闇夜に鈍く煌めくハーレー。
分厚い刺繍が入った漆黒のコート。
生まれ持った輝きかと惑わせる金髪。
一縷の隙もないメイク。

千冬が魔法のように施す装飾や装置に幻惑された連中は、どいつもこいつも表面しかみていない。

連れてきた男も女も一様にまごつくのは、鎌倉と逗子の境目の町の湿った路地のかたすみに建つ、この古い家だ。逗子の一等地や葉山、あるいは七里ガ浜や鎌倉山にでも住んでいると思ったのだろうか。

千冬はこの家を、ずいぶん気に入っている。そんなしれっとした態度は、ますます相手をまごつかせた。
家の前に立つ桜は、艶やかにはなひらいている。手入れは面倒くさいが愛着もないではない。ボクサーパンツ一枚にシャツをはおった千冬は、たばこの煙を吐き出しながら、すきでもきらいでもない桜をしずかな瞳で一瞥した。

春のやわらかな空気を招き入れるため、そしてたばこの煙を逃がすため、古い家の窓を少しあけてみる。
カラカラと音をたててあいた窓から、意外につめたい風がしのびこむことを感じた千冬は、すぐに窓を閉ざしてみせた。


千冬の部屋。
窓のすぐそばのベッドの中で、ぐったりとまいっているあすかは、いまだ一糸まとわぬすがたであるからだ。


「あすかー……デージョブかよ?」

千冬の愛用の枕に顔をうめたっきりのあすかは、そのまま顔をあげることなく、少し頭を上下にうごかしてみせた。うなずいたつもりなのだろう。
剥き出しの肩が、毛布からのぞく。そのまま布団をかぶってしまう。

たった今、千冬の部屋のベッドにぐったりともぐりこんでしまったあすかは、この家に当たり前のようにおとずれて、千冬のことを、あたりまえのようにうけいれた。
もっとも、あすかのなかにも相応の戸惑いはあった。その戸惑いは、じつに甘く、切ないものだった


こうして剥き出しのすがたで睦みあうのは、ほんの数度目のことだ。下着を身につけた千冬は、そろそろあたたかくなる時分だというのにまだ交換していなかった冬用毛布にくるまりじっとまるくなっているあすかを気遣う。

千冬の部屋のベッドの下におちているのはあすかが身に着けていた下着。千冬がはぎとったそれは、シンプルで、スポーティなデザイン。彼女によく似合っている。
ベッドに腰掛けた千冬は、毛布の上から、彼女の頭らしきものをぽふぽふと撫でる。

「……」
「あすか、まだ痛かった?」
「……今日、ぜんぜん痛くなかった……」

毛布からごそごそと頭をのぞかせたあすかが、ぼんやりとした目をみせて、か細い声でぽつりとつぶやいた。

「そうなの?泣いてただろ?」
「泣いてないよ!」

あすかががばりと起きあがると、乱れた黒髪がくしゃくしゃにはねて、胸元もまるみえだ。
はっと気づいたあすかが、またも布団をかぶってもぐりこむ。

「たばこへーき?」
「へーきだよ……」
「毛布、あつくねーの?」
「あつくない……」

千冬の部屋で、あすかははじめて抱かれた。
そんな現実にいまだ頭がついてゆかぬあすかが、毛布からすこし這い出して、とろんとした瞳で、千冬の枕に頬をおしつけてみせる。

たばこを灰皿におしつけた千冬があすかのそばにもぐりこむ。
ちまちまと壁際により、壁の方を向いてしまったあすか。まだ下着を身につけていないあすかのむきだしのからだを、背後からそっと抱きしめた。
さらさらの黒髪をかきわけた千冬が、汗がかわききったあすかの首筋に顔をうめる。


「大丈夫か」


裸の体を抱かれていることを、すこし不安におもいながら、いつも以上にやさしい千冬のそのことばに、あすかはしずかにうなずく。

「あ、あの、ちふゆさん」
「何」
「千冬さんは、こういうのを……がまん、してきたの?」

あすかの身体をぎゅっと抱きしめていた千冬が、呆けたような顔を見せる。
精悍な腕はあすかからそっとほどかれて、いまだ壁際を向いているあすかの黒髪を、さらさらと手に取り始めた。

「夏、終わり……だよね」
「ん?あすかと付き合い始めたの?そーだナ」
「えーと、冬で……もう、春」
「ああ」
「ずーっと、キスとか、だけで……」

枕は、あすかに与えている。あすかの髪の毛をもてあそびながらマットレスに肘をつく千冬が、あすかの言葉のまま思い返し始める。
思えば、体に触れ合いながらじゃれることもなかった。
深いキスは何度も与えたけれど、あとは、かたく抱き合うだけ。

あすかが、ぎゅっと体をまるめてみせる。クリスマスイブにはじめて体を重ねてから、あすかの体とこころを、千冬はいつも、優先してくれた。あすかはそれを、当たり前のように扱い、千冬に甘えきっていた。


「夏終わってからじゃないぜ?」
「??夏だよ」


あすかがはたと振り向くと、千冬が、腕のなかに抱き寄せた。千冬の胸のなかで彼のことをみあげるあすかが自信満々につたえる。
あすかが千冬を好きになったのは、あの夏の日のことだ。

千冬は、あすかに穏やかな声でつげる。
くるくるとカールした千冬の髪の毛が、あすかの頬にそっとふれた。

「もっと前」
「?」

何のことやらわからない。
怪訝なようすで眉間にしわをよせてみせるあすかの、すこし疲労がにじむ目元に、真紅のルージュをそっと寄せてみせる。

「一目惚れだよ」

は?と短くたずねかえすあすかのその言葉には、色気や媚態のひとつもない。
ただただ、千冬が何を言っているのかわからない。そんな意志にみちている。

「オレぁな、ずーっとガマンしてたんだよ」
「……?」


一目惚れ。
あすかには、無縁の言葉であるはずだ。
千冬が一目惚れというからには、あすかに関係のある言葉なのだろうか。
あすかが、夏から春にかけて千冬と自分自身のあいだに起こったできごとを、走馬燈のごときはやさで思い返す。

どう思い返してみたって、そんな言葉はあすかに無縁だ。

「あたしのこと、一目みたことなんかないよね?」
「あるんだよ、オレはな」
「い、いつ!?」
あたし千冬さんにはじめて会ったの……。 

意外に広いベッドのなかでコロコロところがりながら、あすかは指折り数える。
長い前髪をかきあげた千冬は、冷静な瞳であすかの回想を見守っている。

「やっぱ、去年の夏だよね?」
「……」
「もっと前に会ってた?」
「一中だよね?あたし付属中だし……」

学区がぎりぎり違っていれば、遠くもなく近くもない距離にあるふたりの自宅とて、交わることなんてほとんどないのだ。
ニヤノヤとわらっている千冬が、中学なんかほとんど行ってねえと吐き捨てた。

その冷たい瞳。
あすかを見守ってくれる冷たい瞳。
このつめたい瞳がこわかったことなんて、あすかは一度もない。
そして、この冷たい瞳を知ったのは、正確にはいつだったか。

千冬の鍛えられた腕が、あすかのことをぎゅっと抱き寄せる。吸い付くような質感の千冬の胸に頭をあずけたあすかが、ぽつぽつと語り始めた。


「あたしはね、千冬さんのことを、噂だけでしってた」
「噂?」
「というか、うちのお母さんが、あのお店に、あすかと同い年の子がいるよって言ってて」

それはいつだっただろうか。
あすかは、いつ、千冬の存在を認識したのだろう。

「ちゃんとおかあさんのおてつだいしててりっぱだよって、いってたよ」

伝聞で褒め言葉を聞いた千冬が、わざとらしくわらう。
それに照れもふくまれていることを、あすかは知っている。

「あとはうちの店にくるお客さんが、あのスナックには息子さんがいてーって、いうお話してたよ」

千冬にその続きを促されるまえに、少しかすれたノドを整えたあすかが、続けた。
千冬の真っ白の指が、あすかの黒髪を何度も梳いている。

「すごく、きれいなひとってみんな口をそろえていうの。あの時々電話で話す、あの声の人かなってね」
思ってたの。

清潔なアルト。
つっけんどんな口調。
それでも、語尾はきちんと丁寧な言葉でしめくくってくれる。
ラフだけど、きっと、雑じゃない人だ。
それは、あすかの予想していたとおりであった。

「で、オレんことみたときどうおもったの」
「初めてあったとき?」

どうこたえるのが正しいのだろう。
この世の真理をひととおり悩み切って自分なりの答えをしっかりと持っている千冬に、あすかの平凡な物差しは通用しないのではないか。そんな怯えは今もあれど、やっぱりあすかは、千冬のまえで正直でいるしかない。

だから、あの日、一目見て思ったことを、正直に答えた。

「きれいな、男の子だなって」

あすかをみおろす千冬の瞳に、やさしさが滲む。
そして穏やかにひかりはじめる。
あすかをいつでも守ってくれる瞳のまま、千冬は、あすかの話に耳をかたむけている。

「あたしは、一目惚れ、だったのかなあー……うーん……」

一目惚れなんて言葉で括るのは、抵抗があるのだ。
簡単だったのか、簡単ではなかったのか。
一目惚れと呼べるものなのか、そうではないのか。

「違うのかよ、泣けてくんな……」
「気づいたら、じわじわすきだったの」

気付けば、あすかの光となっていた千冬のことを、いつすきになったのか。
それは一目惚れであったかもしれないし、時間をかけて育てていたのかもしれない。

「最初はねー、電話かかってくるのが、うれしくて」
「あすかすっげー疲れてたよなぁ」
「ご、ごめん……お取引先にとる態度じゃないよね……。千冬さんが電話くれるの、声きけるのすごくたのしみだった」

そこまで語り切ってみて、思う。
やはり、あの夏まで、あすかのくらしに、千冬の影は存在しなかった。

「うーん……」

あすかが少し身じろぎをみせると、千冬が彼女のからだをますます強く抱きしめる。
もぞもぞと動きながら、あすかが千冬をみあげて、結局突きとめられなかった答えをたずねる。

「ね、やっぱ、夏だよね?」


教えない。


懸命に生きるあなたの美しさを知ったときのことを。
電話口に聞く、すこしハスキーな声が楽しみであったことを。
オレのことを。この家のことを。
オレのすべてを知っても、ずっとそのままでいてくれたあなたのことを。


あなたより先に、あなたを好きだったことを。

まだ、千冬は、あすかに教えない。



「渉ぁよ、あすかと初めて会ったとき、物おじしない子つってたよ」
「えー、そうなの?どこがだろ!」
物おじしてんのにね!

自分のことを笑い飛ばして見せるあすかの前髪をかき分けて、千冬がそっとキスを落とす。
そのキスをおとなしくあびたあすかが、千冬の盟友と初めて会ったときのことを思い返す。その時抱いた印象は、今もしっかり覚えているのだ。

「あたしはねー、八尋さんとはじめて会ったとき、かわいいなって思ったよ」
「あすかさ……」
「だって子猫とか手懐けてるしね!」

千冬のくちびるが、あすかの目元におりてくる。鼻先をたどって、しみひとつないすっぴんの頬を、丁寧にたどる。
千冬の精悍な背中に腕をまわしたあすかが、耳元で、つややかにささやいた。

「千冬さんとはじめて会ったとき……」
「うん」
「……一目惚れじゃな……」

千冬が、あすかのくちびるにたまらずかぶりつく。


一目惚れじゃなかった。
あなたをすきになることは、きっと、決まっていたことだった。


そんな言葉は、千冬のなかに艶やかにのみこめれゆく。
千冬のあでやかな指先が、あすかのあたたかな体を、じっくりとたどり始める。

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