緋咲小説
 ライラック 5

声もあげられなかった。

そして、あの日のように、スライドドアは開かなかった。

そのかわり、乱暴な足音が起こったあと、荒々しい音で運転席のドアが閉まった。

運転席からでてきたのは見たこともない中年男性だった。めがねをかけて、妙に高そうなスーツをきて、色のついたメガネの奥から、不遜な目つきで小春のことをにらみつけている。

そして、小春がここに自転車を駐輪していたことを大声で咎め始めた。自転車にはさまれて立ち上がれない小春に、容赦な怒鳴り声をあびせてくる。

その駐車場は車しかとめられないし、そもそもここは、車が通ってはならない道だ。
そうきっぱり伝えてしまえたらいいものを、小春は、へたりこんだまま刃向かうことができなかった。

その怒鳴り声は、そのうちろれつが回らなくなり、もはや何を言っているかもわからぬ叫び声とかわった。
何度も繰り返し怒鳴って、小春を脅しつける。

たとえば、小春の母親なら。小春の母は背も高く、ひっつめ髪で、飾らぬともはっきりと顔立ちが整っていて、気も強い。女手一つでずっと小春を育ててきてくれた。母親だと、きっとこんなとき、きりぬける力をもっているはずだ。
じっとうつむいて、怒鳴り声に耐え続けるしかない自分とはちがう。

こんなとき都合よく助けにきてくれるヒーローなんて、小春にはいない。
もういないのだ。

わたしが、わるかったです、ごめんなさい。

ぺたりとへたりこんだまま、そうつぶやくと、中年の男は小春の自転車につばをはきかけた。それは、自転車をかすめずに、塀に付着した。

小春のかよわい謝罪を聞いた中年の男は、二度ととめるなと捨てぜりふをのこして、しごく満足したさまで、乱暴にに車を発進させた。

そばの住宅から、老人が、ばつのわるそうな顔で怒鳴られ続けた小春を盗み見ていた。

いわれなくても、もうここには二度とこない。
自分の身体に折り重なるように倒れ込んでいた自転車を、懸命に起こして、散らばってしまったパンをひろいあげる。一部のパンは無事だ。
誰も助けてくれないし、人通りはない。荷物をまとめあげたあと、小春は、力なく自転車をにまたがった。

体はせわしなくふるえているけど、あの日よりマシだ。

泣くことなどわすれてしまった。

歩いてくればよかった。
近くのコンビニにとめて、ここまで歩けばよかった。些細なボタンの掛け違いで起こってしまったことを後悔しても、意味はなさないのに。
そりゃ、わたしだってわるいかもしれないけど。どうして男の人はなにかと怒鳴るんだろう、女子だけの学校だとこんなことは起こらない。怒鳴る子なんていない、温和な方法で解決しようとみんなで考える。オンナは感情的というけど、ああして怒鳴る男の方がよっぽど感情的ではないか。そんな愚痴をぐちゃぐちゃになってしまった頭に浮かべて、矮小な怒りもありながら、一方で、理不尽な罵声をあびせられたことによる、生理的なふるえはとまらない。

わけのわからない暴力にさらされることが続く。ほとほと疲れ果ててしまった。
そういえば、右足が少しだけいたい。自転車にはさまれたとき、塀に肘をこすってしまったかもしれない。ひりひりする。

小春を助けてくれる人が、都合よくあらわれてくれるわけがない。
どんなことだって、自分ひとりで乗り越えるしかない。

そう、あの日はとても都合がよかった。
小春にとって、都合がよすぎた。
もう二度とあんなことなんてない。
もう二度とあの人に会えない。

おもいだすのは、緋咲のことだった。



どうしたの、これ。おとしたの。

母親の口調は、気は強くとも責め立てるようなそれではなかった。
無事であったパンと、砂まみれになってしまったパンを、暗い顔でダイニングのテーブルの上においた小春にむかって、母親は丁寧にたずねる。

「こけた」

すねたようにうつむいても、母親は、あいまいにすることをゆるしてくれない。

何もないのにころんだの?
母親のあたたかい声をきいて、ようやくぽろぽろと涙がでてきた。
なんだか、とてもくだらない涙だ。

「帰ろーとしたとき……」

起こったことを、ぽつぽつと語る。
あーーー、自転車とめるとこ、あそこしかないもんねえ。母親が、そう軽く言ってのけた。

これは食べられるか。
さばさばとした声でパンをよりわけながら、母親が、思いついたように言う。

もしかして白いアレでしょ?めがねかけたおっさん。

涙に塗れたきょとんとした瞳で小春がうなずく。

となりのあの人も、車のってんとき、こっちが優先だとかで無理矢理クルマ停められてからまれたっつってたわよ、有名なアレよ!

小春の不安を簡単に壊してしまうように。
母親は、なんてことない調子でいってのけた。

まっ、お隣さん美人でしょ?車からおりちゃうとね、あっさり態度変えたみたいよ。

小春が、わけもわからずこくんとうなずく。

もーわすれなさいよ。次からはお母さんがいくからね。

母親が、少しだけ涙をこぼしたあと、生気のぬけたような顔でつったっている小春の頭をぽんぽんとなでた。

幾分か気持ちは軽くなったものの、食欲も失せてしまって、いつもならまっさきにかじりたくなるシナモンロールも、今日はどうだっていい。
今日は、布団をかぶって、すきな音楽をきいて、ごろごろと眠ってしまおう。
そう思い付き、自室へ帰ろうとしたとき。

それだけじゃないでしょう。
母親に、真摯な声でひとこえかけられた。

ダイニングテーブルのイスをひいた母親に、据わることを促される。
キッチンから、シュンシュンとやかんの熱の音がする。

母親に伝えそびれていた、あの日のことだ。
短くしか伝えられないけれど、なんとか説明をこころみている。やっぱり、隠しておくことはできなかった。思い出したくないことだから、断片的な説明になってしまうけれど。


いきなり、車に、のせられて。
しらないところ、つれていかれて。
でも、助けてもらって、帰してもらった。


目の前に、あたたかいハーブティーがおかれる。
小春の好きな茶葉。ひとくちのむと、すっと顔中をとおりぬけて、そのまま頭をすっきりさせてくれるかおり。

要領を得ない説明をぽつぽつと語った小春は、カップにそっとくちびるをあてて、ひとくち飲んだ。

けーさつにいうよ。
きっぱりと断言したあと、無表情で電話にむかおうとする母親を、とっさにとめた。テーブルにおいたハーブティーのカップが、すこし大きな音で鳴った。

「い、いいの!!あぶないところで、たすけてくれたひとがいたから」

婦人科に行くかと、母親にたずねられる。母親のすこしかさついた手は、小春の量の多い髪の毛を何度も撫でる。

「ちがうの、助けてくれて、帰らせてくれたの」

いすにすわったまま、必死で訴える小春の、涙のかわいた瞳をまっすぐみすえながら。
母親が、何度も小春の頭を撫でた。

本当に、もう何もないの。そう尋ねる母親に、小春は力ない声で答える。確かに、あの人の言った通り、あれ以降、小春をつけるような車も、小春を狙うような人もいない。

それでも小春は、あれ以降、暴力の気配と男性という存在に、各段に弱くなった。

「ないとおもう。今日、その……、車が、ちょっと似てて……」

カップをもちあげて、手をあたためるようにきゅっと抱える。そんな小春をながめて、母親は、今日仕事やすもーかとつぶやいた。

「家にいたら大丈夫だから!寝られるよーにも、なったし……」

気付いてあげられなくてごめんね。そうつぶやいた母親が、ぽつんとイスにすわった小春を、胸元にそっと抱き寄せた。

大丈夫よ。しばらくガッコはおかーさんのくるまでいこーか。

ときどきでいいとつぶやいたあと頷いた小春に、母親は、ちゃんと早起きしなさいよと笑った。

小春の受けた苦しみを、たった一人だけ知っている人。そこに、母親が加わる。
小春は、ハーブティーを飲みほしたあと、すこしだけパンをかじってみた。



クラッシュアイスのすきまを、飴色の液体がぬるぬるとたどる。
暇つぶしでおとずれることのあるクラブ。
一番奥の、5人がけのソファを、緋咲は一人で陣取っている。

音の体をなしていない音楽は、まったくもって緋咲の好みではないが、考えごとにちょうどよかった。

酒を大量にいれてだらだらと睡眠にふけっていると、夢にまであの少女がでてきた。
小春。
あのかったるいカフェで、すこしだけ会ったあの子。間近でじっとみつめた顔は、はっきりとした顔だちで、ぱっつりときりそろえられた前髪が、大きな瞳としっかりとした眉を引き立てていた。
そして、ちいさな声が何度も礼をのべてきた。

夢のなかで、あの子は、女子校の制服を剥かれて、泣き叫んでいる。
そのたび幾度か目覚めた。
無理に酒をあびせて、眠気をたぐりよせれば、小春は、もう一度、緋咲の夢のなかで泣きわめく。

そういえば、あの子の悲鳴を聞いたことはないはずだ。初めて見たとき、大音量の音楽のなかで、小春は、声をうしなっておびえきっていた。

めざめたとき、小春が腕のなかにいれば。
すぐに、泣くなと抱きしめてやれるのに。

強いとつたえると、くずれおちるのをこらえて、何かを懸命にしぼりだそうとしていた。

あれは、己が抱きしめてやれば解決することなのであろうか。

あの子はとっくに、自分の足で歩き始めているのかもしれない。

たちどまっているのはオレだ。


ジョーカーをひっぱりだすと、残りは一本だった。買いにゆかせるために、兵隊を視線だけで探す。勝手についてきた兵隊は、苛ついている緋咲をとおまきにしながら、適当にオンナをひっかけて飲んでいる。

兵隊を捜していると、緋咲にしせんを送り続けていた幾人ものオンナが、こびたようにわらい、愛想良く手をふった。
いまいましく目をとじた。
小春のように、勇気をだして緋咲のそばにとびこんでくるものは、いない。


グラスのなかの飴色の液体を、紅い舌でなめとったとき、激しくなる雑音を縫い、すぐそばの座席から断片的な声が飛び込んできた。

「後ろ姿だけでよ、拉致ったらよ、それがガキでよ」

グラスを、大仰なテーブルの上に、乱暴においた。
緋咲のたてた大きな音に、その連中は気づかない。

「あのガッコよー、中学と高校が制服一緒だろ。だからよ、んなガキだって知んねーでよー」

大きなソファをひとりでつかっている。女たちも、緋咲に媚びることをあきらめた。
緋咲の変化に気づいたものはいない。
べたべたとついてきた兵隊すら気づいていない。

グラスをおいた緋咲が、ゆらりと立ち上がった。

あの日、小春を攫い、襲い掛かった人間は、非常に残忍なかたちで一人残らずけじめをとらせた。
あんな事件はそもそも新生ロクサーヌの名折れだ。岩崎統制下で、あんなことが起きたことはない。それは緋咲薫の恥でもある。

小春とすべてのロクサーヌのたまり場に二度と近づかぬよう、血反吐をはかせ、力づくで誓わせた。

今、目の前にいる肉のかたまり。
轟音にとけこんだ緋咲の殺気を悟ることなく薄汚い武勇伝をつづけている。

「黒髪は好みじゃねーんだぜ?でもよ」

あの子のことが思い浮かぶ。
小春。

「よくみりゃわるくねーからよー、色気もあってよ」

剥いちまおーとしたとこをよー、逃げられちまってよ

緋咲が、背後から殴りつける。
硝子のテーブルにたたきつけられたその肉塊は、それだけでうごかなくなった。

知らない顔かどうかはわからない。あっさりつぶれたその顔は、暗い店のなかで判別不可能だ。
悲鳴が起こった。あでやかな装いの女たちや、スーツ姿の男たちが一斉に緋咲を遠巻きにした。

とどめにくれてやると、小汚い返り血が頬についた。

冷淡な目で、見下ろす。

下卑た武勇伝を聞いた男は、腰をぬかし、あとずさる。
醜い顔の男。

兵隊が、己の名前を呼ぶ声がする。
やりすぎちまったら……と緋咲をとめるその腕を振り払うと、並べておかれているソファごと兵隊は吹っ飛んだ。

音の渦のなかで。悲鳴のなか。

緋咲は、固く握ったこぶしをおもいきりふりあげた。
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