時々ふたりでおとずれる喫茶店。外観は落ち着いたレトロ喫茶、内観はモダン。千歳は、入ってすぐのショーケースで販売しているブラウニーやラスク、いろとりどりのキャンディがおいしそうだなといつも気になるものの、手をだしたことはない。

千歳は、砂糖をいれない紅茶を少しずつ味わいながら、秀人に声をかけた。

「あ、あのー、ひでちゃん……」

秀人は、ん?と優しい声でこたえる。少したどたどしく、どちらかというとスロウテンポな千歳の話し口。秀人は、無理させず、急かさず、千歳のペースのままにしゃべらせて、じっくりと耳を傾けてくれる。

このところずっと抱いていた疑問。千歳は、思い切って秀人にたずねてみることにした。

「どうして最近、ずっと、アイスミルクなの?」
今までは、コーヒーでしたよね?

秀人がこのところ、頻繁に、アイスミルクを頼むようになった。
そういう千歳が飲むのは、もっぱら紅茶。ずいぶん寒くなった一月。体があたたかいものを欲する。

「寒くないですか……?」

おとなびた私服の秀人は、たばこに火をつけ、千歳に直撃しない方向へ紫煙をくゆらせ、ふっと口元に笑みを浮かべた。

「もう2月だから、アイスは寒そうで……」

ぽつりとつぶやいた千歳。
灰皿に灰を落とし、秀人は深くほほえんで。

あ、笑ってごまかした。
秀人にはよくあることなのだけれど。

香り付けに、ブランデーがわずかに入っている千歳の紅茶。スプーンで、カランとかきまぜたあと、千歳はカップを丁寧に口元にはこんだ。何の心境の変化だろう。ある頃から、シンプルなのみものを、いつくしむように飲むようになった秀人。

そういえば、あのころからかもしれない。
千歳は、秀人のアイスミルクのグラスの外側をおちる、ちいさなしずくを眺めながら、思い出す。



秀人と千歳が付き合いめたころ、秀人が通っていたのは、有名な進学校。「族」という素性をかくして、しばらくのあいだは恙なく通学していたものの、やがて隠し事がどこからか漏れ、せわしない三学期に転校することになった。転校先も、進学率の高い私立高校だというのだから。
秀人は詳しく話さないけれど、その高校でも、何かトラブルがあって、秀人はふたたび転校。とりあえず、今の学校に落ち着いた。

その頃からだ。千歳のためにお茶につきあってくれるとき、秀人がアイスミルクを頼むようになった。

もうひとつ千歳が思い出すこと。
少し前だ。秀人が、港が丘高校に転校してすぐのこと。秀人がめずらしく、「学校の愚痴」を話した。

いつだって、他人からのとげとげしい視線や恐怖のまなざし、一方的なレッテルと差別心を、なんでもないふうにさらりとはねのけ、他人について愚痴を言うこと、ボヤくことなんて滅多にない秀人が、はじめて千歳にもらした、
あれは確かに、「愚痴」だった。

新しい高校で、「つきまとってくるチビ」がいる。

へぇ、ちいさい人なのね……千歳はあれこれ思い浮かべて、「その人」の姿を想像する。
毎日飽き足らず追い回される秀人の姿を思い浮かべてもみる。

「はっきり警告しても、それでも秀ちゃんに話しかけるの?」
秀人は、うんざり、といった風情で、ため息交じりにうなずいた。
下心だけで、秀人のことをそこまで一本気に追えるものだろうか。
「勇気のある人ですね……」
千歳は素直に思ったことを口にだした。
「んなもんあっかよ。あるやつは、あんなに媚びたりしねー」
眉根をきつく寄せて、「その人」の行動を思い出して、つよくなじる秀人に、千歳はやや驚いた。
己らしくない、と、秀人はおもったのか。すまねーなとつぶやき、千歳を抱きあげて膝の上にのせ、次のデートはどこに行きたいかなんて、他愛のない優しい話題をふる。千歳は、秀ちゃんらしくないなんてことはない、と伝えたかったが、そのまま押し倒され、千歳は、秀人からのキスの雨をあちこちにあびて、話はうやむやにおわった。

いつも、どんな視線やどんな殺気、どんな恐れをあびても、堂々としている秀人の、めずらしい動揺、狼狽、怒り。

彼の揺るぎない芯を、こんな風に動かしている「その人」は、どんな人だろう。
ちいさくて。それ以上の想像が及ばない。

「その人」は、秀人への純粋なあこがれの心と、その奥にうごめく厄介なコンプレックス。
きっと、そのふたつと戦いながら、懸命に秀人に語りかけ続けたのではないだろうか。

ほどなくして、秀人が千歳に会ってくれる頻度が、すこしだけ減った頃があった。たぶん、秀人は、その間、「その人」と一緒にいるのだ。

千歳は、かつて、秀人のほうから求められた。
千歳自身のなかで想いが育ったのは、そのあとだった。

もしも。千歳のほうから秀人を知ったのであれば。
秀人に近づくことができないけれど、秀人を知ってしまったのであれば。

今、千歳は秀人のとなりにはいないかもしれない。
そして、「その人」は、自分の力で、秀人のこころを、動かしたのだ。

そして千歳は、こっそりと心のなかで思う。
「その人」の存在は、秀人にとっても、きっと救いだったのだ。
恐れられた分だけ愛されるのが秀人だ。
平気だと飄々とマイペースに走りながら、秀人もひとりの人間だ。

強くて、恐るべき鳴神秀人。
そうではない本当の自分なんかではなくて、ただただ、自分そのものの姿を知ってくれている人。
「その人」は、秀人が本当にほしかった人なのかもしれない。

千歳は、秀人は千歳自身の小さなものさしではかれる人ではない、と思っている。

すべては、千歳の想像だ。

そして、秀人の二回目の転校とほぼ同時に、「その人」も転校したときいた。
「えっ、県立の!?」
そこは、湘南や横須賀や厚木の有名校とならび、神奈川県下随一の超一流高校だ。「その人」は、よっぽど優秀だったのだろう。今は外国暮らしの自分の兄が、途中で転学した、よく似た名前のもうひとつの高校名も頭もかすめたが、まあそれはいいだろう。





かくして、秀人はときどき、いや、頻繁に、アイスミルクをのむようになった。

「その人」が飲んでいたものだろうか。「その人」にすすめられたのだろうか。
この冬に、その冷たさを感じて、秀人は思い出すことがあるのかもしれない。
千歳はそうストレートにたずねることはないまま、秀人の大切なものを秀人ごと大切にしたいと思いなおしたのであった。

アイスミルクのグラスが、いつのまにか、からになっている。

「そろそろ出るか」

千歳はうなずき、二人ぶんのメットを手に提げている秀人のあとを追う。
ひらりと伝票をつかみ、すたすたと歩く秀人をあわてて追いかけ、自分の分の小銭を、秀人の手にわたす。

喫茶店の外には、純白と鈍色に輝くバイク。ある人はまったく関心なさそうに通り過ぎ、ある人は驚嘆の声をあげながら過ぎていく。ある人はじっと眺め回したあとハっと何かに気がついて足早に去っていく。


もう一度、千歳は考える。

もし秀人に巡り会わなければ。
もし秀人と出会いかたが違っていれば。

私はこのバイクに興味をもたず通り過ぎたかもしれない。
私は「その人」みたいに、自分から、勇気をふりしぼって、秀ちゃんにぶつかっていくことはできなかったかもしれない。

会計を待ちつつ、千歳は、そんなことを考えながら外のようすを眺めていると、秀人に先に出るように促されたので、こくんとうなずいて、扉をおして外に出た。

骨太だけれど、千歳にとっては、なんだか”上品”にも見える、秀人の愛機のそばに、そっと立つ。触れないように、少しだけ距離をおいて。千歳はバイクについて詳しいことはわからない。でもきっと、「その人」は、秀人と、この愛機についても、わかりあえたんだろうなと思う。

うらやましいなんて思っていない。
ただ、千歳は、秀人がいつかまたその人と走れるように、願っているのだけなのだ。

カランと扉がひらき、彼氏が出てくる。

「わりーな、寒くなかったか?」

千歳の長い黒髪をふわりと手でとかす。数分のあいだのことすら、千歳を気遣ってくれる秀人。大丈夫ですとふわりとやさしい笑顔をみせる千歳のチェックのマフラーを秀人がくるくるいじり、そのなかに、秀人が何かをぽんとほうりこんだ。

「・・・・・・?え、何?何?」

あわてて、首の後ろに手をまわし、マフラーのなかをさぐる千歳。
細いゆびに、何かがぶつかる。つかんでとりだすと、

千歳の飲んだ紅茶一杯分よりやや高い、色とりどりのキャンディー。千歳がずっと気になっていたもの。かわいいリボンで包装されている。
かわいい……!と、鈴のような、小さく煌めく声で驚きと感歎の声をあげて、

「ありがとう……」
と精一杯の言葉と声で伝えた。

千歳はコートのポケットにキャンディをそっとしまった。しばらく食べられないだろう。もったいなくって。秀人はすでにバイクにまたがっている。あわててメットをかぶり、まだまだ慣れない様子で千歳もバイクのリアシートに乗った。メットごしに、くぐもった声で千歳は恋人に話しかける。

「秀ちゃん、また、飲もうね?」
「ん?」
「アイスミルク」

千歳の、淡いグリーン(秀人は千歳のためにピンク色のメットを買おうとしていたが、千歳は本当はこういう色の方が好きなのだ)のメットの頭頂部を、コツコツと秀人がたたく。

千歳が秀人の腰に腕をまわすと、バイクはためらいなく発進する。
千歳が一度も会ったことのない、「その人」。
紹介とか、そんなことはかまわないから、ある日、秀人のとなりに、千歳がみたことのないバイクが並んで走っているのを見られたら。
いつも大切な仲間にかこまれている秀人が、たったひとり出会えた「その人」と、また走れたら。

「その人」となかなか会えなくて、きっとすこしだけ寂しい秀人。秀人のそれが、また埋まる日がくることを。
そして、千歳自身も、秀人のひとつであることを。
ささやかな願いをこめて、千歳は、秀人の精悍な背中に、体をあずけた。

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