特攻の拓夢百題
57 遊びに行こう

「今日、雨かと思ってました」
「あ?んでだよ?」
「昨日降ってたよ?」
路面も・・・・・・。

千歳が指をさしてみせた夏の終わりの路面は、ふかい黒と乾ききったグレーのコントラストをくっきりとみせている。

こげつくような音をたてて水分はきえゆき、海辺のこの島にかげろうをくゆらせはじめる。

一足さきに単車からおりた秀人はそのコントラストを何の気もなさそうに一瞥したあと、道中やや忌々しく味わいつづけた夏空を振り仰いだ。


わすれな草の色。

この空の色は、道中、秀人の精悍な腰にしっかりとしがみついていた千歳がいつか教えてくれた。

漆黒の空とはりつめるような熱に慣れた秀人。澄んだ昼の空も彼に似合うはずだけれど、漆黒の闇を纏うことのほうが誇らしいのだろう。秀人がそらに抱いたかすかな興味は、夏の熱にじっくりと融けて消えてゆく。


千歳は、そんな空を見上げてしまうと、直射日光が澄んだ瞳にささってしまうから、うつむいてばかりだ。リアシートから降りるさまもいつしか手慣れた千歳が、繊細なレースアップシューズで慎重に土をふみしめる。分厚い靴底は、駐車場のぬるい土の感触を千歳につたえることはない。
秀人との逢瀬のたびに、単車にのせてもらうことに向いた靴を姉にかりていれば、いつしかこれは千歳のものとなった。


ひととおりの所作は覚えたから、ひとりでできてしまうはずなのに。
ひとりでやってしまいたいのに。


千歳の繊細な手は、秀人のすこし汗ばんだ無骨な手にさりげなくとられてしまう。すこし汗ばんでいるけど、けっして不快なんかじゃない。千歳の手をあっさりととりあげて、いとも簡単に引き寄せてしまった秀人の手にあっさりととらわれてしまう。この駐車場は、足下が悪い。すこしふらついた千歳の背中をそっとささえた秀人が、千歳の問いかけにけげんな声で回答した。


「あんくれーよ、降ってるっていわねんだよ」
「言うとおもう・・・・・・!」

ユニセックスなかおり。これは香水じゃなくて、リンスのにおいなのだ。吉岡が買い与えたものをわけもわからず使っていることを千歳もよく知っているが、その質のいいヘアケア用品は、秀人の潔さをますます磨き抜く。

秀人の腕に体をあずけたまま、千歳がかわいい声で反論する。
いつのまにか、秀人にも、自分の意見をつたえられるようになった。もっとも、単車が絡んだ言い争いなんて、らちがあかない。秀人ののびやかなさまのまえに、千歳の気ぜわしさなんてすべてとんでしまう。千歳のちいさな声を笑い飛ばしてしまった秀人にわざとらしいためいきをついてみせても、この海のような秀人のまなざしのまえでは、無意味だった。すこしすねた口調の千歳を、秀人がまるでこの湘南にかかる空のように、からりと笑い飛ばしてみせれば、その澄んだ笑みと声は、千歳のことをさっぱりと包み込む。

秀人の心と身体への心配や懸念はつきないけれど、大丈夫だ、そんな力強い言葉のように、今ここで秀人のそばにいられる時間の尊さを千歳は抱えこむしかない。


駐車場のかたすみから、道路へ歩いてゆく。千歳は、秀人の単車以外興味はない。秀人もそこは同様で、他人の単車をぶしつけにながめまわす趣味はないようだ。

そこになにがあろうと。

そこに、己との愛機と色違いのマシンがあろうとも。



秀人の足が地上におりたつと、秀人が注意をはらうのは、すこし後ろをそっと寄り添ってあるく千歳のことだけだ。
昨日身の回りに起こったことを、秀人のテノールがすらすらと語る。夏休みだから、学校に関する事象はそこに登場しない。秀人のあとを一生懸命ついていく千歳は、ショルダーバッグの肩ひもをぎゅっと両手でにぎりしめているから、まだ手をつなぐことはかなわない。かすかにそれを気にかけた秀人が、秀人のかたる言葉に耳を傾けることで精一杯の恋人の澄んだ瞳に安堵をおぼえて、あらためて気遣うように歩き始めた。


駐車場から少しあるくと、先ほどわたってきた橋があらためてふたりの瞳にとびこんでくる。
頭上にはトンビ。
千歳は見慣れた海。秀人にとって、すこし新鮮な海。


ここは。


「えのしま・・・・・・」

「千歳ぁよくくんのかよ」
「きませんよ」
「近所だろ?」
「じゃあ秀ちゃん、近くのあそこいく?」

秀人の実家の近所にある有名な観光庭園の名前をあげてみせると、そもそも秀人はそのなまえになんら覚えがないようだ。首をかしげる秀人のそのとぼけた間合いを指摘しながら、千歳もうなずく。

「私もそういう感じですよ」


ふたりがおりたったのは、江ノ島。


湘南随一の知名度、歴史、景勝地。

観光バスがずらりとたちならび、島のいりぐちの魚介料理店のオープンテラスは、こんな時間からびっしりと人で埋まりきっている。千歳も秀人も、年相応の味覚だ。あぶられるさざえはじめ貝類に、かすかなアルコールのにおい。そんなものにそそられる老成した第六感はたずさえていない。
喧噪をすどおりしながら、秀人の早い歩調に千歳が懸命にあわせる。レースアップシューズの足下がもつれそうになるとき、秀人のあゆみは、千歳と同じになる。

「なにがあんだよ、江ノ島ってよ」
「走りに来たりしないの?」
「ああ、しねーなー。とおりすぎっちまうよなあ・・・・・・」

まっすぐ疾走ることを信条とする秀人が、意外にも頻繁に湘南をルートとしてえらぶことを、千歳はよく知っている。その帰りに千歳のもとへおとずれてくれるかどうか、それは秀人のご機嫌、スピードへの満足度、そして千歳が、スピードをもとめたあとの秀人をおそれぬかどうか。そんなデリケートな案配をみはからって、秀人はときどき、湘南すら己のものとする。

でも、ここ。

江ノ島とは、無縁だったようだ。

この時代にぴったりの、ふるめいた風情。
だけれど、ふたりと同世代のカップルや、おとなびた男女も散見される。湘南にあこがれる人は、千歳がおもっているよりずっと多いようだ。秀人にどこに行きたい?と問われても、千歳は、言葉なんてでてこない。あなたといっしょにいられたら、それでかまわないからだ。そんな言葉をうまくつむげないまま、もっとふさわしい言葉をえらぶために逡巡していると、そう千歳に問いかけた日の秀人は、そのままあいまいにごまかすことはしなかった。

いや、いつだって秀人は、あいまいにものごとをごまかしたりなんかしない。

ただ、千歳のことをまってくれるというだけだ。その日の秀人は、いつもよりすこしせっかちだった。なぜだかすこし焦っていて、千歳から言葉を引き出したがった。それは、千歳が雑魚チームの特攻服を纏った男ににナンパされていたという情報を吉岡から聞き出したからなのだが。即座に判断をみちびきだすことが苦手である千歳が、けんめいにさがしあてたのは、江ノ島。そんな言葉だった。

橋桁から海が広がってゆく。
空と海の境目に雲がよこたわり、上空は見事な空色、そしてわずかな雲と解け合うように白がとろけて海に消えてゆく。ブルーのじゅうたんのような海は、千歳は見慣れているけれど、秀人とながめる海は、格別だ。

もっとも、今の秀人は、海などみていない。

夜に湘南を走ったときにあえるもの、かんじるもの、それを千歳にわかりやすく語り明かしてくれていた秀人。

その言葉も、そういえばいつしかとまっている。

秀人といることだけでいっぱいになってしまう千歳は、その気配をまだ悟ることがかなわなかった。

夏の江ノ島のやけ焦げたアスファルトをふみしめる秀人のこぎれいなスニーカーが、やがてあしどりをとめた。


「えっ!」

日に焼けることをなるべく避けたい千歳が身につけている衣服は、ひじあたりまでつつむ繊細なブラウス。
そのデリケートな布地ごと、千歳の華奢な二の腕が、秀人の力強い手にひっつかまれた。

そのまま、秀人のあたたかく広い背中に庇われてしまう。

華奢な千歳のからだは、秀人の背中におおいかくされることとなる。
夏の江ノ島の喧噪だったはずが、すこしの人垣ができあがっている。秀人のすがすがしい風情が人目をひくのはいつものことだが、この気配は、いつものものではない。秀人の力強い背中と腕は、千歳を守り抜いてやまない。この力強さに守り抜かれることは、滅多にないことなのだ。なぜなら、千歳を体一つで守るまえに、そもそもこの少女に、危険など迫らせぬから。

こうなってしまった秀人に声をかけることは手強いけれども、千歳としても久々の逢瀬をスムーズにすすめたいし、こんな観光地で何らかの不穏なことをはじめてしまうのもしのびない。

「秀ちゃん・・・」

つとめておだやかな声で、千歳は秀人のことを思いやるように、名前をよんだ。

秀人が千歳を支配する腕を、千歳も心とちからをこめて、押し返す。守られる、そんなシチュエーションは、この場所には似合わない。何が起き始めているのか、確かめなければ。

気ぜわしげな千歳が、秀人のことを見上げて、表情をたしかめる。

そのまっすぐな瞳にやどるのは、かすかな憎悪。

そして、めずらしい戸惑い。確かに戸惑いがそこにある。

秀人の腕をつかみかえした千歳が、その視線のさきを追いかけると。





むかしなつかしい屋台で、アイスを買ったばかりの天敵。

この暑気のなか、ピンストライプのスーツをまとった青年。


緋咲薫というなまえを、千歳はまだ知らない。



千歳がその艶やかな青年のことを見つけた瞬間、なぜだか秀人の全身から、力がぬけていく。

数メートル向こうでやや呆けたような表情をみせたあと一気に殺気を纏わせた緋咲が、残忍な名乗りをあげるまえに。

秀人が、意地悪なな先手を打った。

「おまえよー、この暑いのによ、スーツとかバカじゃねーのか」
「バカだと!!!??」

何が始まるのかと思えば、開始の号令は、意外にも稚気にみちた滑稽なやりとりであった。安堵と呆れ両方を抱きながら目を白黒させて見守る千歳は、秀人のみょうに幼稚なからかいの言葉にめずらしさを抱き、ひとまずたしなめようとする。秀人の揶揄をあっさりと買ってしまった青年と秀人をみくらべながら、千歳が言葉をさがしはじめる。男性の容貌を重視しない千歳にとって、このずいぶん華やかな青年の飛び抜けた顔立ちより、夏の熱気のなかでまとわりつく香水の匂い、そして秀人と対等にわたりあう自信にみちたすがたに、興味をひかれてやまない。


もしかしたら、この背のたかいひとは、日光アレルギーかもしれない。


特徴的な衣服を揶揄した秀人にそう伝えたいが、千歳はまだ、そんなとぼけたことを口にすることがかなわない。

「な、夏に長袖のひともふつーにいますよ・・・・・・」

秀人のそばでそうつぶやいた千歳の声など、二人の耳には届いていない。

こうして小競り合いをはじめていると、じりじりとにじりよる二人のあしもとは絶妙に周囲に気をくばり、ひとまず往来のど真ん中から逃れることとなった。奇妙な和風建築のまえまでたどり着き、それでも目立つ容姿のふたりは、いぶかしげにみつめる観光客や土産物店の従業員に様子をうかがわれている。臨戦態勢に入った秀人のあやつる言葉を、じつのところ、千歳は聞き分けにくい。日常の言葉と戦いのときの言葉、それは千歳にとって別の言語に思えてしまう。

そのとき、秀人のそばでおろおろとことのしだいをみまもっている千歳のことを、ピンストライプのスーツの青年の、するどく切れ長の瞳が、射貫いた。

アーモンドのような秀人の瞳とちがって、すっときれてゆく瞳。


千歳にむけられたその瞳は、存外、あたたかなものであった。



秀人以外の男性は苦手だったけれど、外道のメンバーと交流するうちに、千歳のなかにいつしか異性、そして不良少年への耐性はうまれていた。秀人のまわりにいる男の人たちは、みんな正直で、嘘をつかなくて、すぐにごめんと伝えてきて、すぐにありがとうと伝えてきて、そして、声が大きい。


この人の声も大きいけれど、外道のひとたちよりはひかえめかもしれない。
めだつけれど、いつしか、周囲にとけこむ声になっている。

千歳を、緋咲なりの穏やかさで見やっている瞳。その視線をさとった秀人が、千歳のことを促すように、細い肩をだいた。それがまるで合図のように。千歳は、律儀に自己紹介をはじめた。


「は、はじめまして・・・・・・」

一生懸命なまえをなのる千歳に、
ヒザキっつんだぜ、と、秀人が、千歳のそばで緋咲をゆびさして教えてる。

太陽の日であろうか、燃える炎の火だろうか。千歳がすなおに思考をかさねていると、そのめずらしい字を秀人が教えてくれた。
千歳が、緋文字・・・とかすかな声でつぶやく。そのピューリタニズムの罪をえがいた小説は、緋咲の懐かしい友が教えてくれたものだ。意外さをにじませた目で緋咲が千歳を見返して、かるくうなずくと、千歳もまたかるくうなずいた。その呼応は、秀人の神経に障ったようだ。ふるいアメリカ文学など、秀人のテリトリーには存在しない。

緋咲のうすくて残忍なくちびるからすべりだしてきたのは、緋咲の眼前で、すこし不安そうに、それでも秀人のそばをはなれずに、怯えとふるえをこらえてなけなしの勇気で緋咲をみつめかえす千歳を、気遣う言葉だった。


「暑いんじゃねーのか?」
「大丈夫です!」

とても質のよさそうな仕立てのスーツ。この人はきっと、これを着ていたって暑くないのかもしれない。

千歳がそんなことを見抜いていれば、彼女を見守る秀人の脳裏によぎるのは。

そういえば。
秀人は今日、一度でも千歳の体調を気遣っただろうか。
千歳にとっては、秀人の視線ひとつ、秀人のひとこと、秀人がいつも千歳を愛でてくれる挙動すべてに、そんな優しさと気遣いをかんじているのだが。

秀人が、小競り合いのなかでも緋咲がいまだりちぎにつかんでいたアイスをうばいとる。どんな理由でそうなっているのか知らないが、アイスはさしてとけてはいない。


「おい!!!」

こころから冷をとりたくて、恥をしのんでアイスを買った緋咲は、千歳をまえに隙がみごとにさらされていた。それは幾分か千歳が原因でもあろう。あえなく秀人にうばわれた命綱のそれを奪い返そうと、指さした。千歳は、大真面目に秀人のことを案じる。

「秀ちゃんお茶のアイス嫌いなんじゃ・・・・・・」

千歳の案じる言葉をよそに、秀人があたまからアイスを丸呑みしてゆく。

「・・・・・・うめー!?な」
「おいしかった?あ、で、でもそれ・・・・・・」
「バーカ、がきかよ、もーいーんだよ・・・・・・」

緋咲が、アイスをうばわれたことに降伏のことばをのべたとたん、笑顔にかわった千歳が、秀人とキャッキャと喜び合いはじめる。口元にかすかに付着した抹茶色のアイスクリームをゆびでぬぐった秀人が、あらためて味わってみる。もっとお茶めいたしろものだと思っていたが、そうではなかったとかたる。そんな素朴にもほどがある感想を千歳とつたえあう秀人のすがたを、緋咲はしらふではとてもみていられない。きついウイスキーでもあおりたい気分だ。


それにしても、気づけば、目の前に石段。

いわゆる江ノ島本島の入り口まできている。
周囲の観光客も、目立つふたりに慣れてしまったようすだ。江ノ島のなかに無事三人は溶け込めたのだ。


「んでここまできてんだよ」
「おめーがよ!」

「おふたりが歩いたんじゃないですか・・・・・・」


口をひらけば幼稚な舌戦だ。らちがあかないので、千歳があらたな話題を提供してみせる。


「あ、あのカフェおいしいです!あれ!」
け、けーきが!!

つゆほども関心のない秀人の関心は、その程度の誘いでは、緋咲に向いたベクトルを転換させようとはしない。
そして、当の緋咲は、けなげに場を気遣う千歳に耳を傾けてあげているようすだ。そうなると、またも秀人は面白くないのだ。


「いこーぜ」

秀人が、素っ気ない言葉で千歳をみちびいた。

「はい!あ、あの、緋咲さんも」
「ああ?」

これには、千歳が露骨に肩をすくめた。
あまりにびくりとふるえあがってしまったことに。いたいけな一般女子に反射的に怒気をむけてしまったことに。それをつぐなうため。


秀人の神経がまたたかぶるまえに、緋咲が、千歳の提案をすんなり承った。
秀人が、コーンまでアイスを食べきったあと、それにつづく。


「こっちいけばいーのか?」
「は、はい!」

江ノ島の地図は、千歳の頭にたたきこまれている。前日にみっちり予習したのだ。もっとも、江ノ島の裏側までゆくわけでもなければ地図なんて必要ないけれど。


緋咲が先導し、千歳と秀人がその背中を追いかける。

「テメエにやさしくしたんじゃねーゾ?バカヤロウ・・・」

いつか、なつかしい友人にたむけた言葉。まさか、こうして使う日がくるとは思わなかった。
秀人に、むしずがはしる。今すぐその背中にけりをいれたい。緋咲もそれは同様で、いますぐその腹部にけりをいれたい。そんな思いをこらえつつ、奇妙な江ノ島散策がはじまった。


「いっつもこんなとこきてんのか」

女性をとりたてて気遣うつもりもないが、そもそもがこうした性分なのかもしれない。
マイペースにすすんでいく秀人を一生懸命おいかける女の子に、緋咲は自然と、はずみやすい会話のネタを与えてしまう。やりたくてやっているわけではない。うまれ、育ち、そして、性分なのだ。

いつのまにか、三人がならぶようなかたちで歩いている。
千歳が、そう語りかけてくれた緋咲をみあげる。
首のほねがすこし音をたててかたむいた。秀人をみあげてはなすときには抱かぬ感触だ。

「ここは、はじめてです」
「遠足みてーだよなあ」

秀人はまた、適応能力もたかい。起こってしまったことをいつまでも恨むような性分ではない。めずらしい道連れを、いつとはなしに秀人はのんびりと楽しんでいる。

「そう!遠足!」
鎌倉の子はぜったいここきます

千歳がくるくると秀人をみあげるたびに、フローラルのような香りが緋咲をくすぐる。このみのかおりではないが、この子に似合っているだろう。緋咲が、耳をかすめた鎌倉という地名に気を留めた。

「鎌倉?」
「は、はい!え、えっと・・・」

秀人が、緋咲の生まれ育った町を千歳に教えるまえに。

「よ、横須賀、ですか?」

千歳が、みごとにあててみせる。その土地になじむ風情というものがある。緋咲の洗練されたしぐさ、気遣い、垢抜けた風情、そして、視野の広さ、千歳とさして年齢はかわらないはずなのに、さまざまなものを視てきたような深い瞳。きっと、さまざまな文化がぶつかりあいながらも風通しのいい町でそだったのではないだろうか。この海のそばとは違った町ではないか。

そして秀人は、そもそも、千歳に己を取り巻く基本の人間関係を説明できていなかったことを思い出す。因縁やなれそめ、関係を語るのは、ほとほと面倒臭い。横浜と横須賀。そのふたことだけで終わらせてしまいたい。

「横須賀・・・・・・ほとんど行ったことなくて・・・・・・」
「こいつと一緒にくんじゃねーぞ。オンナのダチと遊びにきな」
昼間だぜ?



横須賀に、秀人と行ってはいけない。


その言葉のいみは、千歳もいたいほどわかる。

じゃあ、江ノ島は、いいのだろうか。急勾配とゆるやかな坂をくりかえし、三人は島の奥までみちびかれてゆく。こんな時間は、ゆるされていいのだろうか。

こうしている時間。
ふるい観光地、時間がとまったような、これからもずっと時間がとまっているようなこの島のなかだけ、きっと特別なのかもしれない。



やがて、ちいさな鳥居がみえる。

カトリックの女子校に通っているが鶴ヶ丘八幡の氏子でもある千歳には、それなりに興味関心を惹かれるしろものだが、秀人と緋咲は、あっさりとすどおりしてしまった。さすがに、緋咲にも、そんな千歳の感情をひろうつもりもなさそうで。


そこに鎮座するのは、ちいさな龍神。


しろぬりの龍の彫像をちらりと見送ってから、背の高いふたりの背中を追いかける。


ひとつの色も抜いたことのない、漆黒の髪の毛。
そして、じつにめずらしい紫色の髪。そのやわらかな髪の毛は白い肌におそろしいほどんじんでいて、めだつけれど、異様ではない。
肩を並べて悪態をつきあっている姿が、じつはとても自然であることを指摘すれば、火に油であり、この穏やかな時間がきっと終わってしまうだろうことは、千歳にはわかる。

神社を通り過ぎて、細い階段をのぼる。すこし開けた場所で、秀人と緋咲のあしどりが、自然ととまった。千歳も、一気に眼前にひろがった相模湾を眺める。この角度からみると、江ノ島水族館でもなければ片瀬海岸でもない、みなれぬ建物群と船がひろがっている。千歳が、指をさしてたずねた。

「あれは?」
「江ノ島マリーナだろ」
「オレん親父んヨットもよ、あん中あるぞ」

緋咲が何の気なしにこぼした言葉に、千歳があんぐりとくちをあける。ヨット一隻管理するのにどれほどのお金がかかるか。千歳の友人に、セイリングにうちこむ兄弟をもった子がいるが、いかほどの金銭負担が起こっているか、いやというほどきかされているのだ。

「はえーのか、そいつ」

千歳とはうってかわって、秀人は、その事実そのものの価値より、それは己や彼の愛機より速いのかどうなのか。そこが気にかかってしかたないようだ。とんちんかんな質問をする秀人に、緋咲は、はえーにきまってんだろと真っ向からこたえた。レース機としての所有ではないだろうが、スピードをきそうとなると、セイリングはそんなに単純なルールであっただろうか。首をかしげて友人の解説を思い出す千歳のそばで、緋咲がさきに歩きだした。

「なんかジグザグにすすんでー・・・」
「?」
「得点がひくい人が勝ちらしいです。ヨットのレース」
「はやけりゃいーんだろ?」
「あ、でもじゃましたら減点とかそういうのがあるみたい」

千歳のたどたどしい話を丁寧に耳をかたむけてやる秀人。その歩調が千歳に合ったとき、緋咲のあしもともゆるんだ。

そのとき、緋咲の目の前に飛び込んできた料金所。このまままっすぐ歩いていずこへかたどりつくと思っていたが、謎の障害物がそこにはある。

「んだこれ」
「これにのんねーと上いけねーのか」

緋咲も秀人も、しごく自然なしぐさで千歳にたずねてみせた。


それは、江ノ島エスカーとよばれるものだ。
江ノ島名物のひとつ。観光客はこれに乗って、さらに江ノ島の奥深くへのぼってゆくのだ。


ほんとうは、これをつかわなくとも行けるけれど。


こうして三人ですごすことが、楽しいから。このまま、ふたりとも穏やかな機嫌でいてほしいから。


そして、暑いから。


「行けないです!切符買うんですよ」

千歳が、得意げに料金所をゆびさした。切符を買う自動販売機のまえに、秀人と緋咲を先導してみせる。


「エスカレーターに金かけてのんのか?」
「あほくせーよなあ」

千歳のまえでもめ事はおこせぬからか。それとも、暑いからか。落ち着いた会話をかわしながら、スーツのポケットをさぐった緋咲が、千歳の切符代だけをふくめた金額を自然と数えたとき。
秀人の指が、お札を券売機にすべりこませた。

出てきた切符は三枚。緋咲が目を剥く。そのうち一枚は、秀人の手から千歳にわたる。「はらうよ!!」と懸命に主張している千歳の頭をぐりぐりと撫でてその真っ白な手に切符をにぎらせ、もう一枚を緋咲になげつけて、秀人が悪びれない調子でわらった。緋咲は、その切符を地面にたたきつけたあと拾い上げる。すこし土埃にまみれた切符をポケットにしまいこんだ緋咲は、自分の切符をきまじめに購入した。


「足下きーつけろ」

秀人と緋咲の口元から、同じ言葉がとびだす。
空気とテンポは相性がよくとも、双方ともにすぐれた声質は意外に相性がよくないようで、綺麗なハーモニーとはならない。
額をつきあわせてにらみあうふたりの真下で、千歳がすなおにおれいをのべた。言葉通り慎重にエスカレーターにのってみせれば、今日一度もおとずれていなかった沈黙がただよいはじめる。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・え!もう終わりですか!?」
「ああ、なんかなげーんだろ?」
「・・・・・・続きあるみてーだぜ」

緋咲が先導し、そのさきにつづくエスカレーターを指さす。もぎりの女性たちに切符をわたしてふたたびエスカレーターにのれば、先ほどとはうってかわって会話がはずみはじめる。

「日本一長いっていってたのに」
「総距離んこといってんだろーな」
「おっせーなぁ・・・・・・」
「何とくらべてんだ。単車か?」
「江ノ島って、なかにバイクはいれるんですか?」
「ゆーびんカブぁはいってくんだろ?」
「次ぁ単車のっか」

三段上から、すこし冷たい瞳がふたりをふりむいた。緋咲の落ち着いた声が、千歳のことを案じるようにたずねる。

「このコ乗せてんのか」
「すごくきれいなバイクだから、申し訳ないんですけど・・・今日も乗せてもらいました」
「遠慮してのってっとな」

秀人は、緋咲の案じる言葉などなんら関心がないようで。

千歳が、すこし離れた場所からおりてくる言葉に、神妙にうなずく。



単車にわりーぞ。



そんな言葉をつむいでやってもいいが。

みたところ、千歳は安心しきって秀人のそばにいる一方で、妙な遠慮もみえかくれしている。
一切の気遣いを取っ払って秀人にべったりと甘えきることは出来ていない。
わがままざんまいで秀人をふりまわすなどという状況とは、まるでほど遠いようだ。
秀人の恋愛もようを細かく分析する気などない。そして、きまじめな女の子の荷物をおろしてやることなど、緋咲にはたやすいのだが。


ばかばかしい。



「こんバカがよ、バカばっかすっからな」
バカだからよ、バカ。


秀人の長い足が、千歳にいっさいのプレッシャーをあたえずに、緋咲におそいかかった。千歳に気をとられていた緋咲は、その足をあっさりと避けた。



長くも速くもないエスカレーターから解放されると、こざっぱりと手入れされた庭園がひろがる。三人の間に、さしてふかくもない感慨もうまれる。千歳から、至極ありきたりな感嘆のことばがこぼれた。


「きれいですね・・・」
「あちー」
「バカだなおまえは」

秀人が緋咲のむこうずねをけとばす。質のいいスーツは、その長い足を華麗に逃れ、千歳には見分け難い細かい足技の応酬が続いている。

そんなこぜりあいにすっかりなれた千歳が、真緑の木々、その向こう側にまっすぐの水平線をえがく海にみとれた。

秀人が瞬時どこかへ姿を消した。
秀人のかわりに、緋咲が千歳のことを見守る。マイペースに、江ノ島頂上からの景色に見惚れる千歳のそばに立った緋咲が、千歳のことを気遣い、会話をはじめる。

「鎌倉かよ・・・海んほう?」

緋咲のやわらかな声音が、千歳へのさりげない質問を穏やかにいろどる。緋咲が、今日はじめてポケットから煙草を引っ張りだした。特徴的なたばこのけむりは、千歳にいっさいかからない。

千歳が、すこし頬を紅潮させてうなずいた。
その純粋な瞳と、緋咲の冷たい瞳が、しばし視線をかわしあう。
目を瞬かせた千歳が、困ったようにうつむいたとき。

どこからか戻ってきた秀人が、千歳のだいすきなノンシュガーの紅茶を、そのほっそりとした手にそっとにぎらせた。
そして、緋咲の顔面めがけて、おそろしくあまいカフェオレをなげつける。秀人は、さっぱりとした緑茶だ。どうやら、お茶に味をしめたらしい。

「てんめえ・・・・・・」
「がきぁミルクでものんでろ」
「あ、でも、秀ちゃんもアイスミルクのむようになりました!」

失言だったかと口をつぐんだ少女が秀人よりさきに緋咲のかおいろをたしかめると、そんな言葉より、さっそく開封したものの、秀人の与えたつめたいカフェオレのあまさにまいっているようだった。

「ごめんなさい・・・・・・」
「あ?なにがよ?アイスミルクってよーうってねーよなぁ?」
「ぎゅうにゅう売ってる販売機・・・」
「ぎゅうにゅうじゃねーぞ、アイスミルクだよ」

カフェオレを一気にあおった緋咲が、肩の強さをいかしてゴミ箱に投げ捨てる。のどがかわいていたのか、次いで紅茶をのみほした千歳の缶もとりあげて、同様に廃棄した。秀人は、マイペースなさまでゴミ箱に缶を捨てに向かう。その背中にちょこちょことくっついて歩きはじめた千歳の背中に、緋咲も自然とつづいた。


バラのアーチをくぐる。緋咲は体をかがめることとなる。秀人のふわふわのパーマリーゼントは、かすかにばらをかすめた。千歳が、紅、黄色、純白と、様々な色でランダムに咲くバラをみあげて、秀人の背中を追いかけた。

秀人は、花は追い抜きくぐるものと思っているようだ。千歳は、花のことなど知らないなりに、それなりに楽しみたい。秀人のそばを離れないように努めながらも、時折、千歳の足はとまってしまう。

「金魚草・・・」

ショルダーバッグの肩紐をぎゅっとにぎった千歳が、こぶりの花がいっぱいに連なる一群をながめて、案内板のなまえを読み取った。そのまま立ち止まった千歳は、あらためて花を眺めている。秀人が、花垣の向こう側にぐるりと廻り、マイペースに見物している。

緋咲が、千歳のそばにしゃがんでみせた。千歳が、不可思議な花のなまえをゆびさしてみせた。

「金魚草キャンディーって何ですか?」

千歳は身長にめぐまれているから、そうしてかがまれてしまうと、緋咲をみおろしてしまう。


「ああ、勝手がちげーな・・・・・・」

すっと立ち上がった緋咲が、オレンジ、マゼンタ、イエロー、紅、そして白。五色の花をかぞえてみせた。この五色の総称であろうと予測をつけて説明をする。語ったことは、古い友人の家に咲く植物の世話をしていた執事のうけうりだ。あの執事は哲学、音楽、機械整備から花木の手入れまであらゆることをこなす人だった。

緋咲のなめらかな口調、派手でするどい装いの奥にひそむ繊細な知性のほとばしりを確かに感じ取った千歳が、うなずきながら思いを馳せた。


きっと、この人のそばにも、だれかかがいるのだろう。


花の解説をおえた緋咲が、ぽつりとつぶやく。

「ろくなことやんねーだろ、あんバカ」

バカとよばれたあの少年は、喫煙所でマイペースにたばこを味わっている。

すこしのあいだだけ秀人と離れてしまって、会ったばかりの男性とそわそわと会話をかわしつづける千歳が、彼の言葉の真意をけんめいにさぐる。

「私にはわからないことも、やってます・・・・・・けど・・・・・・」

秀人の流し続けた血。秀人のふるいつづけた力。
それが、だれのためのものか。だれのための力か。だれのために流した血か。
何のために、秀人は暴走るのか。

その切ない血や力のなかに、ほんのわずか、千歳を守るためにふるったもの、流したものだってある。

「でも、緋咲さんには、もしかしたら・・・・・・」

こわがりで、臆病で、秀人のそばからかたときもはなれない。秀人がそばからはなれるたびに、千歳の華奢な気配から途端に不安がにじみでる。それでも、すがりつくことなくけなげに立っているこの子が、緋咲に何かを打ち明けようとしている。

秀人は、千歳のことを守りきっている。
それはまるで、秀人にとって呼吸するようなことのようだ。
この頼りないからだつきの女の子のことを、秀人はまもりぬいている。

この青い空のした、この海のそばで。

堂々と。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あ、あの、ふつうにお話もされてて・・・」
「今日だけだ、こんなの」



そうかなあ?

そんな言葉は千歳の胸にしまって。


金魚草の花言葉は、おしゃべり。到底それにそぐわぬこの時間は、秀人の叫び声で終わる。


「おう、アイスあんぜアイス!」

ばったり遭った当初のことをむしかえした秀人のからかいの挑戦状を、緋咲がいともかんたんに買った。

外道の人たちと時間をともにしている時の秀人もよくわらうけれど、今日の秀人も、よくわらっている。千歳のそばにいるとき、秀人は穏やかに笑ってくれる。

今日の秀人は、よくわらう。

笑みをこらえきれない千歳が、秀人のもとにかけよった。そこは、江ノ島の頂点にたかだかとそびえる灯台のふもと。重厚な金属扉でとざされ、さきほどのエスカー同様、券売機が置かれている。江ノ島めぐりの最後。ゆくてをはばまれた千歳が、ちいさな声でぼやいた。

「お金がいるんだ・・・・・・」
「あれもちっとしたら光るぞ」

二本目のたばこを味わっている緋咲が、あごだけで灯台をしめす。そのしぐさにつられてたばこをとりだした秀人が、おなじように見上げた。

「ライトアップ・・・・・・!」

千歳が目をかがやかせる。


彼女のその平和なまなこが、くもらないように。
いつまでも澄んだ瞳でいられるように。


平穏にいきることをのぞむ女の子に、緋咲の心根の残酷な部分が疼くことはない。
目の前の男には、いつだってそれはかんたんに作動するけれど。

それとこれとは、べつだ。


千歳の瞳を曇らせないまま、戦うことは、できる。



「せーぜーたのしめよ」

これは断じて秀人におくる言葉ではない。緋咲のそばでがんばっていた女の子におくった言葉だ。

緋咲が、きびすをかれいにひるがえそうとしたとき。


「ここぁよ」

灯台をみあげた秀人が、さっぱりとわらった。

「またこよーぜ?」

すこし困ったような顔で、秀人が恋人をみおろす。
千歳がきょとんと秀人をみつめかえす。


緋咲が、秀人の意外なことばの真意をさぐる。

今日一日このカップルと過ごした緋咲の見立てでは、秀人はいたってマイペースであれど、このおとなしい性格の恋人を、己の気分のままに己の都合でふりまわして無意識に彼女を傷つけ、彼女の穏やかな心にあぐらをかくような行動は、ひとつもみられなかったはずだが。

そして、千歳のその瞳に、かげりはない。

秀人の意図を理解したとみえる千歳が、おおきくうなずいだ。


「いつでも来れますし!」


緋咲にむかって、千歳が、すこやかな声音で宣言した。


「ごはんでしょ?」
「ああ、コイツ腹へってんだぜ」
バカぁメシつれてかねーとな!

秀人が、ぶしつけな仕草で緋咲のことを顎でしめした。
バカということばにつられた緋咲が声をあらげている。そして、空腹は本当だ。いちいち見抜き当ててくる秀人に、緋咲の感情がみるみるうちに逆なでされる。


「あそこ、フレンチトーストのカフェあるよ」

そして、千歳の平穏にもほどがある提案に、その感情はあっさりしずめられた。まだ甘い物をくえというのか。秀人も緋咲も、げんなりとした気色をうかべて、その表情は千歳にとってじつにめずらしい、コミカルなものであった。やっぱり。そう悟った千歳が、穏やかにわらった。

「肉だ肉」

秀人が千歳の手をそっととった。

今日はじめてつながれた手。

浅黒い手とほっそりとした白い手がつながれた瞬間に、緋咲の脳裏に、よみがえった記憶がある。

なつかしいたばこのかおり。つよいアルコールのにおい。
ふるぼけた木のにおい。
店内のかたすみにつもったほこり。
何年ものかわからないウイスキー。
テーブルの上にさかさに置かれたイス。
アコースティックギター。
真昼の横須賀。
ふるいアメリカンの、ロックミュージック。

あの男と、その恋人。

緋咲の冷酷なくちもとににじんだ、ひどくあたたかな笑みを、ふたりがさとることはない。


わざと呆れたふりをした緋咲が、千歳の背後から案じる。

「こいつと食いもんの趣味あうんか?」

秀人と手をつないだままの千歳が、真剣にかんがえこんでいる。

「合うときも、あります・・・・・・」

おのおのが年相応の食欲とこのみである秀人と千歳は、そうした点ですべてが一致するわけではない。そもそも食べる量があわない。千歳の提案する凝ったカフェでもぱくぱくとたべてくれるけど、秀人は、やっぱり、ボリューム豊かな味の濃い物をいっきにかきこむことがすきであるようだ。

「そ、そういえばお肉にするの?しらすとかじゃないの?」
江ノ島にきて・・・・・・?

さきほどの秀人のことばをおもいだした千歳が、真顔でたずねかえす。その言葉に同意した緋咲が、秀人の非常識さをわらいつつも、味覚に関しては秀人に同意なのだ。

「あんなもん鳥のえさだろ」

緋咲の軽口、その独善的な指摘にひるむ気配もない千歳は、そのことばについてまたも真剣にかんがえこむ。

「うーん、鳥になましらすは・・・・・・あ、でもとんびは食べるのかなあ」


頭上をとぶとんびは、湘南の名物だ。
緋咲が、千歳の言った鳥のすがたをたしかめて、秀人をからかう。

「どーせやすい肉しかくったことねーんだろ」
「肉って高いのあんのか?」
「・・・・・・」

外道の連中はどうせ下品に肉をくいちらかしているのだろう。
他人のチームのことはいえないが。一度、ロクサーヌ幹部のあまりに醜悪な食事マナーに辟易した緋咲がテーブルマナーを訥々ととくと、土屋が遠慮なく大あくびしたので、下腹部に一発きめこんだ。土屋のマナーはそれ以後劇的に改善がみられた。

「くえねーもんあるか?」

緋咲の質問に対して千歳がおどおどと答えてみせるまえに、秀人が恋人の苦手な物をスムーズに挙げてみせる。
緋咲があっさりとそれをおぼえて、肉とひとくちにいっても幅広い料理群のなかから、最適解をさがしだそうとする。秀人が、いい加減に焼肉を提案してみせた。そこはなかなかワイルドで、中高年男性に人気の、盛り場にちかい飲食店だ。緋咲の基準ではデリカシーにかけたその選択。所詮その程度かと笑う緋咲に、秀人は遠慮なく攻撃をくりだす。もはやそんなじゃれあいにすっかりなれきった千歳は、秀人と緋咲のやりとりをあっさりと聞き流し、秀人のあたたかい手の感触をたしかめながら、庭園をあとにする。相模湾が千歳の瞳をかすめてゆく。

この海は二度とないのかもしれない。

そのほうがいいのかもしれない。

こんな時間が奇跡であること。

この時間が至極自然であるようで、千歳へのはりつめた気遣いだって存在しているだろうこと。
とても感受性豊かな人と、感受性にこだわらず、のびやかにふるまう秀人。

この島から離れてしまえば、また、千歳のしらない夜がくるのだろう。
千歳がみることのない、千歳にみせたくない、千歳にはみせられない夜が、ふたりの間にくるのだろう。

けれど、千歳は、こんな海、こんな空をともにみられる夏がまたくることを願う性分だ。

千歳が、消して言葉に出せない祈り。
そんな祈りをよそに、二度とない夏が、しずかにくれてゆく。
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