特攻の拓夢百題
73 白馬に乗ったお姫様

蒼紺のタンクを誇り高く煌めかせた単車が、あすかの家の駐車場に鮮やかにすべりこんだ。
その背後を追いかけるように走っていた、一台の黒い軽自動車も、スピードをゆるめ、おそるおそる駐車する。

深い蒼のフォアのサイドスタンドが、慣れた足さばきで出される。

入念に手入れされた単車。そのオーナーが、感心と呆れの混ざった声で、軽自動車の運転手の名前を呼んだ。

「あすかちゃん……」

運転席からおりてきたのは、あすか。まるで、一仕事やりきったような、すっきりとした笑顔を見せて、単車のオーナーである八尋渉にぺこりと頭をさげた。

「すげー追尾だな……」
「追尾じゃなくて、あー、八尋さんがいるなあって思っただけです。ね、千冬さん」

バタンととびらをしめて、助手席から降りてきたのは、あすかの恋人の千冬。
胃をおさえ、整った顔をしかめたまま、深い呼吸を重ねて材木座の澄んだ空気を肺に満たす。

「西鎌倉で食ったケーキがよー……もどっちまいそー……」
「おおげさなんですよ。それに追尾してない」
「免許取り立てであのあおりかたかよ、有望だな、あすかちゃん」

軽自動車の側面には、初心者マークがぺたりとはりつけられている。
車のなかにこもっていた芳香剤と香水のにおい。
それも大好きなかおりだけれど、運転席からとびだして千冬と同じく冬の材木座の澄んだ空気を味わったあすかは、ごきげんにわらっている。
なんせ、自動車学校での講習を終えてから、公道での運転は初めてにひとしい。
しかし、単独運転ではない。千冬が助手席に乗ってくれて、あれこれとレクチャーしてくれたのだ。

「千冬さんが、自信もって運転しろってゆってくれたからだよ。ね?」
「自信もてっつっただけで、あおりくれろたぁいってねーよ……」
「あおってないよ。自信をもって運転しただけ」

あすかの母親がぴかぴかにみがきあげた車体。千冬がそこにへなへなと体をあずけてみると、つめたくて気持ちいいが、潮気がある。べたつきを頬に感じるのは、R134を走り、腰越から306号にのって西鎌倉の高級ケーキ店へ初ドライブデートを敢行したからだ。


千冬としばらく会えない間に、あすかがこっそり通っていたのは大船の自動車学校。

路上教習は恐ろしくてたまらなかった。不良少年らしき集団と一緒になった高速教習はもっとこわかった。もっとも彼らは、礼儀正しい人物たちで、教官がおごってくれたアイスをあすかも一緒に食べた。
縦列駐車も苦手だ。第一段階のクランクで、何度あの、ばらばらとぶらさがった謎の鉄の棒にぶつかったことか。
それでも、すべての試験をなんとか一発で切り抜けて、無事、あすかの免許証には、原付にくわえて普通自動車運転免許もくわわった。
何度千冬に泣きつこうかとおもったことか。コース表と半泣きで格闘した夜をおもうと、千冬に指をさして笑われてしまうであろう。
車があるからそもそもわたしはこんなに苦労してるんだ!なんて、そんな筋違いの怒りすら抱いた。

それでも無事自動車免許を取得した。

いつのまにか自動車免許を取得していた事実は、千冬をかるく驚かせた。原付すらおそるおそるルールに生真面目に則って扱うあすかが、スムーズに車の免許を取得したこと、何の相談もなかったこと。それらすべてに千冬は驚いたのであった。

免許証の写真は相変わらず仏頂面、ただでさえ容姿のたいしてすぐれないあすかのなかでも、もっともみっともない写真になったが、千冬はきれいだとほめてくれる。

「あすかちゃん、なんかのりてーのあんのか?」
「ぜんぜんわからない。配達できればいいです」

八尋にそう質問されても、車や単車に詳しくないあすかは、答えようがない。
安全に乗れたらかまわない。できることならデザインのかわいい車がいいけれど、そもそもデザインかわいい車というものが、あすかにはよくわからない。

「あれとかどーよ……」
「あすかにぁよ、あれとかよ……だいたいこの店、けっこーもーけてんだぜー?かえんべ?」

八尋と千冬が、あれこれとあすかに向いた車の話をしている。
あすかにはかけらもわからない話だ。
そしてそもそも、ダッシュボードにはすでに真っ白のふわふわなマットが敷かれてしまっている。これは、千冬の母の車から、千冬が奪ってきたものだそうだ。母親と兼用の車だが、あすかが車にこだわらないかわり、千冬の趣味で染まってしまうのだろうか。

「ぜんぜんもうけてないし、軽トラにするー」
「あすかAT限定だから乗れないよ」
「そっか……。解除すればいいの?」
「最初からミッションでとっとけよ」
「絶対無理だったとおもう」
「そんなことねーよ、オレ教えてやるよ」
「千冬さんは持ってるの?」
「一発免許でとったよ」

あれにしろよと最後に八尋が述べた車は、あすかには到底判別のつかないカタカナ言葉。千冬はげらげらとわらっているけれど、何が面白いのかも理解できない。
軽く手をあげ単車に鮮やかにまたがった八尋が、材木座海岸のほうへ消えた。

「八尋さん、ケガすっかりなおったね」
「ああ」
「千冬さんもだね」
「寝りゃなおるっつったろ?免許さー、オレ教えたのに」
「千冬さんに甘えててばっかだから、頼らずにこっそりやってたの」

キーをジャケットのポケットにしまいこんだあすかが、小さなバッグのなかから店のシャッターのカギをとりだした。今日は定休日であるはずだが。
店あけんの?
千冬が、そう声をかける。

「請求書作りだよ。暖房つけるから、ちょっとだけ休んでて。すぐおわるよ」
「オレんちの、もって帰るよ」
「千冬さんち、支払いの分はちょっとだけだったな、いつももらってるしね」

シャッターの中には、千冬のハーレー。
大型とるときぁよ、コイツで練習みてやっからよ!
そううそぶく千冬に、あすかは苦笑いをみせる。
軽自動車ですら必死なのだ。千冬がそばにいて自信を与えてくれなければ、今日だって勇気をだして運転はできなかった。教習を重ねていくうちに運転が楽しくなるだろうかと考えていたけれど、楽しさより義務感や恐怖が先にきた。
こんなネガティブなものをとりのぞくために、つまるところ千冬に今日も頼ったわけだ。
追尾やあおりとやらをしたつもりはなくて、結局明日から普通の初心者まるだしである運転に戻るであろう。

「ガッコ、車でいくの?」
「車通学禁止なの。電車で行くよ」
「ハマだろ、遠いよなあ……ときどきオレおくってやろうか。夜だろ、ハマいくときあんし」
「たまにでいいよ」
「甘えてよ」
「甘えまくってるよー!今日だってそうだったじゃない」


そのとき、控え室に千冬をおいて店の中へ進もうとするあすかの腕を千冬がとらえた。

ジャケット越しの腕をぐいとひっぱられて、そのまま千冬の身体のなかにおさめられる。彼女がさげていた小さなバッグが、控室の床の上にすとんと落ちた。

「わっ……」

あすかのことを背後からぎゅっと抱きしめた千冬は、そのままあすかごと、ソファの上にどさりとすわりこむ。

千冬がゆったりと横になれる大きさの青色のソファは、千冬とあすかの重みでスプリングが深く沈んでゆく。

「千冬さん!」
「せーきゅーしょあとにしよーぜ」
「後でもいいんだけど…」

あすかが千冬の気持ちを伺おうとするまえに、あすかをソファにひっぱりこんだ千冬は、精悍な腕の力を強めながらぼやいた。

「最近おまえが甘えてくんなくてつまんねー」
「またおまえっていわれた……」
「おまえとオマエのニュアンスのちがいって何よ?」
「千冬さんは、自覚ない?」
「ねーんだよな……名前でよぶよ、なるべく。でもよ、ときどき」
「千冬さんが焦ってんときだよね。でもあたし、甘えっぱなしじゃん!今日もだし」
「そーゆーのだよ」

甘えるも何も、千冬と会えたのはこれもまた、久しぶりなのだ。
八尋と千冬二人で、何やらいろいろと動いていたらしい。
もちろんそんな族の世界の詳細はあすかに届くはずもないけれど、結局今日も、千冬に支えられて初ドライブがかなった。いつも渋滞している134号。今もやっぱり、千冬のハーレーの後ろあるいは江ノ電の車内から眺めるほうがきらくだけれど、千冬と走ればこれから車も楽しくなるかもしれない。

「千冬さん、これだといろいろやりにくい……」
「何がよ、こいつがいいかよ」

あすかを背中から抱きしめてすわりこんでいた千冬が、そのままあすかを器用に組み敷く。少し痩せた背中が青いソファに横たえられた。

「そ、そうだけ、ど……」

さきほどあすかが押した暖房のスイッチ。
この控室にも、鈍い温風がようやく届き始めた。
今日の千冬は、すとんと降りているストレートヘア。
ケーキを食べてもはがれないそのルージュは、あすかのくちびるをやさしくつつみあげる。生クリームのあまみが残るくちづけを、一心にあびつづける。

「……ひさしぶりだよね?」
「いや、そーでもねぇよ。10日ぶりくらい」
「あたしには、ひさしぶりだよ」

千冬が器用に靴をぬぎすてている
あすかはまだ、スニーカーをはいたままだ。

「単車ぁとらねーの?」
「車が怖くなくなったら、とろうかなあ」
「あんだけあおりくれといてよ、こえーはねーだろ」
「だからー、千冬さんがそばについててくれるから、怖くなかっただけ」
一人だと怖いなあ

「それに、煽りじゃないよ。一人のときはおとなしく運転する」

八尋をみつけるまではずいぶんのろのろとした運転であったけれど。
そんな運転はかえってあぶないことも、車内でさんざんレクチャーしたが、あすかはハンドルをぎゅっとにぎったまま、背筋を硬直させていた。
そんなあすかの様子を思い出して、軽い化粧をほどこしたあすかの顔をぺたぺたと撫でながら、千冬がすすめる。

「あすか背あるからよ、単車ヘーキだと思うぜ」
「車に自信がついたら、考えてみる」

それにー……。
千冬に組み敷かれたまま、あすかは、精一杯の甘えをみせてみる。

「王子に迎えにきてもらうからー、しばらくいらない」

そして、その言葉があまりにみっともなかったこと、
あまりに恥ずかしかったこと、
あまりに浅薄、くだらなく、うわすべりで、
あまりに酷薄であることを、あすかは一瞬で自覚した。

あでやかな眼元をへらりとゆがませて、たまらずわらいだした千冬のそのきれいな顔から逃れるように、あすかは両手で顔を覆って声にならない悲鳴をあげる。

「今のはなかったことに…」
「しねーよ、だから甘えろっつったろ?」
「今日どれだけ甘えたと思ってるの。それより、車酔いなおった?」
「よってねーよ」
「次はちゃんと運転するよ」
「オレぁよー、車ぬるいんだよな…アイツのほうが向いてるよ」

アイツとは、あすかの店のシャッターのなかでおとなしく千冬を待っているハーレー。
いつかあすかも単車をあやつる技術をみにつけて、千冬のことを迎えにいけるナイトになれるのだろうか。
お姫様なんてはずかしいし、まだ軽自動車を操る肝っ玉すら育っていないのに。

「王子もわるくねーな」
「忘れてください…」

そんな思案をかさねるあすかに、またも深いキスがあびせられる。
千冬のスレンダーな背中をあすかがばしばしとたたく。
ひとまずこれがおわったら、仕事を高速で片づけて、次のドライブの算段を練らなければ。
境界を越えようとする千冬の手をぎゅっとにぎりしめて軽い抵抗をみせながら、あすかは、千冬の与えるあたたかいキスを、一心に浴び続ける。
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