千冬の暮らす古い一軒家は、すこし冷える。
鎌倉と逗子の境目。ここから歩けば、ものの数分で材木座海岸にたどり着く。
なんせ、風通しがずいぶん佳いのだ。
海のそばという立地に反して夏はくらしやすいけれど、秋と冬は、足下からゆっくり冷えていく。
ざっくりとしたロングカーディガンを羽織ったあすかは、温度変化を感じて少しだけ鼻をすすった。
古い階段。ぎしぎしと響く足音に気を配って、階下へおりてゆく。
階段下。
一階の廊下で、部屋着に着替えた千冬の母親があすかのことを待っていた。すっぴんの顔。真っ白でしみ一つ目立たぬ美しい顔立ち。切れ長の目のしたに、クマだけ目立っている。
すこし影のさした表情を、あすかが気がかりな顔で見つめ返した。
まとめあげた髪の毛をほどきながら、あすかに、あとはよろしくねとつぶやいた。
すっぴんになると、凍り付くような美貌が、ひどくかわいらしくなる。
千冬は、メイクをぬぐっても、空気がはりつめるような美貌のまままなのだ。いつかああして、いとおしい隙を身につけるのだろうか。
今日の千冬は、まるで、気を張ったネコだった。
千冬の母親の、ほっそりした肩が、よけい細く見える。
その背中を見送ったあすかは、千冬の自宅一回につくられている、スナックにおりたった。
休業日の看板が、分厚い扉にかけられている。
そして、古い一軒家の外にとまる二台のバイクが、この家を守る。
「あすかちゃん」
ひどく落ち着いた声。
琥珀色の液体とゴロリところがる氷で満たされたグラスをかかげた、その、精悍で整った容姿の青年。
店先で待っていた八尋渉が、あすかに向かってグラスをかかげた。
以前なら遠慮していたであろうけれど。
あすかは、床にたてつけられている作りのイス。
八尋のすぐそばに、すんなりと腰掛けた。
あすかの目の前には、同じ琥珀色の液体が満たされたグラス。
それは、八尋のたしなむ強いアルコールのお酒ではない。
あすかの店ではない、高級スーパーから仕入れている、少しリッチな冷たい番茶だ。
千冬の母親ではなく、八尋が準備してくれていたものだ。
その気遣いに諸手をあげて降伏しながら、あすかは遠慮なく、八尋のあたえてくれた気遣いに甘える。
「あすかちゃんの言うこともきかなかったか?」
「今日のは、ちょっとよくないね」
機嫌も、よくないみたい。
八尋の声は少しだけ沈んでいる。
あすかも、元気に欠けた表情で、力なくうなずいた。
二人のあげたトピックは、もちろん、あの少年。
千冬だ。
大きな転倒であったかわりに、骨に異常をきたすけがはおわなかった。
そのかわり、あの顔と体に、ややおおげさな外傷をおった。
病院には絶対行かないとごねた千冬は、部屋に籠城している。
その態度は子供じみているけれど、八尋とあすか、そして千冬の母親には、彼の抱える痛みが、苦しいほど伝わってくるのだ。
「顔にケガすんとな、ああなんだよ」
「うん・・・・・・。でも・・・・・・」
薄暗い照明が、あすかの手元をぼんやりとつつむ。
からからに乾いていたのどに、つめたいお茶をひとくち流し込んだ。
「でも?」
「ううん・・・・・・」
千冬さんのよさは、かわらないのに。
あすかがつむごうとした言葉を慎重に伺っている八尋に、そんな言葉を継ぐことは、なぜだかかなわなかった。
「きれいに治るとおもう」
「ああ、今までもそうだったよ。まさか千冬、あすかちゃんになんかゆったか?」
「八つ当たりなんかされたかったよ。ずっと、黙ってるだけ」
眉間に超皺よってたけどね。
そのほうがつらい。
言ってくれないときに千冬の気持ちを想像することがつらいわけではない。
耐えさせていること。
千冬の大事な部分がきずついていること、それがなによりつらい。
言葉にすると陳腐であるようで。
あすかはひとまず、ほんの少しの距離だけおいて、すぐ近くから見守ろうと決めたのだ。
「ボーリョクふるってねんならいっかよ」
「ないない、ぜったいないよ」
「千冬にな、オンナできたっていわれたときによ」
「オ、オンナ・・・・・・。うん」
「大事にしねえとここがとぶぞっっつっといたんだよ」
「あはは・・・・・・。不器用なだけで、一回も怖い思いしたことないよ。そーいうので、あたられたこともないよ」
そして、かみしめるようにつぶやく。
ぬれたくちびるで、あすかはしずかに伝えた。
「ずーっと、大事にしてもらってる」
エクステをはらった八尋が、あの頃より少しあかぬけたあすかの横顔をちらりと一瞥して、ウイスキーをぐいとあおった。
「自分のことも、大事にすればいいのに!!」
「してるつもりなんだよ」
「あーー、もう・・・・・・」
レースのコースターの上にグラスをことりとおいたあすかが、自らの黒髪をわしわしとかきむしった。いくら乱してもすとんと元に戻ってきてしまうそれを見守っている八尋のほうをきっぱりと向いたあすかが、八尋に伝える。
「八尋さんもそうやって心配されてるんじゃないの?」
この八尋に向かって、大胆なくちもきけるようになった。
八尋も、これくらい対等に接して貰う方が、ずいぶんラクであるのだ。
「どうだろうな」
八尋の分厚い胸板、その奥の、刀傷の向こう側に潜む心に、ちくりと痛みがはしる。
そんな痛みをこらえることは容易な彼が、なぜか突然、みずからの名字を呼んだ。
「八尋さん?」
「ん?え?なに??」
「オレだけ名前だぜ、めんどくせぇよ、名前で」
「はぁ?」
あすかがおおげさにゆがめた顔がおかしくて、八尋がふきだした。
いくらかリラックスしたようすで、短い背もたれに痩せた背中をあずけたあすかが、グラスをとりあげて、ほんの少しの照れ隠しをひそませて、はずんだ声で語り始める。
「でも八尋さんの名前、いい名前だよね。なんだろ」
「見た目に見合ってねーってか」
「むしろ見合ってるから。絶妙」
絶妙ねえ。
ウイスキーをいつのまにか飲み干した八尋が、ショートジャケットのポケットからとりだしたたばこに、スナック千冬ときざまれたシルバーのライターで、火をつけた。
「あの子は、名前でよんでるよね」
「よばせんのによ、ずいぶんかかったな」
八尋が、しみじみとつぶやいたその短い言葉に、いかほどの想いがつまっているか。
八尋のバリトンでのわずかひとことで、あふれんばかりの想いを悟ったあすかは、かわいいなあ・・・・・・。
そうつぶやくしかない。
あすかは、あのおとなしい少女と八尋のあいだに、どんな物語があったのか。どうやって心を通わせあったのか。
いまだ知らない。
千冬にきいた、ほんのすこしだけの物語。
デリケートなはじまりを、あすかは、耐えきれずにさえぎってしまった。
できることはただひとつ。
大切にすることだけ。そう思い知った。
「あっ、でも千冬さんも、ときどき名字だよね?」
「ああ、あれぁな、しめしつかねーっつってよ。千冬ぁな、オレんこと、ふたりんときしか名前よばねーよ」
「そういえば、そうかも・・・・・・。それなら、なおさらあたしはこのままでいいよ」
「まぁ試してみろよ。でもよー、サンづけだとよ、ヘンだよな」
「クンでもへんだよ」
じゃあ、呼び捨てか・・・・・・。
あすかがそうつぶやくと、八尋は、かまわねえぞと言わんばかりに、片目をとじてみせた。外国人男性のような瀟洒で小粋なその仕草に、かすかに耳を赤くしたあすかが、
渉。
そのなまえを、ためしにつぶやいてみようとしたとき。
「オレもまだ、名前でよんでもらってねーんだぜ!!」
清廉なアルトに、怒気が滲む声が、スナックの反対側から響いた。
「ちっ!!千冬さん!」
あわててたちあがったあすかが、壁を支えにしてよろよろと近づいてくるその頼りない体をささえようとしたとき。
千冬の体は、あっさりと二人のすわるエリアに到達しあすかの腕をつかんで、八尋のそばからひきはなす。
クックッと笑いながら二杯目のウイスキーを楽しむ八尋を、猛獣のようににらみつけた千冬が、ふたりのあいだにむりやりわりこんだ。
「千冬さん、寝てなくていいの?」
「いいじゃねーかよ、名前くらい」
「やっぱよくないよ、特別だよ。あたしは八尋さんってよぶから。ね、いいよね、千冬さん。大丈夫?」
きげんなおった?
あすかのストレートな言葉に、八尋がたまらずわらいだした。
己より精神年齢の成熟しているふたりにたしなめられてしまうと。
「おい、オレんことガキあつかいすんじゃねえ」
「はい、千冬さん冷たいお茶」
さきほどやけなかった世話を焼き始めるあすかに抵抗したいが、上半身に負った傷は千冬の体力を奪い、抵抗力も弱まっていく。
千冬のアルトが地を這うようにうなったところで、あすかにもはや効果はない。
こんなケガ、適当に温泉ででも癒やしてしまいたい。
そんな牧歌的なことを思案した千冬が、八尋の肩に肘をおいて、甘えはじめた。
千冬のすんなりとした甘えが生まれ始めれば、それは千冬のこころとからだが回復の一途をたどりはじめたあかしなのだ。
「渉さっさと箱根つれてけよ」
「治ったらだよ。まず治せ」
「そう!それじゃ温泉もはいれない」
あすかの肩を抱こうにも、肩におったキズが痛む。
あすかが千冬にぴったりとよりそって、整った顔をのぞきこむ。頬に貼り付けられたばんそうこうもそろそろ用済みだろう。
「いいの、千冬さん。くっついてるから」
「オレぁじゃまか?千冬」
「名前で呼ぶなよ、渉んことぁよ」
「よばないよー。よんでいいのはあの子と千冬さんだけ」
「んなことねえよ、あすかちゃんはかまわねえぜ」
「くどいてんじゃねえ」
「どこがくどいてるっていうの。あのね、くどき上手ってお酒があってね、くどくっていうのは、告白する事じゃなくてね、」
立ち上がった八尋が、あすかと千冬にふるまうお茶を準備するため、キッチンにまわった。
千冬に、すこやかな熱をおくるため、あすかはぴったりとくっついて、千冬のこどもじみた語りにいつしか耳をかたむけている。
ぼんやりとしたあかりの下。自らのまわりにあつまる、ささやかだが力強い光をたよりに、立ち上がるための時間は、三人を、みるみるうちに満たしてゆく。