緋咲の着ているTシャツの素材は何というのだろう。てらてらとした光沢感があって、真昼の自然光のあかりを、鮮やかにはねかえしている。
その短い袖からのぞく、青白くてしなやかな腕。
名前の倍ほど骨太。骨の分厚さを感じられる手首には、プラチナのブレスレットがひかる。

名前のほっそりとした背中に感じる、緋咲のたしかな熱。
強いコロンのかおりが、名前をとりまいて、はなさない。

緋先の精悍な腕が、自分自身の胸元にまきついていることに、くらくらしながら。

「緋咲さん・・・・・・」

名前の鈴のようなメゾソプラノは、いつもよりかすれている。
甘さをおびた名前の声をきいた緋咲の、紫色のやわらかな髪の毛が、名前の頬にふわりとふれた。

名前ののどの奥から、戸惑いをおびた、そして確かにあまい声が滑り出してくる。

その声を味わった緋咲のつめたいくちもとが、にぶくゆがんださまを、緋咲に背後から抱かれている名前は知るよしもない。

とざされた緋咲の部屋。

ガラスのテーブル。

名前がぺたりとすわりこむと、ちょうどいい高さだ。

テーブルの上に、分厚い辞書、ピンク色の下敷きがはさまったノート、問題集、参考書、プリント、チェリーピンクのペンケースをひろげて。

名前は、緋咲に後ろから抱かれながら、英語の勉強中なのである。

チェリーピンクのシャープペンシルをつかんでいた手から、とうとうちからがぬけて、それは、ノートの上に、はしたなくころがった。

「緋咲さん、勉強・・・・・・」
「ああ、そーだな、集中しろ」
「・・・・・・、どきどきします・・・・・・」
「もたれてもかまわねーんだぜ?」
「だめ!緋咲さんにもたれちゃったら、勉強にならない!」
ちゃんと、やるの。

みずからころがしてしまったシャープペンを、小さな手で、名前は勇ましく握りしめなおして。

はやめの期末テスト対策かとおもいきや、それだけではないらしい。期末テストにくわえ、実力テストなるしろものまであるという名前の通う女子校。中興一貫校の学習進度は、公立校にくらべ、やや早い。このままでは、ニガテな英語に二度と太刀打ちできないのではないか。そう案じた名前が、帰国子女、アメスク育ちで、外国語堪能である緋咲に、本格的な英語の指導をお願いしてきたのだ。

「やみくもにやってても意味ねーんだぜ?どこがわかんねぇ」

ノートの間にはさまったプリントを、名前がおそるおそるひっぱりだす。
名前が、62点しかとれなかった小テストを、緋咲に見せた。完了形のテストだ。

和訳から、穴埋め、選択問題。単語並べ替えに、書き換えに英訳。
その紙切れを名前からとりあげ、ひととおり問題を眺めたあと、緋咲が眉間にしわを寄せる。

「ジュニアハイじゃこんなエーゴならわなかったぜ?」
「受験英語だから・・・・・・中2の中間くらいまでは、85点くらいあったんです。だけど、期末で70点くらいになって、それから、ずっと、さがりっぱなしで」

かすかな声で、正直に現状を打ち明ける名前のことばを、いたって冷静に受け止めながら。
間違いと正答、その傾向を、緋咲は、キレのいい頭を回転させて分析する。

「……いや、手遅れじゃねぇぞ」
「て、手遅れ・・・・・・」
「こんなモンおぼえなくてもよ、しゃべれんだけどナ」

It's rainyを書き換えよ。
書き換えなくても、単語でも適当に加えてしまえばいい。

私の父は図書館に行ってしまいました。
ばかばかしい英語だ。

こんなものを見越して、帰国後の己を、一般校ではなくアメスクに放り込んだ親の眼は正しかった。いや、今の身分をかんがみると、正しかったといえるものかどうか。

名前の肩越しにしなやかな腕をのばして、参考書の該当ページを繰った。
緋咲は、英文をトントンと指さし、名前に英文を読ませる。
そうして、緋咲自身も、英文を読み上げてやりながら。

「発音、すごくきれい!」

おおげさな感嘆をいれる名前の額をかるくはじいて、名前に、己について読みあげるようにうながす。

これもおぼえとけよ。
名前の肩ごしに、緋咲は、チェリーピンクのシャープペンをとりあげ、発音記号にしるしをつける。

「これもですか……」
「今必要じゃなくてもよ、そのうち必要になんぞ」
「そっかー、わかりました!」

そして、わかりやすくかみくだかれた平易な参考書を、ぱらぱらとさかのぼってみる。

「ここぁよ、こっからつながってんだよ」
「は、はい」
「これ、やってみろ」

一つ前の単元にさかのぼった緋咲が、名前が怠っていた練習問題をゆびさした。唐突にしめされた問題をまえに、名前は、あからさまに戸惑いをみせる。苦手な英語に、頭はすぐに追いつかない。

「え、えっと」
「あせんなくていいからよ、ゆっくり考えてみろ。ほら」

緋咲が持ったままであったチェリーピンクのシャープペンが、名前の小さな手に手渡される。
握りしめさせられたその手。名前の手が、きゅっと緋咲につつまれて。


集中しなきゃ!せっかく緋咲さんがおしえてくれてるのに!


雑念をふりはらうように、名前は、如何にも自信に欠けた様子で、懸命に考え出した回答をノートに書き込んだ。

「正解。んで、こっちもどってみろ」
「あ!そっか、これが発展してるんだ」
「そーゆーこった」

緋咲は、こんな英語は習わなかったと悪態をつくけれど、それは、きっと、頭にはいっていて当然という意味なのだろう。
懸命にきいているつもりであるし、宿題や予習も一度も忘れたことはないのに、なぜだか、頭の中を上滑ってしまう英語。極端にわかりにくいわけではないけれど、しっくりくることがほとんどない、学校の授業。学校の先生より、緋咲の簡潔な語り口のほうが、ずいぶん理解しやすい。それは、名前が緋咲を慕っているからだろうか。

まるで緋咲に支えられているように、シャープペンは順調に進んでいた。

それでも、三年間、わからないことをあとまわしにしていたツケは、簡単にはらえるものではなくて。

幾度も同じところを間違えてしまったり、同じ単語の意味をわすれてしまったり、基本的な単語の意味をおぼえられていなかったり。名前は、赤面もののミスばかりくりかえしてしまう。音をあげてしまった名前が、涙声で弱音をはいた。

「・・・・・・英語、わかんないです……」
「手遅れじゃねーっつっただろ。オレのいうことをよ、信じられねーか?」
「そんなことないです……、がんばったら、なんとかなりますか?」
「ベンキョーなんざよ、やったらやっただけ結果が出んだろ。デージョブだからよ、続けろ」
「はい!」

自分がくりかえすミスなんて、さぞ緋咲にとってはばかばかしいだろう。授業中にいきなりあてられてこたえられなかったり、誤った答えを口にしてしまったり。あんなことより、緋咲の前で情けない姿をさらすほうが、ずっとはずかしい。
だけれど、緋咲は、どんな間違いをおかそうとも、その冷たい声が名前を見下すような言葉をつむぐことなんてないし、アドバイスをくれる声色は、ひんやりとしているけれど、実に誠実なのだ。根気強く、名前につきあってくれる。

「行為者が不特定だろ。だからこれは省略できんだぜ」
「こういしゃ?」
「そーだな、これだとよ、カナダで英語とフランス語しゃべるモンは特定できねーだろ。by many peopleはつけなくていーんだよ、ここで終わっていいっつーことだな」

名前の肩越しに、しなやかな指先で英文をなぞって。
横を向いて緋咲の横顔を見つめながら、名前はそのあざやかな説明にうなずき、アドバイスにみちびかれながら、問題文の選択肢にまるをつけてみると、緋咲が、名前の頭を、かるくなでた。

「正解ってこと?」
「これからよ、正解だったらよ、こーしてやるよ」

くちびるをかみしめて笑みを押し殺した名前は、意気込んで、もともと学ぼうとしていた単元へ突入する。
前の単元は、確認問題もほぼ正解できたから、今度こそ。

そうして挑んでみるものの、やっぱり、同じ壁にはじかれている気がする。

消しゴムでなんども英文を消して。消しゴムのカスは、緋咲の部屋をよごさないように一カ所にまとめていると、名前を抱き込みながら背後に控えてくれている緋咲から、「すてていーんだぜ」なんて、やさしい言葉がとんでくる。もちろんそんな言葉には甘えられなくて。

長い足は、だらりと投げだされて、名前のそばを、走っている。
座椅子がわりのように名前の後ろに座ってくれている緋咲の、強い香水は、まるで、ねむけざました。

眠気はおとずれないものの、名前の頭の回転は、次第に鈍重になってくる。英文は、アルファベットの羅列に見えはじめて、英語から日本語への変換なんてさっぱり発想力が動かなくなった。

単純なニ択問題。
緋咲は、呼吸をするように理解できることば。

have knownとhave been knowingのどちらをえらぶか、名前は完全に手が止まってしまった。


「煮詰まっちまったか」

背後からとんできた、緋咲の穏やかな声。こわばった顔の名前が、こくりとうなずいた。
緋咲の部屋にかかっているシンプルな時計を確認すると、勉強を開始してからずいぶん時間がたっている。

「一時間半かよ、よく集中したな。休憩すっかよ」
まってろよ。

けだるくたちあがった緋咲がキッチンに消える。

ひらいたままのノートに、名前はぺたりと突っ伏してしまった。

英語の勉強をするときは、どうしてだか、気持ちが散漫になってしまう。それが、今日は、緋咲にうまくみちびかれながら、一時間半も勉強をつづけることができた。

ほどなくして、ガラスのテーブルの上に、名前がかつて鎌倉で買ってきたコースターが置かれる。
名前があわてて頭をあげた。
清潔なグラスにみたされた、しゅわしゅわとしたソーダ。ライムの香りが漂う。
そして。

「チョコ!!」

いつだったか、緋咲の読んでいた男性向けファッション雑誌をのぞいて、食べたみたいと何気なく口にしたチョコレート。

あの広告のままのそれが、ガラスの器にきれいに盛られて、名前の前にコトリと置かれた。

「ごほーび」
「ええ!ぜいたくですよ……」
「がんばってただろ、食ってあとひとがんばりしろ」
「はい!ありがとうございます。覚えててくれたんですか?」
「何のことだかな」

さきほどまで名前のことを背後から抱き抱えていた緋咲は、いったんソファに戻る。
ソファに精悍な体をしずめて、自分用のアイスコーヒーは、市販品。そして、たばこに火をつけた。

チョコレートをおそるおそるつまもうとしている、名前の慎重なさまに、口元をゆがめて笑みをたたえる。

「おいしい!!」

ミルクの甘みと、ほんのりビターな感触が、とろけそうで。スーパーやコンビニで買えるチョコレートもだいすきだけれど、このチョコレートは間違いなく、いままでに食べたことのない、リッチな風味。
苦手科目に向き合い続けて、疲れはてた頭に、ゴージャスなチョコレートが、じんわりとしみわたった。

ソーダで口の中をさっぱりとさせて、いくつもチョコレートをあじわっている名前を眺めながら、緋咲は、テーブルのうえにころがっていた細長い紙切れをひろいあげた。それは、名前が正直に緋咲にみせた、中間テストの結果。

それに気づいた名前がハムスターのようにチョコレートを口にためながら、ばつのわるそうな顔をみせる。

国語は85点。数学や理科も80点台、社会科にいたっては93点。順位は、31番としるされている。

「平均は80越えてんだな。エーゴで80点代にのるとよ、20番くれーいけんじゃねーか?」
「社会が好きです!でも、数学も面白いな」
「名前は、将来よ、なんか決めてんのか」
「決めてます。看護婦。お母さんみたいな」

ガラスのテーブルのまえにちょこんとすわって、チョコレートをほおばることをひとやすみしながら。
チェリーピンクのシャープペンシルをいじっている名前が、澄んだ声で、迷いひとつなく、即答した。

「医学部の看護科じゃなくて、看護学校に行きます」
「したらよ、二十歳すぎたらもう一人前か」
「まだまだですよ!!緋咲さんは?」

ソーダをこくこくとのみほした名前が、清潔な声で緋咲に問いかける。それは、あまりに正直で。
その、健全な声が、今の緋咲には、少しまぶしいのだ。
だから、うそぶいてみる。

「何してんだろーな」
「エーゴつかう職業とか。あ、オートレーサー」
私の離婚したお父さん、ギャンブルやりまくってたらしいです。オートレース!

「・・・・・・」
「そんな年になっても、緋咲さんと一緒に、いられたらいいな」

試すような言葉でも、こびるような言葉でも、伺うような言葉でも、あてつけるような言葉でもなく。名前は、ただ、純粋な願いを口にした。
真水のような声に、冷徹な瞳と口をゆがめて、あたたかい微笑をうかべた緋咲は、灰皿で、たばこの先をたたく。

「ハマぁよ、ムカツクけどよ。みなとみらいのホテルに泊まったりすっかよ」
単車で温泉もわるくねーな。

そのやさしい声、いつくしむような言葉は、今の名前には、あまりに、すぎた願いのようにもおもえた。

なぜだかこみあげてきそうな涙を、ぐっとこらえて。

「そのためには、今、勉強しなきゃ」

チョコレートはあとわずか残っているけれど。
名前は、チェリーピンクのシャープペンをきゅっとにぎって。
ふたたび、参考書に向き合った。

たばこを灰皿におしつける。ソファからけだるく立ち上がり。
香水のかおりがうすれ、たばこのかおりがつよくなった緋咲が、名前の背後に、ふたたび陣取る。

「わ、緋咲さん・・・・・・」
「んだよ、気にすんな。集中しろよ?」

ふたたび、その精悍な腕が、名前にからみつく。
しなやかな指からかおるたばこのにおい。
アイスコーヒーのかおり。

うう、と小さな声をあげながら、参考書に向き合った名前の髪の毛を、緋咲は、ひとふさとった。
そこまでは、され慣れているけれど。
耳をあかくして、その、もてあそびに耐えながら。名前は英文を追いかける。

「名前シャンプー何つかってんだ」
「CMでやってる、あれです・・・・・・」

かわいらしいアイドルがCMをやっている、女子中高生に人気のシャンプー。母親には、こんな子供っぽいものつかうなとしかられるけれど。

そうしていると、緋咲の形のいい鼻梁が、名前の豊かな漆黒の髪の毛にうまる感触がある。

「緋、緋咲さん・・・・・・」
「それで、んなツヤツヤになんのか」

豊かな黒髪をとった緋咲が、その髪の毛にくちびるをすべらせる。

「量がおおいから乾きにくいし、つやつやなんかじゃないです!」

この部屋のバスルームに、高級なオーガニックブランドのシャンプーがあることは、名前も知っている。緋咲が愛用しているのは、あれだろう。母親にさりげなくブランド名をつげた後、知ってる?とたずねると、生意気だわ……と実にふかいためいきをついていた。

「緋咲さんも、髪の毛、きれい。今日は、おりてますね」
あのシャンプー、めずらしいものでしょ?

逆立てた髪の毛も、緋咲の美学が詰まっていてかっこいいけれど。名前のまえで、リラックスしておりている、紫色のやわらかな髪の毛。名前は、そのやわらかさも、やわらかさをあじわうことも、大好きなのだ。

さあなとつぶやいた緋咲が、名前の髪の毛を丁寧になでる。今解いた問題が正解なのか、それとも、緋咲が気まぐれに、名前の髪の毛であそんでいるのか。

名前には、もう、わからない。

緋咲は、名前がこの黒々とした髪の毛を耳にかけているすがたが、とてもこのみだ。
豊かな髪の毛を、耳にかけてやると、名前がちいさな声をもらして、くすぐったがる。
その、きゅっとすくめられる肩がいとおしくて。
名前を自由にもてあそびながら、緋咲は、名前の肩越しに、テーブルの上に手をのばした。

「それにしてもよ、この参考書はよ、もーつかうんじゃねーぞ」

机のはしに広げておいた、サブの参考書をとりあげたあと、床に放り出してしまう。

「これですか?よくつかわれてるものなんですけど・・・・・・」
「名前にはむずかしすぎんぞ。こっち一本でいけ」

五文型から、関係代名詞まで。すべてがざっくりとまとめられた参考書をぺらぺらとめくりながら、緋咲が断言する。

「ああ、やっぱり・・・・・・・。むずかしいのやって、勉強してる気になってました」
「これ終わっちまったらよ、こっちもわかんだろーな。けどよ、そんときゃもうこれ必要ねーとおもうぜ?」
「はーい・・・・・・・」
「おら、もーすぐおわんぞ、一気にやっちまえ」

サイダーですっきりとさせて、チョコレートで栄養をみたして、そして、緋咲がそばについていてくれて。

さきほどとまっていたことがうそのように、名前のシャープペンはみるみるうちにすすみはじめた。
いつしか、あでやかなピンク色でそろえはじめられた名前の文具。消しゴムのケースも、ペンケースも、シャープペンシルも、そして、赤ペンのかわりにつかっている、濃いピンクの色ペンも。今迄は、白や黒のシンプルなものを好んでいたのに。勿論、すべてを緋咲の好みでそろえるわけじゃないし、緋咲もそんなことは望んでいないけれど。
名前の持ち物は、一部、緋咲の色で、染まっている。

ちょっとだけ消しにくい、チェリーピンク色の消しゴム。あっ!と小さな声をあげて、間違った和訳を消して、自信ある回答に書き直す。
すると、緋咲のしなやかな手のひらが、名前の愛らしい頭を丁寧にたどった。

「そこはいいんだけどよ、ひとつ前だ」
「あっ、はい」
「違うな」
「・・・・・・えっと、」
「さっき教えたやつだ。考えたらできんぞ」
「・・・・・・」

消しゴムで慎重に消したあと、そのカスを丁寧に一カ所にまとめる。

数分間、チェリーピンクのシャープペンはとまる。

そうして、おそるおそる「ア」と書き込む。

緋咲が、頭をなでてくれたので、ほっとして振り向くと、頬にささやかなキスがあたえられた。

苦手だった単元をひとまず終えて、次のページをめくろうか、このまま総仕上げのテスト予想問題にとりかかろうか、あれこれ思案していると、名前の耳元に頬をよせていた緋咲から、鋭い言葉がとんでくる。

「ここやっとけ。範囲じゃねーのもあるけどよ、ベンキョーになんぞ」
「はい!緋咲さん、まちがってても言わないでくださいね」

緋咲にアドバイスをもらったとおり、ここは、さきほどつまづいていた項目の、まるで発展系みたいだ。組み合わされる構文と単語はぐっとむずかしくなったけれど、ときおり緋咲に質問しながら。すると緋咲は、勘所だけつたえてくれて。
そのやさしいアドバイスをたよりに、一ページずつ繰ってゆくと、いつしかすべてをクリアできていた。

「これは、予想問題だから!終わったら、採点してください」

返事の代わりに、頭をポンポンとしてくれた緋咲に見守られながら。
今日の勉強の総仕上げとして、公立校の入試レベルにひきあげられた予想問題に挑み始める。苦手な並べ変え問題や、英作文に格闘しながら。

なぜだか、最後に残っていた、シンプルな現在完了の英作文。

i have been happy since yesterday

私は、昨日から、ずっと幸せです。

私は、あなたに出会ってから、ずっと幸せです。もしもそんな英作文問題だったら、どう英訳すればいいのだろう。そんなたわごとを考えながら、名前は、ひとまず、すべての学習を終えた。

「できましたーーー」

背後についていてくれた緋咲の胸元に、まるで座椅子にせなかをあずけるように、名前は、どさりと倒れ込む。恥じらいや照れや遠慮や緋咲への申し訳なさより、疲労のほうが大きくて。
名前は、遠慮なく緋咲の胸に、その痩せた背中をあずけた。

緋咲は、素直に体を預けてきた名前のことを、一度、ぎゅっと抱きしめる。そうして、己の鎖骨あたりに、こてんところがった名前の小さな頭、さらさらの髪の毛をなでてやりながら、緋咲は、参考書巻末の練習問題の、答案をとりあげた。

名前が不器用にしるした英文、そして日本語、選択肢。すべてをすばやく解析しながら。
答えが記された冊子を参照しなくても緋咲には難なくわかる。

「90点。上出来じゃねーのか?」

紙切れをひらりと机の上におき、名前に覆い被さるような体勢で、名前のピンク色のサインペンをうばって、誤答にしるしをつけた。

緋咲に体をあずけたままの名前に、解答用紙をわたす。
それを真剣に眺めながら、名前は悔いののこる声で語った。

「ああ、やっぱり、ここが……」
「一個ずつつぶしてってよ、最後まで残ったヤツをおぼえときゃいーだけだろ」
よく出来てんよ?頑張ったな。

そのまま、名前の胸元に、力をこめた腕をまわして、抱きすくめる。
名前の黒髪に、整った鼻梁をうめて。

「ひ、ざきさんーー・・・・・・!」

痛いほどだきしめられて。
髪の毛に顔をうめられながら。
緋咲のたくましい腕に両手をあて、名前は、戸惑いを帯びた声音で、いとしい人の名前をよんだ。

黒髪をかきわけて。
名前の真っ白な首筋に、緋咲はくちびるをあてる。

かわいたくちびるを、すべらせていると、緋咲の腕をつかむ名前の手に、けなげなちからがこもる。

このあたりにしておいてやるか。

腕のちからをゆるめて。
力が入ってしまっている名前の体を、再度、ゆるやかに抱きながら。

名前が一番よろこぶつよさで、髪の毛をなでてやる。

ほっとした表情で、名前が、緋咲をふりむいた。

「疲れただろ」
「緋咲さんがみてくれてたから、がんばれました」
「ああ、よくがんばったぜ」
「英語、こーやって勉強したらいいんだ!緋咲さんのおかげで、やっとわかりました」

緋咲の胸元に、甘えるように体をあずけて。
達成感にみちた深呼吸をしながら、名前は、感慨深くつぶやいた。

「実力テストおわったらよ、期末もあんのか」
「そうです、期末で、なつやすみ」

指折り数えてたどる予定。
がんばればすべてが簡単にむくわれるほど、甘いものでもないけれど。
それでも、名前には、こうして支えてくれる人がいる。

「緋咲さん、ありがとうございました。私、こんなにぶきよーで。いらいらしちゃったでしょ」
「オレはそーは思ってねーぞ。ま、また困ったことあったらよ、いってこい。もーデージョブだとはおもうけどよ」
「ありがとうございます!」

名前の肩越しに腕をのばして、緋咲は、ノート、参考書、辞書、それらを手際よく閉じ、チェリーピンクのペンケースにこまごまとした文具をしまってやる。またたくまにきれいにかたづけられてゆくガラスのテーブルの上を、名前は、大きな瞳でじっとながめて。

「ご褒美やろーか」
「わ、」

幼い歓声をあげた名前の顎を、指2本でくいともちあげて。

ふっくらとした頬に、大きな手を添えながら。

チョコレートの味がする名前のあまいくちびるに、緋咲は、いつくしむようにくちづけた。





そして、実力テスト後。緋咲は、真っ昼間に鳴る電話のベルでたたき起こされる。

ベッドからはいだして、地を這うような声で受話器をとりあげた。

91点をとれた、教師にも驚かれたと、公衆電話越しに伝えてきた名前に、無職の朝はおせーんだぞとひとこと忠告しながら、会話は、夏の予定のことへ、うつるのであっった。

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キャラクター 緋咲 / 「緋咲さんが、主人公の英語のテスト勉強に付き合ってあげる。主人公を後ろから抱き込みながら間違ってる所を指摘したり、たまに髪を触ったりしてちょっかいを出す」

ことり様、リクエストをありがとうございました!!緋咲英語ネタも、いつかは書かなければならないネタでした。これまで書いてきた短編と、時系列的に、整合はなんとかとれているかな?と思います
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