特攻の拓夢百題
86 糖分摂取

緋咲の傷ついた拳を、幅のせまい包帯が頑丈に締め上げる。

ストレスを限界までためこんだ緋咲は、包帯の結び目を右手人差し指の爪でいまいましくはじいてみるが、丸まった結び目はびくともしない。

セロニアスと初めて会ったあの夏から付き合いが続く医者による、左手の修復治療。なんでもいいからはやくしろと急かしたものの、あの胡散臭い医者はどうにもむかしから、つかみどころがない。彼のペースにまかせて、プレートが破れボルトがのぞいていた左手は無事、人のかたちをとりもどした。緋咲をまるで孫のように扱ってくるあの医者に入院せよと命じられたが、半日で帰宅することを決めた。傷跡は残らないようにしてあると言っていたから、それを信じるほかない。

包帯の下でこの拳が悲鳴をあげ暴れるたびに、思い出す顔がある。

同じ年、
同じ単車を繰り、
同じようにチームを率いて、
同じ世界で、
同じものをさがして走り、
同じ場所で戦っている。

確かに、同じだった。
この拳を、二度壊した男。

鳴神秀人。

同じものをさがしている気がした。
そして、同じ世界のなかで、あの男は、いつだってあのひどく単純でひどく簡単でひどく乱暴な言葉を染め抜いた背中を、緋咲にみせつけてやまなかった。

その事実を、いまや、妙にさめた気分で悟っていること。
おそろしいほど客観的に見つめられていること。

緋咲はそれが、自分でも妙に、不気味なのだ。

包帯がまかれた左拳。緋咲はそれを今一度、冷たくひかる整った瞳で見遣る。怒りとうずき、そしていやに醒めた実感は、包帯の下のかゆみ、そんな現実味によってしずめられる。プロの技術でぎっちりと手をしめあげるそれは、いまいましいほど緋咲の手を拘束している。

駐車場からマンションに入り、エレベーターのボタンをおした。
電子音がひびき、エレベーターはすぐにぱっくりと口をあけた。

エレベーターの中の鏡に、ストライプのスーツに身をつつんだ緋咲自身のすがたが映し出される。
緋咲の頬にのこっていた赤黒い痕は、あらかた完治しつつある。

あのチビにけずられた頬。
奇跡的に骨折もなく、形成手術なしですんだ。
この頬にかすかにのこっていた痕は消えつつあるが、かわりに、消えることのない怒り、そして、ベクトルが複雑にねじれてやまぬ、あの浅川拓という少年への、形にならぬストレス。

緋咲の精神をむしばむ、横浜のにおい。
横浜のモノ。

土屋や相賀にさんざんあたりちらした。
そして、あいつらは何かを隠している。
それらを暴くつもりもなく、緋咲はこの部屋へもどってきた。

己らしくもない。
己らしくもないことばかりだ。
そして、さらに己らしくないものにとらわれている。


このエレベーターが到着して、静かな廊下をあるき、キーをさしこむ。
すると、シャボンのかおりが部屋からこぼれてこないか。
あの、まゆのうえでぱっつりと切りそろえられた前髪がさらさらとゆれないか。
あの愛らしい声が、己の名前をよばないか。
そんな思慕が、たしかに緋咲のなかにある。


エレベーターが、緋咲のくらすフロアに到着する。
スーツのポケットにつっこんであるキーをにぎりしめて、部屋の前に立ったとき。


緋咲が、ある異変を悟った。


緋咲の部屋のドアノブに、こぎれいな紙袋がさがっている。


「あ……?」

間抜けな声をあげてしまったことに後悔をかさねながら、緋咲は紙袋をむしりとった。

中から出てきたのは、鈍色にひかるアルミのケース。

アルファベットのGとJが重なったブランドロゴ。

見たことのないロゴであるが、悪くはないデザインだ。

包帯を巻いた緋咲の手のひらに難なくおさまってしまうほどのちいさなケース。
それを力任せに振ってみる。

そのとき、つかんだままの紙袋のなかで、ごろりと何かが転がることがわかった。
のぞいてみると、赤色のちいさなボトル。
乳酸菌飲料、と書いてある。

「?」

皺の寄った眉間、ほそめられた緋咲の瞳はそれを一瞥したあと、アルミケースのなかで音をたてる物体の正体をじょじょにさとりつつある。

これは。

アルミケースの封を閉じている透明色のセロハンテープを、包帯をほどこうとしていた右指の爪でせわしなくはじいた。

これは。

かぶせられていた蓋を器用にとりはずせば、のぞいたもの。

これは。


チョコレートだ。


ひとまず蓋をかぶせて、紙袋のなかにもどした。
紙袋をつかんだまま、慎重に扉のなかにすべりこみ後ろ手に施錠したとき。

「んだこれ……」

郵便うけから落ちたのか。玄関のなかに、紙切れが一枚ころがっていることに気づいた。
靴をぬぎすてながら、それをひろいあげる。

すべりおちているのは、クリーム地に真っ赤なハートがそめぬかれたデザインの、はがき大のカード。
シンプルだが女らしいデザインのカードだ。

ぺらりと裏返してみる。

そこに綴られていた文章を、緋咲は、しずかな眼でおいかける。



「緋咲さんへ

少しはやいですけど、もってきました。

バレンタインのチョコレートです。

おかえしは、いりません。

電話も、むりしないでください。

あまいものたべたら 元気でます。

わたしは元気にしてるので、緋咲さんも、1日1こずつ、食べてください。

糖分摂取は大事です!


チョコといっしょになかにはいってるのは、乳酸菌飲料です。お母さんが、一日に一本飲んだらつよくなるっていってました」



かわいらしい字は、チェリーピンクのペンで綴られている。

名前は名乗っていない。

だけれど、この字は、緋咲がさんざん見てきた字だ。
あの子を後ろから抱き込み、英語を教えたとき。
あの子がかりかりと勉強をつづけるのを、耳に息をふきかけてじゃましていたとき。
このチェリーピンクのペン。ペン軸にはりつけられているバーコードシールにチェリーピンクと説明書きがあったから買ったのだと、聞いてもいないのに説明してきた。あげく、欲しいかと得意げにたずねてきたこと。

この字をまねできるものなどいやしない。

「アイツ……」

これは、緋咲の恋人、小春からの、バレンタインのおくりものだった。


数日あけていたマンションは埃っぽいが、慣れたことだ。
そしてこの部屋に、あのシャボンのかおりはのこっていない。

そのかわり、小春がおくったルームフレグランスが、クリスマスからいまだ濃厚にただよいい続ける。

オートロックをあけたのなら、部屋まで入ってしまえばいいものを。
遠慮したのだろう。
この部屋を、小春の第二の家のようにつかってくれてかまわないのに。

気をつかうあの子は、そこまで甘えてこない。

慣れ親しんだ居間に戻った緋咲は、ベッドに腰をおろし、あらためて、小春がえらんだチョコレートを確認してみる。

日本語の説明書ひとつしのばされていないアルミケースのなかには、9つのアソート。

甘いものは好まないが、空腹にはかえられない。

笹のようなプリントがめだつチョコレートをひとつつまみあげて、つぶやく。

「あめーのか?こいつ……」

整った口の中にほうりこんだ。
幸い、口の中の裂傷はすでに治療されている。

甘いには甘いが、味わいやすい。ダークチョコレートの渋みと糖分が、緋咲の口のなかを支配し始める。がつがつと咀嚼しながら、もう一度、小春が綴ったカードをながめてみる。
二粒めのチョコレートをほうりこみながら。
1にち1こ。
小春のあたえてくれたそんなアドバイスを実施するには、もうおそい。



海の公園であのチビに頬をけずられた日。
あの翌日、小春に会ってやる予定だったのだ。
じくじくと痛む頬をこらえながら、つとめてやさしい声で、小春に電話をかけた。

電話を受けたのは、小春の母親だった
はじめて口をきく、小春の母親。
いたって事務的な声で、無駄口ひとつなく小春に受け継いでくれた。

そして、会いたかった声がとびこんでくる。

「もしもし!!」

ひさしぶりに呼んだ名前は、ずいぶん慈愛にみちたものになった。

「小春」
「ヒザキさん!ごめんなさい、おふろそーじしてて、とれなかった……」
「ああ……ふろ?水仕事ん後かよ、冷えんだろ?」
「ううん、大丈夫です。ヒザキさんどーしたの?あのね明日ね!」
「ああ、明日なんだけどよ……ちっとな、」
「……はい」
「……ああ……」 
「……無理になりました、か……?」
「しばらく会ってやれてねーのによ、わりーな」
「わかりました……」

消え入りそうな声で聞き分けのいい返事をした小春がくしゃみをひとつかます。

「おい、さみーんだろ」
「ヒザキさん、自分の心配してください」

小春の、妙にすわった声。
くせのようにとびだしかけた舌打ちをこらえた緋咲は、一度呼吸をおいた。

みすかされているのか。小春に。
そして小春は、おどおどとしたちいさな声にもどる。

「……あ、あの、わかりました。わたしのほうは大丈夫だから」
「デージョブだ。おれぁよ」
「……うん、わかった」
「あ?なにが」
「わかったの、わたし。わたしもがんばるから、緋咲さんも、ちゃんと休んでください」

緋咲が、ふらりとひざをついた。
頭が痛い。
傷つけられた頬が、やけつくようにいたい。

「がんばるな」
「……」

体中にはしるキズが、ひどくいたむ。
小春の澄んだ声でいたわられて、傷がひどく熱をもちはじめる。

「がんばるんじゃねえよ、たのむからよ」

電話を設置してあるボードのはしをつかんで、緋咲が立ち上がる。
膝をついてはならない。
ロクサーヌの緋咲が、膝をついては、ならない。

「え、えっと、緋咲さん、わたしあのトワレ、毎日部屋にいっぱい吹いてるの。あのかおりがあったら、大丈夫です」
「毎日?」
「はい!毎日!」
「……なくなっちまうんじゃねーか……?」
「……え、えっと、じゃあ、ちょっとだけにします」

よっぽどうれしいのか。
あのにおい。
あのシャボンのかおり。
狂おしいほど、あのかおりがこいしい。

「……じゃあな。また電話する」
「えっ……そ、そうですよね、わかりました」
「TELはするな」
「……わかりました、でも!!」
「オレからかける」

……はい。
その小さな声を聞き届けたあと、緋咲は乱暴に受話器を置いた。



あれから、小春の声を聞いていない。
あのかおりも、ひどく遠い。

長い足が、リビングと廊下をへだてるとびらを軽く蹴った。
中途半端にひらいていたとびらは、力なく開き、少し戻ってとまる。
ベッドからたちあがり、紙袋につっこんだチョコレートをさげて、ソファに体をしずめた。

ルームフレグランスのにおいが、緋咲の部屋を彷徨いはじめる。

ソファに身をしずめて、かるく息を吸った。

小春のまえで、傷はみせない。
あちらとこちらを、こうして力づくで断ち切る。

すべてが癒えるまで。
緋咲のすべてが穏やかに鎮まるまで。

小春には会わない。

小春が、狼狽を気丈にこらえるすがたをみたくない。
己の傷におびえて、そしていたわるすがた。

小春を、傷つけられない。

こうしているあいだ、小春にはいたいほど我慢をさせているのに。

そして、小春には緋咲のすべてを愛する覚悟などとうにそなわっている事実を、緋咲はいまだ、悟らない。


もう一度、アルミ製のシルバーのケースをあけてみる。
チョコレートをたべきれば、シガレットケースにつかえるだろうか。いや、長さがたりないか。

GとJのロゴ。何語の頭文字だろうか。フランス語、オランダ語、英語。
あらゆるチョコからどうしてこれをえらんだのか。
緋咲はあれこれ想像してみる。
あの子をそばにおいて、こんな昼下がり、あまいものとともに小春と一緒に過ごせていれば、そばにぴったりと寄り添った小春が、ずいぶん得意げに説明してくれるだろう。

選んだ理由は、きっと、さほど深いものではないだろう。

そして、緋咲のその予測はあたっている。

広告のなかからひとおとおりめぼしいブランドをえらび、小春はそのなかから目を閉じてランダムに指をさし、えらんだのだ。
横浜の百貨店に出向き、買うと決めていたブランドのいろとりどりのチョコレートのなかから最もおとなびたものを選び、うきうきと帰るとき、緋咲のバイクのように赤いチョコレートをみつけて愕然としたこと。

緋咲がそれを知るのは、すこしだけ後となる。


ジョーカーに炎をともすことも忘れた緋咲が、チョコレートをさぐっていく。
指先がブラウンにぬれて、甘くしっとりとしたかおりが漂う。

ランダムに引かれた線が幾何学的なチョコレートをほうりこむと、なかからとろりと洋酒がこぼれてきた。

前衛芸術のようなホワイトがのたくっているキャラメルチョコレートは、べたつくほどに甘い。

鳴らない電話。
あの受話器は、まだあげない。

「もちっとまってろよ」

銀色の粉をまぶしたチョコレートを、ねばつく舌でとかしてゆく。

「もーちょっとだけ、まってろ」

紙袋からとりだした、赤いボトルの乳酸菌飲料。
チョコレートにはまったく似合わない。
剥ぎ取り難い蓋を力づくではぎとり、ぬるい液体をのどにながしこむ。

「すぐ抱きしめてやるから」

苦みと甘みと、チョコレートのなかからこぼれてきた酒が与える酩酊。
包帯の巻かれた手で最後のチョコレートをほうりこみながら、緋咲は、重たい糖分にまかせて、しなやかな身体をだらりと投げ出し、目を閉じた。
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