「こんにちは・・・・・・」
緋咲の部屋にインターフォンの音が響いたあと、ボタンをおしてみれば聞こえてくる、機械の向こう側の声。 合い鍵を与えているのに、律儀に来訪の挨拶を欠かさない名前の声が、今日は、ずいぶんしずんでいる。
「ああ、入れよ?」 「……ありがとうございます……」
その憂鬱な声に、怯えや恐怖が存在しないことを、緋咲は即座に読みとった。 そのかわり、名前は、ただひたすら、落ち込んでいるようだ。
エーゴで悪い点でもとりやがったかよ? それか、なんかやらかして、親に怒られちまったか?
あるいは、仲の良いクラスメイトと子供っぽい諍いでも起こしたか。お気に入りのものでもなくしてしまったか。あるいは、ここに訪れるとき、ささいなアクシデントでもあったか。
恐ろしいことや苦しいことが起きたとき、名前は、気鬱をあらわにするよりそれらを緋咲に気丈に隠そうとする子だ。
あれほど赤裸々に、憂鬱を顕わにしているということは。
あの子のメランコリックの理由は、十中八九、深刻な暴力が原因ではない。
緋咲は、そうメドをつけた。
名前の、ただ只管落ち込み切っていた声を、耳の奥で、再度反芻してみる。 エレベーターでのぼってきて、緋咲の部屋にたどりついたそのたよりない体を、ぎゅっと抱きしめて部屋に招き、まずは好きな音楽でも流してやる。そうして、名前の好きなコーヒーでも淹れてやって、名前の好きなモノでも食べさせてやり、あとは、名前を腕のなかにおさめながら、あの子の他愛のない話に、耳を傾けてやるか。
日頃であれば、自室のチャイムをあの子が押すのを待つところであるが、そう考えた緋咲は、エレベーターホールまで出向くこととした。
緋咲によってオートロックが解除されると、自動ドアの向こうへ、名前はとぼとぼとすいこまれた。
エレベーターのなかの反射鏡にうつる、あまりにみっともない、自分自身の姿。
その情けない姿を頭からあしもとまでひとしきりながめたあと、頭を力なく垂れれば、黒髪がばさりと乱れる。
「はあ・・・・・・」
絵に描いたようなためいきをついた名前。そのうなだれた体をのせたエレベーターは、普段どおり、四階でとまった。
エレベーターの扉が左右にひらく。 しずかなエレベーターホールにむかえられるとおもいきや。
扉がひらいた瞬間、名前のはなを、ずいぶん慣れ親しんだかおりが、くすぐった。
「よぉ、名前・・・・・・、??」 「あっ、緋咲さん・・・・・・」
まさか、迎えにきてくれてるとは思わなかった。 緋咲のまえで情けない姿をみせないようにと取り繕う間もないまま、今の自分の、みっともないすがたを、大好きな緋咲に見られてしまった。
「緋咲さん、こんにちは・・・・・・」
名前は、悲しい格好のまま、おどおどとした目つきで、緋咲をじっと見上げた。
「名前・・・・・・?どうしやっがた、それ……!!」 「緋咲さん・・・・・・」
まず、目に付くのは、艶やかな黒髪の惨状。乱れているのはもちろん、ほうぼうが濡れそぼり、乾いた泥が付着している。 紺色に小花模様がちらされた、レトロシックなワンピースも、ぬかるみにつかったようなしみが、あちこちに。 生真面目に身に着けたストッキングには、無残に穴があいている。
片手に掴んだ清潔な白のミニトートもよごれがめだち。 愛くるしい脚、その左膝には、すりむいたあと。
そして、名前の愛らしい顔にも、泥水が跳ね返ったあとがはしっている。名前の片手には、泥をぬぐったあとの、よごれたミニタオル。
くちびるをかみしめて、まゆげをなさけなくさげて、その大きな瞳は、ふるえてしまっていて。 ぽってりしたくちびるが、緋咲のことを、よわよわしくよぶ。
「ひ、ざき、さん・・・・・・」 「なにがあった!!・・・・・・?」
そして、よくよくみわたしてみれば。 よごれているだけで、名前の顔に、腫れもケガも何一つない。 泣いたような痕跡もない。 ケガは、みたところ、すりむいた膝だけか。
ともかく、いつまでも、ここで名前のことを立たせておくわけにはいかない。 いつもより数倍頼りない背中。 その背中をそっと抱くと、泥と、泥以外にも、妙に不可解なかおりがただよう。
「い、いいです、汚いのついちゃいます」 「部屋いくぜ?」
遠慮する名前の肩を抱き、緋咲は、そのしょんぼりとした体を抱き寄せる。 恐怖に震えているさまもみあたらない、無慈悲な暴力でひどくきずつけられたようなケガのあともない。
やはり、名前は、ひたすら、おちこんでいる。
とぼとぼと歩く名前の背中を支えながら、緋咲は、自室のドアの中に押し込んだ。 かわいらしいサンダルも、泥まみれ。
お部屋、よごれる。 そうつぶやいたまま、玄関から動こうとしない名前の手をひいた。 足をこすりあわせてサンダルをぬぎ、ちいさな足が、緋咲の城を、ぺたりと踏んだ。
しかし、そのまま、部屋には入ろうとしない。浴室のそばにとどまったまま、名前は緋咲に、ちいさな声で、願った。
「あのう、緋咲さん、よかったら、シャワー・・・・・・」 「そのまえによ、何があったか、教えてくれねーか?」
緋咲は、名前のほっそりとした腕をつかみ、そのちいさな手がにぎりしめているミニトートバッグをそっととりあげる。白いトート、これもずいぶん汚れてしまっていて。中身は無事なのか。バッグの中をのぞいていると、緋咲の真下で、ちょこんとたちつくしていた名前が、ぽつりとつぶやいた。
「いぬ・・・・・」 「あ?」
名前のぽってりとした口元からとびだしてきた、二文字。 いぬ。
眉間にしわをよせ、怪訝な気色をうかべたまま、緋咲は、うつむいてしまった名前の髪の毛をなでる。そうすると、土の塊が、はらりと落ちた。玄関にそれを蹴り落としながら、緋咲は、名前の次の言葉を、辛抱強く待ち続ける。
「犬を・・・・・・」 「??犬を、なんだ?」 「い、いぬを、いぬを、たすけました」
なぜだかせっぱ詰まったようすで告げられた言葉。 緋咲は、ひとまず、読み取れた単語を繰り返してみた。
「犬?」
こころもとない調子で始まった名前の話に、みみをかたむけながら、緋咲は名前のほっそりとした腕をとって、ぱりぱりとはりつく泥をはらう。よごれる・・・・・・とつぶやいたその声は、聞こえないふりで。
「ポメラニアン・・・・・・」 「あの、ちっせーヤツかよ」 「お散歩ちゅうにリードきれちゃったポメラニアンが、パニックになってて……」
かわいい足の爪の先には、ピンク色のペディキュア。もはや意味をなさないストッキングのつまさきも土ほこりが、くっついている。 乱れた髪は、すぐにでもブラシでといてやりたいが。 ふたりして、部屋までの廊下にたちつくしたまま。 浴室の前につったったまま。 緋咲は、名前のために眠らせた指で、名前の乱れた前髪を元に戻し終えたあと、そのなで肩に大きな手を置き、まるで落ち着かせるように、短い相槌をいれて、名前の話のつづきを促した。
「へえ?」 「お散歩してた歩道の、すぐそこ、いっぱい車が通ってたの。今にもとびだしちゃいそうで・・・・・・」 「・・・・・・」 「で、犬が、ひかれそうになったの。だから、ポメラニアンたすけたんです」 「ッ、どんな道路だかしらねーがよ、あぶねえゾ・・・・・・?名前が事故に遭うかもしんねーんだぜ?」 「・・・・・・犬は、捕まえられたんだけど、わたし、そのまま、水たまりに、思い切り、ころんじゃった」 「それで、こーなったんか」
名前が、こくんとうなずく。 起こったことを丁寧に思い出し、状況を、己の言葉でたどたどしく説明していれば、名前の頭の中も少しずつ整理されてきて。 それは、よけいな口をはさまずに、ただ黙って名前の話を聞いてくれた緋咲のおかげだ。
さきほどよりもやや落ち着いた瞳に変わった名前が、緋咲をみあげて、すこしだけ目元をゆるめた。
「そっかよ・・・・・・ケガぁ、そのヒザだけか?」 痛むとこねーかよ?
名前が、小さくうなずく。
「かいぬしのひともパニックで、そのままポメラニアン、奪われて、どっかいっちゃいました・・・・・・」 「んだとォ?礼もナシかよ?」 「わたしひとり・・・・・・残されて、」 しらない人たちに、じろじろ見られちゃって・・・・・・誰も、大丈夫?とかゆってくれなかった……
ぽってりとしたくちびるを、さみしくとがらせて。 緋咲がやさしくふれてくれるその手に、身をまかせながら。
「恥ずかしかったし……」
よごれてしまったワンピースをぎゅっとつかみ、名前が打ち明ける。
「なんだか、むなしかったの」
少しだけ涙声になったその声は、すぐに澄み渡る。そうして、かなしく、自嘲気味に、名前は自分を振り返った。
「ひとりぼっちでこんなによごれちゃって、わたしって何なんだろうって思いました・・・・・・」
名前からただよっていた土くささ以外の、不可解なにおい。名前の、今の述懐により、緋咲は合点がゆく。
「ああ、犬のにおいか、これ・・・・・・」 「そうなんです!」 あんなちっちゃい子とたわむれただけで、こーなるんですね・・・・・・
「で、ですので、あ、あの、よければ、シャワーをお借りできますか?」 「たりめーだろ、そのままでほっとけっかよ」
待ってろ? 名前を、浴室の前にのこしたまま。 緋咲が、自室にもどり、クローゼットをさぐりはじめた。
「ワンピース、あらえんヤツかよ?」 「??・・・・・・あ、クリーニングにだすやつじゃないです」 いつも、家で洗ってます。
深い紺色に小花がちらされた、レトロなワンピース。名前のことを大人っぽくひきたてている。けれど、それは泥水でシミがうまれはじめている。
「着替え、買えばよかったんですけど、お店にもコンビニにもはいりづらくて」 「上だけか?」 「・・・・・・?あ、あ、は、はい!ワンピだけ!」 「はいてんやつはよ、すてちまえ、しょーがねーけどな」
緋咲の言葉通りおとなしくストッキングをぬぎはじめた名前は、くるくるにまるめて、キッチンのゴミ箱の中に廃棄した。 緋咲は、クローゼットの中から、まだ数回しか使っていないバスタオルと、使い込んだTシャツ、そして、もっともスリムなサイズのスラックスを用意する。さらに、おろしたてのボディタオル。 すべてを手早くまとめて、ぽつんとたったままの名前にもたせる。
「シャワールームつかえ」 「うう、ありがとうございます」 「これぁよ、そこほうりこんどけ」
脱衣所のドアをあけて、すぐそこにある、洗濯機。緋咲は、そこをさししめした。そして、名前が持参したミニトートバッグもとりあげる。真っ白のそれも、どろが付着しているのだ。
「待て、こいつもあらっちまえ。中出すぞ?」 「ああ、ごめんなさい……たいしたもの、はいってません」
文庫本に、お財布に、鍵に、MDプレイヤーにポーチ。中身を一気にとりだして、汚れたミニタオルと空のトートバッグも突き渡しながら、緋咲は伝える。
「シャンプーもシャワージェルも使ってかまわねーからな?」 どれでもつかえよ。
「ありがとうございます、ごめんなさい……」 「ゆっくり使えよ?」
土の塊がぱらぱらと落ちてしまった廊下が気にかかる。 その名前の懸念する瞳をさとった緋咲が、かまわねーからよとなだめ、名前の背中を軽くおして、脱衣所に押し込んだ。
脱衣所にそなえつけられた清潔な洗面台。そこにうつる自分自身のすがたは、ひどくみっともない。なにより、表情がよどんでいる。こんな顔の名前に、嫌悪感ひとつあらわにすることなく、根気強く頭を整理する時間を与えてくれた緋咲。 あとで、ちゃんとお礼を伝えなければ。
ブラジャーと、ワンピース、そしてキャミソール。そして、よごれたバッグとミニタオル。 すべて、洗濯機のなかに、丁寧に畳んでいれておいた。
自宅のお風呂と勝手が違う蛇口をひねれば、大降りのノズルから、あたたかいお湯が降り注いでくる。
お湯で洗っただけでは、名前がつっこんでしまった水たまりの泥の感触や、道ばたの小汚い雑草や、なまぬるい土、そして雨上がりの水たまりの不潔感がぬぐえなくて。申し訳ないけれど、オーガニックブランドのシャンプーとコンディショナー、同じブランドのシャワージェルを借りることとした。緋咲がわざわざ用意してくれたナイロンタオルで、リッチでさばさばした香りのシャワージェルをあわだてる。緋咲にそっと抱きしめられたとき。その耳元やくびすじからたちのぼるのは、このにおい。
暖かいシャワーを、ひたすらあびつづける。
汚れたすがたで、ひとりぼっちで歩いていると、本当に自分が惨めに思えた。こんなとき、うけいれてくれる場所があってよかった。緋咲がいてくれたから、いま、こんなにあたたかい場所に戻ることができた。
それにしたって、このシャンプー。名前の使う、ドラッグストアのシャンプーとちがい、このシャンプーは念入りに泡立てないとあらいにくいけれど、なんだか髪の毛にしっとりとしみこんでいく感触がある。
いつまでもバスルームを占拠してはいられない。 お湯をとめた名前は、緋咲のかおりをただよわせながら、浴室からぺたぺたと出てきたあと、バスタオルを手にとった。
ショーツを身につけて、こどもっぽい体に、緋咲が用意してくれた服をまとう。 緋咲の部屋着だ。肌ざわりのいいTシャツが、名前の体をざっくりと覆った。名前の腰からずるずるとおちてしまいそうなスラックスは、名前の下半身を大きく覆って、それでもありあまる。
タオルで入念に水気をとったあと、頭にタオルをまいて。
「緋咲さん、ありがとうございました・・・・・・」
カチャリと戸をひき、いつもの部屋へ、裸足の足をふみいれた。
初夏。心地よく冷房の聞いた部屋で、緋咲が、たばこのけむりをくゆらせながら、待っていた。
まだ出したばかりとみられるペットボトルの水を手わたされて、ぺこぺこと頭をさげながら、名前はうけとる。 いつものくせで、ぺたりとカーペットの上に座り込みそうになると、緋咲に腕をつかまれて、ベッドの上に腰をおろすこととなった。
「もっと使ってもかまわなかったんだぜ?」 「じゅうぶんです、ありがとうございます・・・・・・」
浴室へ戻った緋咲が、洗濯機に液体の洗剤を放り込んだあと、スイッチをおした。そして、ドライヤーをつかんでもどってくる。 ミネラルウォーターのペットボトルを抱えて、すずしい風に吹かれて、頬を上気させたまま。 こくこくと水を飲んでいる名前の髪からバスタオルをはぎとり、ドライヤーのコンセントをさしこんだ。
「あ、あの、緋咲さん、このままでも……」 「自然乾燥かァ?どんだけかかんだよ」 「うぅ、ありがとうございます・・・・・・」
ざっくりしたブラシで、名前の髪の毛をとかしてから。緋咲が、名前の、たっぷりとした黒髪を乾かし始めた。
「こんだけきれーな黒髪だとよ、手入れに手間かかんだろ?」 「きれーなんかじゃないんですけど、いつも乾きにくいです……」 「髪質がいいからじゃねーか?」 「量がおおいだけなの」
名前の髪の毛からたちのぼる、己のにおい。 安心して緋咲に背中をあずけて、名前は、すずしい部屋で、高価なドライヤーのきもちのいい熱風をあびつづけている。 やや時間をかけて、名前の髪の毛を乾かし終えた緋咲が、まるでからかうように男物の化粧水をさしだすので、名前が頭をぶんぶんとふって遠慮した。
「ヒザ、すりむいてただろ」 「あ、あの、すっただけってかんじです、お湯にもしみなかった」 「みせろ」 「わぁ、あ」
ベッドに腰掛けたままの名前がそのまま逃げようとしたけれど、緋咲は、名前のほっそりとした片足をとらえた。 ゆったりとしたスラックスを一気にまくりあげる。
だぼついた生地のなかからあらわれた、名前のすっきりとした足。
臑の上で、数本走っているスリ傷は、かさぶたにかわろうとしている。
つい一昨日あたり、自分で自分を手当したときにつかった脱脂綿と消毒液が、そのあたりにころがっている。脱脂綿に、乱雑に消毒液をのせた緋咲が、至極愉快そうな声で、名前をからかった。
「しみんぞぉ?」 「え、えー!」
思わず引こうとする足を、しっかりと捕らえて。ピンセットなどは使わずに。緋咲は、名前の臑に、慎重に消毒液を乗せた。
緋咲の、すこしだけいじわるな言葉に反して、名前には、全く刺激がかんじられない。緋咲が、ていねいにほどこしてくれる手当のおかげだ。
「しみなかった・・・・・・」 「ま、これで大丈夫だろ」
清潔な絆創膏をぺたりとはりつけて、緋咲は、まだ味わい続けていたい名前の足を、スラックスをのなかに隠してやった。
「ありがとうございます……」
それでも、名前の語尾は、いまだためいきまじりで。 歩道と車道の境目がある程度ある道路だと語っていたから、さぞ衆人の目も多かったのだろう。 子犬をたすけて、衆人環視のなか派手に転んだ。 大きなケガひとつなかったことこそ奇跡だが、体をはって弱いものを守ったのに、誰にもいたわられず、ひとりぼっちでとぼとぼと戻ってきた名前があじわった虚しさとさみしさは、熱い湯で洗い流しても、いまだ癒えていないのか。バスタオルを律儀にたたみ、少しはほころんだ表情で、それでもうつむきがちな名前のそばから、緋咲は離れた。
「まってろよ?」
風呂上がりの、お湯にあたった心地良いつかれと、確かな疲労をにじませた名前は、ベッドにこしかけたままきょとんとした大きな瞳で緋咲の背中をみおくった。
かすかなたばこのにおい。 名前自身からただよう、緋咲の、家のにおい。 それにしたって心地よいTシャツに包み込まれて、名前はこのまま、大きなベッドにたおれこんでしまいたい。 このベッドで休んだことは、幾度かあるのだけれど。 さすがにそこまで安らいで甘えてしまうことなんて、もうしわけなくて。 緋咲のいうことをおとなしくきいたまま、ベッドにこしかけて、名前は、緋咲のことを、ちょこんと待ち続ける。
そのとき、部屋のドアが、鈍い音をたてて、あく。
「淹れたヤツじゃねーんだけどよ」 「そ、そんな・・・・・・ありがとうございます!」 「淹れてっとよ、んで急冷すんだろ、したらよ、時間がかかんだよ」
名前が何度も使っている、細長いグラス。 それにみたされた、深い漆黒ののみもの。 緋咲の部屋でのむ、よくひえたそれは、名前が一番落ち着くのみものだ。
ベッドから降りてテーブルの前にちんまりとすわって。清潔な部屋着の感触に、もう、不潔な水や土や泥を思い出すことは、なくなった。 緋咲は、幾分明るくなり始めている名前の表情に安堵をおぼえながら、片手にさげていた白いハコを、テーブルの上に置いた。
「皿だしちまうとよー、洗うのめんどくてな。中にフォーク入ってっからよ」
乱雑で、あたたかな説明を添えながら、白いハコを緋咲が開く。
「わー!!おいしそう!!」
とてもシンプルで、とても上品なロールケーキが登場した。 もともと名前に食べさせようと思って用意していたものだ。
「ハラがへってるときぁよ、ろくでもねーこと考えがちなんだよ」 「ああ、そうかもしれない……」 「くえ」 「緋咲さん、ありがとうございます!」 これ、高いところのじゃないの?
名前の問いかけには無視をきめこみ、ロールケーキをたちまち頬張り始めた名前の背後で、ジョーカーに火をつける。
「うう、おいしいです」
ケーキをぱくぱくとつめこみ、アイスコーヒーをすいあげて。 余計なものはつめられず、ただ、ケーキそのものの力強く、やさしい味。 そんなあたたかな味を楽しむ名前を、苦笑交じりに見遣りながら、緋咲がソファに腰をおろした。ロールケーキをほおばったまま、名前が、ひざきさんはいいの?と気遣うので、それをさらりとあしらいながら、緋咲が口をひらいた。
「しかしよー、飼い主もひでえな」 「でも、自分の犬をいきなりしらない人にさわられたら、びっくりするのもむりないかも」 「名前がいなきゃよ、犬クシャクシャになってたんだぜ?一言あるべきだろ」 「くしゃくしゃ……こ、こわい・・・・・・」 「ま、黙ってみてた連中にもよ、んな飼い主にもよ、もう二度とあわねーだろ、忘れっちまえよ」
こんな些細なことで落ち込むことなど緋咲にはありえない。 ましてや、状況を想像する限り、名前に非などない。
「そう、ですよね!」
アイスコーヒーを飲み干した名前は、今度こそ、落ち着いたためいきをついたあと、この部屋におとずれたときよりずいぶんすっきりとした顔で緋咲をみあげて、その小さな顔を、大きな笑顔でいっぱいにした。
「ああ、名前はできることやっただけだ」 偉かったな。
ロールケーキをまたたくまにたいらげた名前が、ちょっとだけ首をかしげて、そうして、緋咲の言葉に、まるで呪いをとかれるかのように、澄んだ笑顔で、うなずいた。
おもいがけないことが起きたショックを癒すには、こうするにかぎる。
緋咲は、おもむろにソファからたちあがった。
たばこでもとりにゆくのか。そう判断した名前は、緋咲に別段気に留めることなく、カーペットの上に体育座りでちんまりと鎮座し、ひざに顔をうめかける。
ちんまりとすわりこんでいる名前のそばで、緋咲はたちどまった。
そして、ひざをつく。
だぼついたスラックスにおおわれた、名前のほっそりとした足に、緋咲がいきなり手をさしこんだ。
「え!!!」
そして、お姫様のように、抱き上げられた名前の小さな身体。
なんつー軽い体してんだ……。 小さな声でぼやいた緋咲が、ちいさな名前を、やわらかいキングサイズのベッドのうえに、そっとねかせる。
「ひ、ひざきさん……!」
名前のほっそりとした下半身に、薄手の毛布をかぶせた。眼を白黒させる名前の体を、名前を怖がらせないように、名前が威圧感を抱かぬように、名前がおびえぬように、そっと組み敷いて。
切羽詰まった名前の表情が、とても愛らしくて、なんだか可笑しい。
名前の顔の横に手をついた緋咲のととのったくちもとが、名前のぽってりとしたくちびるに近づいた。
「もう大丈夫かよ」 「緋咲さんのおかげです」
ありがとうございますとつけくわえようとした名前の唇を、緋咲が、やわらかく覆った。
優しく重なるだけのキスを、2度、3度与えると、名前の顔に、みるみるうちに、朗らかな安心感がうまれる。そうして、緋咲は何気なく、名前の体の変化をたしかめる。
熱もねーかよ? そう確信した緋咲は、名前の隣に寄り添いながら、賢い額を優しく撫でた。
「ねちまっていーぞ」 「わたし、寝付きが悪いんです」 ねむくないの。
漆黒の大きな瞳は、緋咲のことを凛とみつめる。清潔なベッド、清潔な服にまもられて、緋咲は、名前の隣に、寄り添う。
幾度目かのキスをおくろうとしたとき。
洗濯機が、がたんと音をたてた。 洗濯機と乾燥機が一体になった、最先端の家電は、高機能であるゆえの騒音がややうっとおしい。しかし、そのぶん、めんどうなクリーニングに出向かずとも、特攻服も自宅洗いできるわけで。特攻服は、さきほど部屋着をひっぱりだしたクローゼットの奥。名前はそれに気づいているだろうけれど、気を遣うこの子は、あの日からいちども、そのことに触れない。
「ああ、かわいたか」 「あ!、わ、わたしが!!」 あのなかには、ピンクと赤のチェックのブラジャーも含まれている。
そんなことを自覚してか、そんなこと気にも留めいでか。名前の引き留める声をさらりとふりはらった緋咲がベッドから起き上がり、ふわふわにかわいたワンピースと、白いトートバッグと、下着、そしてキャミソール。一番上にキャミソールをたたみ、その下に下着。そしてワンピース。丁寧にたたんだものを持ったまま舞い戻り、それをガラスのテーブルに置いた。
「ここおいとくぜ?」
ころんとねころがっていればいいものを、上体をおこしてベッドに座っている名前が、おずおずと頭をさげた。
「ありがとうございます」
再びベッドに上った緋咲は、体を起こしている名前の体を、後ろからつつみこんだ。軽く息をのみ、名前は、緋咲のあたたかな腕に、おとなしく抱かれる。名前の背中をさりげなく己に預けさせると、名前は、おとなしくそれに従った。座椅子がわりの緋咲。緋咲の胸のなかにおさまる、あたたかい体の名前。 緋咲は、すこしかすれた声で、名前をいたわる。
「元気になったか?」
そうして、名前の頬をぐにぐにとつまむ。 少し口をとがらせた名前が、明るい声で、緋咲にこたえた。
「もう、元気です!緋咲さんがいてくれたから!」 いっぱいお世話してくださって、ありがとうございました。
名前が再三おくる礼の言葉をかたっぱしから受け流し。 そんなこと当たり前だといわんばかりに、緋咲は、名前の首筋、耳元に、キスを降らせ続ける。
「緋咲さん、このふくいいにおい!」 「いいにおいっつーかよ、おまえがよこしたサシェのにおいじゃねーんかよ」 「ああ、そうかも……でも、いろんなのが、まざってますよ?シャワージェルも、シャンプーも、洗剤も!」 「洗剤はフツーのだぜ……?名前の髪からよ、おれと同じにおいがすんな」 「あれ、とってもいいにおいだった!」 シャワージェルも、いいかおり!!
すっかり元気をとりもどした名前の、いつもどおりのすこやかな声、媚びない言葉、のびのびとしたふるまい。 そんな名前らしさを味わいながら、緋咲が、名前を抱く腕を強くする。
「外でもおれがついててやれりゃーよ、くだらねーことにまきこまずにすむんだけどよ」 「そんなことないの、もう、わたし、情けないです。注意深くならなきゃ!緋咲さんに、心配かけないようにしたいです」 「ああ、心配になっちまうことは、あんだよな……」 「わたしが、しっかりしてないからですね」 「ちげえよ、おまえが気丈だから心配すんだよ」
この暖かさをうしなうと、己は、狂うかもしれない。 この緋咲薫が。 己らしくもない実感は、緋咲の精神の奥底に、確かに存在するのだ。
「しっかりしなきゃ!緋咲さんにふさわしい彼女に、ならなきゃ」
名前は、緋咲に強く抱かれて、緋咲のやさしい腕の中で、そんな無垢な決意をあらためる。
「今ぁよ、んなことかんがえられねーんだけどよ」 「?」 「おれが、いつかよ」 「いつか・・・・・・?」
緋咲が、におわせようとした話が何なのか、名前はすぐに悟った。 そして、名前の瞳が、不安にゆれる。
「そんな目、すんな」 「ご、ごめんなさい」 「名前に、怖いおもいはさせねー」 「緋咲さんが、いてくれたら、怖いことなんか何にもないの」
らしくねえ話だよ。 そう断った緋咲が、名前のことを、まるで確かめるように、強く抱きしめながら。 その白い耳元で、かすれた声でつぶやく。
「いつか、次がきたらよ」 「・・・・・・」 「いつでも、おまえのそばにいてやるよ」 「今も、緋咲さんはいつも、近くにいてくれてます」 「ま、何があろーとよ、せいぜい、愛しぬいてやるよ?」 「・・・・・・」
名前が、素直にちいさくうなずき、頬と耳をまっかにそめた。 黒髪のすきまからのぞくほっそりとしたくびすじも、途端、紅色になる。
ずっとこのかおりでいろ。 ずっとここにいろ。 ずっと、オレの腕の中にいろ。
照れてしまったあと、緋咲を振り向いて生命力いっぱいにわらう名前。 緋咲は、名前にやさしくくちびるをよせ、いつもより長いキスをおくった。 ---------------------------------------- 虚唄様リクエスト
キャラクター 緋咲 / 「夢主が愛しくて愛しくて仕方がない緋咲さんの夢」でした!
「溺愛」というご提案をいただきました。 溺愛でしょうか……あまやかしになっているような……。
虚唄様、リクエストをありがとうございました!!!
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