▼ ライラック
夕暮れからすでに不穏な気配の裏通り。薄汚れた階段をくだり、緋咲は、見たくもない顔を見に、行きたくもない場所へ向かっている。OBに呼び出されている。新しい顔が増えるからと、しどろもどろで言い訳を繰り返していたが、どうせ愚にもつかぬ顔ぶれにすぎぬだろう。
このクラブはたまり場のうちのひとつ。幾つかあるたまり場のうち、緋咲がもっとも嫌いな場所だ。なんせ、かかっている音楽が肌に合わない。
深い地下に続く階段をおりていると、扉の向こうから大音量の音楽が漏れていることに気がついた。相変わらず、趣味の悪い音楽。音漏れはいつものことではあるが、今日はいつになく、不自然に大きい。
分厚い扉の外で、緋咲は直ちに、妙な気配を悟った。
乱暴な音をたて、拳でノックするも、ひとつの反応もない。耳をあててみても、音楽が漏れるだけ。すべての声をごまかすような音が、響き続けている。
中途半端な時間に人を呼びだしておいて。緋咲の機嫌がますます悪くなる。
緋咲は力任せに、分厚い扉を蹴飛ばしはじめた。
その分厚い扉のむこうには、ビリヤード台のうえに投げ出された、制服姿の女子中学生。
腕を押さえつけられ、体を這う手を必死で拒みながら大声をあげても、大音量の音楽が、少女の悲鳴をかきけす。
眼も性根も濁りきった者どものひとときの悦楽のため、たまたま通りかかったこの少女、小春は、それらに目を付けられた。だれでもよかったのだ。車にひっぱりこまれ、小さな身体はあっさりと車のなかにとらわれた。そのままここに連れ去られた。
暴れる細い両手両足、音の合間を縫って叫びつくす小春の悲鳴と、歪む顔は、相手を煽りぬく。
小春の両の腕がおさえつけられ、ブラウスがおもいきりひきちぎられた。小春が大声を出せば出すほど喜ぶ、下品な怒声。
音楽の音量がさらにあげられた。
小春の耳が張り裂けそうなほど激しい音楽が襲いかかる。
出せる大声をだしてわめいていると、小春の鎖骨に、火をともされたたばこの先端が近づく。息をのみ、瞳をみひらき、恐怖に震える小春の姿が、男たちの悪意をあおる。
たばこの先端が、小春の鎖骨をすこしかすめ、ひりひりした痛みを生んだ瞬間、小春の体にまたがっていた男が一瞬で消えた。
そのとたん、小春を押さえつけていたすべての手がゆるみ、小春を嬲りつくそうとしていた下品な視線が、小春のうえからあっという間にきえてゆく。
大音量のなか、だみ声で小春をいたぶりつづけていた男の声が、情けなく
「ひ、ヒザキさん」
とつぶやいた。大音量の音楽の隙間から、ヒザキ、という単語が、小春の耳に入った。
かたくとざされていた扉が、いつのまにか蹴破られている。
なにがなんだかわからないまま、次々と人が倒れていく。
肉と肉がぶつかりあう衝撃音は、音楽にまぎれ、小春の耳には入らない。
自由になった足と腕を小さく竦めながら、小春は体を起こした。
この暗く五月蠅い密室に侵入し、またたくまに場を支配してしまった男性の姿に、小春はようやく気がついた。
ストライプのスーツ。精悍な体。ゆらりと背が高い。
色素の薄い髪の毛が、重力に逆らって立られている。
切れ長の細い瞳、その高い鼻には、一本の傷がはしっている。
その大人びた男性の腕が、オーディオのつまみをひねり、音楽の音量を消した。
とたん、静寂がおとずれる。さきほどまで小春に襲いかかっていた男たちは、音も立てず気絶している。
静かな部屋に、小春の呼吸の音が響いている。
緋咲がビリヤード台にすこし近づいたので、小春が息をのみ体をかたくした。
「拉致られたのか?」
紫色の髪の毛の男性の、冷たい声と鋭い瞳が、小さな小春の、おびえている全身を射ぬく。
小春は、ビリヤード台の上にすわりこんだまま、ふるえの止まらぬ体で、おそるおそるうなずいた。さきほどたばこがかすめていった鎖骨が、今になってヒリヒリと痛む。
羽織っているだけのシャツの胸元をぎゅっとにぎりしめると、緋咲が、床に投げ捨てられていた小さなベストをビリヤード台の上においた。
それをあわてて引き寄せる小春。ずらされかけた下着をあわててととのえ、この引きちぎられたブラウスは、もうどうしようもない。かっこがつくように前であわせて、そのうえからベストをかぶった。
ずれていた靴下もなおして、片方だけローファーをはいている。もう片方の靴を、床をのぞきこむようにさがすと、緋咲が拾い上げて、小春にわたした。
わたされたローファーを足にひっかけるように履き、高いビリヤード台からおそるおそる降りようとする小春の体を、緋咲が支えようとすると、小春が思い切り体をすくめて、息を飲むような悲鳴をあげた。
「やっ……」
舌打ちをした緋咲がいまいましそうに告げる。
「こいつらが起きる前に、さっさと逃げろ」
小春は、すこしだけおさまった呼吸がまたもとにもどりそうで、あわてて、打ち捨てられていたかばんをつかんだ。
ちくりと痛みがはしった鎖骨。ボタンはすべてひきちぎられてしまったから、胸元をかくせなくて、そのわずかに赤い痕が見え隠れしている。
やはり、すこしだけやけどしている。でも、あのまま、この人が助けてくれなければ、ひどいあとがついていただろう。少しだけかすったようなやけどを、まだふるえがおさまらない冷えきった手でそっとおさえた。
歯に痛みはないけれど、ひっぱたかれた頬は、はれてしまっているようだ。口元にも痛みが走る。
緋咲が、小春を出口に導くように歩き、分厚い扉を思い切りあけはなした。
「あ、あ、あの」
緋咲は、その弱弱しい声の主を見下ろした。これからしばらく青白くはれあがるかもしれない頬を、その少女は小さな手でおさえている。
泣いていない。思い切り泣きたいだろうに、耐えているようだ。
愛くるしくぽってりとした口元には、ひっぱたかれたときかんでしまったのだろう、血がにじんでいる。
真っ赤な目元が、緋咲をこわごわとみつめている。
「あ、ありがとうございました」
「はやく逃げろ」
緋咲に冷たく命じられながら、小春は、礼の言葉を繰り返す。
「あ、ありがとうございました……」
「助けたわけじゃねー。そいつらが目障りなだけだ」
緋咲があけはなした扉から滑りだすように、小春は、緋咲の言葉どおり、逃げ出した。
扉は重々しい音をたてて閉まる。閉まる寸前、足早にかけあがっていく音が鳴った。
転がっている肉のかたまりをよくみれば、顔も見たくない小物のOBどもと、入り立ての雑兵だらけ。顔もよくわからない人間もまざっている。蹴飛ばしてやりたいが、靴の先がこの肉塊に触れることすらおぞましい。
拳に付着した返り血に無性にいらだつので、緋咲は、気絶している人間の服でそれをぬぐいとった。
あたりを見回すと、ビリヤード台のうえに、チェックのリボンがころんところがっていることに気づいた。つまみあげてみると、襟元に通したあと、後ろで止めるタイプのリボンタイ。
ここにさらわれてきた、先ほどの少女のものだろう。
どうせ替えのリボンくらいもっているだろうし、あの子はもう二度と己のツラなどみたくないだろう。
緋咲は二度三度それを手の中でもてあそんだあと、至極忌々しそうに舌打ちをしたのち、乱暴にクラブの扉をしめ、大股で階段を駆け上がった。
薄暗い階段をかけあがり、近づいたこともない通りを、小春はふらふらと歩く。
この精神状態では、ここがどこなのか、まだわからない。閉ざされた車のなか。外の景色もうかがえなかったし、ひたすら混乱しきった頭では、車で運ばれた時間も皆目検討がつかなかった。
胸元をおさえ、鞄を抱え、制服姿で歩く小春を、周囲のものが好奇の眼で見ている気がする。いや、それも自意識過剰か。
震えと恐怖がおさまらないまま、体をちいさくすくめて、小春は必死で足をすすめる。意識が朦朧となる。体を這い回った手の感触、耳を犯した下品な言葉と罵声、あじわった暴力、恐怖。
ふらついた脚で、壁に手をあて、壁づたいにのろのろとあるいたあと、小春は路地へまがりこんだ。
たばこの自動販売機がずらりとならぶ、薄暗い路地。
疲労と恐怖とショックがおさまらない小春は、ふらりとしゃがみこんだあと、じめじめとした地面に、たまらず嘔吐した。
けほけほとせきこみ、泣くという行為すら押さえつけられていた恐怖。それが今になってよみがえり、小春の大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。
小春は、背後に暗い陰が迫っていることにもきづかなかった。
「……おい」
ふるえながらふりむくと、先ほど連れ込まれた店で、小春を救ってくれた、紫色の髪の毛の、スーツの男性。
ヒザキ、とよばれていた人。
ひざががくがくとわらい、小春は、その背の高い精悍な男性を見上げたまま、恐怖で目を見開いたまま、湿った地面に、へたりとすわりこんだ。涙も思い切り引っ込み、立ち上がって逃げたいのに、大声をあげたいのに。すわりこんだまま、恐怖の形相で、緋咲を見上げ、小春は、ふるえることしかできない。
「・・・・・・忘れモンだ」
緋咲は、リボンを小春にさしだした。
「あっ・・・・・・」
たよりない首もとをさぐると、たしかにリボンがない。換えのリボンなんてもっていないうえ、さほど規律の厳しくない私立中といえど、リボンがなければ咎められるだろう。
「ありがとう、ございました」
緋咲の手のひらから、小春はリボンをおそるおそるうけとった。
緋咲と眼をあわせぬまま、小春は律儀に頭をさげた。
「たてねーのか」
「あ、あの、もう」
「また、さっきみたいな連中にからまれるかもしれねーぞ」
小春が思い切り肩をびくつかせたあと、しゃくりあげるように声をあげ、涙をこぼしはじめた。
緋咲は、こんな脅かすようなこと、なにひとつ罪もない少女をさらに追いつめるようなことが、言いたいわけではないのだ。
あの密室のなかで、気丈に涙をこらえていた少女の、大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれはじめている。
緋咲は、路地の入り口からこの少女の姿が見えないように、己の体で、少女の頼りない体をかくした。それに気づかぬまま、目の前の小さな少女は懸命にたちあがろうとするが、膝がふるえてたてない。
頬をはしりつづける涙。乱れた黒髪。少しずつ腫れ始めている頬、ボタンをひきちぎられているので、鎖骨から、かすかなやけどのあとがのぞく。
唾棄すべき傷跡だ。
この、いたいけな少女の傷跡の一因は、大きく括れば己にもあるかもしれない。顔も知らぬ雑兵とはいえ、己の支配下の人間。それが、何の罪もない少女に恐怖を味わわせた。
それは、緋咲の忌み嫌う、弱いものイジメ以外のなにものでもない。
少女が吐いてしまったものが、緋咲の視界をよぎった。恐怖と、フラッシュバック、ショックが原因だろう。
たばこの自動販売機の隣にある、ドリンクの販売機。緋咲は、ポケットから小銭をひっぱりだし、ミネラルウォーターのボタンを押した。
「飲めっか」
緋咲に差し出された水を、こわごわとながめたまま、その小さな身体は動こうとしない。何か仕込んであると勘違いしたのだろうか。緋咲は、諭すように、すわりこんでしまった少女に語りかける。
「俺が買うの、見てただろ」
緋咲はキャップをひねり、ふるえている手に、わたしてやる。
「ありがとう、ございます」
幼い手が水を受け取った。
その小さな背中を撫でてやりたいけれど、触れられるのは恐ろしいだろう。ましてや、この少女にとり、連中だって己だって、きっと変わらない。
ひとくち水をのんだあと、小春が涙ながらに、けほけほとせきこむ。
この路地に入ってこようとするものを、緋咲は、その目と存在だけで拒み続けていることに、小春は気がつかない。
小さな呼吸をくりかえし、しゃくりあげながら、水をのんでいる小春の瞳から、痛々しい涙が、ゆっくりこぼれつづける。
「無理するこたねー」
飲みきれなかったら、もってかえれ。
つとめて声を落ち着かせ、緋咲は、できる範囲で、己の下でおびえ続けている少女をいたわった。そして、反射のように、シンプルな質問が、緋咲の口からおもわずとびだした。
「オマエ、なまえ、は?」
「……」
名前を聞きだし、情報をつかまれ、再び襲われると思ったか。そう思うのもあたりまえだ。
緋咲は、顔をゆがめ、さきになのった。
「緋咲薫だ」
「ひざき、さん……」
「うちのモンが、悪かった」
膝をつきはじめた緋咲に、小春はあわててかけよった。おびえ続けていた小春の体が自然と跳ね、わらっていた膝がやわらかくうごき、緋咲を押しとどめた。
「あ、あの……」
緋咲に、触れる寸前。小春は、間近で緋咲の顔を見る。
緋咲の鋭い目元と、小春の少しだけキリっとつり上がった大きな瞳が、しばし通じあった。一度膝をついた緋咲がすっと立ち上がるので、小春の瞳は、そのすがたを追いかける。
小春は、その先をつづけることができない。
大丈夫ですなんていえない。
逆立てられた髪の毛が、すらりとのびた上背をより高く見せる。さっくりと横に走った傷跡は、なぜできたものなのだろう。こんなに大人びた外見で、高級そうなスーツも着ていて。
怖いけれど、どこか清潔だ。さきほどまでの人間たちと、結託して、自分を襲おうとするなんて、どうしてもこの人にからは、そんな思考が、感じられない。
でも、小春には永遠に縁のなさそうな人。女性に困ることもなさそうな人。余裕もありそうな人だ。
抵抗もむなしく被害にあいそうになった、間抜けな自分をからかっているのだろうか。
そのまま、小春はそっと離れた。
名前をなのることは、できない。
でも、制服を着ているのだから、地元で唯一の女子中の生徒だともうばれているだろう。
「助けてくださって、ありがとうございました……」
この人がいなければ、今頃、自分は、どうなっていただろう。
お礼をのべたあと、小春は、ようやく落ち着いた足で、子鹿のように立ち上がった。
「来い」
少しラフなその口調に、小春がぴくりとすくみあがった。
「一人で歩かせられねえ」
こうして言いなりになると、またどこかへ連れ去られてしまうのではないか。
深刻な瞳で、恐怖を我慢しながら、逡巡している小春。
緋咲は、静かな声で、小春にたずねる。
「信じられねーか」
うなずくことも、首を振ることもできず、小春は、緋咲につむじが見えるほどうつむいてしまう。
そんな情のせいで、おまえは。
理不尽に責めたくなるほど、緋咲はこの少女のまえではむしょうに心の内が乱される。かきたてられたのに、手をさしのべたくなる。
「何も持ってねーぞ。おまえを脅すようなモン、俺は何ももってねえ」
緋咲が、両手を小春に見せるように、だらりとひらいた。小春がゆっくりと頭をあげ、不安な瞳で、緋咲の様を観察する。
「おまえに、指一本触れねえ」
こわばっている大きな瞳をしっかりとみすえながら、緋咲が、落ち着いた声で誓った。
「俺は、おまえに、ぜってーなにもしねえ」
鞄をぎゅっと抱きしめて、水をつかんだ小春が、おずおずとうなずいた。
「信じてくれるかよ」
目の前の、背の高い男性の口元に、わずかに笑みが浮かんだ気がした。
緋咲が小春に背を向ける。そのまま、ゆっくり歩き始めた。
緋咲の、ひきしまった精悍な背中を、まだ揺らぐ意識でぼんやりとみつめながら、小春はそのあとを、そっとついていく。ときどき緋咲は、ちらりと小春のほうをふりむく。きちんとついてきているか。怖い思いをしていないか。守るように、振り向いてくれる。
緋咲の背中について歩きながら、小春はゆっくりと頭の整理をしていた。
いつもの帰り道。
きっと、だれでもよかったのだ。たまたま小春が目に入ったにすぎなかったのだろう。
車に引きずり込まれたあと、体中をさわられた。手や足は縛られず、まるで人形のようにおもしろ半分につかみあげられて、いやがる小春の姿を、下品な笑い声がなぶった。悲鳴をあげればあげるほど、男たちはよろこんだ。渾身の力で暴れていると、ほっぺたをひっぱたかれた。
無理矢理おろされたごみごみした通りには、人気がなかった。口をふさぐ手をふりきり、どれだけ叫んでも、誰も助けてくれず、手と足を抱えられて、あのクラブのような場所につれこまれた。
ビリヤード台に投げ出されて、手足をおさえつけられて。
くらくらする。
小春は思わずふらつき、そのたよりない体は石塀にぶつかった。
緋咲がふりむき、小春にちかよる。小春の体をささえようとしたあと、緋咲はすぐに手をひっこめた。
「歩けるか?」
「はい……」
至近距離にちかよった緋咲に、小春は反射的に息をのんだ。
美しい鼻梁にはしる傷が、まっさきに瞳にとびこむ。
その息の音をきき、緋咲ははなれる。
この人がいなければ、今頃自分は。いちいち脅えてしまう、小春の意識。救ってくれたこの人に、伝えたいことがある。
ありがとうという言葉と、もうひとつ。
いちいちおびえてごめんなさい、あなたのことは、大丈夫なのかもしれないと。
いつのまにか、すぐ目の前の通りのさきには、大きな駅が見えていた。
この町だったんだ。
ここがどこなのか皆目検討もつかなかった小春は、その駅を確認したあと、安堵のためいきをついた。いつのまにか、涙はかわいている。
「大丈夫だっただろ?」
鋭い瞳に反して、緋咲の声音には、ぬくもりが帯びている。
「はい、疑って、ごめんなさい・・・・・・。ありがとう、ございます」
落ち着いてきた小春の瞳。小春が、愛らしい声で、懸命に、緋咲に詫びと礼を述べた。
「あの、たばこ、おしつけられそうになったとき、助けて、くださって、ありがとうございました」
緋咲が、切れ長の瞳に慈愛と後悔をたたえながら、懸命に言葉をつむぐ、小春の姿を見下ろしている。
「緋咲さん、が、来てくださらなかったら、わたし」
ひゅっと息を吸い込み、動悸がはげしくなる小春の頼りない体を、たまらず抱きよせ背中を撫でて落ち着かせてやりたくなったが、緋咲は、その腕を、己の片腕で止めた。
「……」
「あ、小春、です」
おもむろに名前をなのった、目の前の少女。緋咲は数秒かけて、その言葉の意味を考えたあと、名を名乗ったのだということを理解した。
「小春」
緋咲の、特徴あるテノールでよばれた小春は、ぴくりとすくんだあと、どもった返事をした。
「は、はい」
「今日のことは、忘れろ」
小春の大きな瞳が、緋咲をじっと見つめたあと、みるみるうちにふるえ始める。
「もう、ここには、近づくなよ」
「あ、あの」
次の言葉をつむごうとする小春の姿を、緋咲は、じっくりと見守った。
「緋咲さんのことは、忘れません。助けてくれて、ここまで、おくってくれた」
きりそろえられた前髪の下の、大きな瞳は、いつのまにかキリっとした光が戻っている。
小春は、懸命に礼をのべた。
「・・・・・・」
「ありがとう、ございます」
鞄と水をぎゅっと抱えたまま、小春は、少しおびえた声で、確かに、お礼をつたえた。
「杵屋小春です」
なぜだか、大丈夫な気がして。
小春は、緋咲に、自分の名前を預けた。
預けるように、名乗った。
「緋咲薫だ。チェリーピンクのFXに乗ってる・・・・・・」
もう一度名前を名乗った後、緋咲が小さくつけくわえたその情報を、小春はきょとんとした瞳のまま、首をかしげて聞いた。
「?」
「わかんねーなら、かまわねえ」
緋咲のことを伺うような瞳のまま、小春は、おずおずとうなずいた。
「あの中までは行ってやれねえ。まっすぐかえれよ」
「ありがとう、ございました」
お礼をつたえたまま、まだ立ち去らない小春を、緋咲がせかす。
「早く行け。俺も後始末があんだよ」
「あっ、ごめんなさい」
鞄を肩にかけ、水がはいったペットボトルを頬にそっとあてたまま、きびすをかえそうとした小春の手首を、やおら緋咲がつかんだ。
小春が、ゆっくりと振り向いた。
その黒々とした大きな瞳の光を、緋咲は確かめた。
その光が失われてゆけば、この少女とは、これが最後だ。
その瞳にやどった光は、まばたきをくりかえしながら、懸命に保たれている。
「あの」
言葉をつむごうとした小春の耳元で、緋咲は、数字をのこした。
そのまま手首を解放する。
「緋咲さん・・・・・・?」
「さっさと帰れ。今ならまだ明るい」
緋咲はもう背中をむけたまま、暗い路地に消えようとしている。
緋咲は、もう、こちらを向きそうにない。
水をかばんのなかに入れて、つかまれた手首を、小春はそっと片手で覆った。
耳元にのこされた数字を、口の中でくりかえしながら、学校帰り、会社帰りの人々の群に小春はまぎれてゆく。
鞄から手帳をとりだし、小春が何度も復唱しているそれをかきつける。
この数字をどうしようか。
なるべく女性が多い群をえらんでまぎれこみながら、小春は、緋咲のことを思い出す。
いろいろなことがありすぎた。
あの人がいてくれなかったら、今頃。
身震いした小春を、隣をあるく会社員風の美しい女性がけげんな目で見た。
かたぎではなさそうな男性とすれちがうたびに、吐き気がこみあげる。
あの人がいてくれなかったら、今頃。
自分のからだを自分で抱きしめながら、小春は、真っ青のくちびるをふるわせて、緋咲のことを思い浮かべる。
名前と、己のシンボルと、ふたりをつなぐかもしれない、電話番号。
それだけのこし、緋咲は、小春のまえから、立ち去った。
男性が後ろにたつと、小春はその場をはなれる。
年上の女子高生の群れにまぎれこむように身をかくしながら、緋咲を思い出す。
これについて考えるのは、明日からにしよう。
とりあえず今日ははやく帰って、眠りこみたい。
小春は、かばんから、緋咲に与えられた水をとりだした。一口飲んだ後それをしまう。
知らない女子高生の群れに埋もれながら、小春は目をとじて、電車をまつ。
いろいろなことがありすぎた。
そして、もう二度と来たくない町と、もう一度会いたいかもしれない人が、できてしまった。
もう二度と降り立たつつもりはない町の駅で、小春は目をとじ、電車を待ち続ける。
もう一度会いたいかもしれぬ人の姿を、脳裏によぎらせながら。