたび大男に戻ってきた。
レペットの赤い靴でかけよってきた杏は、真志井をよそに茉優めがけて走り、茉優の小さな手をとろうとした。そして杏はいい?と律儀にたずねる。顔だち同様こざっぱりとした性分の茉優を気遣っている。すると茉優から杏の手をとった。おはよーー!茉優のからりと晴れ上がったメゾソプラノが杏を向けると、杏の大きな瞳が安堵したように笑った。そして杏は、デートスタイルの茉優の変化を次々に褒めてみせる。


「茉優、アイシャドウがちがう!リップもちがう!チークもちがう!ショーパン似合うー!」
「全部ちがうのか」
「うっせーわマーシー。みて、これ杏にこのまえもらったやつ!」

ほら、ここ。

茉優が、外はねの髪をかきあげて、真っ白の首筋をみせた。小麦色の肌の杏と違って、茉優は透き通るような白肌だ。首筋からのぞく白い皮膚に、杏が高い鼻をよせる。

真志井は思春期の女子どうしのじゃれあいを、虚無にみちた瞳で見守った。

「いいかおり!!」
「ちょーいいにおいするよ。マーシー気づいたか」
「おまえの香水は知らん」
「私だってマーシーの香水は、あ、知ってたわ」
「あの、杏さんおれは…」
「マーシー、待たせてごめんねー、おはよう!ラインみたよ。時間勘違いしてたんだね、ごめんねー私が間違ったかとおもった」
「いーんだよマーシーは。それよりきいて、私ナンパされたの」
「えー、朝から…?迷惑だし、気持ち悪かったね……」
「そうだよ、最悪なスタートだよ。で、マーシーが立ってたの、そこに」
「立ってたんだ!」
「したら逃げた」
「立っただけで?」

すごいね…!よかったね!杏が大きな手を胸の前で合わせて拍手すると、茉優も実に舐めきった調子で真志井に拍手を送った。喫煙の衝動を芯からこらえた真志井が、虚無を色濃くして彼女たちに告げる。

「何もしてねえぞ」
「まじだよ、ほんとに何もしてないの。いただけ」
「口きいてもねえ。おれは立ってた」

ここにな。こう。
真志井の大きな体が、先ほど起こったことを再現する。

真志井はただ、死んだ目で駅前に立っていた。
立っただけで女の子を守った。

シンプルな顛末を、杏は心から言祝いだ。そして仲の良い友達をふたたび気遣う。


「だけど、大丈夫?きもちわるかったよね。孫六くんがくるまで私たちもいっしょにいようか」
「まじで、いてくれんの、ありがとーつか時間大丈夫?」
「いいの、ゆったりスケジュール組んでるから。ね、マーシー。いいよね」
「はー、そーすりゃいいんだな。べんきょーになるわ」
「なにいってんだか。ねー杏」
「ねー茉優」

は?

心からそう間の抜けた声をあげると、真志井のサングラスがずるりとずれた。
人差し指でサングラスを押し上げた真志井へ、茉優がたたみかける。

「杏がされてたら、そうするくせに」
「そうだよ、だから茉優にも、こうしたんだよね」
「まて杏、おれはおまえまってただけだぞ」
「時間が間違ってなくてもそうするよ」
「まあ、そういうことか…孫六もそうすると思うぞ」
「そーだよ、うちの孫六だもん」
「つか行くとこかぶってねえよな?」


そっちはどこ?

孫六は、地下鉄永田駅東出口から歩いてやってくるはずだ。待ち人をまちわびながら、おとなびた高校生たちは、テンポの弾む会話にふける。


「映画ー。そのあと、マーシーが予約してた服とりにいって、美術館」
「意識たっか…」
「おれはひくい」
「私もひくいよー!」
「うちらはね、これみにいく」

茉優が素早く呼び出したサイトは、ここから15分ほど電車に揺られた先で開催されている現代アートイベントだ。杏は目を輝かせ、真志井は孫六の心中を慮った。


「おまえのほうが意識高いじゃねーかよ…」
「美術かぶりだねー!ここ、桜ももう咲いてると思うよ。私のとこは、マーシーが現代美術わかんねぇっていうの」
「えっ音楽のしゅみあっち系なのに?」
「このインスタレーション、おもしろかったら教えてね。そのときは私ひとりで行くよ」
「えーー一緒にいこうよ!また行ってもいいんだから。うちらに混ざってもいいし」
「じゃあ、そうさせてもらってもいい?」
「なんでおれを仲間はずれにするんだ?」
「自分で興味ないっつっといて……。写真いっぱい撮るよ。インスタにあげるの」
「楽しみにしてるー。茉優のインスタすっごいおしゃれ」


杏もあげてねー。茉優がカジュアルな声音でそう語れば、真志井は意外な声で尋ね返した。杏もあんの。真志井がきょとんとした声で問えば、鍵アカだよと杏はこたえた。あたしマーシーのアカしってるーーTwitterもインスタも。茉優が得意げな声で言ってのけると、真志井はそれを黙殺した。


「けどな」

その声につられて、茉優は大きな男をみあげた。
真志井はしっかりと盛られた彼女のまつげに今更気づいた。


「孫六にこれ付き合わせられんの、おまえだけだな」
「ね!そう思う−」
「いやいや。付き合わせんのたいへんだったよー」
「遅れてるの?」
「そもそも起きてない」
「起きたぞさっき」
「さっき!」
「あー!!」
「あっ!」
「……」


茉優が指をさしたあと、スウェットに包まれた両腕を大きく振る。

そして杏も、その指の向こう側にゆらりとあらわれた少年に気づいた。

真志井のつめたい瞳に、再び虚無の気配が宿った。


その少年は、不機嫌な顔にみえて、高揚しているのだ。

季節感を無視して、モヘアライクのカーディガンを纏っている。

それはかわらないけれど、ひとつ、大きな変化がある。

それはけして鈴蘭ではみせぬものだ。

杏も滅多にみたことのないしろものだ。

そして茉優にとって、日常だ。

日頃、小さな頭の後ろできびしく結われている黒髪。

その正体は、絹のようにさらさらとながれるセンターパートヘアスタイルだ。

あまりに艶やかな黒髪が、孫六本来のスタイルに戻っているのだ。

黒髪を素直にセンター分けスタイルに保ち、厳しく結わえることはしていない。

つまり、今日の山口孫六は、ありのままの姿を見せている。彼はセンターパートの前髪を、実に不機嫌そうにかきあげた。

茉優と似たきめこまやかな美しい白肌をさらして、眉間、そして、引き締まった肩で朝のおだやかな空気をいかめしく切ってあるく挙動はいっぱしに山口孫六らしいさまだ。


「はよー孫六!!な、マーシー、見られただろ。髪がそのままなのー起き抜けのままきたってこと」
「おはよう、孫六くん」
「……」
「おい茉優……なんでマーシーがいんだよ!!!!!……ん、杏ちゃんか、おはよ。ああ、そーゆーことか」
「髪ー!私のすきなやつ!」
「私は、この孫六くんを見るのめずらしい」
「学校で髪のゴムがきれたら孫六はおれにあたるんだ」

真志井が虚無と冷酷さをにじませた瞳をサングラスの下にかくしたまま、いたって普段通り孫六にからむ。すると孫六が整いきった眉間に勇ましいしわをよせてきびしく真志井を睨むのも、いつものやりとりだ。


「なんでいるかっつーとね、私、ナンパされてたのー」

孫六がその美しい三白眼を見開いたとき、杏がたたみかけた。

「私たちもこの駅前で待ち合わせだったの。マーシーが時間を間違っちゃったんだよ」
「まじかマーシー、うけるな!」
「彼女と同じ事を言うな」
「でね、マーシーがはやく来すぎたのが、かえってよかったの」
「マーシーがそこ立ってただけ。したら逃げた。そんだけ。大丈夫だったよ私」
「……そーか」

傷ひとつない頬を指先でかいた孫六が、地面に視線を落とした。

「じゃ、行こー孫六!もーいーぞマーシー。杏とは、もちょっと話したいな…」
「そっちもあれか。杏ちゃんどこいくんだ?おれらとかぶってねーよな。休みまでマーシーとあそびたくねえわ」
「映画!服屋!美術館!」
「茉優おまえ…おれらのかわりに…」
「そのコースだよ−」
「かぶってんのか」
「かぶってねぇっつのー、だからーラインしたじゃんよ」

モヘアのカーディガンごしの孫六の腕をとって、茉優は彼氏の精悍な半身を気ままに振り回す。接触が多いのも茉優らしい行動だ。そして孫六はその手を振りほどくことはない。

杏は澄んだひとみで、そして真志井は虚無をにじませたひとみで見守った。

そして、孫六にしがみついた茉優のこぶりに整った顔がくるくると動き、思いがけない言葉を放った。

「ねー今度四人であそぼーよー」
「遊ぶかよ。マーシーでけえもん」
「マーシーが大きいのと遊びたくないのは、関係なくない?ほら、体格と性格は別の問題…」
「あの、杏さん…」
「あるよ。いるだけで暑いわ」
「そんなことないよ、涼しいよ。ほら、影」

だけど、マーシーは私と遊べばいいしね!
彼のそばにそっとよりそった杏が、遊ばれ放題の真志井を見上げて笑う。

別に三人ならいいぞ。センターパートの前髪を大きな右手でうっとおしくかきあげた孫六が、まとわりついてやまない茉優を見下ろして伝えた。

「マーシーいたほーがおもしろいじゃん。ほら、夏は影ですずしいし。カムイも真志井さんの影で夏はすずしいっつってた」
「カムイがそんなことを…」
「私はみんなであそびたい。いい提案っておもったよー。偶然会ってみんなでお茶やゴハンしたことはあるけど、ちゃんと計画して四人で遊んだことってなかったよね?」
「まってべつに私マーシーと遊びたくなかったわ…」
「おまえな…」
「いいわ、あらためて杏とあそぶわ」
「じゃあそうする?」
「杏さん?」
「それならおれもいくぞ」
「いいね、今度そうしよー」
「じゃあ、孫六くんも。三人で」
「お、おれを仲間はずれにする相談を、おれのまえでするのか…?」
「じゃマーシーもきなよー」
「いやだね。おれは群れるのが嫌いなんだ」
「何孫六みたいなこと言ってんの??」

真志井と茉優とたわむれつづける孫六の眉間によるきびしいしわは、癖のようなものだ。けしてこの時間をいやがっているものではない。
そして茉優も、マイペースに振り回す性分のようでいて、誰よりも誰かを気遣ってやまぬ少女だ。

そんなふたりの時間から、そろそろ引き揚げなければならない。

そんなことを悟った杏が、茉優のように、恋人の腕をそっととった。

すると茉優が、真志井という男に釘をさす。

「おい杏んこと振り払うなよマーシー」
「しねーよ」
「おまえ、杏ちゃんに前やっただろ」
「あーやったかも…しんねーわ…」

茉優にまとわりつかれることを一つも嫌悪せぬ孫六とちがって、真志井はどうやら彼のなかにゆずれぬこだわりがあるようで、人前では杏と一定の距離をこのむ。
孫六と茉優に口々に糾弾されれば、真志井はおのれの悪行を思い出したようであった。
杏があやまってその分厚い体にふれたとき、真志井はそれとなく恋人を振り払ったことがあった。その様子は、孫六と茉優も同時に目撃し、それは厳しい糾弾を行った。

孫六も茉優も、情に厚い性分であった。まっすぐで、まがったことがゆるせぬ性根はふたりして共通していて、茉優はその温度が平熱であり、孫六は熱さを心の底に秘めている。
似たものどうしのカップルに冷酷さを責め立てられた体験は、残念ながら真志井に、反省ではなく、愉快さと発見をもたらしたのであった。
当の杏はそんなことを気に掛けてもいなく、ただ今の杏は孫六と茉優という友人たちふたりの大切な時間を杏も大切にしたい気持ちでいっぱいにあふれている。

「じゃなくて!そんなのもういいから!!い、行こう!はやく!マーシー!」
「杏、気を利かせるのがバレてるのは、気を利かせてるっつーことになんねぇんだ」
「意味わかんねーことゆうな」
「じゃあね、茉優。月曜日!」
「おー、一緒にべんとーたべよーね!」
「茉優は杏ちゃんと一緒のクラスじゃねぇだろ」
「だけど食べんだよ。ほら孫六、もうすぐ快特くる。いこ!パスケース忘れてない?じゃなかった孫六はアプリか」


駅前広場から、孫六の引き締まった体を引きずるように駅舎のなかへ連れてゆく。

そんな茉優を振り返りながら見送った杏が、真志井のことを解放して、弾むようなためいきをついた。

「おれはねむかったんだ。だけど目が覚めた。あいつらがうるさいせいだ」
「ね、マーシー。私はね、マーシーに我慢してないの」
「してるだろ。おれがさせてるよ」
「してたとしてもだよ。茉優は、私よりずっと我慢してるから」

大事な時間なの。だから邪魔しちゃだめなんだよ。
だいじなのはおれもだけどなあ。孫六とあいつにじゃまされたわ。
私もだよ!だけどじゃまはされてない!

サングラスをずらしてみせた真志井が、茉優と孫六には聞かせぬ声で杏にうそぶけば、杏の天然の長さを誇るまつげがめいっぱい瞬いて、温かく笑った。




茉優はバイト代をはたいて買ったパスケースで改札を叩き、孫六はiPhoneをかざして通る。

「もけもけニットあつくない?」

ショートパンツから伸びるすんなりとした足が、汚いホームの床を叩く。

恋人にモヘアカーディガンごしの野太い腕をあたえながら、整った顔をそのままに、特段表情を変えない孫六が、そんなことを問う茉優を見下ろす。

いちごのように赤いくちびるが少しとがった。

友人カップルのいない時間をむかえると、ようやく、孫六に、まごころと素直さが生まれた。


「遅れてわりー」
「んーん。来てくれてありがとー」


そうこたえた茉優の声は、メゾソプラノからアルトに変わる。孫六といると、茉優の声はより低く変わる。くるくると踊っていた瞳は落ち着き、杏と毎度1位をあらそい続ける意外な聡明な頭脳は冴えて、孫六のそばだと茉優の心はいつも静まり、そして、はずむのだ。

「うちんトコの最寄り駅よかこっから行ったほうがはやいんだよね。いっぱい写真とろー孫六はこの写真家知ってる?私すきでー、」
「つか今日何すんだっけ」
「おもろい孫六。つまんなかったから、ねててもいいからね。寝れるとこあるんだって!杏がゆってた、桜もきれいっていってた。私は杏みたいにお弁当とかつくれないから、おいしーとこも調べてる」

そこへすべりこむのは、がらんと空白の目立つ車両群だ。いくぞー。彼氏にそう伝えた茉優が、孫六を車両へひっぱりこむ。

座席の隅にちいさくすわった茉優のごく傍に、孫六も不遜な態度で腰を下ろす。あまりに長い足を投げ出しても、迷惑をかける相手もいやしない。


「ここー。ここがいいな。孫六は」
「どれ。……こいつは?」
「混んでるね…多分ね」
「いーよべつに。茉優と待つんだしよ」
「そっかーそれもそうだな…。あたし混んでないとこで探してたわ。それよかあたしたちがすきで美味しいほーがいいよね!」
「な」
「ん?何?孫六」
「ひとりにしちまったな」
「んー、ああ、ううん、大丈夫。つかひとりじゃなかったんだよね…マジでマーシーいたから。気づかなかったんだよ。ほんとにマーシーも立ってただけだから」
「あーああいつに貸しか」
「そうだよ、ちゃんと返しな」

で、歩いたらここにつくー。

大きな画面を見せれば、ただでさえ背中をまるめがちな孫六のしなやかな背が、ますます丸まって、茉優のそばにぐっと寄り添ってくれる。清潔な香りがただよう。たとえこの車両に鴉の高校のこどもたちが乗っていようと、この美しい彼が孫六であると悟るものはいないだろう。

それほど今、山口孫六の美しい顔は、ほころんでいるからだ。

そばにいる少女をただ、一心に愛しているからだ。

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