特攻の拓夢百題
76 手のひらの汗

「せんぱい、うつるから・・・・・・」
「うつったことあるか?ねーだろ」

持病からくる高熱だとあすかは主張しているが。

その薄い口元に耳を寄せないと聞こえないような声で、あすかは、もうろうとした意識のなかで、うったえている。

そして。

「で、でも・・・・・・」
「ああ、いるよ。寝てろよ」

でも、あすかは、どうしても。

八尋に、そばにいてほしかった。



いつものように様子を見に来た八尋は、この家のあるじであるあすかの祖母から、あすかの現状をきかされた。もしも八尋が訪れてくれたら、通して大丈夫だと。それは内気なあすかにしては自我を押し通す物言いであった。


タイミング悪いな、帰るかよ。次なんか買ってくるかと思案しながら、屋敷をあとにしようとした八尋を、あすかの祖母が珍しく押しとどめて、中に招いた。

呼吸器に疾患をもち、ストレスを感じやすく、過敏な感受性と体質を抱えながら生きている子だ。本来なら、八尋が扱えるような少女ではないのかも知れない。それでも八尋は、みずからの起こした責任、そして、確かにこの子に感じる思慕を大切にしながら、あすかのもとへこまめに顔をだすことをやめない。今日は、あすかのもとへ足を運ぶ日にしては幾分か派手な服装を選んでしまった。髪型もいつもどおり。いささかアヴァンギャルド、悪く言えばちんぴらめいた八尋がおとずれても、祖母は何一つ顔色を変えることはないけれど。



熱は37.8度。八尋なら平気で動き回って汗をかいて治すが、あすかはとうていそうはいかない。ベッドに腰をかけて、厚い毛布にくるまれた彼女のことを、八尋は深刻な気色で見守り続ける。


バレンシアガ。
そう背中に刻印されたパーカーの裾を、もうろうとした意識の「男を頂点とする家族の枠組みがぎゅっとつかんだ


「めずらしいな、おまえが」

汗ばんだ手で、八尋にすがるように、ぎゅっとつかんだあすかの意識は、そこで事切れたようだ。ぜいぜいと繰り返されていた荒い呼吸はすっとおさまり、静かな寝息に変わった。


「いてやるよ」


八尋のパーカーのすそをつかむあすかの華奢なゆびを、そっとほどいた。手首をふとんにしまいこむ。


この家のあるじにおこられるまでは、いるつもりだ。

ベッドからたちあがった八尋は、あすかの部屋の、図書館のような本棚を見渡してみる。部屋のひろさは、八尋の実家と同等。そして、今八尋が暮らす部屋は、このあすかの部屋の半分だ。

そして、美しく並べられた本の背表紙をながめながら、ひとりごちた。

「本の趣味あわねーなあ」

実家の財力にまかせて上等な教育もうけてきた八尋は、書物がもたらす功罪も承知している。行動と拳と体験だけですべてを学べるとは思わない。もちろん、書物に耽溺するだけで何かが解決できるとも思ってはいないが。八尋も活字を読み解くことは難なくこなせども、家業の建築業関連の本や、ビジネス書経済書の方が趣味だ。
空想ににげこむような文学や詩は、てんで合わない。宮沢賢治。見知った名前をみつけて、分厚い全集を一冊ひきだしてみれども、八尋の理知的な脳をとかすようなひらがなの羅列に目眩がおこり、すぐに書棚にもどした。


本にはすぐに飽きた八尋が、あすかの勉強机に備え付けてある椅子を引き出してきて、腰をかける。この椅子も最高級のものだ。いいモンに囲まれてんよなあとつぶやいた八尋は、安心したようすで眠っているあすかのことを、じっと見守った。

指一本ふれないとちかった少女。


汗で、前髪がはりついている。


そっと左右にかきわける。


虚弱体質で体育をやすむことも多いという。運動量は不足するはずだが、習い事の影響か、食べているものがいいからか、あすかの肌はいつも、まゆだまのようにつるりとしている。

きめこまやかな額を、二度ほど撫でた。

八尋の大きな体が折られる。

あすかの額に、八尋はそっと、くちづけをおとした。





「・・・・・・」
「わ、わたるせんぱい・・・・・・」

眠っていたのは一時間ほどにすぎなかったようだ。八尋がきてくれたのは昼下がりだった。
またたくまに日が落ちてしまう冬、あすかの部屋の窓はもう赤い紫色に染まり上がっている。


しっかりねむったからか。あすかの体を昨夜からむしばんでいた疲労と熱は、すっかりぬけおちている。あすかが滅入ってしまう原因は、ぜんそくや生来の弱さにくわえて、なにより、精神的なものが大きいはずだ。頼りにしている八尋が、しばらく訪れてくれなかったとしたら、それはあまりに情けない原因だけれど、まだ、あすかは、不安や過去の傷に打ち勝てていない。支えてくれる人が必要なのだ。今日は、八尋がそばにいてくれたからだ。八尋に会いたい、そばにいてほしいと素直に願えたから、彼のそばで眠っていれば、今日大きくなった傷は癒えた。

もうろうとする意識のなか、八尋に甘えきってしまった記憶もよぎる。

そして、まるであすかがパワーを吸い取ってしまったように。


八尋は、あすかの椅子に腰掛けて、長い足をくんで、うつらうつらとふねをこいでいる。


「ごめんなさい・・・・・・」

毛布をあわてて剥いだあすかは、部屋着すがたであることもいとわず、ベッドからおりる。

そして八尋は、その気配であっさりとめざめた。ブランケットをひっつかんだあすかが、寝起きのいい八尋を申し訳なさそうに見遣った。

「・・・・・・」
「おはよーございます・・・・・・。今日、わがまま言っちゃって・・・」

長い腕をのばして、大きくのびをした八尋が、品のいい欠伸をひとつのこしてあすかにつげた。

「まだ夕方だからな」

八尋に流れる独特の時間を自覚しているあすかが、申し訳なさそうにうなずいた。

「これからがオレの時間なんだよ。おまえもいくか」
「・・・・・・ここにいます」
「オレもここにいるよ」

あすかをベッドにうながす。
すなおにうなずいたあすかは、まだ少しだけ疲労がぬけぬその体で、ベッドに腰をおろした。

八尋に掛けようと思っていたブランケットを、ほっそりとした肩にはおって。

祖母が夕飯の合図をだすまで。

閉ざされた部屋。赤紫の闇を隔てた穏やかな部屋で、ふたりは語り合い始めた。


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