「披露山、行かれたんですか……?」
「単車で通りがかってよ、外から見ただけだ。五分咲き、だったかよ・・・・・・」
「これからもっと、きれいになりますね?」
披露山・・・・・・。

披露山。それは、逗子の高級住宅地。
あすかの通う鎌倉の女学校にも、その町から自家用車で通学している生徒がいるはずだ。いまだおとずれたことのない町、見たことのない桜を想像したあすかは、八尋の話に、瞳をかがやかせて耳をかたむけ、じつに興味深そうにしずかな相槌をうった。

ベッドに腰をおろして、きれいにみがかれた窓枠に肘をついている八尋は、まだみぬ桜を想像してそのおとなしい表情に確かな生命力をにじませたあすかを眺めて、実に穏やかにわらった。ほんのすこしだけ開けた窓から、春の終わりのの気候にも近い、あたたかな風がすべりこんでくる。その風があすかの頬をなでたとき、八尋のおだやかな笑みは確かに自分自身におくられているのだと、そんなことをあらためて自覚したあすかが、少し背筋をのばして、桜のつぼみのように微笑んだ。



あすかのベッドの上には、八尋のジャケットがばさりと脱ぎすてられている。
4月が始まったばかりの陽気のなかで、真冬とかわらないジャケット。
それを選んだことに八尋は後悔を抱いているようで、高級な素材のシャツのボタンは2つ目まで開いている。
胸元にきざまれた傷跡がぎりぎり見えないところまで。
もっとも、あすかはもう、その傷のことを知っているから、おびえたりしないのだ。

今も強くなんてない、八尋に頼ることが多い自分だけれど、そんな自分を受け容れ、認めて、少しの勇気をもつことを、あすかはこの一年で学んだのだ。



八尋が投げ捨てたそのジャケットをあすかがあわててひろいあげてハンガーにつるそうとすると、やわらかい仕草でとめられた。
そいつは、そこにいるのがちょうどいいんだ。
八尋のそんな言葉に首をかしげながら、あすかはあわてて取り出してきたハンガーを、クローゼットに素直に戻した。


少し模様替えしたあすかの部屋。
窓辺に置かれたベッドには、くりぬかれた窓がある壁とベッドの間に、すこしのすきまが存在する。そこに腰をかけた八尋はあすかがこまめに清掃している窓枠から、中庭に堂々とそびえたつ桜の大木を満足そうにながめている。

さきほどまで、あすかのベッドの上でわずか数十グラムのダイエットに成功したがあっさりとリバウンドしてしまった三毛猫が遊びつづけていたけれど、4月の休日の昼下がりをただ静かに過ごし続けるふたりに業を煮やして、階下へおやつをねだりに消えた。
柴犬は、あたたかいひざしのなか、八尋のバイクのそばでおとなしくねむっているはずだ。

「立派な桜だよなあ…手入れぁ業者?」

こくりとうなずいたあすかは、ほんのすこしだけ八尋のそばに寄り添った。
あすかの部屋の目の前まで届く桜。
ソメイヨシノは、数日前まで、まだ全力で咲くことはなかった。

「昨日満開になった気がします」
「そうか、タイミングよかったな」

もう一度、あすかがしずかにうなずいた。
ちいさな頭がひかえめに上下するすがた。そのときながれる、長い黒髪。
それは、八尋がもっとも大事にするもののうちの、ひとつだ。

その長い髪に触れて遠慮なく撫でてやりたいけれど、八尋が己に誓い続けてきたこと、そして、あの冬の朝を経て、八尋の獰猛な指先は、この繊細な黒髪の前であえなくたちどまる。


あの朝あすかの祖母は、特攻服姿の八尋がこの家に出入りすることをかたく禁じた。
もとより、AJSのてっぺんとしてここにたどり着いたのは、あれが初めてであったのだ。

八尋がすべてを見失い、己を築き上げてきたものすべてをかなぐりすててあすかにすがったことなど、あれが初めてであった。

そして、実家とのやりとりや抱えていた問題すべてを片付け、いつも通りの姿であすかのようすを見に来た八尋をすんなり認めた祖母は、彼をこの家に今日も黙ってとおした。

あすかは、そんな八尋のそばにちょこんと腰をかけて、自室の窓辺から、庭の桜を八尋のそばで鑑賞している。

広めの窓枠にはグラスひとつ置くスペースがある。

つめたい紅茶でのどを潤した八尋は、厳かな日本家屋のなかのよく手入れされた中庭を穏やかに鑑賞している。

勉強机に面した窓からであれば海が見えるが、この窓からは手入れのいきとどいた庭と、桜しか見えない。桜の向こうに見える海も悪くはないだろうが、海はもう、この家までの道程でさんざん風と共に浴び切った。
桜と、そばにいる少女だけで充分だ。


「晴れてよかったよ」
「バイクも…安全に乗れますし……」

ガレージのそばにおさめられたバイクは、ここからでは見えない。
きっと桜にも映えるだろう。
ひかえめにそまったピンク色と、あらゆる季節を強く生き抜いてきた蒼。

紅茶をのみほした八尋が、そばにそっと寄り添って、いつまでも見飽きることのない桜をしずかに楽しんでいるあすかにたずねた。

「葉山ぁ、桜、キレエなとこあるのか?」
逗子にいろいろあんのぁ知ってんだけどよ。

女学校の校庭の桜。友人とともに鶴ヶ丘八幡まで足をのばしたときに楽しんだ桜。そして、目の前にある桜。そのみっつで満足していたあすかは、そういえばと首をかしげた。確かに、桜の名所というと主に話を聞くのは逗子の公園ばかり。

葉山というと、そういえば。

「役場のあたりもきれいです」

そう伝えたあすかも、冷たいアールグレイをストローで吸い上げた。
その深い宝石のような色の液体が消えてしまうことを見守った八尋が、立ち上がる。

「行くか、今から」
「え、あ、あの」
「大丈夫だ、おれがついてるだろ」

かすかに開いていた窓をしっかりと施錠した八尋が、あすかのベッドの上にほうりだしてあったジャケットをとりあげる。

上質なリネンのかおり。せっけんとすずらんの花が入り混ざったようなあすかのかおりが、八尋のジャケットに確かにうつっている。

「これ、似合うぜ」

ジャケットを着込んだ八尋が、あすかの部屋の壁につるされていたスプリングジャケットをゆびさした。

あわててうなずいたあすかの足取りを慎重にたしかめながら、八尋は、彼女にもっとも似合うであろう、彼女の輪郭の淡さをもっとも上品に演出するであろうジャケットを着用するすがたを見守った。


自宅の玄関の扉をおす八尋の背中をおいかけて、あすかはあわててローファーにつまさきをしのびこませる。

このまま歩いていくのだろうか。それとも、バイクなのか。
先ほどから、あすかの心のなかをうずまく疑問は、それだ。
八尋が歩いている姿はあまり見たことがない。あすかはのんびり歩くことも好きだけれど、八尋はのんびりすることなんて好きなのだろうか。

あすかのおどおどとした心配をよそに、八尋はあすかの家の厳重な門を、その足であっさりとあとにした。

バイクではないのだ。
あすかは、ガレージのそばでしずかに持ち主を待っている蒼いタンクのバイクを確かめたあと、八尋の背中をてくてくと追いかけた。

このまま左におれてしまえば、森戸海岸だ。

八尋の精悍な身体は、左にゆくことを選んだようだ。
そちらでも大丈夫だけれど、少し遠いうえ、桜はない。
でも、右に折れてしまっても、役場近くの桜の名所までの景色は、海がないだけで同じようなものだ。


八尋の背中をおいかけようとしたあすかが、その背中の真下に寄り添った瞬間、八尋の足元が、ぴたりととまった。


「……?」

やはり、バイクがよかったのだろうか。
門を出るまえに尋ねてみればよかっただろうか。
いいたいことを我慢するより、ちゃんとつたえていればよかった。

八尋が、真下にいるあすかをみおろした。

その整った表情には、めずらしく、ばつのわるさがにじんでいた。

「……」
「あ、あの、渉先輩……」
「……役場ってよ、どー行くんだ……?」

あすかの素直な瞳が、ぱちぱちとまたたいた。
そのまっすぐな瞳が、ミスをしでかしたかといわんばかりに体裁の悪さをうかべた八尋のことを、正直にとらえた。

そして、そんなことだったのか。
気が逸った八尋をとがめもせず、みくびりもしない、澄んだ瞳のあすかが、海へ向かう道をゆびさしだ。

それは、八尋とあすかが過ごすとき、あすかが初めて自分で選んだ決断であったかもしれない。

「こ、こっち……です……」
どちらからでも行けるけど、桜はどちらもないので、海の道が……。

「おまえは、そっちが好きか?」
「はい」

澄み切った返事をかえしたあすかの頭を、八尋が撫でようとしたとき、その手はとまった。
そのかわり、大きな手があすかの肩を抱いたあと、ほっそりとした体をそっと押し出す。

「オレぁわかんねーからよ、あすかが連れてってくれ」
「!は、はい!」
「柴んチビの散歩させたかったけどよー……いなくなってたよな?」
「おばあちゃんの部屋で、寝てるのかも…お散歩、もう行っちゃったんです」
「次ぁ連れてこーぜ」
「はい、一緒に……柴ちゃんも、よろこぶとおもいます……」

いつしか、八尋と語り合っていても、言葉が詰まることが減った。
今も言葉のえらびかたは遅いけれど、八尋に待たせすぎることがなくなったとおもう。それは、あすかの過信かもしれないけれど。

それにしたって、あすかはいつも、八尋の背中に守られているだけ。八尋のことを先導するなんて、めったにないことだ。

そして、八尋とこうして外を歩くことも同様なのだ。部屋を出る前にあわててつかんだ小さなバッグの持ち手をぎゅっとにぎりしめたあすかは、海のそばを歩き始める。
防砂林にしっかりと守られていて、厳しい砂や風をあびることもないかわり、134号線のような景色ものぞめない。
でも、これがちょうどいい。

「寒くないか?」
「ちょうどいいです……」
「体調、ヘーキか?喘息、ほとんど出てねーんだろ?」
「大丈夫です…。渉先輩は……?」

八尋のことをいたわるあすかの声が、八尋には少しおもはゆい。それをごまかすように、大きな手があすかの頭におりてこようとしたとき。

その手はとまったかわりに、ジャケットのポケットに戻った。

防砂林のすきまから、ごつごつとした岩場、荒い波があげる白いしぶきが見える。

「ケガぁとっくになおったぞ」
「よかった……」

ちいさくつぶやいたあすかがこくりとうなずいた。

海のそばを歩けるのはここまでで、古い民家を改築したサーファーズカフェのそばを右におれた。県道に入れば、昔ながらの家々と、新築のマンションが交互にたちならび、白木づくりの海のそばらしい家も散見される。
なまあたたかいと呼ぶよりも、むしろ夏の陽気にちかいほどの熱だ。
身体のよわいあすかにとって、気温の変化は負担にならないか。そう案じた八尋が、いつのまにか肩をならべて歩いていたあすかのことを見降ろすと、あすかが不思議そうな瞳でみあげた。この澄んだ瞳に、迷い、怯え、遠慮、不安、そういったものが次々にうかびあがり、自信なくうつむいていたこの一年。冬を越えて、あすかは、澄み渡った優しい瞳に、ひとつの自信を滲ませている。それはきっと八尋の思い込みではない。そして、八尋が与えたものではない。あすかが、自分のちからで手に入れた、すこやかな力なのだ。

そのとき、あすかが指さす。

国道134号線。
役場や葉山小学校までの、ほんの短い、実にゆるやかな坂道だ。

「ここです」

澄んだ声で伝えてくれたあすか。そしてそのそばに寄り添う八尋の眼前には、短い坂道を、じつに控えめに彩り、遠慮がちに、ささやかに主張する、淡い色の桜が満開であった。

八尋は、さんざめくような桜の木の群れを想像していた。
そのおおげさな想像とはいささかずれているけれど、あすかの自宅の桜の大輪の咲き方とは一味ちがった淡い連なりに、やがて八尋は、こらえきれないほどのいとおしさを抱き始める。

「……」

八尋は、おだやかな顔で桜をみあげている。

以前であればこんなとき、あすかは、これでよかっただろうか。これで間違いではなかっただろうか。八尋は、こんな自分の選んだことに満足してくれているだろうか。
そう迷うばかりであったはずだ。
先ほどだって、そうであった。八尋がバイクに乗りたいのか、歩きたいのか。ひとりよがりに想像をかさね、まごつくばかりで、自分の言葉で尋ねられなかった。

でも、あすかは、少しずつ階段をのぼっている。
こうしてこの春の昼さがりに、八尋のそばで、地味で控えめでそれでも凛とした自信をもって咲く葉山の桜を、八尋にこの桜をえらんだことは、たぶん、間違いなんかじゃない。

あすかの足が、一歩だけ八尋によりそった。
時計の真下で桜をながめる八尋のそばに、しっかりとした足取りで寄り添ったあすか。

淡く、やさしく、そして、確かな力でそばにいてくれるあすかのやわらかな髪の毛が、春のはじめの穏やかな風にはらはらとなびく。
その風があすかの髪を荒らしてしまうまえに、八尋が頭を撫でようとしたとき。

八尋の獰猛な手は、あすかの寸前でとまる。

あすかはそれをさとらない。
澄んだ瞳で、すみわたった満足のなかでおとなしい桜をみつめているあすかに、八尋が静かに語り掛ける。

「こーされるん、イヤか?」
「!?」

八尋のひとことは、あすかのこころを簡単に動揺させる。

八尋の獰猛な手があすかにふれてくれることは、あすかの心をあっさりと壊す。

あすかが手に入れたすみわたった自信は、優しさを与えられるたび、すぐにゆらいでしまう。
八尋のひとことと、そして八尋が与えてくれる優しい手のぬくもり、あすかを守り続けてくれる手のつよさに、あすかがそだてたちいさな自信なんてあっさり崩れてしまう。

「嫌って思ったことなんか、一度もないです……」

でも、その度伝えてしまえばい。

そして、やさしさでこわれてしまった自信は、もう一度つみあげて、八尋のくれる優しさで取り戻せた自信で、もう一度八尋にありがとうと言えばいい。

こうして穏やかな春を過ごせることが、何よりあすかのよろこびであること。
この控えめな桜を八尋に教えることができたのは、間違いなんかじゃないこと。

「ありがとうございます……」
「……?」
「……」
「何がだ?あすか」

少しうつむいたあすかは、それは、自分で考えてください。そんな言葉をにじませた笑顔で、八尋をみあげておだやかにわらった。

そんな想いをうけとった八尋が、あすかの頭を優しく撫でながら、淡く広く、静かで優しい桜に見入る。

そして、あすかの髪の毛ごとしっかり掻き抱きながら、あすかに伝えた。

「おれ、今日、あすかにさわってなかったんだぜ?」
「……そ、そう、でした、か……?」

八尋は、あすかにふれるのを、ずいぶん我慢していたのだが。
あすかにふれずに守り抜く。
そうした誓いを破り続けたことを、ずいぶん自省してきたのだが。

「……そうでしたっけ……?」

八尋に頭を撫でられ続けているあすかが真顔で首をかしげた。
遠慮がちな瞳は聡明な色をおび、記憶をロジカルにたどり続ける。


「触られるのは……渉先輩だけが平気なのはもちろんなんですけど……」
「千冬はよ?」
「千冬さん……?千冬さんはお話しするだけで…………、あ、あの、このまえ、千冬さんと彼女さん、材木座海岸で、バスのなかからみました」
「目立つだろ、あいつら」
「はい……そ、そのですね……おふたりで、海で水浸しになってらっしゃって……」
おカゼ、大丈夫だったんでしょうか……。すぐふたりでバイクに…。


八尋の精悍な表情に、みるみるうちに年相応の呆れがにじむ。
何をやっているのか、あの、とぼけた二人は。
友達とその恋人を慮って笑った八尋をみあげたあすかにも、ヘルシーな微笑がにじんだ。そして、懸命に言葉をつむぎはじめる。こうして触れてもらえるたびに、あすかが抱くことを。


「あ、あの、えっと……。私、渉先輩のこと、ずっと覚えてられるんです……」
「覚える?」
「……いつでも、隣に……い……」

かるく咳ばらいをしたあすかの言葉を慎重に促すように、八尋は、頭を抱いた腕に力をこめて、あすかを支える。
その手と腕にちからをもらったあすかは、正直な想いを懸命に打ち明ける。

「触れてくれたところとか、ずっと、覚えられるから……。そういうの、覚えているので、何時も……そばに……」

たえきれなくなったあすかが、うつむく。

つまり、いつだってそばにいてくれる気がするから、ふれたふれないなんて、関係ないのだ。もしも八尋がそんなことを気にしているのであれば、あすかは大丈夫で、そして八尋が触れててくれれば、途方もない力をもらえて、それはあすかの自信に生まれ変わる。
こんな情けない自分のことを、自分の力で認めることができる。
八尋が与えてくれた力を、自分自身で育てることができる。

あなたのことはいつだって慕っていて、いつだって力になってくれていて、
いつだって心地よい。

頭のなかでは、言葉ができあがっているのに。

あすかの言葉と心とそれを表現する力が一致するのは、いまだ遠い。
なけなしの自信はすぐに断ち消えて、そして八尋のおかげですぐに取り戻せて、でもすぐにばらばらになってしまう。

自分の言葉を、自分のちからで、正直につむぐことは、これほど困難だ。


この桜がおわれば、すべてをつたえられるだろうか。

桜ははっきりとしていて、どこかあいまいでもある。

あすかのそんな心をすんなりと受けとった八尋が、風に乱れた黒髪を何度も撫でる。

「うつむいちまうともったいねーぞ」
「そ、そうですね!次きたときには、もうないかもしれませんね……」
「おまえんちの桜もよ、終わっちまう前にもう一回見に来るよ」
「はい……」
「ケータイかけてこいよ?もー終わっちまうってよ?」
「わ、わかりました……」

かすかにうつむいたあすかが、八尋の言葉を思い出して顔をあげてみせる。
あすかのそんな澄んだ姿に、これ以上ないほど静かな笑みを滲ませた八尋が、ジャケットからかおるのこの少女の香りに身をあずけながら、淡くおとなしい桜を、いつまでも見守りつづけた。

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