特攻の拓夢百題
45 ただいま

あすかが担う今日の配達ルートは、まず、葉山のホテル。
その後鎌倉市内に舞い戻り二階堂のフレンチの店をまわる。
駅前を原付で走り、小町通りを転々とめぐる。
その後鎌倉駅西口の古い店をまわって、最後は由比ヶ浜のバーへ、白ワインを届ける。

いずれも小さな品々ではあったが10件以上にもわたった配達を終えると、昼下がりに出発したのに、いまや空はすっかりくれてしまった。
帰宅してみれば閉店時間をとうにすぎて、店はしまっている。遅くなったら先に店を閉めててと母親に伝えていたとおり、今日のあすかの仕事も、これで終わりだ。
配達の伝票処理は明日にまわして、いくつかの店から回収できたお金を人感センサーのあかりの下でたしかめた。
原付は、シャッターの前にとめた。シャッターの鍵をあけて中にいれることも面倒だ。

マフラーをほどき、コートのポケットから家の鍵をさぐりあてる。

店のそばの小さな住宅が、あすかの家。見てみれば、居間にあたる窓にあかりがついている。

そういえば、配達に出かける前今日の夕飯について母親が悩んでいた気がする。お肉があるからしゃぶしゃぶにするか、それとも控えめな夕食にするか。
できれば前者がいいのだが。

外に香ばしいにおいは漂ってこない。少し家が騒がしいのは、テレビによるものだろうか。そんなことを気にかけながら、あすかは、シリンダーに鍵をがちゃりとさしこんだ。


「ただいまーー」

疲労のにじんだ声であいさつをかわし、メットを靴箱の上においた。

そのとき、あすかの頭上から、澄み切ったアルトが降ってくる。
玄関には、あすかの母の靴にくわえて、見慣れた革靴。


「おかえり、あすか」
お疲れサン。


その声の持ち主が、あすかのトートバッグを華麗にとりあげた。ここでいい?そんな質問は、あすかじゃなくて玄関から入ってすぐの居間にいるあすかの母親に向けられているようだ。あすかの母親が、そこでいいよと返事する。その言葉通り、声の持ち主は、トートバッグを玄関の左隣の部屋へしまいこんだ。

その清潔な声。

その声は、あすかがいつだって聞きたい声だ。

「あー、千冬さん、ただいまー……?」

そばの部屋から戻ってきたその人。

千冬。
あすかは、靴をぬぎながらそのいとしい姿を見上げる。
カラーレスな肌。めずらしくすっぴんだ。
のびた前髪はピンでとめられ、金髪のストレートヘアは、シュシュでまとめあげられている。そして、あすかの恋人が纏うのは、見慣れた部屋着。それはあすかが一番気に入っているもの。

「……?」
「あすか、コートぬぎな」

千冬が、あすかのコートをはぎとった。
されるがままに体をまかせたあすかが、そもそもの疑問にようやくたどりついた。
それほど、寒空の配達は、あすかの思考をにぶらせていたのだ。

「え、千冬さん!!どうしたの?なんであたしんちにいるの??」
「いまさらかよ。メシくおーぜ?着替え、そのままでいいだろ?」
「それあたしの部屋着だね?」
今日きよーと思ってたやつ・・・・・・。シュシュとピンもあたしの・・・・・・。

コートとマフラーをとりあげられて、千冬の背中について居間へ歩く。

お疲れ、変わったことなかった?
暖房の効いた部屋。こたつのうえには、ぐつぐつと沸騰している鍋。そして、こんぶが一枚、だしを放出しながらしずんでいる。
鍋のなかの具合をたしかめた母親が、あすかにそうたずねた。

「なかったよー」
ねー、千冬さん、それあたしの部屋着。

千冬が、ハンガーをつかって壁にコートをかけている。
強い百合のかおりがただよわないと思えば、千冬はどうも、お風呂上がりのようだ。
真っ白な肌は赤く蒸気し、つやつやと輝いている。乾かされてまとめられた金髪からはあすかの愛用するシャンプーのにおい。そしてこのかおりは、お高い入浴剤をいれたのではないか。

「あれ、使っちゃったの?」
「すげーしっとりしたよ」
「ねーそれあたしの部屋着」
「こまけーこと気にするなよ」
「……?そっか?そうだよね?お風呂あたしも入りたい……」
「しゃぶしゃぶやっちまうんだからよ、くってからにしろ」
「そーする……あれ、千冬さん、千冬さんのお母さんはいいの?」
「アイツ店休んで中坊んときのダチとメシ食いいくんだってさ」
「そっか、ならダイジョウブだね」

家の店の手伝いで疲れて帰宅してみれば、まさか千冬がいるとは。
よくよく考えてみれば、疲れて帰ってきて、家で好きな人が待っていてくれる。
父親が亡くなり、母親も一時期体をこわし、安全な家があること、いつだってあたたかなあかりがついていること、それらすべて、あすかは、奇跡や偶然のうえになりたっていることを実感した。
そしてあすかは、そんな日々を経て、あたたかな家に帰ってきたとき、大好きな人が出迎えてくれる、あたらしい奇跡を知った。

手を洗ったあと、材料をちまちまと運ぶ母親の手伝いをする。

「千冬さん、いつからきてたの?待たせたよね、ごめんね」
「夕方だな。あすか配達でてるっつーからよー、待ってるってあすかんお母さんにゆったんだよ」
したらよ、ゴハンくって、泊まっていいよってよ。

あすかの母親は、千冬のこともいつのまにか自分の子のようにかわいがっている。こどもではなくて娘の恋人なのだが、恋人関係や千冬が遠慮なくあすかに甘えること、そしてあすかの母に甘えること、そんなことを母が一度もとがめたことはない。

そして、今日の千冬も、母親の誘いに遠慮なく甘えたようだ。

当の千冬は、お茶や茶碗をこたつのうえにはこびながら、母親と、あすかがいない間に二人で見たというテレビ番組について語り合っている。

知らないことを共有されているのは、なぜか疎外感があるものだ。
セーターとジーンズ姿になったあすかが、野菜のつまったボウルをはこびながら二人にたずねる。

「何の話してるのー!」
「あすかのわかんねー話だよ!」

このふたりはテレビ番組の趣味も一致しているようだ。あすかはねーあーいうのバカにしてて一緒にみてくれないのよ!なんて言う母親とともに、お笑い番組の話をしている。バカにしているわけではない。ただ、さわがしい番組をみているとすぐにねむくなるのだ。母親が好む番組につきあっているとすぐ眠気に負けてしまうあすかには理解のできない話だが、どうにも置いてけぼりにされたようで、こどもっぽいさみしさが募る。

わざとへそをまげてみせたら、千冬が、温かなお茶をいれてくれて、あすかの機嫌をとった。

野菜をどんどん投入し、三人で囲む夕食が始まる。
千冬はポン酢を好み、あすかはごまだれを好む。

なんでも食べるあすかと違って、千冬は、野菜も肉も、そのなかから最も上質なものを選び抜いて口に運ぶ。
そんな違いを見守りながら、あすかの母親は食材を次から次へ追加した。どれほど追加してもかたっぱしからあすかがたいらげてゆく。

「あすか、飲んでるみてーに食うよな……」
「千冬さん、もっと食べていいよ」
「オレ、こんくれーでいーよ……」

スレンダーな体相応の食欲である千冬が早々に切り上げたところで、あすかは千冬の前でかわいらしい食欲を装うつもりもない。10件以上の配達で疲労がにじむ体に、次々に肉と野菜をほうりこみ、それはあすかの母親にとっても日常の光景であった。



それにしても、年頃の娘の部屋に恋人が泊まることを、平然とゆるす母親もどうなのか。千冬を信用しきっているようだ。お風呂場の脱衣所には、あすかの部屋のクローゼットからなぜか千冬が勝手に選んできた部屋着、そして下着まで。たしかにこの部屋着と下着は、色合いのバランスがずいぶんとれている。あすかの買い物でも的確なアドバイスをくれる千冬には、何から何まで世話になりっぱなしだ。カッコつけずに、どんな情けないことでもどんなにカッコ悪いことでもさらけ出せる相手。千冬も、心の底の底まであすかに見せてくれる。親友か、性別をこえた、まるできょうだいのように想いを通わせ合えるとみせかけて、千冬は、そうなってしまうまえに、あすかを色っぽく追い込み、あすかを激しく求め、彼氏としての一面を艶やかにみせてくれる。
お湯をたせば高級な入浴剤の感触もうすまるが、あすかは千冬と同じかおりのシャンプーをつかったあと、じっくりと入浴し、体を浄めた。

あすかが入浴しているあいだ、母親の部屋からげらげらと笑い声が聞こえた。

「あー、またなんか見てる!」

バスタオルを頭に巻いて、千冬と母親がテレビを楽しみ続ける母親の部屋に侵入したあすかも、濡れ髪のまま畳にぺたりとすわりこむ。

「あすか、これすき?」

アルコールを与えてもらえず、コーラを楽しむ千冬がテレビをゆびさす。
関西弁を話す漫才コンビが中心となったお笑い番組だ。学校でも大流行しているが、あすかは五分見ていればあっというまに眠気におそわれる。

案の定、畳の上でこてんと眠りそうになる。
あすかを抱き起こした千冬が、ドライヤーであすかの髪の毛をかわかしはじめる。

「渉もこれみてんぜ」
「八尋さんがこういうテレビ見るの……?想像つかないなあ」

八尋くんは、あの俳優のこどもに似てるわね!
そういう母親に見せられた古い映画は、いまひとつおもしろくなかった。そして、そんなに似ていない。あすかやあすかの母親ともすっかり親しくなった八尋の話に花が咲く。

「八尋さんに似てるのはあの人だよ、今度大河ドラマやる人。朝ドラにもでてた人」
「渉は渉だろ」

自分の髪の毛のブローはいいかげんであるくせに、あすかの黒髪の面倒は丁寧にみてくれる。あすかがお風呂からあがってみれば、千冬の金髪は、ポニーテールからお団子にかわっていた。めずらしく生え際に黒がのぞいているが、不思議と小汚さはない。



9時を通り越してはやくも眠気に襲われているあすかの背中を押して階段を上り、ふたりしてあすかの部屋になだれこむ。

「ねむい……」

あすかをだきしめてベッドによこたわる千冬は、今日はこのままこの家にいてくれるようだ。
千冬もすっかりリラックスした表情で、あすかのやわらかい体をぎゅっと抱きすくめている。

「オレさー、こんな健康的なせーかつ、月2、3回くれーかもしんねー……」
「おうちのお店に立つときは?」
「その後出てっちまうもん」
「そーなんだ……疲れないの?」
「じっとしてんほうがダリーよ」

あすかは、動いていれば疲れるし、じっとしていれば休まる。
千冬と、まるで正反対だ。

「渉んリアかよ、オレで暴走ってねーとさ、うずくしよ。じっとしてらんねーんだよ」

男の子は、彼女と気持ちの一致をのぞむときいた。
でもあすかは、そんな違いこそが楽しい。そして、そんなズレがあすかに心配を生むこともある。

「千冬さんがしたいようにするのがいちばんだけど、あたしは、休まないとつかれるんだよねー……」

千冬が、髪の毛をまとめていたシュシュを勢いよく取り外した。金髪が、シーツの上に花のように広がった。

「こんなあたしが、千冬さんのこと、ちゃんとわかれてるかな?」

あすかを抱き締めながらあすかのことを組み敷いた千冬が、つやつやのくちびるに、そっとキスをする。

「千冬さん、いつもそやって夜通し起きてて、どーしてそんなに肌きれいなの?」
「お袋の化粧品パクってんからっつっただろ」
「遺伝もあるよ」
「あすかも肌きれーじゃん」
「色黒だし……くすんでるし……」

あすかを組み敷き、あすかの髪の毛を何度も撫でていた千冬がいつしかぺたりと仰向けになり、あすかは千冬のスレンダーな胸のうえに、頬をあずけてのっかる。

「ねえ、千冬さん、こんな日もわるくないでしょ?」
「おもしれーテレビみたしよー、しゃぶしゃぶうめーしよー」
「おもしろいの?ねむくなるよ?」
「ねむくなんのあすかだけだぜ。あすかんお母さん、やさしーしよ」
「お母さん、取引先の店の若い従業員にもなつかれてんだよね。母の日のプレゼントとかさ、乱獲してるの」
「あすかのお母さんだからな。それによー」

あすかの脇腹をくすぐると、あすかが実に真剣な表情でそれをかわした。
くすぐられるのは弱い。千冬の身体の上からころりとおりて、隣に横たわる。

「あすかもいたし」
「また泊まりにきてね?」
「くるよ。今度あすかもこいよ」
「いく!前楽しかったし」
「オレほっといて寝たくせによ」
「千冬さんが酔って寝ちゃったんじゃない……」

あれは、千冬にとってやや情けなく、みっともない記憶だ。
それをごまかすように抱きしめると、胸元であすかがけらけらわらった。
千冬が、もう一度あすかを組み敷く。
部屋のあかりは煌々とともり続けている。
あすかのペースに優しく寄り添い続けてくれる千冬の切れ長の瞳に、滴るような艶が宿り始める。
その合図を悟ったあすかが、頬を紅潮させて、かすかな覚悟を決めたとき。
千冬が、あまりに優しく微笑んで、あすかの頬に、丁寧にくちびるをすべらせはじめた。
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