スニーカーを、はいてきてよかった。


四月の満開の桜の下で、小春は、こんなおだやかな春の日を絶好の条件で楽しめていることに、胸をなでおろしている。


なんせ、この陽気だ。天気予報では五月下旬とかわらない気候と伝えられていた。


足下は風通しがよいものをえらんだほうが、快適だろうか。

出かけるときに、サンダルとスニーカーを選びあぐねていると、母親が光の速さでサンダルをシューズボックスへしまいこんだ。そして素っ気ないけれど気遣いに満ちた仕草で、小春にスニーカーをわたしてよこした。

小春は、母親の選択に素直にしたがった。
四月の芽吹くような土を踏みしめた小春は、靴底から感じる若々しい感触を楽しんでみせる。


それはやっぱり正解だった。


小春の足もとを守ってくれるのは、小春の誕生日に、同じクラスの友人たちがお金を出し合ってプレゼントしてくれたキャンバス地のスニーカー。黒と生成り色で迷ったが、小春に似合うのは生成り色だと思って。そう伝えて友人たちが贈ってくれたハイカットのスニーカーは、小春の足下にすっかりなじんでいる。


そんなかわいいスニーカーで小春が降り立っているのは、衣笠山公園だ。


小春の住む町から、東京湾を背にして、母親の運転する自動車でおよそ7,8分。山の麓に車をとめて、てくてくと上ってきた。
この公園に植えられた、2000本のサクラを楽しむためだ。


15歳になった小春には、それなりの自我と自意識が芽生えている。母親とでかけるなんてなんだか気恥ずかしい。
でも、月の三分の一は夜勤で不在の母親だ。一緒に過ごす時間は、なにげに貴重なのだ。

汗だくになった母親が、ピンヒールで土を踏みしめながら、小春の後を追って歩いてくる。小春の背負っているリュックサックのなかには、寝過ごした母親のかわりに小春がつくることとなったお弁当がおさまっている。

辺りは、ちょうちんまで吊されて、まるでおまつり気分だ。
「衣笠山さくらまつり」と染め抜かれたのぼりがあちこちに立っている。

桜がねむるつぼみは、もうない。

深く染まった青にかさなる薄紅色たちをながめていると、まるで空が紫にとけてゆくようだ。

それはまるで、あの人の、髪の色のよう。

夕暮れの空をそれに重ねることはあれど、これから昼の盛りをむかえる休日の真昼の空が、あの人にかさなるなんて。



"このさくら、緋咲さんとみられたらきれいだろうな。"


ゆったりと降りた緋咲の髪は、ふわふわでネコのようだった。むらさきいろのネコ。辞典でしらべてみても、そんなネコいなかった。
緋咲はいつだって、唯一、緋咲だけの存在。
どんな場所にいたって、小春のこころに緋咲がすんでいる。寂しくないなんていえないけど、鮮やかなもの、うつくしいもの。そんなものを味わうたび、小春は、緋咲に分けたいと思う。

小春のリュックサックを母親がひったくる。お腹がすいたと愚痴をこぼしながら適当な場所をさがす母親の声を聞き流しながら、小春は、薄紅色のすきまから、思いも寄らぬ色にそまった空を仰ぎ続ける。






春は嫌いだ。

うっとおしい朝と昼がますますうっとおしくなる。
ねばついた大気は、緋咲の髪の毛にいまいましい水分をふくませ、しっかりとたたせたはずの髪の毛は、前髪からぱらぱらとおりてくる。

きまじめに歩かなくても、坂道をせめれば、ここにくる道はあるのだ。
管理者が車を走らせるための狭い山道を、緋咲は、みごとな技術を駆使してあでやかな桜色の単車をはしらせる。

チェリーピンク。この色に染まった桜など、緋咲はみたことがない。

アメリカンスクールでともにした友人、その恋人から、この場所のことは知った。


昼寝にちょうどいい。

褐色の肌、赤みをおびた瞳のともは、こんな小春日和、こんな春を意外に好んだ。

こんな春のどこがいいのか。
そんな嫌悪感は、小春と寄り添いはじめてから、少しやわらいでいるのも事実だ。

緋咲の運転するFXは、小高い丘の頂上まであっさりとたどりつく。

降りたバイクを背にして、スーツのポケットからジョーカーをとりだし、歯で引っ張り出す。
緋咲がえらんだこの時間は、中途半端であったようで、桜にかこまれたこの丘に、ひとっこひとりいやしない。集会にちょうどいいほどのスペースもあるが、ここまでの山道は、ロクサーヌ全員がスムーズに走れる条件ではないだろう。

小春は、なんら早起きを苦にしないという
そのかわり、緋咲のように、夜めざめ、夜に生きることはない。

頭上をみあげる。
工夫のない塗装のように、空は真っ正直に水色に染まり上がっている。
水色をバックに、堂々と降り注ぐ、桜の大群。


こんな花は、あの子にこそふさわしい。


この桜を、小春とみられたら。






「このまえ、みました」

今日は、ふたりでベッドに上って。
ぴったりとくっついて、壁に背中をあずけて、ふかふかのマットレスの上で、小春と緋咲はゆったりと語らっている。

「あそこのだろ?」
「そう!」
きれいだったー・・・・・・。


小春が何かをきれいと伝えるとき、その愛くるしい声はいっそう澄み渡る。小春のぬくもりを味わいながら、しみじみとした声を楽しんでいると、ベッドの上にゆったりと足をのばした小春が、ロングカーディガンのポケットから、いそいそと何かを取り出しはじめた。


「もってかえった!」


ティッシュじゃ風情がないでしょ?
そう言った母親が、懐紙に桜をつつんでくれた。

同じ場所で、緋咲も同じ桜をみたことをまだ知らない小春が、たからものをとりだすように、緋咲へのおみやげをとりだした。

春の萌える土、萌ゆる緑のうえに一面につもっていた桜の雪。そのなかから、きれいなものをひろいあげて、緋咲のおみやげにしたのだ。


懐紙をいそいそとひろげた小春の手から、幾枚もの桜の花びらが、清潔なシーツの上にひろがった。
ここには生々しい土もなにもない。
ただ、清潔なシーツがひろがっているだけ。緋咲がこまめに洗濯しているわけではなくて、実家が雇ったハウスキーパーが定期的に出入りしているそうだ。そんな事情を知ったとき、掃除が苦手な小春がいいなあ!と小さく叫んだら、小春ん家にもよこしてやろうかと、緋咲の妖しい瞳が優しくひかったこともあった。

ひらひらと桜が舞って、シーツにしずんでいく。
花びらをそのまま得意げに緋咲にみせてしまおうと想定していた小春が、すこし鋭い声をあげた。


「あっ・・・・・・」
「かまわねーぞ」

緋咲の指先は、そっととがっている。

その繊細な指先が、はなびらを、ひとつ、ひとつ

すくいあげる。

小春のととのえられていないまるくこどもじみた指先とは、大違いだ。

小春のしらないところで、緋咲は傷ついている。
誰かの身体でその手が破裂するとき、緋咲はきっと、だれよりも傷ついている。緋咲の手をみると、小春は、いそいで包みたくなる。もう誰も傷つけなくてすむように。そんな、余計なお世話をやきたくなるのだが、今日の緋咲の指は、とてもおだやかだった。


緋咲の指先に、花びらがそっとあゆみよった。


指先が、小春の黒々とした髪の毛にのびる。

一枚の花びらが、小春の耳のそばを、可憐にいろどった。

「花びらちぎるわけにはいかねーからな」
「でも、届きそうだったんですよ。雨が降ってくるみたいに咲いてますよね」
「ああ、あすこぁでけーよなあ、いつまでも咲いてるみてーだぜ」
「緋咲さん行ったの!?なんだ・・・・・・」
じゃあ知ってるんだ・・・・・・。

誰と行ったんだろう。
小春の小さな心にともるかすかな懸念を、緋咲があっさりと一蹴してみせる。

「朝からひとりで花見だぜ?ばかばかしーぞ・・・」

小春への気遣いにあふれた自嘲は小春の心をみるみるうちに満たして、小春も、私もお母さんと行きました!と宣言してみせる。そんな宣言がまた、緋咲の焦燥を穏やかにすることを、小春はまだ知らない。

それにしたって、緋咲に想い出をわけたくて持ち帰ったこの桜。
こうしてシーツの上に舞わせてみれば綺麗であるけれど、他に用途はあるのだろうか。そんな牧歌的な会話のなかで、小春が頓珍漢な提案をみせた。


「あ!コーヒーにのせたら?」
「・・・・・・ハーブティなら絵になんだろーな」
コーヒーぁきいたことねーぞ・・・・・・。

小春の髪の毛から桜がハラハラとおちたとき。

今日の緋咲は、きげんがいい。
体調もよく、たばこもまだ朝から一本、酒もぬけて、暴力がもたらすダメージもすっかりぬけていて、
小春がいるから、あの桜の満開の下とかわらないほど、緋咲の心身は、ずいぶんごきげんだ。
ずいぶんヘルシーにそまった、緋咲のさくらいろのくちびる。
小春がなによりほしい桜色が、のどかな提案をつづける小春の頬を、そっとかすめた。

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