特攻の拓夢百題
63 呼吸困難

「あすかさんは、おにいちゃんが、ろくさあぬだってこと、わかってますか!?」
「・・・・・・ん??う、うん、知ってるよ」


女子野球部の活動が始まるのは、相変わらず夕刻を過ぎた時分だ。秋風ふきすさぶなか、体力みなぎる部員たちに懸命につきあいながら、無理に部活を続けていたことがたたってか。
鼻とのどに激しいダメージを受ける持病にあっというまにむしばまれたあすかは、階下まで這い降りて、息も絶え絶えに自宅の電話のボタンを押した。

土屋とひさしぶりに会う約束をかわしていたものの、この体調では、どうにも無理がかなわない。持病ゆえ感染の心配こそないが、無茶して会ったところで土屋に面倒をかけるだけであろう。

やむをえず断りの連絡をいれようとすれば、この電話を受けたのは、土屋のちいさな妹ぎみであった。

何度か電話をとりついでもらった、この、10という年齢にしてはずいぶんしっかりとしている女の子。幾度か会話をかわすうちに、初めは警戒していたあすかにも、ずいぶん打ち解けてくれたようで。ませているとも呼べる彼女は、この日突如、深刻な声でそんなことを述べてきたのだ。

「ぞくとつきあうなんて、かっこよくなんかありません!」
「うん、かっこいいとかかんけーないよ……?」
「あすかさんに、めえわくがかかってしまうかもしれません!」
「ん、迷惑なんかかけられたことないよ……。あ、あのね、土屋くんに、よかったら……」

そのとき。
電話口でギャーギャーともめる声がきこえたあと、受話器から漏れてくる声は、土屋の声にかわった。

「……わりーあすか……」

テメーはさっさと寝ちまえ!そんなことを電話口でしかりとばした土屋の声。この声をきくとあすかの胸の奥がすうっと鎮まってゆく。

「あ、あの、土屋くん、あのね……」
「何その声、酒か?いや、鼻声じゃん、どうしたの」
「酒じゃなくて……体調、くずして……ごめんね、明日約束してたのに……」

電話口から、だって!!わたしはしんぱいなの!!と、さけぶ声。自分自身が小学校中学年のとき、他人に対してこんなにませた気遣いをみせたことがあっただろうか。そんなことを思い返してみるも、小学生のころのあすかは、いたってどこにでもいるこどもにすぎなかった。

うるっせーあっちいってろ!土屋がしかりとばす声のあと、ワっと大きく泣き出す、女の子の声。

激しくせきこみながら、あすかは土屋をたしなめる。

「ちょ、ちょっと土屋くん、いじめちゃだめだよ・・・・・・?」
「オトナの会話にわりこむガキにはあんくれーしねーとだめなんだよ」
「まあ17だけどさ……たたいちゃだめだよかわいそう……」
「嘘なきだよ嘘なき。んじゃ明日無理だな……ちゃんと休んでな」
「ごめんね……今度、ちゃんと……」
「オレんことなんかかまわねえよ、ぜってー家でねてろよ?」
「うぅ、ありがとう……妹さんにもよろしくね……」

妹に会ったことはないけれど、土屋に似た女の子だろうか。ともあれ、ことわりの連絡をすませたあすかは、もこもこに着込んだパジャマすがたで、這うように部屋に戻った。

それにしても、なかなかさがらない高熱だ。顔が重い。頭も重い。のどはめちゃくちゃに痛みきっている。汗がかわかぬまま眠ったり、首元から風がしのびこみ体のなかに細菌がはいりこむとき、あすかがいつも発症するのは、カゼからくる副鼻腔炎だ。顔中にどろどろと膿がたまって、のどと鼻をぼろぼろに蝕み、熱をだして、体をいためつける。

これ以上、まともに起きあがることも困難だ。ぶつぶつと文句を言いながらも気遣ってくれる母親のつくってくれたおかゆを口にして、薬を服用すれば、どろどろと眠りに落ちる。



夢の中に、ゾンビがでてきた。病み患っているとき、あすかはいつも、坂道や階段から落ちる夢を見る。何かにおいかけられるように走りきって、階段からころげおちそうになったとき、あすかはぱちりと眼がさめた。

汗をかいたパジャマを着替えて、顔をざっと洗い、階下で食事をとる。
熱はまださがらない。
薬をあびるように飲み、着替えてすっきりとしたパジャマで、またも這うように階段をのぼる。あすかが眠っているあいだに、部活の友人たちが見舞いの電話をくれたようだ。

遅い目覚めだった。もう11時をまわっている。昼食をとる気もおきない。部屋にもどって、姿見の前をとおりすぎると、肌はどんよりとくすみ、赤毛はみっともなくぱさついている。野球部のエースとつきあっている友達は、眠るときすらメイクをほどこしているらしい。そんな美意識はあすかに欠けている。せめて、髪の毛は、スプレーをかけてからブローでもしておくか。ブラシとドライヤーをとりあげて、昨日から洗っていない髪の毛を、ひとまずできる範囲で手入れした。

ふらつく頭。おもいきり鼻をかんだあと、むせるように咳をして、ベッドにもぞもぞともぐりこんだ。



何時間眠っただろうか。
きちんと閉めていなかった扉から、秋口の冷気とともに、階下のさわがしい声が聞こえてくる。
母親の客人だろうか。うとうとと蕩けてしまうようなまどろみのなか、音に耳をかたむけていると、階段がきしむ音が聞こえてくる。

母親が食事をつくってくれたのだろうか。空腹感はないけれど、食べなければ薬は飲めない。

あすかの部屋の扉がギギと押されたとき、聞き慣れた声が、あすかの名前を呼んだ。

「よー、あすか。デージョブかよ」

扉のすきまから、顔をのぞかせて。
へらりとわらってくれた、その姿は。

「土屋く……ん……!」

彼氏の名前を呼んだとたん、あすかののどにからんでいた膿と、あすかの全身にはしったおもいがけない衝撃。

あすかが激しくせき込みはじめ、それは、呼吸困難に近い症状すら呼び起こす。

少しでも肩をだすと、とたんに寒気が体をおそうのだ。だから、肩まですっぽりと布団におさまって、みのむしのように頭だけ出したあすか。

お礼をつたえたいのに、土屋の名前を、もっとはっきりと呼びたいのに。

咳、めまい、困難な呼吸が、それを阻む。

あすかが、もうろうとかすむ視界にとらえたのは。

「で、でーじょぶかよ、あすか……」
びっくりさせちまった?

片手にコンビニの袋をさげて、片手はポケットにつっこんでいる。

すらりと背の高いその姿。

確かに土屋だ。

しかし、いつもの土屋ではない。

なぜなら、キレイに染め抜かれた髪の毛のはずなのに、なぜだか今日は、不自然に真っ黒。

そして、いつもの土屋が纏う、しゃれたスーツ姿ではないのだ。

土屋が着ているのは、ブレザー。それは、確かに、あすかと土屋がともに通った中学の男子の制服だ。

マスクをおしさげると、その下から、相変わらず整った顔立ちがのぞく。

土屋の目元をかざるのは、どこからもってきたのかわからない、銀縁めがね。

そこにいるのは、そこそこ優等生に見える男の子。

そして、間違いなく、土屋だ。

「つ……つ……」
「あすかさんのクラスのものですが、ノートをもってまいりました」

土屋が、妙にかしこまった物言いをするものだから、あすかは笑いがとまらない。

「く、くるしい、から、わらわせないで……おねがい……」

胸がひゅうひゅうと鳴ったあと、胃液のようなものがこみあげる。
見慣れぬ土屋のすがた。
感謝と笑いがこみあげて、あすかは自分の呼吸を落ち着かせることができない。

「ああ、わりー。なによ、オレ、似合ってねえ?」
「ううん、に、にあって、て……こっちこそ、ご、ごめんね…………。お見舞い、き、きれ、き、きれくれる、って…………」
「なにゆってんかわかんねーから…………あすかおちつけ」
「き、来てくれるって、思わなくて……ありがとう、土屋く……ん!」

ベッドのそばに土屋がぺたりとすわりこんだ。
そばに来てくれた土屋をみあげたあすかは、ひとまず、いつもとの違いを指摘してみる。

「め、めがね」

似合ってんだろ。
土屋がめがねをとる。テーブルのうえにことりとおいて、冷たい手が、あすかの額にふれた。

「ああ、熱、たけえな……」
しんどいだろ……。こりゃ外でれねーわな……。

土屋にかからないように、胸のなかに咳をおさめたあすかが、そっと尋ねる。

「どうしてまた……?」
「これだとよ、あやしくねーだろ?オマエのお母さんのチェックもあまくなる」

黒髪は、スプレーによるものだろうか。
土屋の整った顔立ちをいやみに際立たせている。髪色は、いつもの方がいいかもしれない。髪形も同様だ。こんなにぺたりと寝かせた髪型。整いすぎて、怪しすぎる。

「彼氏ですっつーのは、あすかの許可とってからにしよーと思ってよ。でもお母さん、あっさり信用しすぎだぜ?」
「うちのお母さん、あたしには用心しろっていうのに、自分は脇があまあまなんだよ」
「あっさり通してくれっちまった。考えてみりゃよ……やべーよな?これ、オマエねらいの別の男だったらよー、襲われっちまうべ……」
「…あたしに会いに来る男子とか土屋くんしかいないから、大丈夫……」
お母さんも有頂天だったんだね  

あすかが、深いため息をついた。
土屋が、ナイロン袋のなかからスポーツドリンクをとりだして、そっとストローをさしこむ。
それをあすかの口元にあてて、軽くすわせた。
少しだけのどをうるおしたあすかが、ありがとうとつぶやいた、かすむ瞳で土屋を見つめる。

「気、つかわせちゃったね、ごめんね。ありがとう土屋くん」
「いーや、おもしろかったし、ダサ坊のコスプレ」
「わ、わらわせないで……おなかまでいたくなる……」

土屋に背を向けて、くの字におりまげて、あすかはせき込む。

んだよ、そんなにヘンか?
そううそぶいた土屋が、なつかしいブレザー姿のまま立ち上がり、姿見の前にたってみせる。

「ううん、なんかフツーにかっこいいから 黒髪似合うねー?」
「マジ?ダサ坊ファッションもわるくねーよな」

改造ブレザーは元に戻されている。そして、土屋のシルエットは、やや幼くなる。いつものスーツは、土屋のことをずいぶん大人につくりあげていることがわかる。背が伸びたのか、丈も足りていない。年相応の土屋だ。

「お見舞いありがとう」
これ、持病だから。うつるカゼじゃないから、大丈夫だよ。

あすかが土屋を気遣うと、土屋の表情が、やや艶をおびた。

「ん?そーなの?じゃこれもできんべ」

まだ、あごの下におしさげられたままだったマスクをむしりとり、めがねのそばにぽいっと放っって。
土屋のくちびるが、ベッドの上に横たわっているあすかのもとへ近づく。

胃液まがいの液や、鼻からたれて唾液と変わった膿や、かわいた口のにおい。ろくでもない状態のあすかに、土屋はそっと、かわいたくちびるをおとす

「うつらないからね……?」
「ああ。ポカリの味がした」

土屋が、ぺろりと乾いた唇をなめる。

そして、熱をもっているあすかの頬に、土屋の骨ばった手がふれる。

「げっそりしてんぞ」
「メイクもしてないしね……」
「顔はかわんないよ。でもやせてみえる」

土屋は、あすかの前髪で、ぺたぺたと遊んでみせる。
さきほど、申し訳程度のブローをあてていてよかった。

土屋の切れ長のひとみ、薄い眉毛。
その視線は、日頃よりもただただ優しくあすかを包む。

「ムリしたんじゃねーか?」
「部活やってただけ」
中間も終わったばっかだったし  

「ああ、それをムリっつんだよ」

ビニール袋のなかをごそごそとあさった土屋が、ゼリー飲料をさしだした。

「はいこれ、吸うだけで食えんぜ、起きる?」
「このままでいい。背中もいたくて……」
「はい」

ありがとう。
土屋のわたしてくれたゼリー飲料を吸い上げる。スポーツドリンクの味のそれが、乾いた体に一気にしみこんでゆく。
ほっとため息をついて、もう一度ありがとうとつぶやいたあすかの頬に、土屋がそっとくちびるをおとした。

にしてもよー。
そうぼやく土屋は、あすかの熱をもう一度確かめる。
あすかは、その冷たく骨ばった大きな手に、甘えるように目をとじた。

「あっついゾ……」
「ちょっとさがったかな。37度8分くらいかな?」
「もっとたけーぞ」
あ、リンパもはれてんな  

土屋が、あすかのことを肩まで隠している、女の子らしいシーツに包まれた布団をすこしだけ折った。

浮き出た鎖骨。汗はかいていない。
チェックのパジャマ。
開いたえりぐり。
第一ボタンの隙間から、土屋の手がしのびこむ。

やや腫れたあすかの首もとを、土屋の冷たい手がそっとひやす。

「えっろい……」
「ここまでだよ、こーしといてやるよ」

軽くせき込んでしまったあすか。
あすかをいたわるように首元をなであげた土屋は、布団をもう一度肩までひきあげた。

これものみな。
栄養ドリンクのふたをあけて、布団のなかからあすかの手をひきだしてやり、そこにそっと持たせる。
ありがとうとつぶやいて、あすかは、横たわったまま、かさついた口元に慎重にあてる。

土屋はそのままベッドの枠に背中をあずけ、中学時代に愛用していた制服のポケットから、たばこをとりだした。

不摂生をかさねているのに虫歯ひとつない歯で、たばこを一本ひっぱりだす。

「たばこ」
「くわえてんだけだからよ」
「いーんだよ、吸っても」
「弱っちまってる彼女のそばで、吸えんかよ」

クスリと笑い、そううそぶいた土屋がひらひらと手をふったあと、あすかを安心させるようにちらりとふりむき、へらりと微笑んで見せた。

がしがしとたばこをかみながら。
あすかの部屋に貼られている、あすかが好きだと言っていた映画のポスターをぼんやりと眺めている土屋が、ぽつりとつぶやく。

「あすか」
「なにー・・・・・・」
「はやくよくなってよ。休みの日によ、あすかいねーとつまんね」
「土屋くんには、あたし以外にもいろいろあるじゃん……だから、さみしくないね」
「んだよ、妹のゆったこと気にしてんのか?」
「かわいいね、妹ちゃん……。気にしてないよ……」

かすれたこえで、あすかがうわごとのようにつぶやく。
マジでデージョブかよ?そうつぶいやいた土屋が、あすかに向きなおって、枕元に置かれていた、からっぽの栄養ドリンクのビンをとりあげた。

「気にしてないし、族とつきあってるアタシかっこいい、なんて、思ったことないよ……」

空瓶を、ビニール袋に放り込みながら。
幼いころの制服姿であすかに背をむけ、土屋は、あすかの弱り切った声に、耳をかたむけている。

「土屋くんだから、すきなんだよ」
「しってんよ」

あ、ジイシキカジョーか?
もう一度、ベッドの枠に背中をあずけて。
丈のたりないズボンにつつまれた長い脚をだらりと投げ出し、土屋は、あすかのそばについている。

「オマエに迷惑かけるよーなことがあったらよ、すぐオレは」
「ない」
「……」
「ないよ、そんなの」

はずみでせき込んだあすか。
ベッドからわずかにのぞいた手を、土屋がとりあげてぎゅっとにぎった。
あすかの、小さく、ほっそりとした手。いつもよりずいぶん頼りない。

「あ、その心配もしてくれたの?大丈夫だよ……」

重たい鼻をすすりあげる。
土屋の骨ばった手を、ぎゅっと握り返す。
こんなとき、誰かがそばにいてくれることが、こんなにあたたかいことだなんて。
涙をそのままこぼす元気すらなくて、あすかは、ゆっくりとつぶやいた。

「だって、土屋くんが、あたしのこと、大丈夫にしてくれてるんじゃん。守ってくれてる」
それにのっかっちゃってる……。自分でもちゃんとしなきゃ、だめなのに。

土屋が、あすかの手を両手でつつみこむ。
両手のなかにおさまった、あすかの弱った手に、お姫さまにキスをするナイトのようにキスをおくった。
なんだか、それは、大げさだけれど。
照れ笑いをする元気もない。

「わかっててくれるだけでいいよ」
「あのね、土屋くん、そのカッコも、わるくない……」

あすかが眼をとじる。
乱れた赤毛。さらりと流れる前髪を、土屋がやさしく梳いている。

「アイツよー、小学校の作文でよ、わたしのあには、ろくさーぬのかんぶです!って書きやがんだぜ……」
「だ、だ、だから、わらわせないでってば……呼吸困難になっちゃう……」

ふたたびコンコンとせき込みはじめたあすかのことを、土屋が、どこか冗談めいた口調でたしなめる。

落ち着いたかー?

力なく笑っているあすかの頭を丁寧になでて、あすかのことを落ち着かせてやる。

「早くなおせよ。んでよ、遊びいこーぜ」
「いきたい…。あとちょっとだけ、こうしててくれる……?」
「いるよ?あすかが寝るまでいてやる」
なおるまでガッコいくんじゃねーぞ。休めよ?

まったく、面白いほど似合いながら、面白いほど土屋のことを幼くみせる、ブレザー姿。そして黒髪。そのメガネはどこから持ち出したものなのやら。

土屋のあたたかい言葉にうなずきながら、あすかは笑いがこみあげてくる。

この格好で帰るとき、母親のまえでまたも優等生ぶってみせるのだろうか。
治ったときに、母親の土屋評を聞くのが、楽しみでもあれば、心配でもある。
どんな服を纏おうが、どこに属していようが土屋がどこの何者であろうが、
土屋は、あすかにこんなに優しい、あすかの大事な彼氏だ。

「何笑ってんの。ついててやるからよ、安心してねむっちまえ」
「うん、土屋くん、大好き……」

へらりと笑ってあすかを見つめる土屋。
その優しいことばに、素直にうなずいたあすかが、安心したように瞳をとじた。
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