特攻の拓夢百題
18 きみが好き

赤い暖簾のかかった、ちいさな入り口。
そこを右にひけば、熱と活気と微かな疲れに満ちた、古いラーメン屋だ。
カウンターが8席ほど、あとはテーブル席に、こあがりの座席。

あぶらがしみ込んだ壁に、カウンターにそって古い丸椅子が置かれている。
足元は気を付けて歩かねば、あぶらで滑りそうになってしまう。
本棚には、小口が黄ばみ切ってしまった青年漫画がずらりと並び、もうすぐ5時をむかえるテレビからは、ゴルフ中継が流れている。

お客の中心層は、作業服を着た青年たちに、大学生、フリーター。高校生は少ない。そしてトラック運転手。

そんな風貌の男性たちに囲まれて、狭いラーメン店のかたすみに、あすかはちんまりと座っている。

カウンターのすみにたてかけられていたメニューをじっと読んでいたあすかが、ちいさな声で注文した。

「……チャーシューメン…で…」

作務衣のような衣服を着た男性店員が、簡潔な声で並?と質問する。
そのつっけんどんな口調にかすかに気圧されながら、あすかは律儀に返事をした。

「な、並でいいです」

軽くうなずいた店員は、きびすをかえしてカウンターのなかに消えてゆく。

ざわついた店内。客は各々の世界にはいりこみ、好きなものを味わい、すきなものを楽しみ、好きなことを語り合っている。入店するとき、多少興味深げな視線を浴びたものの、皆すぐにあすかから興味をうしなったようだ。

あすかは、独りで行動することを好む。

でも、入りやすい店と入りにくい店がある。

ここは以前、須王と一緒に訪れたラーメン店だ。
一度きた店であればためらいなく入ることのできるあすかは、敷居の高く感じる引き戸をがらがらと開けた。客数は、半分ほど。そして、男性店員の気だるい声が、あすかのことを歓迎してくれたわけだ。

人当たりが不器用といえるのか、タイミングや運がいちいち悪いというのか、あすかはどうにも、一人で店にはいるとき、ちょうど店員が奥へ引っ込んでいたり店員の仕事が手いっぱいであったり、ものごとがスムーズにすすまぬことが多い。

でも、一度入ってしまえば、タイミングをはかることはできる。

こうしてあすかは無事、カウンターの一番端のもっとも落ち着く場所に席を確保し、一息をついたのだ。

そして、あすかが頼んだラーメンはたちまち完成し、サーブされる。

黄金色のスープにはあぶらが浮き、海苔が3枚器にささっている。卵がねりこまれた太い麺に、ほうれん草がちまっと乗っかり、あぶらがほどほどのチャーシューに、きざまれたたまねぎ。スープにはたぶん、卵がしずみこんでいるはずだ。乗っかっているナルトがあすかは何より大好きなのだ。

横浜伝統のラーメンそのものといえるパワフルなルックスに、あすかはちいさな声で歓声をあげた。
水をひとくちのんで、割り箸を行儀よくわる。

「いただきます……」

れんげで丁寧に支えながら、卵の練り込まれた濃密な麺をひとくちすすり、銀縁のメガネがすこし曇ってしまったとき。


古い引き戸がガラガラと開き、ラーメン店のかたすみにすわっているあすかのもとへも鮮明に飛び込んできた大声は、ずいぶん聞きなれていて、そしてずいぶん聞きたかったものであった。


「あっ……」

レンゲをことりと器のなかにおとす。
スープのなかに沈没させてしまうかと思いきや、持ち手はうまく器にひっかかってくれた。

きめのこまかい肌をむき出しにした不思議な型のTシャツに、迷彩の短パン。
彼のそばには、作業服を纏った背の高い青年がついている。


わりばしを丁重にもったまま、驚愕したあすかが、ラーメン店の空気をがらりと変えてしまったふたりを、じっと見つめていたとき。


「あすか!!!」
「須王くん……!!」


あすかの恋人、須王も、あすかのことをしっかりと見つけて、形のいい瞳をほころばせてくれた。


須王の後ろからラーメン店にはいってきたアフロリーゼントの青年。
精悍で、おとなびた人。その落ち着いた眼もとが、あすかと須王のことを交互に観察して、破顔した須王をめずらしそうに眺めている。

そして、落ち着き払った瞳がわずかにやわらかになり、あすかに、やさしく黙礼をしてくれた。あわてて礼を返したが、まるで挙動不審になってしまった。
あすかのそばの座席がちょうど二つ開いている。夏生をみちびきながら狭い店内をずんずん進んできた須王が、丸椅子を引っ張ってどさりと腰掛けた。店員に、あすかと同じモン!麺は多め!!と叫んだ須王が、あすかのラーメンに目をつけたので、あすかがあわてて両手が隠して見せる。

「須王」

須王のそばに腰かけた青年が、その名を呼んだ。どういう関係なのか。そう問いかけたそうな大人びた瞳が、あすかのことと須王のことを、交互に眺めている。

あわてたあすかが、いそいそと挨拶をかわす。

「こ、こんばんは……」
「こんばんは」

しずかにわらって、あすかに丁重なあいさつをかわしてくれた。
怖い人かとおもいきや、その厳かな気配はみるみるうちにしずまり、やわらかなものと変わる。この落ち着きは、須王やあすかより年上ではないだろうか。声色も落ち着いた人だ。

「ナッちゃん、オレん彼女!」

心を落ち着けるために煽った水を、あすかは思わず噴き出しそうになる。

「ああ、だと思ったぜ?」

青年のあまりに落ち着きはらった声に、あすかの顔が紅潮してしまう。
これは、湯気由来と言うことにしてしまわねば。平静をうしなったあすかが、麺をおもいきりすすった。
すると須王から、食えよ、のびんだろ?なんて言葉がとんでくる。
何度もうなずいたあすかは、ほうれん草を矢継ぎ早に口の中に運び続けた。

「須王いつもはなしてんだろ?」
彼女のこと。

彼女。
そんな言葉をきいたあすかが、やっぱり箸を置く。きちんと挨拶をしておかなければ。ひっぱりだしたティッシュでくちもとをぬぐったあすかが、体を真横に向けて、須王の身体越しに、ぺこぺこと挨拶をつげた。

「あすかです……」
「ああ、真嶋夏生だ」

これだけの自己紹介ではすまぬ気持にかられたあすかが、一度立ち上がってお辞儀をした。真っ黒の髪の毛がふわりと揺れて、須王はその姿を、安心しきった笑みで見守っている。
そして、夏生の周囲には存在しない過剰な礼儀と、過剰な控えめさ。そのすがたが夏生にとって、ひどくものめずらしい。

ちんまり腰をかけたあすかが、少し椅子をひく。須王のスレンダーな体に半分ほどさえぎられながら、真嶋夏生と名乗った青年の生業について、簡潔に語ってくれる話を伺う。新しい高校での生活にアルバイト、そして少し前から通い始めた習い事のおかげで、人と話をする技術は、すこしは身に着いただろうか。それもすべて、須王と倫子のおかげかもしれない。

夏生が語ってくれる話は、あすかにとってひどく心地よい。落ち着いた語り口で、適切な情報を教えてくれるからだ。

そこに、須王が割り込んでくる。

「あすか電話してもいねーんだもんよ」
「い、いるよ?いつしたの?」
須王くんも、いないよ?

そこにちょうど二人分のラーメンが運ばれてきたので、夏生と須王が、気を遣うことをやめて、あすかにも食べることをうながす。さめてのびてしまってはよろしくないからだ。

がつがつとラーメンを楽しむ須王の向こうがわから、穏やかな声がとんでくる。そして、夏生のもとには餃子のお皿がサーブされている。常連なのか、店員とも親し気に語り合っている。サービスをもらったようだ。

「オンナ一人でここかよ、男前だな、あすかちゃん」

夏生はけしてからかったつもりはない。
心からそう思ったのだ。
店内は女性ただひとり。夏生の恋人もここへは一人でこないだろう。おとなしそうな反面、しれっと店に座っているあすかの不思議な肝の強さに、須王も大口でラーメンをすすりあげながら同意のしぐさをみせた。

あすかは、素直そうなようすで首をかしげてみせる。一人でラーメンを食べることが、そんなに立派なものであろうか。

「須王くんにつれてきてもらって、すごくおいしいですね」
「あすかぁラーメンもぎょーざもすきなんだよ」

そう言う須王に、ナルトを奪われてしまった。
ああ……と小さくつぶやき、心底残念がるあすかの顔をみて、夏生が軽くわらう。

「須王…てめーのオンナの食いモンとってやるなよ…」
「そんかーしノリはあすかにやんからいいんだよ」
なああすか!

スープをすいとってでろでろになってしまった海苔が、あすかの器にぺろりとのせられた。

「う、うん……」

困った声でうなずいたあすかが海苔をぱくついてみせる。


極端におとなしそうな子と、奔放な須王。
いったいぜんたい、どうしてこんなふたりが。

あすかと言葉をかわしあう須王をみて一瞬で二人の関係を察知した夏生。
そうした疑問は、三人でラーメンを楽しんでいれば、あっさり解決した。

数分も見守っていればすぐにわかる。

須王がどれほど彼女をいたわり、守っているか。
彼女がどれほど須王を信じて、案じているか。
あすかという女の子はおどおどとした口振りだが、選ぶ言葉に落ち着きがある。単純な偏差値は、たいそうな差があるのではないだろうか。
そして、こんな関係を知ってしまえば、驚き悲しみにくれる不良少女たちが、横浜におよそ100人はいるだろう。

ぎょうざを楽しむ夏生が、あすかと須王の会話にわりこむ。

「須王、こんな賢そうな子と話し合うんかよ?」
「かしこくないです……!」

そんなはずない。断固とした姿勢で否定するあすかを、ふたりが愉快そうにわらった。

あすこだぜ!と須王があげた高校は、神奈川県下トップの県立高校。
おいそれと入学できる高校ではない。
どうりで。夏生はうなずく。あすかは、ぎりぎりだったんですと謙遜をみせている。

しかしなんでまた、そんな子が。

そう思案しながら、夏生は、餃子の皿をを二人の前に寄せてやる。
ひとつの謙遜もない須王が、あすかにもすすめながら悪びれずに笑った。

「くっちまうとよ、キスできねーな!」
「……」

あすかが果敢に割り箸をもちあげて、ちいさな餃子をつまみあげて、たっぷりとたれをからめてぱくりと食べる。

「いいもん、べつに」
キスしないよ!

いつしかかわせるようになった気軽なやりとり。
夏生が、そんなやりとりを見守りながら、ポケットからぼろぼろの財布をとりだした。



あすかが懸命に遠慮をするものの、須王はナッちゃんに甘えとけとの一点張り。あすかが頬を真っ赤にそめてしまうほどの硬派な微笑を一発くれた夏生が、3人分をあっさりと支払った。

これでもかと礼の気持ちを伝えるあすかのことを、須王がけらけらと笑い飛ばす。
ラーメン店から出てしまうと、背の高いふたりが当たり前のように歩き始めるので、あすかは呆けたような声で尋ねてしまった。

「あれ、歩き?」
バイクだとおもってた……。

「ここナッちゃんちちけーんだよ」
「なるほどー、このお店、知ってたんだね…?」
「あすかぁバイト?」
「ううん、習い事だよ」

須王とあすかが、二人寄り添って歩く。
夏生が、ふたりを守り、先導するように歩みをすすめてゆく。
夕暮れの山手の町。くもりがちだった空が淡くオレンジに染まり始める。

「なんの?」
「え、英会話教室……」

なんとなく、ひとつ得意なことを増やしたかったのだ。
なんせ、須王は気まぐれだ。あすかはそれも織り込み済みで須王のそばにいるけれど、なかなか須王に会えないあいだ、待っているだけではなくて、自分も何かに打ち込んでいたい。
それは、無為なものを打ち消すための逃避にすぎないのだろうか。あすかの心をさすそんなちくりとしたものをはらいのけるように、今日も英会話の勉強に打ち込んできた。
学校とは違って主体的に学べる場所は、意外にあすかにむいていたようで、英会話という概念を通り越して、あすかは少しずつ自分の気持ちを表現することへの苦手意識がなくなりはじめているのだ。

「んだよ、オレしらなかったぜ!」
「まだ通い初めて二週間だよ……え、あ、あの、私どこに向かってるの……?」
「ナッちゃんち」
「え!!!」

ふたりの会話に耳をそばだてていた夏生がふりむき、驚くのあすかの気持ちをたしなめてやる。

「デージョブだぜ、あすかちゃん。今日ぁこぇー連中きてねーからよ?」
「そ、そんな、おじゃまですし……」

いーんだよ!
須王が、遠慮するあすかの肩を抱く。
いくら、自分の気持ちを表現するすべを身に着けようとも、須王の強く熱っぽい腕にかかってしまうと、あすかはもう、須王に任せるしかない。

「そーだぜ、こぇーリューヤもいねーしよ!マコトだけか?」
清美ちゃんけーっちまったかよ?

「リューヤ……」

須王に抱かれたあすかが、そのなまえをぼんやりと復唱してみせる。
その名を持つ男が、どれほどど迫力で、どれほどかわいい男か、須王がみぶりてぶりをまじえて説明する。

そして、須王のくちから女性のなまえが登場することはめずらしいことではないから。
あすかは、須王の教えてくれる情報に、理性的に相づちをうつ。

「ああ。誠だけだろー…マー坊も秋生とどっかいっちまったからな」
「清美ちゃんっつーのぁな、ナッちゃんの彼女だぜ」
「彼女さん……」

こんなに大人っぽい人に寄り添うオンナの人なんて、どれほどすてきな女性なのだろう。
そもそも、どう考えても、この真嶋夏生という人は、須王の棲息する世界において、ただものではない人物であろう。あすかがこんなに図々しくお話をさせてもらってもいいのだろうか。

「誠ぁやさしーヤツだからデージョブだよ」
「ああ、カタギのお嬢さんも歓迎だぜ?」
「まこと さん…」

あすかが、その名前をくりかえしたとたん、ふたりのひとみがかがやく。
きっと、愛されている人なのだ。

あすかのことをかたってくれるとき、須王もこんなひとみでいてくれるだろうか。

そして夏生は知っている。
あすかのことを語るとき、須王のひとみも、おなじいろで輝くことを。


「オレ、うちいねーときよ、ナッちゃんちいること多いんだぜ」
「そうなんだ…」
「ナッちゃんちおぼえとけよ、んでいつでもこい」
「い、行っちゃだめだよ…」
「いーぞぉ、あすかちゃんならよ?」
うちにくるにぁ、めずらしいお客サンだけどよ?

まじめでおとなしい女の子はめったにこない。須王に親衛隊長をゆずった男の妹二人がずいぶんおとなしい子だが、あの子たちもまずおとずれない。

そういえば、真嶋商会に出入りする女とは。

「晶だろ、清美ちゃんだろ、あとぁモエコ……」

須王が指折り数えて、女性陣の名前をあげる。

「んで、あすかだな!」

倫子は、そこにはいないのか。
興味深そうにうなずいたあすかの心の声を、敏い須王があっさりと指摘した。

「倫子んこと考えただろ」
「うん」

あすかが、しれっと返事をする。
その名前を聞いた夏生が興味深そうにふりむいた。

「倫子ともダチなんか?」
「は、はい!中学校の……同級生で」

倫子は、この人とも知り合いなのか。
振り向いた夏生をみあげたあすかが、合点したようにうなずいた。

そういえば、同業者だ。

「ああ、それで須王と知り合いになったんかよ」
「あすかぁオレよか倫子がすきなんだよ」
「そ、そんなことないよ!」

せっぱつまったちょうしで、あすかがさけんだ。

「須王くんがすきだよ!」

あすかが、彼女にしては張り上げた声で口にした、唐突な告白。

須王が、ととのった目元をまんまるくした。
さすがの須王すら、すっきりとした顔立ちにいささかの照れをうかべている。

夏生すら、困ったような顔で照れているのだ。
そして、シブく笑った夏生が、指摘してみせる。

「おとなしい子のが大胆だよな……」
「大胆じゃないです……」
スミマセン  

そして、あすかがつぶやいたその謝罪は、倫子への言葉でもある。

「……倫子もすき……」

あすかが追加した言葉に、ふたりが愉快そうに笑った。
なんだかおもしろくなったあすかも、やわらかな表情で微笑んで見せる。


夏生は思う。表情にとぼしい子だと見受けたが、やわらかくわらうと、ひどく愛くるしい。
なんだって、こんなにおとなしそうな子が。
そんな先入観で決めつけた自分自身を恥じる気持ちすら、思い浮かぶ。

この子は確かに、須王の恋人。
この子は確かに、須王に愛されている。


もうすぐ真嶋商会だ。
コンビニをまがれば、住宅が密集する町のなかに、コール音がきこえてくる。

すこしうつむいたあすかに、須王がデージョブだぜ?と声をかける。

店の前でまっていた黒髪の青年が手をふった。
背が高い。夏生とは種類の違う精悍なすがたに、あすかが目を見張る。

夏生も須王も、こころよく手をふっている。
あすかもなぜか、ちまちまと会釈してみせた。

「いこうぜ、あすか」
「……うん!」

あすかの、何かを決めたような笑顔にほっとした須王が、真嶋商会へあすかをみちびいた。おとなしいけど肝の強い彼女にとって、きっと、この店は、居場所のひとつとなるだろう。そして、守ってくれる場所となるだろう。須王の確信のとおり、ここは、ほんのわずかのあいだ、あすかの大切な場所となった。この冬おとずれる最後の日まで、この店は、あすかがずっと愛した、いとおしい場所となった。
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