枝は、いまだ、冬のままであった。

雲一つない蒼紺の空に、影のように伸びる枝。
そこからさらに細くわかれて、先端でいまだ、桜のつぼみはぎゅっとかたくとじられている。

スプリングコートのポケットに手をつっこんだまま、自らに降り注ぐ枝の下に立ち尽くし、桜の木であるはずの寒々しい大木をみあげているあすかのそばに寄り添ったカズは、いまだ咲き誇らぬ桜とあすかをみくらべておろおろと言葉を探し続けている。



海の公園。
舗装された遊歩道に、海からの強い海風がふきつける。

まだすこし肌寒い気候であるなか、カズのバイクのリアシートに慣れたようすであすかは飛び乗る。ずいぶんにぎやかなマフラーの音もあすかの身体に馴染み切ってしまった。

八景島を横目に、カズのダブルアールは福浦からシーサイドラインに入った。
とおりすぎるなかでみつけたどんぶりやのメニューにギラギラとしるされたえびやかきあげ丼という名前は、あげものを好むふたりには垂涎のお店であった。しかし、1200円以上という値段に負けてすごすごひきさがったカズとあすかは、海の公園柴口のむかいのファミレスで、身の丈に合った昼食をとった。そしてファミレスの駐車場に単車をとめたまま、あすかがすすんでカズの手をひいて、海辺へ続く階段を下り、遊歩道におりる。

あすかのクラスメイトに教えてもらった情報は、海の公園も隠れた桜の名所であるということ。
シーサイドラインを走り抜けて、野島公園までいってしまえば桜はいやというほど咲いているはずだけれど、その手前の海の公園も、この季節の風物詩、桜が楽しめるという。

そして、人工砂浜をへだてて、遊歩道沿いの並木を、あすかは確かめてみる。

もっとも、カズとタンデムをしているうちに、うすうす悟っていたのだ。

海辺の道は、まるで墨絵のように色味がかけていたことを。
それでも、自分の目で確かめたかった。

海の公園に、人は少ない。
それもそのはず。


桜は、いまだほとんど咲いていないからだ。


スカジャンにまもられ適度な体温をしっかり保ったカズがあたたかい体で優しく寄り添ってくれるから、海風のなか、あすかはひとつもさむくない。なにやらそばで懸命になぐさめてくれるカズのことばに曖昧にうなずいたあすかが、惚けたように、冬の名残の木を見上げた。


JRの駅から港が丘高校へ通う道沿いに咲いている桜は、すでに満開だったのだ。
確かに、昨日のローカルニュースでは、いまだ金沢八景の桜は咲いていないと語っていた。

でもきっと、大丈夫。

そんな過信は、やっぱり根拠のないものだった。


「……はやかったねー……ごめん……」
「あ!!あすこ咲いてんよ、いってみよーぜ?」

ずり落ちかけていためがねを中指でくいとあげたカズが、あすかの手をひいた。

確かに、いまだ春がおとずれぬ木のなかに、一本だけ花をさかせている桜がある。

シーサイドラインの海は、あすかが普段接する海より、なぜだか、暮らしの匂いがする。
よそゆきに整えられてゆく過渡にある海なのに、人のにおいがする。
あすかの親しんだ油くさい海じゃなくて、生きもののにおいが漂う海だ。

カズの背中について歩きながら、見慣れない海に想いをはせていれば、いつしかあすかは、濃厚なピンク色の下にいた。

薄紅色の桜や、白に近い色の桜が好きだけれど、
花びらが分厚くて、そこかしこにくっついていて、濃い水色の空のなか、まけじと主張するショッキングピンクの桜。

真っ青な空に、この濃いピンク色がけして悪くない。
自分のなかに生まれた新鮮な感覚をよろこんだあすかの姿に、カズが胸をなでおろした。

「どうしてこれだけ咲くんだろ。日当りなのかなあ」
「ここも他と変わんねーけどな?」
「じゃあ、種類かな?」

左右の木々と較べようとも、植物の知識なんて備わっていないふたりは、首をかしげるだけだ。
そしてカズの手をぎゅっと握りなおしたあすかが、まばらな人通りを指摘した。

「人いないわけだねー」
私のせい!

あすかが、自分のはやとちりを認めてけろっと笑った。
カズは、あわてて、コイツきれーだべ?なんて、植物を美しいと感じるために、日ごろ使わぬアンテナを懸命に立てて、自分のミスだと言い切るあすかのフォローにまわる。

そんなカズの優しさをやんわりとしずめるために、海風で乱れる前髪をととのえなおしながら、あすかが質問した。

「ランコーも咲いてるの?」
「だーれもみてねーけどな」

ランコーの裏庭には、桜が均等に植えられている。この季節、裏庭のあちこちで桜がザンと音をたてて咲きはじめて、それはまるで花園と言ってもいい。

その桜も花が朽ちはてる季節をむかえてしまえば、ケンカに負けて木の幹にだらりと体をあずけ気を失っている者。この学校の競争に敗北しかけて虚ろに俯いているもの、あるいは恋の花を咲かせて中庭を歩くヤンキーカップル、花が去ったころにはそんな光景がみられるものの、不思議と、桜はすべてを追い払う。この時期だけ、あの中庭は、しんと静まり返り、桜だけのものとなるのだ。

でも、あのしずかな桜の下に、平然と突進するものもいる。
それはカズの属するチームの頭であったり、ランコーに新たな価値観をもたらしたものであったり。
そしてカズ自身も、ささやかながらその一端なのかもしれない。

「でもよー、このまえよ、拓ちゃんと飯くったぜ」
桜ん下でよ!!

その名前は、港ヶ丘高校に通うあすかもよく知った名前だ。
もっとも認識したのは二学期の終わり間際であったが。

「浅川くん!元気なんだ!」
「ああ、元気だよ」

桜の木の下に二人で突っ立ったまま、あすかは、カズの近況報告に耳をかたむける。
それは実に軽妙で、すんなりと理解しやすい説明であった。カズとカズの周囲の人々に起きた、92年の冬の激動。それを乗り越えてこうして今、ふたりで、たったひとつの桜の下で寄り添えている。

しかし、そんなやさしいカズにふさわしいのはたった一本の桜より、カズを華々しく出迎えるような、より多くの桜並木だ。そう決めつけたあすかが、そわそわと提案をはじめた。

「称名寺いこうか?」
「元気だねあすかちゃん……」

かすかにキズののこる口元をおどけるようにゆがめたカズが、あすかをたしなめる。
つながれた手をほどき、カズにぎゅっと腕をからめたあすかが、来た道を戻るためにカズを導き始めた。

「柴口までもどろ!」
「おれはいいよ、ここで」
「そう?」

あすかの華奢な力では、カズのがっしりとした体はびくともしない。
気が急いているあすかを落ち着かせるために、カズが、あすかに穏やかにつたえる。

焦らなくても、ここでかまわないことを。
ふたりだけで過ごせる時間には、このひとつの桜だけで、充分であることを。

雲一つない空は、まるでプレゼントだ。

濃いピンクの桜は、こどものころにべったりと使った絵の具よりも濃厚で、空と花が、これでもかと主張しあったあと、不思議ととけこんでゆく。

もう一度桜をみあげたあすかが、カズと腕を組んだまま、ひざしの眩しさにきゅっと目をほそめた。

前髪をちまちまと直してから、あすかに海風がひとつもあたらなかったのは、あすかを守るように立ってくれているカズが、風をずっとさえぎってくれているからだ。

そそくさと反対側にいこうとすると、カズもそそくさとあすかの行動をくいとめる。

そんなことをくりかえして、ふたりしてわらった。

カズがケンカでまげてしまっためがねのフレームは、いまやきれいにもとどおりだ。細かいことにこだわらない性格で、メガネがどれだけ破壊されようと平気な顔でそのままにしているカズをむりやりひっぱってめがね店に連れ込んだあすかが、カズが快適に毎日を過ごせるように、めがねの修理をさせたのだ。

めがねをなおしたカズには、目立ったケガもない。

目立つ傷ひとつないすがたで、今年もこうして、一緒に春をむかえられた。

春は不安だ。落ち着かなくて、こわい。
周囲の友達からそんな声を聞くことも増えた。
来年には受験を迎えるのだから、未来に不安を抱くのも当然であろう。

でもあすかは、新しいものをおびえる気持ちなんてひとつもないと自信をもって言えるのだ。

あすかだってかつてはそんな性分だったけれど、カズがついていてくれるから、不安になったときにはカズがその優しい顔にへらりと笑顔をうかべてあすかのことをすんなりとみとめてくれるから、あすかはどんな季節だって元気になれる。

「カズくんがいいっていうなら、いーんだけどー……」
でも、さみしいなあ。ここだけ。

満開の桜をカズにあげられなかった後悔は、あすかのなかにいまだのこる。
あすかがカズの腕にぎゅっと寄り添おうとしたとき、その精悍な腕は、あすかのもとからやさしく離れた。

そして。

「人いねーからよ……」

不思議そうな表情をうかべたあすかが、カズのことを振り返るまえに。

「こーゆのもよ、できんべ」

カズは、あすかの細い体を、後ろからぎゅっと抱きしめる。
桜とは違う花のにおいのコロンの薫りがたちのぼるあすかの首筋に、フローラルの薫りただよう髪の毛のすきまから顔をうめる。
その瞬間、コロンは強いにおいをおびて甘くたちのぼり、カズはめがねごしにぎゅっと目をとじてその甘いにおいを味わう。

いきなりしがみつかれたあすかの、ほっそりとした体がぐらりとゆれたので、カズはいっそう慎重にあすかを抱きしめる。

「……」
「……」
「こ、これは……?」


それはもうお互い、照れと緊張で、これ以上まともな言葉なんて出て来やしない。


どこでおぼえてきたの。

なんて、かわいくない言葉があすかの口をついて飛び出しかけたけれど、それは静かに桜のなかに消えてゆく。

スカジャンにつつまれたカズの腕が、極端に身長差があるわけでもないあすかのことを、ぎゅっと抱きすくめている。

こんなとき、お互いがどんな顔をしているかなんて、カズもあすかも知る由もない。

「……やだったか?」
「す、すごくいいです……」
「え、いらねーってこと!?」
「ち、ちがうよ!!これが好きってことだよ!」


そして、人がいないというけれど。

海の公園の遊歩道。こざっぱりと整備されたここは、意外に人通りがあるのだ。

マイペースに散歩する老夫婦に、
犬の散歩をさせる女性。
そして、マイペースにマラソンの練習にはげむ老人。

彼らは、あすかとカズのことなんて気にしていないようだけれど。


そして、このシーサイドラインの夜の顔も、カズはいやというほど知っている。

カズに抱きしめられることに十数秒でなれたあすかが、めざとく、桜の木の根元にそなえられた機械をみつけた。

「ここライトアップされるの!?夜桜、見……」
「け、けーんべ!!な、あすこ!本牧いこーぜ!ホットドッグくお!」
「……?う、うん……」

そんな夜に、あすかを巻き込むわけにはいかない。
海の公園の夜は存外早くはじまり、ここは横須賀のものも走りにくるエリア。ここに集う族の質はタチがわるい。カズひとりではあすかを守り抜けないかもしれない。


当のあすかは、はずみでカズが離れてしまったことを寂しくおもいながら。

「じゃ、もーちょっと見て、本牧移動しよ」
「ああ」

カズの腕にぎゅっと寄り添ったあすかは、腕をつかみ、カズの体をわざとぐらぐらとゆらしながら、まだ始まったばかりの桜をもう一度みあげた。


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