絹糸のような髪の毛だと、八尋は思う。
けしておおげさなたとえではないだろう。
あすかは、厳格な祖母から日本舞踊を教わっている。踊るときに地毛でゆいあげるためには、もうすこし丈夫な髪の毛がいいのだと言っていた。たしかに、不安に駆られそうなほどデリケートな髪だ。ひとまとまりになると漆黒になる黒髪のひとつひとつは、繊細な栗色。もうずっと、この子に簡単にふれられないかわりに、この髪の毛に幾度も手をとおしてきた。八尋の血と暴力にまみれた手は、あすかにふれることだけ、躊躇した。
"八尋先輩だけは大丈夫です"
か細く、弱々しく、確かにもっている芯を奥底に苦しそうに隠したまま、そう言い切ったかつてのあすか。
その言葉どおり、ときおり八尋はあすかを繊細な髪の毛に幾度となくふれて、守ることを誓ってきた。
そんなあすかは、ただいま、繊細なお菓子をつくるために、長い髪の毛をまとめあげている。
2月の半ば。朝は灰色の雲がこの海辺の街を覆っていたが、すこしずつ光を取り戻しているようだ。大きな日本家屋には、心地よい温度で暖房がきかされて、床暖房もしっかりとゆきとどいている。柴犬はどこかの部屋で、三毛猫は廊下であばれまわっているようだ。
ぞっとするほど白いうなじを、八尋はあらためてじっくりながめる。
けしてふれないとちかったあの日から、こんなに穏やかな冬をむかえられた。
この女の子を、いくぶん限られた場所のみではあるけれど、そばで存分に愛せるようになってから。
八尋の理性は、あっさりと決壊した。
「あ、あの、先輩・・・・・・」
白いうなじに、かすかにランプがともったように。
あすかのきめこまやかな肌が、ほんのりと染まりあがってゆく。
「もー火ぁつかわねーだろ?」
あたたかな部屋で、あすかとふたりだけ。
リビングダイニングキッチンには、このうえなく極上のかおりがただよっている。
それは、あすかの着ている質のいい衣服からかおるリネンの香り。
八尋の、海の香りの香水。
そして、この日にふさわしい、チョコレートの匂い。
そして、チョコレートをつくることに集中するには、いささかあすかの集中力がそがれてしまう状況だ。
あまりにも痩せてしまったあすかの肩を、八尋が、背後から抱きしめている。
まとめあげられた髪の毛にそっと顔をうめると、あすかのやせた肩がぴくりとふるえる。
うなじにふれることだけは、渾身の我慢でたえられる。
この刀傷をうけたときのいたみ、そしてこの子に取り返しのつかない傷を与えかけたときにくらべれば、この程度のがまんは容易であるが。
それでも、理性はあっさり決壊している。八尋の力強い腕は、今日も、あすかのことを包んでやまない。
そして、あすかも。
八尋のあたたかい腕に、ずっとこうされたいと思っていた。
心のおくそこでひかえめにのぞみ、願いつづけた、八尋の腕のなか。
自分にこんな欲と、わがままさと、ぜいたくさがあったなんて。
八尋に遠慮なくふれられて、そのあたたかでやさしくて、時々途方もないほど怖くて広い腕に触れられ、腕のなかにおさめられると、あすかの心がつぶれそうになるけれど、あすかはそれでも、耐えられることを知った。男の人はずっとこわかった。でも、八尋は違った。八尋に愛されたかった。八尋に強く抱きしめられたかった。自分のなかに、そんな欲がひそんでいたなんて。八尋はあすかのそんな愛らしいものまで、すべて包んでくれる。すべてを愛している。
でも今は。
「せ、せんぱい、あとちょっとですから・・・・・・」
まずは、八尋におくる手作りチョコレートを完成させなければならない。
あすかのことを後ろからますます抱きしめた八尋が、細い肩から、手元をのぞきこむ。細かい工程が多いはずなのに、ダイニングキッチンのうえは、きちんと片付いている。作業を重ねるそばから片付けてゆく。八尋が手を出す間もないほど、あすかの製菓技術、作業の手際、いずれも申し分なかった。かわいらしい皿のうえに添えられた、10粒のトリュフ。製菓や料理にうとい八尋からみれば、今すぐ食べられそうなほど完璧なしあがりなのであるが。
「もーできてんだろ?」
「こ、この粉、上からふるわないと・・・・・・」
チョコレートづくりの最後のしあげ。
あすかのふるえた手に、袋におさめられた粉糖がある。ちいさな網のような道具に粉糖をそそぐため、八尋の腕はすこし手加減された。
八尋が手元をのぞきこむたび、今日はひかえめにそえられた海の香りの香水が、あすかのそばで、あでやかにたちのぼる。八尋自身の香りとまざって、海の香りが濃厚になる。葉山の朝のような香り。
これまでだって、幾度も抱きしめられたことも、ふれられたこともある。
だけれど、こうなった今、八尋にされることのすべてが特別だ。
「手際いいよなあ、あすかぁ」
「そんなこと・・・・・・は・・・・・・。ありがとうございます」
謙遜より礼をいうことも、八尋から学んだ。
そもそも、バレンタインはこっそりチョコレートを作り上げて、八尋に控えめにプレゼントするつもりだった。
それが、八尋のほうから、チョコレートをつくるところからそばにいたいなどと請われた。いや、命じられたも同然だ。
あすかと八尋の距離が間近になってから、八尋のそばにいられるようになってから、八尋はあすかのことを変わらず守りながらも、そのまっすぐでストレートな欲を隠すことはない。
堂々と、あすかのことをほしがっている。
まっすぐ求められたら、うなずくのみ。あすかが本当に恐れることやあすかが本当にいやがることはすべて理解しているからだ。あすかはうなずくだけで、かまわない。八尋のほしいものは、あすかのほしいものでもあるのだ。
厳しい祖母のそばで家事や料理をまなんだあすかは、お菓子づくりもスムーズにこなす。少し腕はゆるんだものの、あすかは相変わらず八尋にとらえられたまま。でも、八尋の絶妙の気配りによって、あすかの手作りチョコレートは、無事完成となった。
「で、できました・・・・・・」
あくまで、あすかを抱きしめたままだ。
「すっげぇよなあ、あすかぁよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・八尋先輩・・・・・・」
そして、あすかは、だてに小学生のころから八尋と交流しているわけではない。
八尋の腕のちからがつよくなる。
海の香りが、燃えるようにあつくなる。
八尋のつたえたいことが、あすかに手に取るようにわかる。
「ここで、食べるんですね・・・・・・?」
「ああ。はらへってんだよ」
「先輩あまいもの好きですし・・・・・・こ、コーヒーいれますよ?」
あすかが少し身じろぎすれば、八尋の腕の拘束はかるくゆるんだ。あすかがふりむけるほどに。
あすかが、背後から見守っていてくれた八尋のことをかるくふりむくと、すぐそばに、おそろしいほど整った顔立ちがあらわれることに、張り裂けそうなほどドキドキする。食べさせろという八尋の願いをごまかすために、珈琲の提案をしたけれど、そんなあすかの願いをあっさりうちけしてしまうちゃっかりとした笑みは、あすかが最近ようやく知ったものだった
「くいてぇ」
「・・・・・・」
あすかの賢さも。あすかの有能さも。あすかの勇気も。あすかの心のやさしさも。八尋があらためて知ったものだった
「わ、私が・・・・・・せんぱいにって・・・・・・ことですよね・・・・・・」
他に誰がいんだよという憎まれ口を叩くのは、まだはやい。
あすかにまっすぐな欲をあたえども、あすかを嬲るようなコミュニケーションは、ちかってとらない。
あすかの真っ白なゆびさきが、ととのったかたちのチョコレートをそっととりあげた。
八尋のあたたかな吐息をかんじた。
八尋の端正なくちもとが、あすかのゆびさきからおくられるチョコレートを、そっと含んだ。
「うっめ・・・・・・すげぇな、これで食ってけんべあすか」
「そ、そんな、カカオからつくったわけじゃないですよ・・・・・・」
八尋のあたたかい軽口が、あすかの心をほっと穏やかにつつみこむ。
公正で、堂々としていて、凄絶な畏怖をたたえた八尋に、あたたかな茶目っ気があること。
「ありがとうございます・・・・・・」
その優しさが、あすかのことをこれ以上ないほど支える。
粉糖がまぶされたあすかの指先を、八尋がそっととった。
とたん、彼女の弱々しい脈が一気に速く打ち始める。
あすかの落ち着きをとるか。
八尋の強い欲をとるか。
こらえきれないことだってある。
あすかの真っ白な手首をそっととった八尋が、その青い血管に、きめのこまやかな腕の内側に、くちびるを這わせる。チョコレートをあじわったあとのくちびるが、あすかをたどる。
ずっと耐えてきたこと。ずっとこらえてきたこと。
ずっとあすかに触れたかったこと。
「怖くねーか?」
「ぜんぜんそんなことないです」
ずっと八尋に、触れてほしかったこと。
あすかの控えめな脈をたのしんだ八尋が、一仕事をおえたあすかの手をいたわった。
あすかのほっそりとした腰をとらえて、胸元にひきよせる。
一度触れてしまったら最後。
あすかのことをとらえてやまない八尋に、あすかもおとなしく抱かれるのみ。
「こんなお屋敷でよ・・・・・・ご先祖様のばちあたっちまう」
「おばあちゃん、出稽古にいってて・・・・・・」
2月の厳しい気候のなかを単車で出向いてきた八尋だが、分厚いジャケットひとつで寒気をしのいだ。その下は、こじゃれたカットソー一枚だけ。八尋のきたえられた胸板に耳をあてて、品のいいワンピースをまとったあすかは、質のいい生地越しに、そのあたたかさにくるまれている。
だけど、気がかりなのは、先ほどチョコレートをつくりながら湧かしていたお湯。すこし冷めてしまったかもしれない。
自分が丁寧につくったものを味わうことも、あすかは好んでいる。八尋にこまやかに気を遣いながらも、すこしのマイペースさもあるあすかは、八尋に抱き寄せながら、かわいらしいお願いを口にした。
「コーヒーとチョコレート・・・たべたいです・・・・・・」
「ああ、オレがやるよ」
「ありがとうございます・・・」
軽くあすかを解放した八尋が、慣れた手つきでガスコンロに火をつけた。ひとり暮らしの古いアパートのキッチンは全く稼働していないようだが、八尋はやればなんだってできてしまう。器用な作業風景をあすかだって観察したいけれど、あすかはチョコレートをかざったお皿だけ持って、おとなしくリビングにさがった。
ホーローのポットを直火で熱して、お湯がわく。一色海岸のちいさなコーヒーショップで焙煎された豆は八尋が差し入れたものだ。リビングに、なんとも芳しい香りがいっぱいにただよう。あすかは、珈琲をいれることだけは、すこしだけ苦手だ。八尋のように、これほどバランスのよいかおりをつくりあげることができない。
八尋の足音は、品がいい。あすかの家のなかで野蛮な音をたてることなんて一度もない。
厳かな足音が床暖房をふみしめて、あすかの待っているテーブルの前に、珈琲をサーブする。
リビングのこぎれいなテーブル。
白いクロスのうえに、ちょこんと置かれたお皿。
コースターが敷かれた。飴色のマグカップと、常滑焼の真っ白のマグカップ。これは、祖母が気を利かせてふたりのために用意してくれていたマグカップだ。
みけねこがかりかりとリビングのとびらをひっかいていたが、あきらめて眠ってしまったようだ。廊下には床暖房が入らないけれど、そのかわり、みけねこのお気に入りのベッドコーナーがある。ベッドにおかれているクッションを贈ったのは八尋だ。
遠慮ない手つきでチョコレートをつまみ次から次へとたいらげている八尋が、モダンなデザインのカーペットに手をついて考えあぐねる。
「なにやっかよ、おまえによ・・・・・・」
「?」
「お返しだよ」
「そ、そんな、いいんです。食べてもらえただけで」
それにいままでいっぱいもらってる・・・・・・。
ソファを背に、すっかりリラックスした様子の八尋。
そのそばで、やっぱり今も軽く緊張しているあすかが、すこしだけ寄り添ってみた。
そのかすかな愛に、八尋はあたたかく応える。
マグカップをコースターのうえにことりとおいた八尋が、あすかの細い肩をだきよせる。
真っ白の肌に、珈琲のかおりただようくちびるをよせて、うんと穏やかな声で、ささやいてみせた。
「わがままくれーいっちまえ」
「・・・・・・・・・・・・じゃあ・・・・・・」
マグカップをぎゅっとかかえたままのあすかが、到底八尋のことなんて見つめられる訳もなく。抱き寄せられるままにうつむいてしまったあすかが、ちいさくつぶやいた。
「その日もいっしょにいてください・・・・・・」
あすかの渾身の願いを、八尋があっさりと引き受けた。
まだまだ動揺はない。どんなかわいい願いもすべて想定ずみだ。
「むかえにいってやろーか、鎌女によ」
んでよ、一日中一緒にいよーぜ。オレんマンションでよ。
八尋が次から提案する甘やかな誘いは、あすかのことをひたすら混乱させてしまう。
「えっと、男子がこないように監視カメラつけたみたいで・・・」
「てってーしてんよな・・・・・・ま、安心だけどよ」
マグカップをぎゅっと手に閉じ込めたままのあすかが、すこし跳ねたような声をあげた。
「あっ!千冬さんたちに会いたいです!」
「ああ・・・・・・?千冬?んじゃまたクルマでどっかいくか・・・・・・」
照れや恥じらいから一転、あすかが口にした明確な願い。
千冬の恋人に懐きっぱなしのあすかだ。彼女に会わせてしまうと、あすかをとられてしまうのが八尋の懸念だ。八尋の知らないところで妙に楽しげなティータイムを幾度もかさね、ふたりで鎌倉を出歩き、すっかり親友か姉妹のように仲良くなっているようだ。千冬の恋人に、ずいぶんなかいいみてぇだなと軽く牽制してみると、千冬のそばで年月を過ごしてすっかり動じない心を育てた彼女は、そうだよ?と八尋の攻撃をあっさりはねかえした。
「ま、そいつぁ来週すぐにしよーぜ」
からになっていたあすかのマグカップをとりあげる。これから行うことには、マグカップなど、じゃまだ。ああと小さな声をあげてそのゆくえをおうあすかを、おもいきり独占して、真っ白な耳元でささやいた。
「来月はふたりだ」
まとめあげた後れ毛がこぼれてくる。
八尋の息がそれをそっと吹き上げてみせると、あすかが、か細い声で助けをもとめた。
「どきどきしないよーになりたいです」
「おれもよー、どきどきしてんだぜ」
「し、してないですよ・・・・・・」
そのとおり。
残念だが、生来動じない性分だ。
チョコレートのかおりがただよう、その愛らしい耳元に。
ずっと愛したかったあすかのすべてに。
八尋は、そっとキスをおくった。