特攻の拓夢百題
83 いつも隣で

ざっくりと編まれたボーダーのセーターごしに、気持ちよくのびたあすかの背中。透明色のマニキュアを施した指で千冬がその背筋をつつとたどってみせても、千冬の恋人は、ひとつの敏感な反応もみせやしない。
こうしていたずらをくれてやれば、その落ち着いた声で可愛い悲鳴でもあげるかと思ったのはいつだったか。あすかのしっかりとのびた背中を、あでやかに尖った指先でたどってみても、何か用でもあるのかといわんばかりに、正論に満ちた真顔であすかが千冬を振り向いたのは、ずいぶん前の話だ。

あすかの部屋の窓からあたたかな真昼の光がこぼれてきて、清潔なベッドを羽のような色にそめあげる。とろけるような柔らかさは、このまま眠ってしまうことすらかなうだろう。とはいえ、千冬の母親が経営するスナックを律儀に手伝った昨晩。そのまま夜の町に出向くことはなく自宅でおとなしく休んだ千冬にとって、このやわらかな3月の光にまかせてあすかと一緒に眠ってしまえるような睡魔は遥か彼方にある。

電話の子機を耳にあてたあすかが、ベッドの上で毛並みのいい猫のようにしどけなくよこたわっている千冬の方をちらりとふりむいて、片手をたてにして軽くあやまってみせた。

わざとらしく口をゆがめた千冬が、しなやかな身体をますますまるめてみせる。あすかのかおりのするまくらを抱え込み、ばしばしとたたく。


3月下旬。

卒業式をしれっと終えていたあすかの部屋に、千冬は大きな顔でころがりこんでいる。
当のあすかは、女友達と電話をしているのだ。東京の私立大に進学をきめて一人暮らしをはじめる友達と、何が楽しいのか、先ほどから数分間にわたってうきうきと語り合っている。彼氏は大阪の大学へ行くから遠距離になる。こまめに連絡をとればきっと大丈夫だ。会話の流れからそんな話題がつかみとれる。

あすかのベッドの上にばったりと体を投げ出せば、千冬の金髪が大輪の花のようにひろがった。前髪も真横に流れて、そこからガーゼがのぞく。これはまだ、あすかに施されたばかりの手当。前髪で巧妙に隠していたはずなのに、めざとく軽いケガをみつけたあすかが丁寧に手当をほどこしていたら、あすかの部屋にそなえつけられた子機がけたたましく吠え始めた。あすかの店は定休日だ。いつもであれば留守番電話に変わるはずだが、偶然スイッチがおされていなかったのだ。あすかの母親は病院へ出かけているため不在であった。畢竟、電話を受けることとなる。注文の電話であればものの数十秒で済むはずだったが、その電話は、高校時代、あすかが最も親しくしていた女友達からのものであった。

会話をかわしながらも千冬の方をちらちらとふりかえり、申し訳なさそうな視線をみせていたあすかが、友達との電話をはじめておよそ五分、さよならの挨拶をかわし、ようやく子機の電源をきった。

そういえば千冬は、彼女が同世代の女子と会話しているすがたを滅多にみたことがない。千冬が見るかぎり、あすかが友達と一緒にいたことはなかったはずだ。あすかのことを無理に誘ってもいつだって千冬を優先してくれた。
あすかが子機を充電器に戻した。
不機嫌をこどもっぽくあらわにした千冬が、あすかの体を片手一本でひきよせて、胸元におさめる。


そして、開口一番。

それはいやみでもいじわるでもなく、千冬の純粋な疑問であった。

「あすか、ダチいたのかよ?」
「……し、失礼すぎない……?あたしだって、友達いるよ?」
少ないけどね……。

千冬がわがままを押し付けてもすぐにそれを優先してくれるあすかにも、元女子高校生らしい一面はあったようだ。

千冬の思うがままに彼の腕のなかにおさめられながら、あすかは自分の18年間を思い返してみる。

たしかに、友人は少ない方なのだ。

気が合う子がひとりかふたり、いればいい。そんなふうに自分を狭めたつもりはなかったのだが、学校よりも、家業を通じてひろがる世界を優先していれば、いつしか、あすかの友達はマイペースな性格の女子数人だけとなっていた。
同世代が集うバイトもやったことはない。そして部活にも入っていないものだから、上下の人間関係も存在しない。
あすかが18年で築き上げた、ささやかな人間関係。この結果をさえない容姿のせいにするつもりはないけれど、もう少し自分を押さえて周囲とやり取りする手立てはあったかもしれない。
そして気取りもせず媚びもしない、ややつっけんどんな人当たりだからか、気安く付き合える男友達など皆無といえるだろう。取引先の飲食店の息子であれば、幾人か会話をかわす子もいる。横浜のすし屋、姫政寿司といったか。電話口では非常に丁寧な応対をしてくれる若々しい声の男の子も、じつは千冬と似た世界に棲息する子であることは、母親が教えてくれた。いつか顔が見てみたいものだけれど、横浜への荷物は宅配便で発送しているから、あすかはまだ彼に会ったことがない。

つまるところ、あすかの同年代の人間関係は、数人の女友達と恋人の千冬、千冬を通じてやりとりをする八尋だけとなっていた。

よくよく考えれば、これは大問題ではないだろうか。
商売人として、人脈はあったほうがいい。
そして、人間関係の狭いオンナが、こんなに洗練された千冬を楽しませられるのだろうか。楽しませてこられただろうか。あすかは、基本的な問題に今になってたちかえってしまった。

「友達少ない女子って、魅力ない……?」
「ガッコのヤツと話しあわねーんだろ」
あすか半分社会人じゃん。

己の彼女の友達の有無。そんなことに大きな価値はおいていない千冬は、窓をあけて朗らかなそよ風をよびこむ。今日はまだ、この部屋でたばこを吸っていない。

「そんなことはないよ、ただの家の手伝いだし、高校の子、みんないい子だよ」

学校帰りの寄り道や休日の遊びより、家業の手伝いの優先。学年で唯一の夜学への進学者。そんな自分が浮き気味であることは、自覚している。けれど、家庭の事情や生活様式のせいにしていいものではないだろう。
せめて、大学では、さまざまな世代の人々と交流をもちたいものだが。

あまり顔がひろくないことは、あすかのちいさなコンプレックスの一つでもある。
千冬は、人脈の由来や顔ぶれを詳細に語ってくれない。不良の世界以外にも顔がきくことは、千冬にくっついていると北鎌倉や葉山、茅ヶ崎のカフェやレストランで先に通してもらえたりすることでなんとなく読める。
そういえば、八尋以外に紹介してもらったこともないはずだ。もっとも、社交に秀でていないあすかにとって、そこに不満は何一つないのだが、千冬のもつ世界は、あすかのちっぽけな世界よりずっと広いのだろうとあすかは思っている。

千冬は、族の人間関係とあすかを巧妙に切り離している。
あすかが関わったことがあるのは、八尋ただひとりだ。

「人脈は大事だよね」
「困ってねーんだったらよ、いーんじゃねえの。渉もあすかんダチだしよ」
「八尋さんはあたしの友達かあ」

八尋渉。ただものではない人だということはわかるが、恐怖やおそれおおさを感じたことはなかった。友達とよべる人なのだろうか。

「ああ、渉もあすかんことダチっつってたよ」
「じゃああたし、男友達は八尋さんだけだ」
「渉ひとりいたらよ、人脈やまほどついてくるよ」

たよるわけにはなあ…。
そんなボヤキをくりかえしたあすかが、千冬に背中から抱かれたままのびをする。

「今いんヤツ大事にしてりゃ、いーんだよ」
「そうだよね」

あすかが、もっともといった調子でうなずいた。何より、千冬のように、すべてをさらけだして付き合うことのできるひとは、生涯で何人出会えるだろう。
たばこをボトムのポケットからひっぱりだして、やっぱりベッドの上にほうりだした千冬が、あすかをぎゅっと抱きしめて、彼女のくびすじにぐりぐりと額をあてる。そんな千冬のふわふわの金髪をぽんぽんとなでながら、あすかは、唐突に空腹をかんじる。出口のないことを考えすぎたからだろう。

「おなかすいた、ちょこたべよ」
「何それ、自分で買ったの」
「さっき電話してた友達にもらった」

あすかがベッドのヘッドボードからたぐりよせたボックスチョコレートパッケージには、有名なイラストレーターの絵。チョコレートにもプリントされている。被せてある蓋をとれば、色とりどりのチョコレートがとびだす。いちごのチョコレートを千冬のくちびるにさしこんだあと、あすかは、次から次ぎへチョコレートをほうりこんでゆく。

「あすか、糖尿になるよ」

千冬の冷酷な忠告を素直にききいれ、チョコレートをあさる指先をぴたりととめたあすかが、はたと思い出したことを呟いた。

「今日、ホワイトデーだったね」
「なんかほしかった?」
「えっ、会いにきてくれたのがお返しじゃないの?」
「欲がねぇな……相変わらずよ……」
「あるよー、でもバレンタインにあのチョコもらったじゃん」
プレゼント交換だ。


千冬さんに、あげたいからあげただけ。
あたしには、なにもいらない。


そう言い切ってしまえるほど、あすかは強くないし、欲望だっていくらでもある。
これをあげれば、これがかえってくるかもしれない。そんな情けない計算だって、ゼロじゃない。
千冬がこんなに優しくしてくれるのに、まだ欲してしまったり、自信はすぐに崩れ落ちてしまうことだってある。

それでも、千冬がさきほどあすかに教えてくれたように。
こんなにとろけそうで、こんなにあたたかく、こんなに穏やかな時間を千冬を一緒にすごせることを、宝物のように大事にしたい。
そんな時間を、千冬と一緒に少しずつ重ねてゆくだけだ。

「ありがとー、千冬さん、いてくれて」
「ああ、いつも隣にいるよ」
「いつもいても、千冬さんに飽きられないようにするよ」
「飽きるってなんだよ。飽きないよ」
「もっとおもしろい人間になる……」
「ま、マジメすぎんのぁ、なんとかしたほーがいーね……」

ぴくりとひきつったあすかの頬。
あすかのそんな繊細な反応を意に介さぬ千冬は、あすかのすべすべの頬をぴたぴたといたずらっぽくなでる。

「渉も言ってたぜー?あすかぁ遊びがあってもいーんじゃねーかってよ」
「遊び?」
「商売のほうでな」
「そうだよね……勉強だけでなんとかなるもんでもないよね」

柔軟に。
遊び。

そんな言葉の、なんと難しいことか。
そして、そんな言葉を、難なくやわらかに実現してしまえるのが千冬だ。
あすかは、自分に欠けているものを持っている千冬が、いつだってまぶしい。あすかが立ち止まってしまうハードルを、千冬はやすやすとのりこえる。そんな千冬にこうして甘えて、いたわられて、認めてもらって。それだけじゃなくて、学べることがいっぱいあるはずなのに。

あすかのそんな自責を、千冬がやわらげてみせる。

「ちっとくれーゆるしてやるからよ、大学でよ、机の上だけじゃねーベンキョーもしてきな」
「でも、千冬さんを不安にはさせないからね」
「ふ、不安だァ……?」
「ときどきなってるよ」
「……オレ、なってんかよ?」
「ほんとにときどきだよ。大丈夫だよ。変わるとこと、変わらないとこがちゃんとあるから」

背の高い体を投げだして、あすかはすべてを千冬にあずけている。
ずるずるとくずれかける体。このままだと、千冬の膝をまくらによこたわってしまえそうだ。
両手をシーツの上につき、体勢を立て直そうとしたとき。

千冬に肘を引かれ、顎をあっさりととらえられて、チョコレートにまみれたあすかのくちびるがそっとふさがれる。
目がさえている千冬を違って、あすかは、このまま静かに目をとじていると、鳥の羽のような昼のひかりにとろけて、千冬とまどろんでしまいそうだ。

くちびるを解放した千冬が、頬をそっと撫でた後、かすれた声で提案する。

「どっか行きたいとこあるか?」
「んー、横浜……」

このままこの部屋でもかまわないし、材木座海岸まで出かけてしまってもいい。夜は、由比ガ浜の134沿いのカフェにでも出向きたい。
なぜかあすかの口をついて出たのは、横浜という言葉。
でも、三月下旬にさしかかる連休の最終日だ。きっと、むちゃくちゃな人出であろう。
現に、江ノ電の大行列を目の当たりにした二人は、その人ごみに唖然として、材木座のあすかの自宅で過ごすことを選んだのだから。

「ハマかよ、しょーがねーな、行くか」
「えっ、だれが行くかよっていうとおもった!」

千冬はどんな装いであれ輝くけれど、あすかはまるで部屋着に近いようなセーターとジーンズ姿。
ベッドからおりた千冬をすがるように見つめると、まるで気にしないといったふうにあすかを呼びよせる。

「今からだよ、準備しな」
「ま、まって、て、定期、横須賀線つかえない……」
「定期ぃ?オレんハーレーでいくんだよ」
「あっ、あたしの車にしようか!」
「・・・・・・」
「あたしの車!」
「・・・・・・」
「そういえば、お母さん病院車のってちゃってるんだった」

ごそごそとバッグに荷物をつめはじめるあすかを見守りながら、千冬が胸をなでおろす。

「千冬さん?何ほっとしてるの?」
ちょっとうまくなったとおもうんだけどなあ……。

ベッドサイドの窓のカ施錠をたしかめた千冬が、スプリングコートをとって、あすかの肩を抱いた。  

「ま、あすかん隣もいいけどよ、しばらくは後ろに乗ってろ」
「千冬さんが隣で安心して乗ってられるよーにするよ!」

あすかの意気込む姿をさらりと受け流しながら、千冬があすかをみちびく。
あの町には、始まりを寿ぎ、しばしの終わりや別れを惜しむ男女が大勢集っているかもしれない。
どのルートをとり、どこに連れてゆくか。
あすかの肩をだきよせて、千冬が思案する。
あたたかく、とろけそうに、そして不安定にうつろう春という季節に負けぬように。
あすかが、しっかりと捕まえていてくれる千冬を見上げて、思い切り笑ってみせた。
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