数日前から、名前の店の周囲に響き続ける動物の声。
それは、幼い猫の鳴き声だ。蚊の泣くような声ではなく、意志のはっきりとした声が、昼夜問わず店や自宅のまわりで反響し続けている。

そして断続的に響く声のもちぬしが、本日、とうとう、あらわれたのだ。

小さな三毛猫。少し育った子猫だろうか。生後数ヶ月は経過しているであろう、成猫ではない三毛猫が、さきほどから、店の中にいる名前をじっとみつめつづている。
時折自動ドアを開けながら、店の前をいったりきたり。
そして、名前を呼ぶように鳴き続ける。

どうしたものか。名前が思案をつづけていると、その好奇心いっぱいの前足が店のなかに一歩踏み込んだ。

「あっ、は、入っちゃだめだよ」

名前があわてて自動ドアのまえにかけよる。
そして、ちいさな三毛猫を、店外へさそいこむ。人のことが恋しいのか、三毛猫は、名前にてくてくとついてきたまま、気の強い声でひとこえ鳴いた。
なにせ、母親が動物アレルギーであるものだから、店で飼うことはできない。この鳴き声をすくう方法がてんで思い浮かばず、名前は困り果てて三毛猫の前にしゃがみこむ。
動物とは縁がない。猫をまともに抱いたこともないものだから、ここからどうすればいいものか皆目わからない。

そのきれいな毛並みを、おそるおそるなでてみると、その小さな身を名前にまかせながら、三毛猫の目つきに、気の強さがあらわれている。

おまえの家にいれろ

そんなことを語っているようで。

「無理なんだよ・・・・・・ごめんね?」

すぐに思い浮かぶのは、およそほとんどの小動物とすれちがうだけで一方的に動物たちに敵視される千冬。とてもではないが、名前の恋人の家で飼ってもらうことはかなわないだろう。生き物のことだ、友人たちにもおいそれとは頼めない。

そこへ、うなりあげるような機械音をたてるバイクが、名前の店の駐車場にとまった。反射的に名前もたちあがり、軽く礼をした。

深く塗り込められたような蒼色。
ノーヘル。
特徴的な髪型。
一房のエクステンションが、その広い背中で、ひらりと舞い上がった。

改造ズボンにつつまれていても、その足はすらりと長く伸びていることがわかる。
千冬に負けないほどしなやかなスタイルに恵まれている。そして千冬より背が高い。

華麗にバイクから降りた後、名前をはっきりと見つめたその目は、澄んだ目、といえばいいのか。静かな目だろうか。
いや、音のない目だろうか。

異様なまでにしずけさをたたえた目が、名前のことを、はっきりととらえた。

とはいえ、ここは酒販店。
メイン顧客となる50代、60代の壮年男性のユニークさやアクのつよさに慣れている名前は、目の前の、どうみたって若年層の青年のすがたには、むしろ、かわいげのある若さすら感じるのだ。

そしてその青年は、店の前にちんまりと居座っている三毛猫に、目をとめた。

大股で猫の元へ近寄った青年が、猫のもとに、しゃがみこむ。
つられて名前もしゃがんだ。

「この店のねこですか?」
「違うんですよ、のらねこです」
「きれいなねこですね」
「そうですね、どこかの飼いねこですかね」

ふたりして三毛猫を囲んでいると、ちいさな動物が、名前のスニーカーの先を、その丸っこい足でぱしんとたたく。

「痛いよ・・・・・・」

子猫の顔を揉むと、三毛猫はじつにここちよさそうに、名前の手つきに身をまかせた。

「あっ、これって、ねこ、痛いんですか?」
「大丈夫ですよ、もっと強くやってやってもいいくらい」
「そうなんですか、でもあんまし、さわんないほうがいいですよね」
「ひろったんですか?」
「いえ、すこし前から声がきこえてて、今日突然あらわれたんですよ」
「誰かが捨てていったんでしょうね」

名前が三毛猫から手を離すと、青年がしずかに三毛猫をなでつづける。三毛猫は、すっかり安心して、あまえきっているようだ。

それにしても。

この店に訪れる客は、壮年男性が多い。もしくはファミリー。最近は若い女性グループも増えてきた。おつかいでやってくる小学生や中学生もいる。または製薬会社のサラリーマン。いたって限られた客層のなか、若い男性が店に訪れると、否応でも、その姿は記憶にのこる。

「飼うんですか?」
「いえ、うちは、店長に動物アレルギーがありまして・・・・・・・」
「それならしかたないですね。おい、オマエの居場所は、ここじゃねーってよ?」

まるで、ちいさな親友をさとしているように。
青年は、三毛猫に向かって言い聞かせる。
すると、猫はひょいと立ち上がったあと、小走りに消えてゆく。名前の自宅ととなりの家のあいまの湿った路地にはいりこみ、そのまま、猫だけが知る道を走って、いなくなった。

「す、すみません、ご迷惑おかけしました」
「変にかまっちまうと、かえってかわいそうですからね」

そう言い残した青年が、名前の店の自動ドアをあけた。

青年は、エクステを癖のようにつまみ、そのままはらった。

この若い男性は、飲食店経営者だろうか。
名前は、そう見当をつけた。
インパクトの強いファッションに、妙に据わった眼。若くして複数の店を営む人間は、どこかこうした、落ち着いた風格がある。ただし、もうひとつ特徴があり、今まで会ってきたそうした身分の人間は、いずれもどこか面構えに脂身といえるものがあるのだ。油分が多めで、過剰さがある。

しかし、その余分な脂のようなもの、ギトギトした湿度は、この男性には存在しない。

その妙にすっきりときれた瞳が、ちらりと名前を見たあと、何か言いたげに黙った。

営業トークでもならべてみればいいのだろうか。基本的に、店の中ではお客に自由に過ごしてもらおうと考えている名前は、笑顔で黙礼したあと、それ以上話しかけることはしなかった。

それにしても、どこかで見たことがあるような、この妙に整った雰囲気。名前は、思い出せるようで思い出せない。学校の宿題をレジの片隅にひろげ、問題を眺めながら、レジ周りの商品のほこりをはらっていると、名前とその青年、ふたりだけの店のなかに、妙に落ち着いた声が響いた。

「ワイン、買いたいんですが」

そして、こういった風格の男性は、たいてい、名前に、やや上から目線の口をたたくものだが。

この人は、違っていた。
その落ち着いた敬語に、名前も、同等の落ち着きで返した。

「赤か白どちらがよろしいですか?」
「赤で」
「値段はどのくらいか、ご希望はございますか?デイリーなものか、おくりものか」
「・・・・・・おくりもの、で」

値段の指示をうけ、密閉されたワイン室に案内する。

「赤も、フルボディから、マイルドなものまでございまして。フランスに、イタリアに、チリや、イスラエル、あと南アフリカも・・・・・・」

立て板に水のように語る名前。若い男性が、その様を目を丸くして見つめていると、我に返った名前が、少し言葉をつぐんだ。

「わたしが、個人的におすすめなものがあります、が」
「じゃあ、それで」

ゆっくりとあがる口角。
そういえば、千冬が、装っているとき。こんな笑いかたをする。名前の前では、遠慮なくゆがむ口元が、よそゆきを装うとき、口角を整わせてしずかにわらうときがある。

名前は、この男性を知っているかもしれない。
だけれど、思い出せない。

「簡単な包装しかできないのですが」
不織布で軽くくるんだあと、リボンで巻く。

「十分です」

起用でも不器用でもないてつきで、名前は、ラッピングに挑む。そのさまを、青年が静かな瞳で見守っている。
そうして、その青年が、レジのそばにつるされた特攻服に目をとめたことを、名前は気づかない。

「おひとりでされてるんですか」
「母がいますが、今日はやすんでます」
「若いのに大変ですね」
「そんなことないですよ、暇な店ですから」

ありがとうございました。
最低限のあいさつを残すと、青年は、ささやかな会釈をのこして、店を去った。

店内に残る、品のいい男物の香水。ワイン室のあかりを消しにゆくと、狭い室内に、上品な香りが充ちている。


千冬のあのユリの香りと、すごく相性がいいのだろうな。


名前の頭に、そんな戯れ言がうかんだ。



蒼い色のフォア。そのそばにもどった青年。
自動ドアの向こう側を、いまいちど、じっくりとたしかめるのは、八尋渉。
八尋は、紙袋におさめられたワインを、シートの中の荷物入れにほうりこむ。

今の店員が、誰に愛されている女であるか、八尋はとうの昔に知っている。ぬけるような白肌ではないものだから、ぱっと見たときの全体の印象はぼんやりしている。近づいて観察してみると、悪くはないが、ふつう。髪がきれい。胸は大きめ。背は高い。手足も目を見張るほど美しいわけでもなく、体型も、ごくふつう。著しくたけた話術があるわけでもないが、きまじめな働きぶりではあった。そして、己を目の前にしても、動揺ひとつなく、顔色一つ変えなかった。



「なあ、先週かよ、おまえの店に、若い男こなかった」
蒼いフォアの。

翌週末。千冬の店にお酒を届けたあと、まだ開店前のスナックの清掃を手伝っていると、千冬が名前に、そう尋ねた。

「来られたよー、あ、知ってる人なの?」
「何歳にみえた?」
「25歳くらい」

モップを壁にたてかけた千冬がのけぞるように笑い転げ始めた。

「え、でも店もってる人っぽいじゃん。あ、若すぎる?」

さらに大笑いする千冬に、付近をあらった名前は、大まじめに首をかしげる。

「えー、だって、偉そうにしなかったし」
「へえ、そーなの」
「若いモン相手だと、横柄になる人多いんだよ。でもその人、そうじゃなかった」
「そりゃ、てめーもわけーからだろ」
「もっと若いんだ!」

側に置いてあったお茶のペットボトル。そののこりをあおりながら、千冬が、さらりと口にした。

「八尋」
「ん?」
「おれの幼なじみ」

付近を丁寧にたたんだ名前が、千冬のそばの丸いすにこしかけて、千冬が口にした言葉を繰り返す。

「おさな、なじみ?え、未成年なの?」
売っちゃった・・・・・・

「あ、でもおくりものって言ってたし、大丈夫か」

カウンターのかたすみ。様々なボトルがごちゃごちゃとおかれているエリアから、紙袋ごと取り出して。
目をまるくする名前のまえに、千冬がそれをおいた。

「それ、ここにあんぜ」
「あっ!!!!」
ほんとだ・・・・・・。なんでここに?

素直に狼狽している名前をにやにやと見つめながら、千冬が訥々と説明をはじめた。

「うちのお袋に、だってよ」
「えっと、やひろ、さん」
「そうだよ」
「千冬さんの、おさななじみ」
「そう」
「やひろさんってひとが、うちでこれを買って、千冬さんのお母さんに、プレゼント?」

手に入れた情報を丁寧に確認してゆく名前の様を、カウンターに肘をつき、手のひらに頬を乗せて、千冬はにやにやと眺める。

こうなると、妙に照れくさい。心から思いやって選んだつもりではあるけれど、自分が用意したものがめぐりめぐってなぜだか自分の目の前にあること。

「お袋の誕生日で、店開いた日でもあるからさ」

名前は、ただただためいきをつくしかない。中学一年生のとき。花屋で買った花束からはじまり、こうして、毎年千冬の母親へ、おくりものをつづけているらしい。

「粋だしマメだし、すごいね・・・・・・」
「まあな」

千冬は、自分のことのように誇らしげだ。大事な相棒の、大切な人を想って、こんな贈り物を用意する18歳。たいそうな偏差値の高校に通っている名前だが、全校みわたしても、ここまでのスマートな気配りをやりとげる男子は果たしているかどうか。

「そっかー……、てかこーしてみると、あたしの包装テキトーだな・・・・・・」
資格とろっかな。

とぼけたことをぼやきながら、リボンをほどき、もう一度むすびなおす名前の様子を、千冬は愉快そうに眺める。

「名前一回会ってるよ」
「・・・・・・?」
「すれちがっただろ?」
「あのとき、千冬さんの前歩いてた人かあ。そっかー・・・・・・・」

特攻服すがたで、二人歩いていたこと。それをおもいだして、名前はすべてを悟った。

「そっか、千冬さんの・・・・・・」
「おれの?」
「えっと・・・・・・、ともだちだよね、」
「それ以上だよ」




それは昨夜のことだった。
日付が変わる頃。閉店後の、千冬の母のスナックで。
八尋と千冬、ふたりのまえには、千冬が勝手につくった酒がふたつ。

未成年が堂々と酒をあおる事実にあきれかえった千冬の母親が、しばらく千冬と口論をくりかえしたものの、適当なところで八尋がいさめた。
しぶしぶひきさがった千冬の母親は、それでもかるいつまみを用意してくれて。

どれほど飲んでも顔色を変えない八尋と、年齢相応の酒の強さである千冬。
こうして飲むことは、ずいぶん久方ぶりのことであった。

「物怖じしない子?」
「ああ?」

飴色の液体がまだ満たされているグラスをカウンターにコトリとおいた千冬が、酔いがまわりはじめた頼りない語気で、八尋に問い返した。

「おまえの、彼女」
「?あいつの店の件なら終わっただろ、それにあいつ見たのすれ違った時だけだよな?」
「店行った」
「んだよ、おい、びびらせたんじゃねーだろーな、いくら渉でもよ!!」

カウンターをたたき、口調に反して、然程激しすぎない語気で。
はずみで食器が揺れるものだから、千冬の母親が、慎!と咎めた。

飴色の水をなめながら、八尋は、動揺ひとつなく続ける。

「物怖じしない子に見えたぜ」
「ちげーよ、物怖じしてんよ」

千冬のグラスで、カランと氷の音が鳴る。

「へえ?」
「ビビリだぜ、あいつ。ほんとは消耗してると思うぜ」

わずかににがにがしい瞳で。その焦点はさだまらないものの。千冬の冷酷な瞳に、ずいぶんあたたかな火がともる。

「へえ、そうは見えなかったな」
「そーなんだよ」

空瓶を整理して、明日の軽い仕込みを続けながら、千冬の母親は黙って、千冬の言葉に耳をかたむける。
八尋は、千冬の顔色の変化を伺いながら。
当の千冬は、とれかけたウェーブの髪の毛をかきあげながら、真っ白な耳は、紅色にそまる。

「名前ぁよ、こらえてんだけだよ」

まるで、己の苦しみを吐き出すように。
千冬の思い詰めた瞳が、酔いがまわって、ぐらりとゆれる。

「つぇえ女なんだな」
「渉さ」

まるで、八尋の言葉をさえぎるように。
千冬が、その名をよんだ。

「渉がんなやつじゃねーこたしってんよ」
「?」

不可解な方向にねじれた話の先を追って。八尋が、カウンターに突っ伏しかけてすんでのところでそのきれいな顔をあげた千冬を、のぞきこんだ。幼いころからのクセだ。

「だけどよ」

グラスを口にはこびながら。八尋は、次の言葉を慎重に待った。

「あんま、あいつためすよーなことしねーでくれっかよ」

千冬の母親が、ちらりと千冬に視線を送ったあと、くちもとがやわらかにほころんだ。
たばこを引き寄せようとするがおぼつかない指先が不自由にしか動かない千冬の代わりに、八尋はたばこを手渡してやる。

「名前はオレの都合よく動くヤツじゃねーからよ」

いつのまにかからになったグラス。ペースはやくねえか?八尋がそう声をかけても、千冬は無視してたばこに火をつける。

「つえーとかよえーとかよ、そーゆーこといーてーんじゃねーんだよ」

おまえ、酔って、んなこと言うヤツだったか?
八尋の冷たい茶々をはねつけて。たばこのけむりを大量に吐き出した千冬が、絞り出す。

「そーいう、ジャッジっつの?名前を、裁かねーでやってくれってこと!」

適切な言葉を己のなかから見つけることができた千冬。そのけだるい表情に、少しハリが出た。

「あいつをさらしたくねーんだよ、そーいうのによ」

とろとろととけてゆく氷にからみつく飴色をながめて、千冬のことばに耳を傾けていた八尋が、ゆるやかに口角をあげた。

「守るって、そーいうことだろ」
オレぁよ、名前に惚れてよ、初めてそーゆーことわかったわ。

ブランデー3杯。
ろれつの回らないことばで、千冬が不器用な本音を吐き出す。
明日の準備を続けていた千冬の母親が、千冬によく似た瞳をふせたままやさしく笑った。
軽食に手をつけながら、八尋が、軽妙な口調でからかう。

「よっぽど大事なんだな?」
「わりーかよ、うっせーな」

千冬が八尋のわき腹に一発いれる。

「あんな子いんならよ、もー、じゃれんのやめたらどーだ」
「オンナはとっくにやめてんよ?」

八尋のたくましい肩に、千冬のスレンダーな腕がからみつき。

「オトコは、しらねえ」

八尋を思い切り引き寄せて、千冬が、その耳元で、グラスに詰まった氷のようによく冷えた、艶やかな声で、ささやいた。

「千冬・・・・・・」

瞳に、げんなりした色を浮かべた八尋がためいきをつく。
慎!としかりとばす母親から、千冬は露骨に目をそらし。

「つかよ、なんだあの特攻服・・・・・・」
店のジャマになんじゃねーのか?

守るといっても、あれはどうか。あれをおかれた経緯をしらぬ八尋が、あきれ果てた気色をにじませながら尋ねた。

「ああ?オンナ二人の店だぜ、何があるかわかんねーだろ!」
「抑止になんのかよ?」
うちねらいのヤツに、的にされんじゃねーのか?

「それがよぉ、」

酔いが回った口調で、千冬が成り行きを語り始める。

「ああ、そりゃ大変だったな、ああいうマジメな子は、んなモンの的になりやすいんかよ」

それが、昨夜のことだ。




そのとき、店の前に響いた排気音。
扉に視線を送った千冬が、さっぱりとした笑顔をみせた。

「ああ、結局来たんかよ。これねーっつったから、前の日にもってきたのにな」
「え、なにがなにが」

名前もつられて扉を見ながら。
まだとざされたままの扉。
向こう側で、排気音がやんだ。

「名前もよ、耳をよ、身につけな?」
「何の耳?」
「単車だよ」
「千冬さんのはわかるよ」
「嘘つけ!おめー、この前しらねーオヤジのハーレーとオレの間違えただろ」
「大きな音だったから」
「オレのはあんな音じゃねーぞ」
「どういう仕組みで違ってくるの?」
「言ってもわかんねーだろーけどよ。あのな」

名前は、千冬のそばのイスにちんまりとすわりこみ、千冬の講義を、うきうきと待つ。
千冬が講釈を垂れようとすると、スナックの入り口がしずかにあけられ、薄暗い店内に、はれた日差しがさしこんだ。

「仲良いな・・・・・・?オマエたち」
「よぉ。来れねーんじゃなかったんか?」
「ああ、時間あいてよ」

そこに入ってきたのは。
眼をまんまるにした名前が、落ち着かない挙動で、おもむろにたちあがる。

あの日、お店でワインを買ってくれた人。
八尋という青年だ。

「こんにちは」
「はじめまして、じゃないですね」
「何敬語でしゃべってんだよ」

千冬が、立ち尽くしたままのふたりにつめたく茶々をいれる。

「いや、だって、お客様」
「いいぜ?タメ口でよ?」

千冬が立ち上がり、カウンター側へまわった。
母親がきれいにかたづけたグラスを勝手にとりだしはじめる。

「こ、これふつーあたしがやるんじゃ」
「すわってろよ!オレのお袋の店だぜ、オレの役目」

八尋の瞳は、あのときとおなじ、音のない、しずかな瞳。
その瞳をまっすぐみすえて、名前は、すこしだけばつがわるそうに会釈をした。
そうして、名前のぎこちない自己紹介と、八尋の余裕たっぷりの自己紹介が交換されて。

「す、すみません」
「敬語?」
「あ、えっと、ご、ごめん?でいいの?」
「いーぜ、千冬があーいってんだからよ、甘えとけばいーんじゃねえ?」
「そ、そうだよね。このまえは、ありがとうございました」
「こちらこそ。あれの行き先聞いた?」
「聞いたよ!すごいですねー!」

まだ敬語混じりで会話をかわす名前に、かすかな苦笑をまじえて。ゆったりとしたペースで八尋がカウンター前の丸いすにこしかけた。名前も、その隣に自然と腰をおろす。控えめな香水のかおり。このスナックに充満する千冬のユリの花のかおり。名前のおもったとおり、このかおりの相性は抜群だ。

「最初はよ、スーパーの花屋でかった花束だったな」
「中学生の、おこづかいで?」
「ああ」

千冬が、カウンター側にかかっている、大きな額をゆびさす。

そうして、名前の前には、細長いグラス。八尋には、クラッシュアイスに、透明色の液体が絡みつくグラスが用意された。

「これだぜ。まだ残ってんの」
「あ、このドライフラワー!!すっごい、きれい!」

千冬の母親が、貰った花をつかって自作したものだという。アーチのようにゴージャスにデザインされたそれは、額の中で今も生き続けている。
目を輝かせている名前に、八尋がたずねた。

「お酒は?」
「じんましんがでるの。え、それお酒じゃないですよね」
「ちっと入ってる」
「ええ、運転するのにあぶなくないの?千冬さんにはね、意地でものませないんですよあたし」
「いばることかよ」

横やりをいれた千冬が、自分のグラスを片手にカウンターのむこうがわから戻ってくる。

「あのねこ」
「ねこ・・・・・・あ、三毛猫!」

おれにわかんねーはなしすんな!
名前の傍に立った千冬。氷をなめながらつっこむ千冬の腕をぽんぽんとなでながら、名前は、気にかかっていた話にくいつく。

「あの三毛猫、オレの・・・・・・」
「?」
「・・・・・・あの猫を大切にしてくれそうなヤツが、飼ってくれるって」
「そうだったんだ・・・・・、そう、あれから 鳴き声が聞こえなくなって」
「おれにわかんねーはなしすんなっつってんだろ」

ふたりのあいだにわりこもうかどうか逡巡して。
千冬が、名前のそばにすわる。

「あのね、うちの店のまわりにね、三毛猫がいてね。でね、八尋さんが話しかけたらね、猫がちゃんと帰ったんだよ!でも飼ってもらえるんだって」
「オレも、動物禁止のマンションにすんでっから、かえなくてよ」
「渉ぁよ、猫好きなんだよ」
「すぐとっつかまえてよ、あの足で、飼ってくれそーな家にな」
「な、なんか申し訳ないですね、お手数おかけして、すみません」
「どうして?」
「もともとは、あたしんちのことだし」
「渉よくこんなことやってっからよ、気にしなくていいぜ」
「え!すごい!!飼い主さがしたり?」
「江ノ島とかの」
「あーー、いっぱいいますよね!」

千冬のグラスは二杯目で、八尋のグラスはひかえめにすすむ。
名前も、冷たい飲み物をちびちびと舐めながら、二人に挟まれ、会話がすすんでゆく。

「あの特攻服」
「?ああ、うちのお店の、ここにもかかってる」

背後をゆびさした名前が、ばつがわるそうに笑った。
もーオレんちにスペアがねーんだよ!
グラスから酒をあおる千冬が、ひとりごちる。

「効果は?」
「男性のお客さんは、見た瞬間黙るかな・・・・・・あと蔵元の営業さんが凍り付いてたよーな・・・・・・」
女の人は、なんでもないんだけど。

わらいごとなのか、そうではないのか。
名前の両脇で、八尋と千冬が押し殺したように笑った。

「でも、千冬さんに守られてる感じしますよ」

照れくさそうに千冬がそっぽをむく。
八尋から、その反応は見えないけれど、お見通しであろう。

「もし、ウチのなまえが、店にメーワクかけるよーなことあったら」
「ないですよ、大丈夫だから。こ、こっちこそ・・・・・・」

な、なんだか、すみません。
湘南を牛耳る青年ふたりにかこまれて、名前は恐縮しながら冷たいのみものを一気にのみほした。

「あたし、こんなのだけど、あたしが、千冬さんを守りますから」

酔いが回った千冬が、名前の肩を抱いて、そりゃオレの役目だろとからむけれど。
八尋は、まっすぐな瞳で、名前にたずねかえす。

「守るって、どうやって?」

冷たいグラスを両手で抱えた名前が、しばらく考え込んで。酔った千冬に髪の毛を撫でられながら、八尋に、凛とつたえた。

「千冬さんが、千冬さんじゃなくなってしまいそうなときに、千冬さんは千冬さんだよって、言うと思う」
ま、そんな日、こないと思うけど。千冬さんはしっかりしてるもの。

すっきりとした声音で言い切った名前と顔を見合わせ、八尋は、どこか降参したように、据わった瞳をしずかに閉じたあと、おごそかに笑った。千冬が、ようやくたどり着いた女。このふたりが、ずっとともにいられるように。そんな、らしくないことを願いながら。

「……アタマいーやつの言うことはわかんねえ」
「だからべつに頭よくないってば」

名前にべたべたとからむ千冬を、名前が苦笑交じりになだめているそばで、八尋は、グラスを一気にあおった。

「あ、もう帰るね、お店が」
「おー、また行くからよ」
「名前ちゃん、気をつけて」
「ありがとうございます」

ばたばたとスナックを後にした名前を見送ったあと、幾分か静かになった店に、間の悪さを実感しながら、二人はもとよりすわっていたイスに腰掛けなおす。名前ひとつぶん空けて。

そうして、八尋がおもむろに口をひらいた。

「オトコでもオンナでもねーのを選んだのか」
「・・・・・・だからよ、いくら渉でもよ、」
「ココの話だよ」

八尋は真顔だ。
そして、堅いおやゆびで、太い傷跡がのぞく、自身の胸元を、とんとんとついた。

「……んだよ、わかりやすく言えよ」

千冬が、二杯目ののこりも一気に煽る。
そして、名前がのみほしたグラスをとりあげ、のこった氷をかみくだきながら。

「そーだよ、名前だよ」

氷のしずくで口元をあかくそめあげながら、千冬は、まるで幼いころのように、澄んだ瞳で、ひとつ笑った。

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華音さまリクエスト

キャラクター 千冬 / 「主人公と八尋さんの初顔合わせ。主人公と千冬さんと八尋さんで、会話している話」でした。
三毛猫は多分八尋夢主人公のお家で飼われると思います。
これから千冬夢をすすめていくにあたって重要な要素をリクエストしていただきました。
リクエストを本当にありがとうございました!
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