緋咲小説
 ライラック 3

「ダテ?」

緋咲の、精悍な背中。あの日、ひどく広くかんじた背中をぼんやり眺めながら、少し離れてついて歩いていると。
そのやわらかな紫色の髪の毛がふわりと跳ね、緋咲が小春をちらりとふりかえる。そして、短い言葉が飛んできた。

切れ長の瞳に、一瞥されて。その冷涼な目線のややうろたえながら数秒間考え続けたのち、その短いひとことと自分の持ち物がむすびつく。さきほどまでかけていたメガネのことをさしているのだろう。

「えっと、そうです」

緋咲は、もう前を向いている。

シンプルな服装の店員に案内され、どこか温もりがある木目調の壁でさえぎられた席にとおされた。真っ白の照明につつまれたカフェの中はカウンターもソファ席もテーブルも、ざっと見渡したところほぼ埋まっており、店内は品のいい穏やかなざわめきで満ちている。奥まった座席に座ってみても、隣の席や背後の席の声が静かに遮られていることに、すぐに気づいた。

「ここ、かわいいですね・・・・・・」
「知ってたか?」
「名前だけ・・・・・・」

壁で区切られた座席に慎重に腰をかけ、大きな瞳できょろきょろと周囲を観察している、小動物のようなその姿。
この聡明そうな、くっきりとした瞳。
じょじょに、あの日のこの少女のすがたが緋咲のなかに蘇り始めた。

あの日にくらべて、ずいぶん、しっかりした瞳をしている。緋咲がそばに立っても、極端におびえたようすはなかった。
アルバムを模したような形のメニューを、小春の前にばさりと置く。

「こ、コーヒーにします」

メニューを開かず、遠慮がちにそう述べた小春に、緋咲がいぶかしげな視線をおくった。

「それだけでいーんかよ。腹へってねーか?」
女が好きそうなモン、いろいろあんだろ?

分厚いメニューを、小春にむけて開いてやる。
コーヒーと一口にのべても、色とりどりの種類にあふれていて。ひととおりじっとながめたあと、小春が、これにしますと最も安価なものを指さした。そして、

「そんなに、食欲がないんです」

ぽつりとこぼしたその言葉を、緋咲は黙ったまま受け止める。

ふところからたばこをひっぱりだした。そして禁煙であったことを、即座に思い出す。くわえて、この少女には、思い出したくない記憶のトリガーのひとつであろう。忌々しいことがリアルによみがえり、眉間にしわをよせたまま、反射的に行いそうになった舌打ちを耐え、たばこをふところにもどした。

そばを歩いていた店員をつかまえ、辛口のジンジャエールとコーヒーを注文する。

「よく、こられるんですか?」
「・・・・・・くるわけねぇだろ・・・・・・」

お手拭きの包装をピリリとやぶき忙しそうに手をふきながら、小春は、見当違いの質問に顔をあからめ、小さな声で謝った。

「そ、そうですか、ごめんなさい」
「こんな場所のが、安心できんだろ」
「・・・・・・ありがとうございます・・・・・・」

会ってお礼をして、それからどうしたいのか。
回復の道を少しずつたどれているのであれば、いっそ、すべての記憶を捨ててしまえばいいのに。
忘れたいことと、忘れてしまいたくないことが、今の小春のなかに、あわせて存在している。

ふたりの簡単な注文は、時間をおかずすぐにサーブされた。
店員が、コーヒーとともにサーブしてきた、ミルクや砂糖。それらに手をつけることなく、小春は、なぜだかぺこりと頭をさげたあと、コーヒーカップに口を付けた。
ひとつ年下のようだが、緋咲より、だいぶ幼く見える。味覚の好みは一致しているのか。

「小春、」
「はい」
「・・・・・・」
「あっ、その呼び方で、かまいません」

大きな瞳が、きょとんとしたさまで緋咲をみつめかえした。

「ひざき、さんって、どんな字ですか?」
日曜日の日、ですか?

緋色の緋に、崎や前ではなく、咲。

日頃であればひとにらみで終わらせているだろうこんな間延びした会話に、緋咲は、ぽつりぽつりと律儀にこたえた。

これは、罪滅ぼしなのか、同情か、それとも。
そんなことの答えはおのれのなかでとっくにでているはずだ。

「めずらしい字ですね・・・・・・」

ひとりごちたあと、小春はカップをもう一度おそるおそるもちあげ、深いかおりをたしかめる。ぽってりとしたくちびるをつけて、まだ熱いコーヒーを一口啜った。

ほっとするような落ち着いた味をたのしみ、やわらかな笑みをうかべながら、おしえてくれた漢字を思い浮かべてもういちどその名をくりかえしてみる。

「ひざき、さん・・・・・・」
「?何」
「えっ、あ、確認してただけです、ごめんなさい」

静かなざわめきとともに、店内には、心地よいピアノ曲が流れている。
この音も、この空間のむずがゆくなるほどの品も、目の前の小春への思いも、緋咲が妙に面はゆい。
乱暴にストローをとりだして、素材そのものの辛さに満ちたジンジャエールをあおったあと、緋咲は、腕を組み、長い足を投げ出して、なめらかな素材のソファーに背中をあずけた。

「・・・・・・」

小春が、気まずい調子でうつむいてしまう。
唐突で、わけがわからないであろう誘いにのってくれたうえに、こんな店まで選んでくれて。いざこうして顔をつきあわせて、ありがとうとのべて、礼になるものも無事わたせて。
では、これから、どうすればいいのか。
自分は、どうしたくて、このひとに会いたいと願ったのか。

そうしたきもちにいまさら向き合おうとすると、小春ののどから、反射的に、まるで緋咲をつなぎとめんばかりに、意味のない言葉が飛び出してくる。

「あの、私から、お誘いしたのに、気を遣わせてますね・・・・・・」
「それで安心すんなら、そうしてろ……」
「えっ、そ、それは、申し訳なくて・・・・・・」
「……オレといるのは、怖くねーかよ」
「こわかったら、こんなにゆっくりコーヒー飲んでません・・・・・・」

ほとんどのみおえたコーヒーカップを、意味もなくもてあそぶ。ちらりと盗み見た緋咲のグラスには、すずしそうなのみものがまだ残っている。しずめられたライムの清潔感が、まぶしい。

「何度も、しつこいんですけど・・・・・・、本当にありがとうございました」
「だからよ、あそこで助けねえヤツぁ逆にイカれてるっつっただろ」

小春は、ちからなくわらって、首を横に振る。そのときぱさりと乱れた黒髪を耳の後ろにかけなおしたあと、手持ちぶさたに、お手拭きをいじった。

「ちゃんと休めてんのか?」
「ありがとうございます、だいぶ眠れるようになりました」
「・・・・・・」

いい加減たばこが吸いたくなる。この程度耐えられると思っていたものの。そもそも、緋咲の暮しの中で、誰かのために何かを耐えるなど、ずいぶん久しぶりだ。久しぶりどころの話ではないかもしれない。
誰かのために何かを我慢したことなど、これまで一度でもあっただろうか。

「なんとか学校に行けてるのも、今、こーしてお話できてるのも・・・・・・」

はじめてみたときから、ぽってりとしたくちびるが印象的だった。少しやせただろうか。あの日の印象は、鮮明でありながら、あいまいでもある。この少女の変化など、はっきりとわかってやれるほどの蓄積と時間は、お互いのあいだに存在するわけがないのに。

目の前の少女のそのくちびるがすこしふるえて、幾度目かの礼の言葉を、丁寧につむいだ。

「ありがとう、ございます」

飲みおわったカップをテーブルのかたすみに寄せて、膝の上に手をそろえて、服をきゅっとつかんで。

小春は、深々と頭をさげた。

「・・・・・・どーしてよ、オレなんかによ」

癖のようにたばこをひっぱりだしてしまった。それを、いい加減にテーブルに置く。小春が、無意識に、視線でそれを追いかけた。

「わざわざ会いに来るんだ?忘れてぇだろ」

大きな瞳がたばこを追いかけたことが気にかかって。緋咲は、ふたたびたばこをひっつかみ、乱雑にポケットにしまいこんだ。アルコールをいれてもいいけれど。時折忙しそうにゆきかう店員をよびとめるのも、面倒だ。グラスにみたされたままの水をあおった。レモンがわずかにしぼられたそれは、ややぬるくなっていたけれど、緋咲の咥内を、こざっぱりと彩る。

「ふつう、そうですよね。何なんだろう、私」
「オレぁやさしくなんかねーゾ」

うそぶく緋咲のことばに、はっきりと答えないまま、小春は大きな瞳をゆがめて、あいまいにわらった。そして、せっぱつまって声で、ふとおもいだしたことを切り出した。

「あ、あの、電話ばかりかけてごめんなさい」
「誰のいたずらかと思ったぞ・・・・・・」
「そうですよね、もう、ああいうこと、やめるので!」

まるでいたずらをしかられたこどものように。
小春が、大きな瞳を落ち着かないようすできょろきょろと動かし、弁解をくりかえす。
その幼稚なさまに、緋咲が軽い笑みをうかべた。

「好きにしろ」
「えっ、でも」
「昼間は寝てっからよ。無職の朝は遅ぇんだよ・・・・・・」
「あの、えっと、私もお昼は学校が、ありますし、あの、やめます」
お会いできたので……。

緋咲のあきれたライフスタイルに、引っかかりをおぼえたようすもなく。只管きまじめな返事をする小春に、緋咲はあきれたように、高い天井をあおいだ。
そのまま、店員を呼び止めた。テーブル脇のスタンドにしるされているメニューを指さし、ふたりぶん注文する。

「え、私、大丈夫です。気を遣わないでください」
「うめーんだとよ。スッキリすんだろ」

少しだけ遊んだことのある、顔も忘れてしまったオンナだったか、バイト先の遊び慣れた男だったか、後をついて回ってくるうっとおしい舎弟どもであったか。いや、これがうまいといっていたのは、懐かしい友人の恋人だった。この店も、あの女性が話していたから、頭の片隅に覚えていたのだ。あのひとは、友と、ここを訪れたのだろうか。

「あ、ありがとうございます」

ほどなくして運ばれてきた、冷たいレモネード。シンプルなコースターのうえに、丁寧におかれた、すずしげなたたずまいに、小春は素直なほほえみで、しずかな歓びの声をあげた。
ハーフフローズンのそれ。シャーベットをゆっくりくずしながら、小春は、とけてゆくようすを見守る。

「眠れねーときぁよ、無理するこたねーらしーぞ。目ぇとじてるだけで充分だってよ」
「ありがとう、ございます……」

何を、うわべだけのカウンセリングまがいのことに興じているのか。ほとほと己らしくない言葉に、緋咲は、ストローをぬき、レモネードを思い切りあおった。甘さがほとんど感じられない、明瞭な酸っぱさは、目を覚まさせてくれるようだ。

緋咲が選んでくれた言葉に、丁寧に礼をのべた小春も、レモネードをストローですいあげる。のどを、爽快な酸味が満たしてゆく。つくりこまれた甘さよりも、こんな酸味が、ずいぶん好みだ。おいしいとつぶやくと、緋咲が肘をつき、眦をゆるめた。

「電話ばかりしてごめんなさい、そうしてないと」
「好きにしろっつっただろ?」
「……、そうじゃなくて、」
「……何だよ」

精一杯、慈しみをこめたつもりの言葉で、かみ合わない会話に、緋咲が問いかける。

半分だけ残ったレモネード。細いグラスを両手で包みながら、小春は、急に口のなかが乾いたような気がして、息をのんだあと、もう一度ストローにくちをつけて、すっぱいのみもので、咥内をうるおした。

「……おまえには、もう何も起きねえよ」
「……」
「それだけ言っとくぞ。もう起きねえ。デージョブだ」

だからもう、オレには近づくな。

そう伝えたきり、ここで、永劫別れてしまうのが、この少女のためであろう。

時折その大きな瞳が凛と輝き、時折その澄んだ瞳の輝きがなりをひそめ、小さな体のなかで、いまだ明らかに逡巡を繰り返している少女。

小春に、そう伝えることが、かなわないまま。

緋咲は、引き抜いたストローをもう一度グラスのなかにもとに戻し、レモネードをぐるぐるとかきまぜた。
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