緋咲小説
 カモミールの便りにて

看護婦は、身内の病気に、厳しい。


看護婦として20歳そこそこから自活している母親に、ほぼ女手ひとつで育てられた小春は、たった15年の人生の内でそんな無慈悲な事実をいたく実感しつづけてきた。


だけれど、この朝は、どうも勝手が違うようだ。


恋愛疲れ・遊び疲れが原因であることはわかっている。そんな原因からくるこらえきれない疲労は、小春の思考力と体力を奪った。
この現状を、意を決して母に訴えると、すんなりと休むことをゆるされた。
小春は、慣れたベッドの上で毛布にくるまり、中途半端に冴えた頭と曖昧に疲労がたまったけだるい体をもてあましながら、あらためて、この一ヶ月に自分自身に起きた怒濤の変化を振り返っている。


少しばかりの無理であれば小春も慣れているはずだった。
それでも、体がまともに起きあがらない。

小春は、己の体調の悪化を、おそるおそる母に打ち明けた。



自己管理がなっていない。
これくらいなんともないはずだ。



そんな厳しい言葉を覚悟して目を瞑ってみたものの、母親の夜勤あけの朝、まぬけなパジャマ姿の小春と母親の間に走るのは、静かで穏やかな沈黙だけ。

やがて、母親の口元から、あきれたようなためいきがもれた。そのくぐもった息に慈しみがこもっていること。小春はそれを悟って、なぜだか泣きたくなった。



あの静かなマンションの、あのさっぱりとした部屋から帰ってきて、緊張と、確かに感じた深い愛情のおかげで、小春は見事に、熱をだした。

あんな熱とあんな愛情。
痛々しいほどの緋咲からの思いをまっすぐ受け止めた小春の神経も皮膚もすべての器官も、あっけなく限界をむかえた。


生来丈夫にできている体すら、プレッシャーと疲労、抱えきれない愛によって悲鳴があがた。

知恵熱とよべばいいのか。原因不明の気持ちの大きさに負けてしまった小春の体は、緋咲と出会うきっかけとなったあのときとは違う、何かに守られているような、小春のなかで大きな何かが強く育ち始めているような、なんとも不可思議な感覚からくる熱に、しばしむしばまれてしまったのだ。


あの日曜日を終えて、ぐったりとベッドから立ち上がることがかなわなくなった小春に、母親はずいぶん優しかった。
小春のはっきりとした瞳は父親ゆずりだ。
母親には似ていない。
小春にはあまりにていない切れ長の瞳が、小春をあきれたようにみやった。小春のめんどうを一通り看てくれた母親は、いつものように武装のような深いメイクを施して、自動車で仕事に出かけた。


立ち上がれないほど苦しんだ日々。
ああして眠り続けていた日と、
こうして、原因がはっきりしている甘い熱におかされている自分の体を抱きしめて、小春は、分厚い毛布にくるまっている。

水分だけはとりなさい。

そう告げられて、ベッドのそばのテーブルにおかれた飲料水に手をのばすのも、めんどうだ。



我慢していた三日分の疲れが小春に襲いかかったとき。

生成り地に小花模様の布団につつまれた小春は、少しすすけた天井に、ぼんやりと言葉のようなものが浮かび上がることを自覚した。それは、小春の意識のなかにかろうじてひっかかっていた言葉。



別れ際のことば。

また、今週末も会いに行きたいということば。



確約ではないけれど、この心と体の状態では、反故にしてしまう。



「でんわ・・・・・・!!」

小春のぽってりとした口から飛び出した声は、情けなくかすれていて、間抜けだ。

寝汗がまとわりついていたパジャマをぬいで、真新しいものに着替えたばかりの小春が、厚い布団を引き剥がす。ひんやりとしたフローリングに足をおろし、ふらふらとたちあがった小春は、すぐそばの子機をむしりとるように取り上げた。小春の手にちょうどおさまる、オフホワイトの機械。
この一ヶ月とすこしのあいだでずいぶん押しなれた電話番号を、無意識にプッシュしていた。



「あっ!!!」

呼び出し音が数回で途切れた瞬間、小春が、ちいさな声でさけんだ。

果たしてこの電話のぬしは、かならずこのコールの届くもとにいるのだろうか。
迷惑じゃないか。
からまわりではないか。

懸念にまみれている愛らしい声は、受話器の先にも、容易に届いた。
疲れに冒された頭は、うまくまわらない。思考・選択、そんな段階をすっとばして、小春の頭はいやに、自分の気持ちにだけ正直になっていた。


小春のそんなかすかな後悔を、受話器越しの品のいいテノールが断ち切った。

わけもわからずちいさく叫び、しどろもどろの後悔を察した緋咲が、穏やかな声で一言すべてを受け止めた。




ほとんど香りを漂わせなくなってしまったルームフレグランス。
スティックも生気をうしない、フレグランスの色も変色をはじめている。
緋咲の瞳をかすめたそれは、このミニマムな部屋にふさわしくないものだった。

このフレグランスが漂わせていた香りを奪ったのは、受話器のむこうで、妙にたよりない声をだしている、ひとりの少女なのかもしれない。


「ああ」
「ごめんなさい・・・・・・何も考えてなかった・・・・・・」

とろけそうな頭が、気ままなひとりごとをつむぎはじめる。
緋咲が、声を押し殺したように笑った。
小春のちいさな体からこぼれてくる、愛くるしい本質。彼女のすべてがいとおしい。


「あっ、あの、体調くずして・・・・・・」

やはり、かすれた声、おぼつかない調子はそれだった。
緋咲の声に深刻さがやどる。


「大丈夫か?」
「週末、なんですけど・・・・・・」
「休んでろ」
「え、えっと・・・・・・」
「いいから。来週にぁなおしとけ」
「わかりました!!」

じゃあな。切るぜ。

緋咲の軽くやさしいひとことは、小春の耳にささやかに残って、すべては電子音に変わった。

「体調が悪いから、今週末は会えそうにない。だから、来週末に会いたい」
そんな願いは、ふたことみことで緋咲があっさり叶えてしまった。
ものごとがあっさりとすすんでしまったこと。
緋咲があっけなく電話を切ってしまったこと。

それはすべて、小春を早く手元に呼び寄せたいという欲望を最短で最速で、そして最も理にかなった方法でかなえるために緋咲のてだてにすぎないのだが、魔法使いのような緋咲の迅速さと、すこしのさみしさ、そして、それらを飲み込もうとしている疲労と熱。


子機をなかば無意識でもとにもどした小春が、ラグの上にほうりだしていたクッションをさらなる無意識でひろいあげた。

ぎゅっと抱きしめて、ベッドに向かう。
この水玉模様のクッションは、小春の大のお気に入り。
これがないと落ち着かない。
これさえあれば、どんな場所でも落ち着く。



どんな場所でも。


小春の中にはしったひらめきが、小春のどろりとした頭のなかに、ゆっくりと消えていく。




「オートロック不便だよなあ・・・」
「そんなことないです!安全で・・・・・・」


はらりとたれてきた前髪をかきあげた緋咲が、まだそばで落ち着いてはくれないちいさな恋人のすがたを、いとしく見下ろした。

あれから、ゆっくりと時間をかけて、小春の体は元気を取り戻した。母親は丁寧に看病をしてくれた。病が完全にぬけるまで休むこともゆるされたが、私立中学だ。今年、これ以上の欠席はゆるされないだろう。

緋咲の部屋番号を押せばインターフォンとなり、緋咲に解除されたオートロックの扉をくぐって、小春は緋咲のくらす階にエレベーターでたどりついた。遠慮がちな声で、「お部屋で待っててくれて大丈夫です」と申し出ると、切れ長の瞳は茶目っ気をにじませて、小春の気遣いを聞き流してしまった。

小春のざっくりとしたカーディガンごしの腰を、緋咲の腕にそっと抱かれている。
触れられたところから熱がつたわり、品のあるしぐさに、小春はそわそわするばかりだ。

それでも、今日は。


このいとしい人の部屋でもちゃんと小春らしくいられる、緋咲に面倒をかけないようにぴしっといられる秘密兵器を、バッグのなかに忍ばせているのだ。



緋咲と反対側の腕にぎゅっと抱き込んでいるそれを、緋咲はとうに気づいている。

いとおしい彼女の考えることを先回りして察してやるのも得意だが、率直にたずねてしまうほうがラクだ。


「おい」
「は!?い!」
「んだソイツ」

小春の腰をそっと抱き寄せて静かな廊下をあるきながら、小春より頭ひとつぶん以上背の高い緋咲が、反対側をのぞきこんだ。
雪に驚く子猫のように、戯画的な反応をみせた小春が、顔を真っ赤にしながら首をふった。

「こ、これは!」
「小春ぁサンタかよ」
「・・・?」

小春のはっきりとした瞳が緋咲のことを、迷いなく見上げる。
その気色には、明らかにぎょっとしたものが滲んでいる。

金属のドアの前で向かい合って、真面目な瞳にみつめられた緋咲が、ん、んだよ・・・と小さくつぶやいた。その罰のわるそうな声。
小春のしらない緋咲。
小春のしりたかった緋咲。
これからきっと、こうして、このしずかなマンションで、しずかな部屋で。

小春の知らない緋咲を、きっとたくさん知ることがかなうのだ。

「緋咲さんも・・・・・・」

緋咲が、逃げるように鍵をさしこみ、ドアを開く。

「冗談、いうんだ・・・・・・」

ひとりごとのようにつぶやき、何度もひとりうなずく小春の髪の毛を、照れくささをごまかすためにぐしゃぐしゃに撫でてやりたいが、これほどつややかな髪の毛においそれと触れるわけにはいかない。一度は触れた場所に、もう一度触れられない。

するりとしのびこんできた小春は、未だ何かを発見したような顔で、ふむふむとひとり納得をつづけている。一足先に靴をぬいだ緋咲が、キーストッカーから、カギをとりだした。


何のかざりもついていないカギ。


緋咲の片手ですっぽりとつつみこめてしまう白い手をとりあげて、不意をつかれている小春の手の平に、しゃらりと落とした。



「かぎ?」
「いつでも入ってこいよ」
「・・・・・・・・・」
あいかぎ・・・・・・?

小春の白い手の平が、そうつぶやきながらそれをにぎりしめる。

もう一度緋咲を見上げたその丸い瞳は、すっかり年相応の好奇心をとりもどしていた。
可愛いバレエシューズを器用にぬいで、いったんしゃがんで口をそろえたあと。

リビングの扉をひらいて小春を迎えようとしている緋咲のそばに素直なようすでかけよった小春が、無邪気な言葉でうきうきとたずねた。

「キーホルダーはつけないんですか?」
「そこか?気になんのぁ」
「なくさないようにしたいから・・・・・・」
「スペアすぐつくれるぞ」
「えっ、すぐ作れないですよ、私のお母さん、鍵屋さんとすごくもめてた」
「小春の母さんぁこえーんかよ」

ロングガウンをベッドの上に無造作にぬぎすてた緋咲が、小春との会話をつづけながらキッチンへ向かう。コーヒーメーカーのなかにできあがっている好みの濃さのものを、とりだすために。

ロングガウンをじっとみつめた小春が、緋咲の言葉にこたえた。

「性格きついけど・・・・・・最近優しい」
「なんか気づいてんだろーナ?」

コーヒーメーカーに手をのばした緋咲が、手をとめる。
そういえば。
似たような性格の女性。旧友の恋人が、旧友と連れだってここへ遊びにきたときに置いて帰ったものがある。

カモミールティー。こんなものは、小春も好むだろうか。
さほど古くはなっていないだろう。
引き出しからそれをとりだした緋咲が、マグカップにセットする。カップも、小春のためのものを準備せねばならない。


「気づいてるから優しいのかな・・・・・・」

小春は先ほどから、もうわかっている。
緋咲の部屋のなかでみるみるうちにリラックスしている自分自身のことを。
今日抱えてきたこれは、もう必要ないかもしれないけれど。


無造作にぺたりとすわりこんだ小春が、トートバッグのなかから、とりだしたもの。


マグカップをふたつ携えて部屋にもどってきた緋咲が、いそいそと謎の作業にはげんでいる小春を見下ろして、マグカップをガラスのテーブルの上においた。

自分のマグカップは携えたままの緋咲が、ベッドにどさりと腰掛けて、小春のことを気遣う。


「なおったか?」
「は?あ、は、はい!」
「大丈夫そうだな。カモミールぁな、病み上がりにもいいんだぜ」
「カモミール?そうなんですか、効果あるんですか?」
「嘘だよ。知らねー」
ま、効くんじゃねーか。

ガラスのテーブルの上におかれたおいしそうなお茶と、たった今、小春のひざにおかれているもの。
それを交互に見比べて、どちらの話を緋咲にしようか、小春は迷っているのだ。


小春がトートバッグにつめこんできたもの。
小春が、この部屋につれてきたもの。



それは、小春の愛用のクッションだ。


「クッション?」

緋咲の声が、しずかな部屋に甘くやさしく、たおやかに響く。

のびのびと過ごせると思っていたけれど、やっぱり。

このあまりにもやさしい声につつまれてしまうと。

クッションを抱きしめた小春が、おずおずとうなずく。


「これ・・・」
「おいてかえってかまわねーぞ」

そーいや、クッションなかったよなあ・・・・・・。


マグカップに口づける緋咲のまねをして、緋咲の気遣いにすんなりとうなずいた小春が、テーブルからとりあげたカップに口をつけてみる。はなをくすぐるすっきりとしたかおりは、小春の体のことを、底から癒してくれそうだ。

緋咲の部屋にすむこととなったクッションを抱きしめて。
このポップなカラーは緋咲の部屋にそぐわないかもしれないけれど、緋咲にとってそれは、唯一無二のものとなる。統一されたこの部屋にくらす、カラフルでポップなもの。
主張するものは、彼の単車のタンク同様、緋咲にとって大歓迎のものなのだ。

小春はそんな緋咲らしさを、小春のまだしらない緋咲のすがたを、この部屋で、このハーブティーがしずかに体に染み渡るように、味わいしることとなる。


title;Luneさま
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