「アッちゃん。ナッちゃん!」

筋肉だけでできあがった鍛えられた足が、ショートパンツからすらりとのびている。
すずしげなTシャツをまとって、飾らない茶髪をポニーテールにまとめて。
スポーツバッグに荷物をたっぷりつめこんだあすかが、山手駅から坂をのぼってくだって、真島商会の工場前に突如あらわれた。

オイルと土と汗にまみれて、リーゼントはくずれかけて。突然目の前にあらわれた、この真夏にずいぶんこざっぱりとした容貌のあすかのすがたに、秋生は、口をあんぐりとあけて見入ったままだ。

「・・・・・・?」
「ああ、言ってなかったか。あすかだけよ、今日から泊まりにくんだよ」

廃車寸前の車の下から体をひきぬいた夏生が、秋生に、含み笑いで声をかけた。

おじゃまします!と元気よく宣言したものの、あすかはまだ工場内に立ち入らない。
炎天下に平然と立ったまま、あすかは秋生にマイペースに状況を説明した。

「お母さんは明日からくるよ。お父さんは、あさってからになるんだ」

きりのいいところで作業を終えた夏生が、首に巻いたタオルで汗を拭いながらたちあがる。
遠慮なく入ってこいといわんばかりに、あすかを手招きした。

「こーゆーときぁよ、だれが海でてんだ?」
「親戚のおじさんたちだよ。ナッちゃんちは、お盆はお休みするの?」

大きなバッグ、それにいくつもの紙袋をさげたまま、あすかが慎重に工場に足を踏み入れる。

「表向きはな?どーしてもっつー客がきたらあけんよ?」
「立派だなー・・・・・・。でも休めるときは休まないと、体こわすよ?」
「誰にゆってんだよ?」
「ナッちゃんとアッちゃんだよ」

コンクリートの工場に、素人目には雑然と、しかし玄人にとって作業が容易であるようにちらばった工具や部品。それらにけして触れたりせぬよう慎重に足をはこんだあすかは、自宅と工場をつなぐドアまで無事たどりついた。

あすかをそこまで導いた夏生が、押し黙って仕事をつづける秋生に声をかける。

「秋生、休憩してこい」

おじゃまします!と律儀に挨拶をかわし、勝手しったるようすで、あすかはアッという間にあがりこんだ。靴も持ち込み、自宅玄関側に持ち運ぶ。
夏生のことばにだまってうなずいた秋生は、てぬぐいで汗をぬぐいながらあがりこみ、ドアをしめた。


玄関にスニーカーをおいて。ようやく荷物をおろせたあすかが、大きなため息をついた。そして、休む間もなく、台所へ向かう。少し乱れたポニーテールを結びなおしながら、台所と一体化した居間に戻ってきた秋生にたずねてみる。

「昼ご飯まだでしょ」
「アニキが先食ったからな」
「わたしもまだなんだよ、一緒にたべよ」

紙袋は二つ。片方の紙袋から、どさどさと食材をとりだす。
冷房のスイッチをいれて、あすかを手伝おうと立ち上がりかけた秋生を制止して、あすかは炊飯器を遠慮なくあける。

「あ、ごはんたけてるね。しらす丼つくるから」
もう釜揚げしたの持ってきてるから!簡単だから、待っててね。

真昼のテレビ。秋生は、くせのようにリモコンをとりあげ、見たいわけでもないテレビをつける。昼間のワイドショーはどの局も夏季オリンピックの話題でもちきりだ。対面の台所にひっこんだあすかにも、テレビから漏れてくる声はきこえる。

「観てる?」
「ああ、夜帰ってくんだろ?すっとよ、まだやってんだよな」
「・・・・・・?ああ、夜かー・・・・・・夜?そんな遅くに帰るの?わたし起きてらんなくてさ」
知ってる子の応援は頑張ってるんだけどね。

たいそう年齢の若い女子選手がメダルを獲得したり、格闘技に球技に競泳に体操に、あらゆる競技がもりあがっているようだ。

8継でメダルだよ、ありえない、すごすぎる。
秋生にわからない専門用語で騒ぎながら、あすかは冷蔵庫から取り出しためんつゆ、そしてごま油や持参したしそ、秋生の家の海苔を勝手につかってしらす丼を手際よく作り上げた。

「味噌汁ほしいね」
「朝の残り、あっためていーぞ」
「わあ、おいしそう!ありがと!ね、わたしが泊まってる間も、どこか行くの?」
「・・・・・・なんかおまえにかんけーあんのかよ」
「あるよ!一緒に過ごせるの一週間でしょー、せっかくなんだから、アッちゃんといっぱいしゃべりたいじゃん」
「・・・・・・あのな、夜中だぞ?」
「そっか、やっぱどっかいっちゃうんだ、わたし騒音に敏感だからさ、しずかにどっか行ってね?」
「134沿いの家だろ?そんなんでデージョブなんかよ」
「耳栓してるの」
「……ウチのもんもよ……この時期は頭数そろわなくてよ……盆あたりぁよ、家にいんよ」
「やった!いてくれんの!あ、できたよー」

つかよ、あすか寝てんだろー?
立ち上がった秋生が台所まで出向く。あたためられた味噌汁をよそって、どんぶりを持ち運んだ。

あすかの、めまいがするようなマイペースな会話に、秋生はいつしか慣れた。慣れる方法は意外に簡単であった。秋生も秋生のペースで言い返せばいいのだ。なんだかんだで気持ちいい性格のあすかは、秋生の言葉に、すくまずひるまずおびえず過剰に機嫌をとらず、そのまま打ち返してくれるのだ。そして、自分が言い過ぎたときは素直に謝る。秋生にとって、あすかは本当はラクであること。秋生にとってこんなにラクな女は、あすかだけであること。そんなことに、15年たってようやく気付いた。

お茶は、ペットボトル。秋生は、客用のグラスをとりだして、ざっと洗ったあと、机の上に並べる。

「寝てるときも、アッちゃんちにいることを満喫したいんだよ!」
「もーじゅーぶん満喫してねーか・・・・・・?」

あっというまに完成したしらす丼を、秋生がしげしげとながめて、ふたりして手をつける。
うめえと小さくつぶやいた秋生の言葉に満足していると、ワイドショーの画面が切り替わり、話題の女子選手、そして話題の男子選手のことになった。

「こいつ、あんときおまえに勝った女だよな?」
「そうそう、決勝まで残ったねー!すごいよこの子」
「明日がアイツなんかよ」
「明日と、まだあるよ、メドリレも見てあげてね!」

生卵をおとしたしらす丼は、湘南仕込みのおいしさだ。あっというまに減っていく。

「アッちゃんちいる間は、ごはん、わたしとお母さんがつくるからね」
「客だろ、のんびりしてろよ。寿司とってもいーしよ」
「ええ、申し訳ないよ。いつもみたいに掃除もするからね」
「この時期だけ、家がキレーになんだよなあ」

あっさりと終わってしまったどんぶりと椀をもちあげた秋生が、手際よく食器をあらう。今度は、手伝おうとするあすかを、秋生が制止して。
居間で茶を飲み続けるあすかが、秋生に声をかけた。

「先月、応援ありがとね」
「ああ」
「今日楽しみにしてたんだよ!」

答えない秋生のことを一切気にもせず。お茶を飲み終えたあすかが、秋生のそばに寄り、スポンジを奪いあげて一気にあらいあげ、そばにあったふきんできれいにぬぐった。

「これ、どこに返したらいい?」
「そこほっといてくれてもいんだけどよ」

ちょうど、あすかが立っている場所の頭上の戸棚だ。
あすかの背後に秋生が立つ。

「ここだな」

後ろから、あすかにおおいかぶさるように。
さししめされるまま、拭いあげたグラスを戸棚にしまったあすかが、そのままくるりと体を反転した。

「わっ!」
「・・・・・・」

反転すると同時に、戸棚をばたりとしめた秋生。
これではまるで、秋生が、あすかを、腕で閉じ込めているようではないか。
このまま抱きしめることすらできてしまう。

そう悟った秋生の耳から頭の先まで、一気に真っ赤に染まりあがったあと、秋生は反射的にあすかから飛びのいた。
そして、あすかの体は、秋生から解放されることとなる。

「アッちゃん・・・・・・よけなくてもいいじゃん!」
「……び、びびんだろーがよ……」
「そーだよね、びびるよねー、でもそんな、避けなくても……」

しょんぼりとうなだれたあすかの肩に、秋生が手をかけようとしたとき、あすかがぱっと頭をあげる。
ポニーテールの先が、秋生の頬を叩いた。

「今週はわたしと遊んでね!」
「・・・・・オレぁ今から休みとっからよ……」
「あそんでね?」
「しつけーなーー、わーったよ」

そして、あすかは、今のかたすみに置いたままであったもうひとつの紙袋へ話をとばした。

「これどうすればいいんだろ、ろうそくと、お供えものと、お線香……」
「ああ、仏壇のよ・・・・・・」
「ナッちゃんに聞いてくるね!」

いいかげんに掃除をすませてある仏間を指さそうとしたとき、紙袋をさげたあすかは、あっというまに、廊下を走り始めた。

「・・・・・・」

憮然とした秋生が、今のテレビと冷房を律儀に落としたあと、引き戸を乱暴にしめて、古い階段をドスドスとのぼりはじめた。



自宅と工場をつなぐ扉をあすかがあけると、作業服姿の夏生が、事務イスにすわってカタログを眺めている。この蒸し暑さにうんざりしたようすはみられないけれど、それでも、男っぽい額には、汗がにじんでいる。

「ナッちゃん、おつかれさま」
「オゥ」
「えっと」
「どーした?アキオと遊んでやってくれよ」
「遊んだよー、一週間ずっとわたしと遊んでくれるよーに、約束とりつけたよ」

足をくみ、ぼろぼろの事務イスをくるりとまわしてあすかの方にむきなおった夏生が、のどの奥でクスクス笑った。

「ね、これ、どうすればいい?お仏間においとけばいい?」
お供えと、ろーそく……。

紙袋をさししめしたあすかの問いに、ぬるくなった水をあおりながら夏生がうなずく。
紙袋を廊下において。工場と自宅をつなぐ扉の下におかれた古いつっかけに足先をひっかけたあすかが、境目に座り込み、夏生にたずねた。

「お墓行くよね?」
「ああ、いくぜ?」

あまりになめらかな所作でたばこに火をつけた夏生のことを、あすかは、我もなく目で追ってしまうのだ。

「お母さんがね、お墓、そうじしておくからねっていってたよ」
「ああ、そーじ……いきとどいてねーよな……わりぃな……」
「忙しいんだもん、それに気持ちだよきもち」

なんだか、自分の言っていることが、まるで上滑りに思えて。
あすかは夏生に、なぜ関東大会を見に来てくれなかったのかと冗談ぽくボヤく魂胆もあったのだけれど、そんなことはわすれてしまった。つっかけをはいたままあすかは立ち上がって、工場のなかを、めずらしそうに眺め回す。

事務イスからたちあがった夏生が、仕事を再開するようだ。それを悟ったあすかが、思わず身をよけた。
そんなことはつゆしらず、夏生は、あすかに少しの用事を指示する。

「そこにかけてんだろ、それ」
「これ?」
「ああ、それ」
「わたしがさわってもいいの?」
「ああ、それはかまわねーやつだよ、ちっと、とってくれっかよ」
「こっち?」
「こっち」

壁に吊るされている工具を指示するために。
夏生が、壁のそばで迷っているあすかの真後ろに立った。

そして夏生は、結局自分でとりあげてしまう。

あすかのそばに、汗とオイルとたばこのにおいが充満する。

「あっ、ごめんね、役立たずで」
「んなこたねーよ、わりぃな」

夏生が工具に手をのばしたまま、あすかは、体を反転させる。

正面を向いたあすか。
工具に片腕をのばしたままの夏生。

自然、あすかを、片腕で閉じ込めてしまったような体勢となる。

秋生より、夏生のほうが、8センチほど背が高いものだから。
あすかの体は、あっさりと夏生に覆われてしまいそうになる。
先ほどまっかにもえあがってしまった秋生の顔とちがって、残念ながら、夏生の表情には、一切の他意が存在していないようだ。

何だ?
そんなことをいいたげな顔で、夏生はあすかをみつめる。

「きょーだいで、おなじこと!」

拍子抜けした夏生が、この体勢の意味をさとって、クックッとのどの奥で笑い始めた。

「アキオのやつもかよ?」
「おもいっきり避けられたよ」
「ハハッ。あすかスタイルいーからよ、170くれーありそーだけどよ、意外とちっちぇーな」
「166だよ、競泳で強い子はみんな173くらいあるの」
「その分、おまえは他のヤツより足と腕がなげーだろ」

夏生に、まるで抱かれるように。
夏生の瞳は、まるで、こざっぱりと乾燥した広い砂漠の砂のようだ。
あすかの肢体を上から下まで観察されても、何の気味悪さも、何のいやらしさも、ありはしない。

「ナッちゃん」
「ん?」
「ナッちゃん、もうすぐ誕生日だね?」
「オッサンだからよ、んなもんどーでもいーんだよ」
「ほんとのおっさんに失礼だってば!」

あすかが夏生の胸を押す前に、夏生から、さりげなくあすかを解放する。

この物足りなさは何なのか。

あわてて、あすかは次の話題を接ぐ。
何かをごまかすなんて、自分らしくないのに。
秋生とやりとりしているときは、何かをごまかすことなんて起こらないのに。

「夜ごはん、何か決めてるの?」
「んーとよ・・・・・・どっか食いに行くか?」
「えー、わたしつくるよ」
「んじゃよ、あとで買いもんいくかよ、アキオに留守番まかせっからよ」
「わー、楽しみ」
「アイス買ってやんよ。何にすっかよ、焼き肉かぁ?」
「焼き肉!いいね!」
あ、サイフはこれ使えってお父さんにわたされたから!

それも毎年の習慣だ。
そうかよ、わりーな。さらっと受け止めた夏生が、汗をひとつぬぐったあと、やわらかく笑った。

「水泳は食っちまうほうがいいんかよ」
「人それぞれだけど、わたしはお盆休みで体重ふやせっていわれたよ」

工具をとりあげた夏生が、この日最後の一仕事にかかる。
つっかけをはいたまま、もう一度腰掛けたあすかが、その鮮やかな手つきを楽しそうに見守る。
すると、階段をおりてくる足音が鳴って。
アッちゃん!と手をふると、休憩をおえた秋生が、ほとほとあきれはてた顔をみせた。

宿題はあとすこし。気がかりなことも、何もなくて。部活もしばしの休み。
あすかが知る限り、日本一かっこいい二人と過ごせる夏が、今日から始まる。
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