緋咲小説
 ライラック 6

翌朝、小春の右足首は、赤黒く腫れあがりはじめていた。

慎重にベッドからおりて、手すりをつかって階段を神妙に降りてみる。
右足首に負荷がかかるたび、ぴりりと痛みが走る。不器用に歩くことはかなえど、体育の授業は見学になるだろう。昨夜長く入浴して熱をもたせたことが悪かったのか、眠りにつく前に感じることのなかった腫れが、ひどく目立ち始めている。
痛みは、断続的に訪れる程度。これならきっと、歩いて学校へ行けるはずだ。

それにしても、時間差でおとずれた痛み。それなりに体は丈夫なのか、小春はこれまで、大きなけがとは無縁であった。
昨日のことを思い返してみると、自転車とともに石塀にぶつかりころげおちたときひねったのだろう。

パジャマを洗濯機にほうりこんで、シャワーを浴びる手前で躊躇した。こういうときは冷やせばいいのか、格好の相談相手は今そばにいない。
登校までまだ時間はある。母親の部屋から救急箱をひっぱりだしてほどこしてみたその手当はおおげさで、不格好。小春のふくらはぎを覆うハイソックスの上から包帯が浸食して、じつにみっともないといったらない。

母親は昨夜、学校までおくってくれるといったけれど、それは仕事が休みである日に限った話。あれから夜勤に出てしまった今日は、小春が登校する時間にかえってこない。こんな不器用な手当をみた母親に、おもいきりわらわれてしまうさまを思い浮かべてみると、いまだもやがかかっていた小春の心に、すこし晴れ間がさした。

パンをかじっていると、小春の家にインターフォンの電子音が反響する。いつも迎えにきてくれる友達だ。ひょこひょこと、足をひきずりながら小春は玄関へ向かい、友達と語り合いながら鍵を厳重に施錠した。
優しい友達は、小春のいいかげんな手当を笑うより、足を気遣ってくれた。

ずいぶん沈んでいた春先から徐々に元気を取り戻しつつある小春がめずらしく怪我を負っている様子。
そんな様を目にとめた友人たちが次々小春を気遣ってくれるけれど、本当の原因なんて、恥ずかしくていえなかった。いいかげんにごまかしながら、制服姿のまま体育を見学する。母親に打ち明けられたこと。痛みを共有する人が、緋咲にくわえてひとり増えたこと。そして、やさしい友達。
このまま、小春の痛みがはがれおちてしまえばいい。
そして完全にはがれおちたとき、見守ってくれた人たちに、何か返せればいい。


毎日、放課後を無事に迎えられて自宅に帰りつくだけで、小春の小さな心はひどく安堵する。日々を生き抜けたことで、精一杯なのだ。狭い校門からとびだして、女学生の群れにまぎれこんで長い階段を降りる。汐入駅から小春の学校までの狭い道は、人種も年齢も棲息する世界も様々な人たちが行き交う。ふたつの言語が入り乱れ、落ち着いた語気だけにつつまれるわけもない。そんなとき思い出すのは、あのライラックの髪の人。
緋咲。
すると、ざわついた心のうちは少しずつ、凪ぎはじめるのだ。

保健室で包帯の交換を頼めば、小春が施した手当よりよっぽど大げさなものになってしまった。小春の片足はぐるぐると包帯でまかれ、網にくるまれている。小春のことを気にかけてくれる保健医が、こんなにおおげさなことにしてしまったのだ。足をひょこひょこと引きずっていれば、同級生たちに次々と抜かれていく。いつも一緒にすごす友人は、今日は部活動に励むようだ。ひとりぼっちの帰宅も慣れている。

女学生の集団から小春が遅れがちになり、痛む足をひきずりながらひょこひょこと歩いていたとき。



緋咲は、小春の通う女子校の裏にいた。
小高い丘の上にある、凡庸なレベルの女子校であることは緋咲も知っている。
正門と裏門。緋咲はその双方を迷い、チェリーピンクの単車で裏門にまわりこんだ。
夕暮れどき。緋咲がちょうど目覚め、動き出すころだ。
ここは緋咲が根城にしているエリアに、それなりに近い。
とはいえ、このエリアと緋咲の守る根城には、やんわりとした力で結界が張られているような感覚もある。

しかし、ここからすぐ脇に逸れるとラブホテル街。
治安のすぐれない場所になぜ女子校などたてるのか。
ここができあがったのがさきか。町ができあがったのがさきか。
その歴史に想いを馳せる間もなく、緋咲の内心には、たったひとりの少女のことが重くのしかかる。


小春。


制服から、すぐにここの学生ということは察知していた。
そして、昨夜、不潔な武勇伝を一方的に語っていた男。小春のことではないだろうが、緋咲の思考の奥底がざわついてやまない。
自分は強くなんかない。
そう、ジャッジなんてしないでほしい。
そう訴えたあの少女は今、痛みをかかえてひとりで苦しんでいないか。
強がる女は知っていた。
強い女も知っている。
にせものの強さを誇示し、卑屈な弱さで支配しようとする女もいる。
小春は、そのどれとも違っていた。

真水のような心根で、緋咲に、嘘がつけないということを、まっすぐ伝えてきたあの子。
あの子の無事さえ、ひと目確かめられればよかった。


そしてその姿を、緋咲は確かにとらえた。
鬱蒼とした丘の下。
切ない背中。私立校らしい華美なデザインの制服につつまれた、華奢な体。
真面目な丈のスカートからのびた、すんなりとした足。

その足が、大仰な包帯で巻かれていること。
彼女の頼りない体が、引きずるように歩いていること。

気づけば、かかとをはきつぶした緋咲の靴が、地面を叩いた。
疾風のようなはやさで、気づけば小春のそばに駆け寄っていた。

「どうしたそれ」
「え!!!」
ひ、ひざきさん!?!?

女生徒の群れからはぐれた小春は、痛む足をとめて、小春の腕をつかみあげて鋭い声で小春を問い詰める人を、大きな瞳で見上げる。

突如そばにあらわれたひと。
小春のなかから、静かに去ろうとしているのだろうと考えていたひと。
もう頼ってはならないかもしれない。
このまま心のかたすみに静かにしまいこみ、いつか小春がまた苦しくなったとき、一方的に心のそこだけでたよるつもりでいた人。

「誰に、やられた」

切れ長の冷たい瞳の、こころやさしい、熱い人。
その人が、何か一方的な勘違いをして、小春の腕をひっつかんでいる。

「え、あ、あの」

目を白黒させて一度深呼吸をこころみる。
そんな小春の平静を取り戻す努力は、突如小春の目の前にあらわれた会いたかった人の前で幾度も力を喪う。

小春が言葉をえらぼうとしていると、つかまれた腕ごとずるずると引きずられ始めた。

米兵や黒人が、めずらしそうにふたりを観察している。
こうしてひっぱられていると、けがをしていない左足だけで緋咲について歩くことができる。負荷のかからぬ右足。これをどう説明したものかおろおろとなやんでいれば、深いピンク色のバイクのすぐそばに連れられた。

「ウチのモンか……?」
「ち、ちがう、そういうんじゃ、ない、です」

バイクと緋咲のあいだにおいこまれた小春が、両手をつかって懸命に緋咲をおしとどめる。
そして小春は悟っていた。
小春の心のもやもやなんて、一気に晴れてしまったこと。
こうして、小春のささやかな日常のなかに雷のように落ちる一瞬で、小春の思い悩みなんで、全部吹っ飛んだ。

「落ち着いて、緋咲さん」

今のは少し生意気な口調かもしれない。
抱えていたものが少しずつ流れてゆく気配がする。
それと同時に、小春は、地に足のついたまともな言葉をとりもどしはじめたのだ。

小春のほそい二の腕をつかんでいた緋咲の手がいつしか離れ、かわりに、小春の痩せた肩にそっとそえられている。
このあたたかな腕に、小春も自然とすべてをまかせる。

こんな瞬間がおとずれるなんて、小春はひとつも予期していなかった。

いきなり小春の前にあらわれてくれた、ライラックの髪の色の人。なぜ、髪の毛とバイクのカラーがちがうのだろう。
説明したいことを頭の中で組み立てはじめながら、鼻っ柱にはしる傷、やさしい腕の力、さらさらの髪の毛、そして地道な作業で磨かれたタンク。この人を構成するすべてをいつくしみながら、小春は丁寧に説明をはじめた。

「これは、ただ」


それは、緋咲も同様であった。

平凡なスタイルの、普通の女の子。

彼女のかすかな異変を悟った瞬間、緋咲の理性は一変した。
一方的に育てていた思いに、決定的なスイッチが入った瞬間であった。


日常におとずれる大きな脅威ではなくて、卑近な現象を思い出すことは、脅威を思い返すより、奇怪な痛みがある気がする。

それでも小春は、突然再会できた緋咲に支えられながら、この痛みの正体を、少しずつ打ち明け始めた。

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