質のいい麻のカーディガンに、ギンガムチェックのスカート。
名前が気に入っている洋服で、週末。二週間ぶりに、緋咲に会いにゆく。
緋咲は、どんなファッションが好みなのだろうか。たずねてみるものの、いつも、名前が着てればなんでもいいだとか、今着てんヤツだとか。あんなに冷涼な口元から、名前に、あたたかいことばかり言ってくれるのだ。

あの冷ややかなくちびるから。あの冷酷な眼から。いつも、名前をいつくしむ言葉と、視線と、あふれそうな優しさがいっぱいで。

緋咲の好みをおしえてもらったところで、名前は名前にしかなれないことを、わかっている。

生まれつきの、しつこい顔立ち。少しチークをのせただけで過剰になってしまうから、名前にはこの顔ををあでやかに映えさせるメイク術なんてわからない。今の名前の顔にへたに化粧品をのせると、くどくなるだけだ。
緋咲がいつものんでいる外国のお酒なんてとてもではないがのめないし、緋咲がつけているプラチナのアクセサリーも、名前にはずいぶんミスマッチだ。
そして、たばこ。

吸わせてなんてくれないけれど、あれを、かっこよく吸えてしまうオンナの人。
そんな女性に、どうころんだって、自分はなれない。

緋咲のそばにいると、そんな、キリのないことを考えたりするけれど、こうして、緋咲のそばにいられる場所にむかっていると、そんな些細ななやみより、緋咲に会えることが楽しみになるのだ。緋咲のマンションへのルートはいくつかあって。一番遠回りになる道。その少し湿った通りに、たばこの自動販売機がたくさんならんでいることを、名前は知っている。

緋咲と付き合い始めてから。
たばこ、音楽、バイク、ファッション。名前が今迄知らなかったことを、緋咲から、ふんだんに学んだ。名前のしらないことを、緋咲は、数知れず知っている。

あのかわったかおりのたばこ。
ジョーカーというなまえを、名前もすっかり覚えてしまった。
そして、緋咲とキスをすると、名前のくちびるにもこびりつく、あの独特の、甘くてこげついたような風味。
名前が知っている、唯一のたばこの味。

緋咲の部屋までいつもとちがうルートをとった名前がたどりついたのは、ジョーカーを売っている自動販売機だ。
きっと、緋咲もここで購入しているのだろう。緋咲と付き合いはじめてから、たばこの自動販売機につい眼が奪われるようになったけれど、ジョーカーは、めったに売られていない。名前が知る限り、この販売機しか見あたらないのだ。

意味もなくあたりをうかがってみながら、名前より背の高い自動販売機をじっと眺めてみる。

「わあ、限定!」

箱のデザインも覚えてしまた。そして、おなじ名前でありながら、色違いのたばこがいくつもある。

自動販売機だと、名前でも買えるだろう。多少の出費ではあるが、痛いといえるほどの金額ではない。形あるものから形ないものまで名前は緋咲に様々なものをもらいっぱなしなのだから、せめて、たまには名前から緋咲にプレゼントしたい。

それにしたってどのたばこも、なんだか、緋咲が好んで聴くレコードのジャケットや、緋咲の部屋に積まれている洋雑誌の広告のようなデザインだ。まるで絵画を眺めるように、ふしぎなたばこをいつまでもみていたって、らちがあかない。
そんなことを自覚した名前が、バッグからあわててお財布をとりだして、お金をいくつもつっこんだ。

ここは、やや物騒な通り。それでも、真昼間に何か起こったりするわけない。名前のそんな過信は、近づく気配を察知することはない。
しゃがみこんで、自販機から降りてきたたばこをとりだし、三色のそれをじっと眺める名前。そのイノセントな様は、こんなうらぶれた場所にはまるでそぐわない。
ひどく、目立ちすぎている。
そんな名前をつけねらうように、数人組の影が迫る。
不穏な気配が、名前の背後に近づき、囲もうとしたとき。

名前の体を、すらりと背の高い体躯が、ばさりと覆った。
自販機にぴたりとくっついていた名前が、大きな影を感じて、あわてて頭上をみあげる。

「そのまま座ってな?」
「えっ!」

名前の眼前には、金髪の、背の高い男の人。
分厚い革ジャン。すらりとのびた足。革ジャンの肩には名前が見たこともない装飾だ、ぎざぎざしたものがくっついている。

色素の薄い髪の毛を、ざっくりとリーゼントにしている。
薄い体格は、緋咲とは種類の違う精悍さに満ちている。
鋭い気配の持ち主だ。

すわりこんだまま、その男の人をみあげた名前を、まるでかばうように。
男の人は、名前の前にたちはだかった。

儚げな少女のそばに突然あらわれたのは、兄弟か、恋人か、身内か。
そう勘違いをした数人組は、舌打ちをしながら、ふたりのそばを通り過ぎていく。

あわてて名前がたちあがろうとする。
名前を助け起こそうと、金髪の男の人が体をかがめると、はずみで、名前の肩が青年の革ジャンに勢いよくふれた。
どさくさで、名前にその自覚はなくて。布が引き攣れた音をたてて離れたことも、名前は気づいていない。

助けをかりずに立ちあがった名前の身長は、金髪の男の人の胸にもとどかない。

「オンナノコ一人で、こんなとこ、あぶねーぞ?」
「・・・・・・、気づかなかったです」

通りから去ってゆく影。
革ジャンの男の人は、名前がつかんでいるたばこを見とがめた。

「そんなもん、吸うんかよ?」
「あ、え、えっと」

名前と緋咲の関係について、緋咲にかたく告げられていることをとっさに思い出す。
どんなことがあっても、だれにも言うな。
名前はそれを忠実に守る。

「お、おとうさんの、おつかい、です」
「・・・・・・」

線の細い男性から漂うのは、緋咲とは違うたばこの香り。すらりと背の高いその体躯に、濃厚にまとわりついている。

「あの、ありがとうございます・・・・・・」
「気にすんじゃねーよ?オレのことも忘れちまいナー?」

背の高い男の人が、名前をあたたかく眺めたあと、へらりとわらった。
鋭角だった気配は、あっさりと霧散した。
髪の毛も、肌も、瞳の色も、線も。すべての色素が薄くて。
緋咲以外の男の人は、いまだに怖いのに。
不思議だ。
こうして知らない男の人にごく傍によられても、名前は、この男性からは威圧感や恐怖を然程感じない。

「あ、あの、ちゃんと、食べてますか?」
「・・・・・・?」

緋咲も、無駄な肉ひとつない精悍な体であるけれど、この人は、本当に細くて。
ぐりっと浮き出た鎖骨や線の細さが、気にかかってしかたない。心の中で思ったことが、つい口からとびだしてしまった。名前の澄んだ瞳に見つめられた金髪の男性が、あっけにとられた顔に変わったあと、やわらかくほころんだ。

「食ってんよ?」
「そ、そうですか、いきなり、ごめんなさい」
「デージョブかよ?……あっ、なあ、ここ」

緋咲よりも大きな手。
骨ばったしなやかな指が、名前の肩にふれた。
とたん、名前のからだがびくりとふるえ、背後の自動販売機にどさりとぶつかる。

「あ、ああ」
「・・・・・・!ご、ごめんなさい・・・・・・」

あからさまに自身から離れガタガタとふるえ始めた名前の極端な異変を、すぐに察した金髪の男が、その骨ばった手をすぐにひっこめた。

「いきなり触れちまって、悪かったな?どこに行くんだか、わかんねーけどさ」
こっから、抜けられんよ?

独特の間延びした口調で、背の高い金髪の人が、明るい抜け道を教えてくれる。
確かにこの道からでてゆけば、緋咲のマンションに、程なくたどりつくだろう。

「あ、ありがとうございました」

たばこをバッグにつっこんだ名前が、わきめもふらず、足早にかけだした。
金髪の青年、一色大珠は、そのほっそりとした後ろ姿を、少女の姿が消えてしまうまで見送る。
自分のバラ線のせいで、あの子の一張羅のカーディガンを傷つけてしまったことを、謝りそこねたまま。



さらさらの黒髪をふりみだして、名前は背後を確認する。だれにつけられた様子もない。そういえば、さっきのあの金髪の背の高い人にきちんとお礼をいうことができただろうか。触れられそうになったことに驚いて、急にかけだしてしまった。安全な道をおしえてくれたのも、あのひとなのに。

緋咲が与えてくれた合い鍵がある。これをさしこめば、オートロックの玄関は開く。いつもは、鍵を使うことに、どことなく図々しく感じてしまって。律儀にインターフォンをならして、緋咲にあけてもらうのだけれど、今日はマンションにすぐ逃げ込みたかった。
自動ドアがしまったあとも、背後を確認する。
こんなことで緋咲に迷惑をかけてはならないし、なにより、すぐに緋咲の顔を見たいのだ。

エレベーターのボタンを何度も押す。数十秒かかっておりてきたエレベーターに、たったひとりでのりこんで。
四階の廊下をぱたぱたと走っても、足音は、ホテルのようなカーペットに吸収されてゆく。
ようやくたどり着いた緋咲の部屋のチャイムを鳴らす。

「自分であけてきたんかよ?」

すこし皮肉っぽい、それでいてあたたかい、緋咲の笑顔と声が、名前の瞳に飛び込んできた。

「ご、ごめんなさい」
「どうして謝る?いつでも勝手にはいってきちまっていいんだぜ?」

名前の背中を抱いた緋咲が、ドアの向こう側にたったままでいる名前を抱き寄せて、部屋のなかにまねいた。

「あ、だいじょうぶです、ありがとう、緋咲さん」
「・・・・・・遅かったな?」

名前の黒髪に頬をそっとよせたあと、緋咲がまゆをひそめる。

「ごめんなさい、おくれて」
「かまわねーよ、なにか、あったか」
「あ、あのえっと」

緋咲の顔をみると、この部屋までに起こった混乱すべて、あっさりととけてゆく。
この人のそばが名前の居場所。そう思うと、急に安堵が襲いかかってきて。肩を抱いたまま、部屋まで招いてくれる緋咲に、いつもよりすこしだけ寄り添った。

日頃よりわずかに近い距離。ぴとりとくっつく名前の、軽く乱れた黒髪と、かすかに上気した息がきにかかる。
緋咲は、名前をそっと抱いたまま、頼りない体を、ソファのまえにみちびく。

そうして名前は、緋咲の質問にこたえるかわりに、バッグのなかから、いそいそと、買ってきたたばこをとりだす。

「緋咲さん、緋咲さん」
「何」

ソファにすわりこみ、名前をじっくりと物色している緋咲が、少し冷酷さをしのばせて。

「これって、しってますか??」

その冷涼さに動揺もなく、マイペースな名前が、かわいらしいバッグからとりだした、色とりどりのたばこ。

「ああ」

緋咲は、それを、冷たい瞳でながめたあと、安堵したようなため息をついた。
こんなものを隠し持っていたとは。

三種類のジョーカーだ。
もちろん、すべてためしたことはあれど、結局、一番好みなものは、日ごろから吸っている白地の箱。

勿論、名前に向けて、そう口にすることはなく。

「ああ、知らねぇのもあんな。これ買ってて遅くなったんかよ」
そこおいとけ。

「緋咲さんにプレゼントです!さしいれ!」

そうしたやさしい嘘をきいた名前は、ちいさな顔に、向日葵のような笑顔をさかせた。
いいけどおり、ガラステーブルにそれをならべた名前の手首を、いきおいよく引き寄せて、緋咲は名前をふところにひっぱりこむ。

わずかにとまどった表情をみせる名前を、間近でじっくりと観察しながら。

それよりも、緋咲には気にかかることがある。

「それ、どこで買ってきた」
タバコ屋行ってもよ、名前には売ってくんねーだろ?

「自動販売機!」

ソファにしずみこんだまま、名前の腰をだきよせて、名前を、腕の中にとじこめる。

「あすこかよ……、名前、あの通りはよ……」

緋咲の言葉が、そこで止まる。

玄関で、名前を抱き寄せたときから、ひっかかっていた。
そして、今間近にいる名前からただよう、明らかなかおり。

「名前」
「はい?」
「タバコ」
「・・・・・・?」

たばこは、買ってきたでしょう?

そんなことを言いたげな名前の、邪気も嘘もない、正直な表情。

「におい」
「えっ、なにか、ついていますか?」

緋咲は、その澄んだ声にこたえるかわり、熱をこもった眼を名前におくる。

名前はもちろん、母親もすわないし。
清潔なカーディガンに、きちんと洗濯したカットソーに、スカート。

「緋咲さんのたばこじゃないですか?」

皆目見当のつかない名前が、緋咲に抱かれたまま小首をかしげると、黒髪がさらさらと流れる。

ソファに身をしずめた緋咲が、名前の腕をさらに間近に引き寄せる。
ひ、ひざきさん。
そんな、愛くるしくせっぱつまった声より、気になることが緋咲にはある。
名前の黒髪をとり、かおりをたしかめる。

愛らしいフローラルのかおり。
そのなかには、確かに、名前がまとうはずのないにおいがあって。

「そうじゃねえ、名前から、タバコのにおいがすんだよ」
「??」

名前に頬をよせて。緋咲はかおりをたしかめる。

「・・・・・・?お母さんもすわないし、わたしも」
「どこでひろってきた」
「・・・・・・?電車ですかね?」

名前の表情の変化を、熱っぽく、そして冷たい瞳で、緋咲は、なめまわすように物色する。
そうして、どれほど舐めるように味わっても、名前の澄んだ瞳に、嘘などなにひとつなくて。
普段どおりの名前が、非日常なにおいを纏っている。

緋咲のかおりしか知らない名前のはずが、己にはありえないにおいをなすりつけられている。

そんなこと、あってはならないのだが。
胸の奥を黒く焦がしながら。
そうして、緋咲があるものに気づいた。

「んだ、これ」
「・・・・・・?」

名前がまとっている、麻の、繊細なカーディガン。
その右肩あたりに、不穏な傷がはしっている。
その不審な傷を、緋咲は冷酷な瞳でとがめた。
当の名前は澄んだ瞳で緋咲を見返し、瞳をそらさず、まっすぐな逡巡をくりかえす。

「・・・・・・・あっ!!!」

思い出した。

緋咲の顔を無事に見られて、緋咲のそばに寄り添うことができて、安心しきって、記憶の奥底にとばしてしまっていたこと。

「緋咲さん、あの、」

いいわけか弁解か、それとも。
緋咲の腕にまで強い熱がはしり、それが名前のほっそりした体を思い切り抱き寄せた。

「わっ!」

そのまま、緋咲のひざのうえにのせられて。
緋咲をまたぐような格好で、名前は、緋咲の腕の中にとじこめられてしまった。
どうしようもなくて、名前も緋咲のしなやかな肩に手をそえてみる。
スカートのまま、緋咲のひざをまたいでいることが、はしたなくおもえて。
ふっくらした頬を赤くそめながら、名前は、ひとつひとつ丁寧な説明をはじめる。

「えっと、緋咲さんちに、くるときに、助けてもらった人が、いて」
「助、け・・・・・・?」
「助けるというか、かばってもらったの」

えっと。一つフレーズをくぎって、名前が、落ち着いて、言葉を接いだ。

「たばこを、買ってたら、わたしそういうところだって、知らなくて」
囲まれそうに、なっちゃったんです。

あの湿った通りのことを思い出して。
名前は、すこしだけ肩をふるわせた。
その変化を、緋咲が即座に悟る。名前を逃がさぬようにとらえている腕に、怒り交じりの力がこもる。

「っ、んだと」
「ま、まって!それで、そのとき、私をかばってくれた人がいたんです」
「・・・・・・」
「本当ですよ?信じて?その人がかばってくれたら、あっさりどこかいっちゃって。ここにくるときもつけられてなかったですよ?」
「ここがばれよーがどーでもいんだよ、んなことより、名前に」
「私、大丈夫でしょ?緋咲さんに会えたら、怖いのとかどっかぜんぶふっとんじゃったの。だから、かばってもらったとき、その人、しばらく私の近くにいてくれたの。きっと、その時ついたんだとおもいます」
「・・・・・・」
「嘘ついてないですよ?緋咲さん。元々、私が、変な思いつきで、いつもと違う場所行っちゃったのがわるいんです」

緋咲の肩に手を添えて、澄んだ声で反省の弁をのべる名前のなまえを、緋咲が呼んだ。

「名前」
「緋咲、さん?」

名前のさらさらの黒髪。
いまだ、かぎなれぬたばこのかおりがただよっている、その清潔な髪の毛。
後頭部など緋咲の手でつかめてしまう。

名前のかよわい頭に大きな手を当てた緋咲は、名前を思い切りひきよせた。

「やっ」

歯をぶつけない器用さは、緋咲にはあきるほど備わっている。
いつも、この子のために、慎重なキスしか送らないのだけれど。
今日は、そうはいかない。緋咲がはじめて決壊した瞬間だった。

名前のぽってりとしたくちびるが、あっというまに緋咲にのみこまれてしまう。いつも、このくちびるに、緋咲のつめたいくちびるがかさなって、そのまま、やさしくふれたまま。

今日は、名前のくちびるのあいだから、緋咲の舌が一気に侵入してくる。名前の口はあっさりと割られて、激しい呼吸をあびながら、咥内を緋咲に蹂躙される。耳をふさいでしまいたくなる唾液の音。じっと我慢することしかできない。喉のおくから、甘く小さな声をあげて、緋咲の舌が、名前をめちゃくちゃにたどってゆく。にごったような音をたててくりかえされるキス。こんなことははじめてだった。眼をかたくとじて、今、緋咲はどんな顔をしているのか。どんな顔で、名前を味わっているのか。たしかめたいけれど、緋咲の、熱く、生々しいキスに、耐えることしかできない。

「んっ、っ」

名前が息を思い切り吸い込むため、くちびるをふりほどき、一度、酸素をひゅっとすいこんだ。でも、緋咲はゆるしてくれなくて。

「あっ」

そのままあおむけに倒れてしまいそうな名前の腰を思い切り抱きしめながら、緋咲は、名前のくちびるにもう一度かみつく。
緋咲の薄いくちびるが、ねっとりと開いたり、閉じたりして。名前のくちびるを、あらゆる角度からふさぐ。前歯の裏をなめとられて、名前のおずおずとひっこむ舌はひきずりだされて、緋咲にとらわれてしまう。きつくすいあげられて、名前の口元からこぼれた唾液を、緋咲がくちびるですくいとった。
緋咲に食べられてしまうようだ。
名前のくちびるを、じっくりとなであげたあと、緋咲は、名前からはなれた。

「緋咲さん・・・・・・」

そのままずるずるとおちてしまいそうな名前の腰を、緋咲が強く抱える。

そして名前は、緋咲のことをまっすぐみつめていた瞳を降参させて、緋咲の胸に、ぽすっと埋まった。離れ際は、あまりに、甘かったキス。緋咲からはじめて与えらた、緋咲にはじめて味わわされた、大人びたキス。

「名前」
「はい・・・・・・」
「また怖いおもいさせたかよ」
「大丈夫!!……大丈夫なの。緋咲さんがこうしてくれてたら何も怖くありません……」

一旦顔をあげた名前の言葉は、しぼんでしまうようについえて。
耳を真っ赤にそめあげた名前は、ふたたび、緋咲の胸元にすがりついた。
顔をあげられないほど照れてしまった名前を、ぎゅっと抱きしめた緋咲が、ぽつりとこぼしはじめた。

「名前」
「緋咲さん……、私、緋咲さんだけが好きです……」
「ああ、よく知ってんぜ?そりゃ、生きてりゃよ、オレ以外のオトコとしゃべることもあらぁな」
「緋咲さん・・・・・・」
「頭じゃわかってんのによ?このオレがよ」

名前のやわらかい体を、思い切り抱きしめる。
怖かったであろうキスを与えたおわびだ。
緋咲の獰猛な手が、名前のことをいつくしむように抱き、いつくしむように髪の毛を撫でる。
そして、いまだたばこのかおりがのこるその黒髪に、名前のすべてをおもいきりすいこむように、繊細な鼻梁をあてた。

「私だって、緋咲さんが、ほかの女の人にやさしくしてたら、やきもちやきます」

緋咲の胸元に顔を埋めた名前は、その広い背中に、けんめいにしがみつく。

「私、緋咲さんの、よわいものいじめしないとこが、だいすきなのに」

名前を救ってくれたとき。はじめから、緋咲のことはこわくなかった。この人は優しい人。名前はすぐにそれがわかった。

「傷ついてる女の人がいたら、緋咲さんはきっといたわるとおもうの。だって、私が、そうだったでしょ」
「ちげーよ。名前だったからだ」
「ううん、そうじゃない。緋咲さんは、人みて態度変えたりしないひとです」

緋咲の腕のなかから、名前が、聡明な瞳で緋咲をみあげる。

「そんな緋咲さんが、好きなの」

もう一度胸に顔をうめた。
このあたたかい胸元。
名前をけして傷つけない腕。
香水と、ジョーカーのかおり。
名前が、この世で一番安心できる場所。

「なのに、ほかの女の人に、親切にしてるとこを想像するだけで、ぎゅってなります」

いたいけな黒髪から、今も少しだけ漂うたばこのかおり。
幾度も髪の毛をとかしながら、緋咲は、名前のやわらかな声に耳を傾ける。

「緋咲さんも、わたしみたいに、なるんだ」
「・・・・・・」
「胸が、ぎゅーってなる?」
「みりゃわかんだろ」
「落ち込む?」
「このざまだ」

名前を抱きしめたまま、髪の毛に幾度もキスをおくる。
こうしていれば、やがて名前は緋咲のにおいにそまる。

「その日寝るまで、ゆーうつになる?」
「・・・・・・名前、想像だけでそこまでなんのか」
おまえの前で、ほかのオンナの話したことねーだろ?

ややあきれをにじませた声でつぶやく緋咲をみあげた名前が、ちゃっかりとわらった。

「なるの。そうですよね、緋咲さん、いちどもない」
いつも、私を傷つけるよーなこと、しない。

緋咲のうでの中にすっぽりとおさまってしまった名前の体を、緋咲が抱き起こして。
名前はひざのうえで、ふたたび緋咲と向かいあう。

いざ向かい合うと、日頃大きな瞳でまっすぐ緋咲をみつめる名前が、やっぱり、しぼむようにうつむいてしまった。

「こわがらせちまったか・・・・・・」
「ちがうの、」
は、はずかしいです・・・・・・。大人なキス・・・・・・。

冷たい口元をに、微笑をうかべた緋咲が、照れてしまった名前を、抱きしめて。

前髪ごしの、かしこそうな額。
愛らしい目元。
やわらかくて、紅色にそまった頬。
そして、ぽってりとふくらんだ名前のくちびるに、緋咲の薄くて形の整ったくちびるがおりてくる。
そっと重なるだけ。
名前をいたわるような、やさしいキスがしばらくつづいた。


緋咲が名前を一度ひざから降ろす。
とまどう名前のからだを、人形をあやつるように、くるりと反転させて。
そうして、ソファにしずめた己の体のなかに、後ろから抱きしめながら、座らせた。

名前の腰に、長い腕をまわして、背後から抱きしめながら。
緋咲は、気にかかっていたことを問いかける。

「どんなオトコだった」
「え、ええ?」
「きいてんだよ」
「えーと、金髪で」
「チッ、ろくでもねーな……!!」
「…………。背が高くて、えっと、足が長くて」
「……オレよか、でけーんかよ」
「・・・・・・え、えっと、緋、緋咲さんとおなじくらい……?あ、あの、緋咲さんのほうが、ス、スタイルいいです!」

本当は、緋咲より身長は5センチほど高いように思えた。それにしたって、あの線の細さ。緋咲もしなやかな線とはいえ、あのひとの痩身は、特別すぎる。緋咲よりずいぶんやせこけた体格。栄養も足りていないだろう。

「つづけろ」
「え、ええ?・・・・・・でも、こわくなかった。おだやかそうなひと」
「チッ」
「あ、そうだ・・・・・・革ジャンきていました。ここにね、ちくちくしたのが、ついてたの。だから、わたしのここやぶれました」

肩口をゆびさした名前に、緋咲がドスの聞いた声をあげる。

「ケガぁよ?」
「ないですよ?」
ほら、みて。

名前が、緋咲に背を向けたまま、ほっそりした両肩とすんなりした腕をのばした。
麻のカーディガンに、ところどころあいている穴。いったい、何が原因で、洋服にこんなキズが。名前の様子をみるに、心より平気そうではあるけれど、過去に受けたキズで、男を怖がる名前が、これほど平然としているとは。
どれほど用心して名前を守っても、外敵はたりない。
名前をとじこめておくことが、守ることとはいえない。そんなこと、重々自覚している。名前の心の強さは、緋咲がよくわかっている。
そして、名前にとって何より危ないのは己なのではないか。そんな疑いも耐えないのだ。

「緋咲さん」
「ん?」
「心配かけちゃって、ごめんなさい」
「ああ、肝が冷えんだよ」
「やきもち・・・・・・?」
「ああ?」
「やかせちゃって、ごめんなさい」
「あの道つかうな」
「わかりました、そーします」
「むかえにいってやれねーでよ、わりーな」
「ううん、大丈夫。ちゃんと、一番明るい道つかうから、緋咲さん、安心して?」

守りかたなどいくらでもあるだろうに、自身は、このやりかたをえらんだ。
誰にも名前のことを明かさずに、そばにおく。
こんなことで、名前を失っていられない。
そうして、アクシデントに耐えたこの子に、己ができるかぎりのいたわりを、今日は与えてやらなければ。名前の味わったことを、とりのぞいてやらなければ。

そう誓った緋咲は、名前の背後から、そのやわらかな髪に、幾度も、あたたかなキスをおくった。

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キャラクター 緋咲 / 「お部屋デート中に、なにかのきっかけで仲良くなった男の影に嫉妬した緋咲に、大人なキスをされて、照れる主人公」でした。

凛様、リクエストありがとうございました!ちょっと、「お部屋デート感」が薄かったかも。会ってすぐに本題に突入していますから……。

一歩踏み込んだ緋咲と緋咲夢主人公を書くことができました。ありがとうございました!!
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