くわえたセブンスターが龍也の口元からぽろりとこぼれおち、それなりに清掃のゆきとどいたタイルの上にころがった。
長い腕をのばしてそれをひろいあげた龍也は、たばこを吸うことを潔く諦め、傷跡のきざまれた頬を分厚い手で覆い、肘をついて目を閉じる。

日曜日。
大きなショッピングモールのなかの、相応ににぎわっているフードコート。

ここは横須賀だ。

禁煙席や親子席は、家族連れやカップルやダサ坊の群れでにぎわうものの、龍也が陣どる一帯は、比較的余裕がある。とはいえ、あと数席。フードコート内にずらりと並ぶ店舗には、行列が生まれているところもある。ここもいずれ、埋まってしまうだろう。

龍也が乗っ取った席は、一枚板でつながった喫煙席の一番片隅。
スポーツ新聞をひろげている中年男性や、競馬新聞を読む老人の中にとけこんでいる状況だ。

榊龍也が榊龍也であるということ、己が何者であるかということを悟り、先ほどのじつに間抜けなシークエンスに目をとめからむものは、ひとまずみあたらないようだ。

龍也らしくもなくシンプルな衣服に身をつつみ、フードコードで頼んだステーキセットがさめゆくのもいとわず、龍也は、水をひとくちあおろうとしたところで、面長の整った顔に大きな手のひらを添えて、肘をついた。

あまりきれいに洗浄されているとは思えぬグラスにそそがれた水。
今、これをあおってしまうと、龍也はきっと、大ダメージをくらうであろう。

大きな手で頬をぐっとおさえつける。

さきほどから、左奥歯が、ひどく痛む。
虫歯ではない。
昨夜のケンカで砕けてしまった奥歯。いつもであればここまでうずかないけれど、砕け方が悪かったのか、咥内を傷つけ、あげくじくじくと疼き始めてしまった。
そして、こめかみも痛む。
これは昨夜の酒のせいだ。

手つかずの料理から漂うジューシーなにおいが、歯の痛みにさわりはじめる。
なぜこんなときにこんなものを頼んでしまったのか。
空腹と痛み、どちらを優先すべきか一時曖昧になったからである。
そして、歯の痛みには波というものがあり、空腹のままこれを買い求めたときには、なんともなかったのだ。
それが、このざま。
今朝から、龍也の大きな身体を包む倦怠感は、歯、そしてこめかみに集中しはじめている。

横須賀中央駅から徒歩五分、ドブ板をすぎて横須賀街道をへだて、東京湾に面する大きなショッピングモールのフードコート。
横浜生まれ横浜育ち横浜暮らし、生粋の横浜っ子の龍也が、なぜ横須賀で、みしらぬ中年どもとともに、濃厚な昼飯をまえに、痛みをこらえ、至極不機嫌なつらをみせているか。

それは、朧童幽霊を率いて敢行した、昨夜の横須賀遠征に理由がある。
黒魔術師とカチあったそれ自体に、後悔はない。この疼く奥歯の原因となった一発をひとつくらえば、あとの戦果は上々であったが、もうひとつだけトラブルがあった。
単車に異常が出たのだ。そして、朧童幽霊メカニックの実家のトラックをよびよせて、持ち帰らせることとなった。中型トラックを運転してきたのは、龍也のことを畏怖を湛えた族の頭ではなくただの取引先とみなす、メカニックの父親。榊くん、きみは単車を壊しすぎだ。メカニックの父親からそんな冷静なお小言をもらった。

都筑やデブ崎が地元まで送るとさんざん買って出ようとしたが、断って引き上げさせた。おおよそ、無事に帰っているだろうとは思うが。

バイト代がぎりぎりおさめられた財布はあった。そしてランチコートも纏っていた。
特攻服の上からランチコートをまとっているとはいえ、享楽にふける大人たちにくわえベースの者たちも行き交うドブ板は、金曜の夜、龍也の入るすきはなかった。

まともなホテルより安いのは、ラブホテルだ。この時点ですでに歯は疼き始めていた。痛みをごまかすには、酒だ。コンビニエンスストアで買った酒を片手に、ひとりでラブホテルの部屋を選んだ。よその族の頭であれば、こういうとき、適当にオンナを選ぶのだろう。

そして翌朝。安っぽい臭いのシャンプー、妙にねとつく感触のボディソープで体をあらいあげ、強い酒にめずらしく頭痛を起こした龍也は、己の風体を自覚した。
ランチコートのジッパーを首元まで上げて、堂々とそびえたつショッピングモールに入った。入念にきこんだコートで全身をかくし、適当な服をみつくろった。試着したものをそのまま購入した。もうすこし派手なものをえらべばよかったか。今の自分は、ずいぶんシンプルだ。ワックスも持っていなかったから、髪の毛もばさりとおりてしまい、ガキくさいことこのうえない。目立つ頬のキズのおかげか、混み合ってきたショッピングモールでも、龍也が歩くと道がうまれる。こうして頬杖をついているのは、気遣いでもなんでもない。

歯が、痛いからだ。

そして、妙にうずく歯をおさえながら、適当なものを注文して、すわりこんでいるわけだ。
ばさばさとおりて額を隠している髪の毛。こうしていると年齢相応に見えてしまう。実は年相応の顔立ちがばれてしまうこと。それは龍也のかすかなコンプレックスだ。

おりた髪の毛から、相変わらずやすっぽいシャンプーの香りがただよってくる。
ボディソープもいやにぬるついていた。

そのとき、強い香水が龍也のそばにただよう。そして、それを追いかけるように、コーヒーのかおり。
やすっぽいシャンプーのにおいを打ち消すほどのつよさ。
食べ物の濃厚なにおいも、香水に負けてしまう。
コーヒーのかおりもあっさりと消えた。

その香水は龍也の整った鼻梁から、彼の口のなかにしのびこむ。
傷跡をかくしていた手をほどけば、左頬はあらわになる。
香水の源をさぐる気もおきない。ひとまず腹を満たさねばならないが、そんな気もおきない。
歯のうずきの波がおさまったところで、龍也は右手で頬杖をついた。



やすっぽいにおいを漂わせるコーヒーの紙コップをコトリとテーブルにおいた緋咲は、プラスチックの椅子をひっぱって、そこに腰をおろした。粗っぽい仕草で足を組んでも、スポーツ新聞に目をおとしたり、あらぬところに視線をとばしたり、ぼんやりとたばこを楽しんでいたり、そんな大人があつまる喫煙エリアでは、年若い緋咲のことを気にする者など、ひとりもいない。
喫煙席は、ここしかあいていなかった。

いつも訪れるファミレスに行けば、どうせ相賀や土屋、あるいは見知った兵隊どもがいるはずだ。
ああいった夜のあと、朝っぱらからチームの者に会いたくはない。

昨夜は、三浦半島の反対側に出向いた。
カチあった愚連坊をこてんぱんにたたきつぶしたあと、昨晩この町で暴れていたチームについての情報が緋咲の耳をかすめた。

ただしあいまいなことしかわからない。土屋にでもさぐらせておくか。
食欲もわかない緋咲は、コーヒーひとつおいたまま、スーツのポケットからジョーカーをとりだす。
トントンと叩いてたばこを一本とりだし、整った口元でくわえたとき。

となりにすわっている精悍な体格の男のことを、緋咲はしずかに悟った。
背が高く、鍛えられた体格。
この喫煙エリアに陣取るもののなかでは、緋咲に次いで若い男だ。
整った横顔。その面長の頬にざっくりと走るキズあとは、刃物によるものではないだろう。すっぱりと切れ込んでいるわけではないからだ。己の鼻っ柱に走るキズよりも深く、そして、年季の入り方は同程度かもしれない。

緋咲は、においにびんかんだ。己がまとう強い香水に負けないもの、このにおいの強さをかきわけて緋咲にとどくものには、とくに注視しなければならないと思っている。
となりにすわる男のことを悟った理由は、香りが理由であった。

これは、いつだったか、緋咲も利用したことのある、清潔とはいえないラブホテルのシャンプーだ。
このインパクトの強い傷跡。
カタギの人間のつくるそれではない。こちらの世界の人間だろう。
整った横顔に、三日月のように走るキズをもった若い男は、頬杖をつきながら、目の前で湯気をあげるステーキセットにガンをくれている。

右手で頬杖をつき、切れ長の三白眼はステーキをにらみつけている。
テーブルの上にそえてあった精悍な左腕がだらりと垂れたとき、テーブルのうえにころがしてあったたばこが、ぽろりと床の上にこぼれた。
その指先がたばこをはじいたことを、男はどうも気づいていないようだ。
灰皿と、ぐしゃりとにぎりつぶされたセブンスターのソフトケース。2組のイスごとにおかれているその灰皿は、緋咲と兼用になるはずだ。いずれ、この男に声をかけてその灰皿をこちらへいただかなければならない。

緋咲は、くわえたままであったジョーカーに、ダンヒルのライターで火をともす。

この男のたばこの趣味は、緋咲と合わない。ぼろぼろのケースのなかに、たばこはもうほとんどのこっていないようだ。

長い腕をのばし、しなやかな指にたばこをはさんでそれをひろいあげた緋咲が、短く声をかけた。

「……オイ」
「……あ?」

ステーキをにらんでいた若い男が、そのするどい視線をゆっくりと緋咲に与えた。
やはり、かたぎが生み出せる視線ではない。
ただしその目元には、緋咲同様疲労が滲んでいる気がするが。

その重厚な視線をなんなくうけとめた緋咲が、しなやかな指でたばこをはさんで見せる。

「落ちたぞ」
「……」
「コイツ」



緋咲の口元からくゆる煙。
緋咲のゆびさきに挟まれたたばこ。
そして、この強い香水の源である、精悍な体を高級なスーツに包んだ若い男。いやにととのった顔の中央にさっくりと走る傷跡。
紫色の髪が重力に逆らってたてられたそのヘアスタイルは、龍也の美学の基準のなかには存在しないものではあるが。

三方をじっくりと観察した龍也は、緋咲のしなやかな指から、セブンスターを抜き取った。

「……すまねーな……」

緋咲に短く礼をのべたバリトンボイス。
緋咲の冷たい目は、その声を確かめて、ひややかな色はまだそのままだ。
ほうっておいてくれてもいいのに、律儀なやつだ。龍也は思う。
ひろったたばこをはさんでいた緋咲の指。それはだらりと垂れて、龍也の腕のそばをゆびさした。

「それとよ、そいつ」
「ああ、使えよ」
「すわねーのか?」
「ああ……」

緋咲の要求をすぐにさとった龍也は、未使用であったやすっぽい灰皿を緋咲のほうに寄せた。

どうせ、退屈していたのだ。
この、深い傷跡をもつ、黒髪の男。ただものではない体つきに、太い芯がありありとわかる態度。
緋咲は、ステーキを前に時間を無駄にしている龍也に、けだるく語り掛けた。

「……みねーかおだな」

縄張り意識。自分のテリトリーにいる、この世界の人間へ、つい口をついてでることば。
緋咲の警戒心がみなぎりはじめる。
この男のそばにみずから侵入したのは緋咲自身ではあれど。

「ココのもんか?」
「……ちげーよ」

すごみある瞳が、緋咲を一瞥した。
再び頬杖をついた龍也の瞳。
緋咲が遠慮なく踏み込んできたことは、龍也の神経に多少触った。
雑踏で争いあうことも得意だが、ここは場が悪い。そして通報されるとめんどうだ。

緋咲の質のいいスーツに反して、龍也の身に着けるものはシンプルな量販品。
そのありきたりな衣服が、龍也の身体に漲るエネルギーを映えさせる。

大量の煙を吐き出すと同時に、緋咲の口から馴染みの言葉がぽろりとこぼれかけた。

「オマエよ……」
「……」

外道のモンか。
そう尋ねるまえに、緋咲が気づいていたこと。

かぎおぼえのあるシャンプーのにおい以外に、この精悍な男からただようにおいが、もうひとつ。

これは。

「……てめー……、二日酔いだろ」
「……そっちよりよ……」

龍也が、緋咲にたずねる。その声音は、異様に素直であった。

「あ?どーした?」
「……」
「……?」
「……あいてる歯医者しらねーか……?」
「……?」

龍也の瞳は、いたって真剣だ。
人の真剣さを踏みにじる趣味は、緋咲にはない。
灰皿にジョーカーをたてかけた緋咲が、ひとまず腕をくむ。
そして、きまじめに熟考をはじめた。

切り傷や擦り傷、捻挫程度であれば、寝ていればなおる。
しかし、骨折と歯だけは、専門の医療が必要だ。
ケンカ後どうしても歯の治療が必要なとき、緋咲が予約をいれる歯科は、基地の中にあるのだ。
あそこには、この男は入れないだろう。

あちこちになくはないが、日曜の診療はどこもやすみだ。
そもそも、医療機関で治療を受けるときの常識が、緋咲の脳裏によぎった。

「歯医者っつってもよ……予約ねーとムリだろ?」
「……」
「保険証もいんだぞ」
「……保険証ぁよ……オレぁ、もちあるいてんだよ……」
財布んなかだ。

剛毅なルックスに反して、マメなのか、まじめなのか。
別にそれを笑うつもりもない。
別段やることもない緋咲は、なぜかこの会話にまじめにとりあってしまう。

「持ち歩いてんのかよ」
「……テメーも、ビョーイン世話になってんタチだろーが……」
「オレぁ、保険証なしでも手術うけたことあんぞ」
「……それ、やべー医者じゃねーんかよ……」

まぁ、なじみのあの医者は若干うさんくさい。
しかし、あの医者に限らない。
腕をくんだ緋咲が、回想をかさねる。

「このまえよ……救急んときぁよ、今日中にもってこいっていわれただけだったぜ?」
「オレ、門前払いされたことあんぞ……」
「そーいやよ、ちっとな、手ぇケガしたことがあってよ……」

手だけで乗るとは、よっぽどのケガであったのか。
龍也が、緋咲の手元をちらりと一瞥する。
袖からのぞく両手に、それほどの大けがの痕は見当たらないが。じっくり観察すればまた違うのだろうけれど、そこまでしつこい関心をいだく必要はないだろう。

「保険証は?とかキレられっちまってよ……無視こいたらよ、そんなことだろーとおもいましたよとかゆわれてよ……救急隊員に鼻でわらわれっちまってよ……」
「ムカつくな……」
「ああ……」

にしてもよ……。
ジョーカーをとりあげて、その複雑な味を楽しむ。緋咲が、たてに長いからだを行儀悪く投げ出して、あきれたようにつぶやく。

「歯ぁいてーのに飲むかフツー……」
「これでなおんだよ……いつもぁよ……」
「んなことくりかえすからこーなっちまうんだろ……」

妙にしっかりとした男に、なぜか説教をされている。
そんな劣等感にさいなまれた龍也が、無骨にだまりこくった。
この不器用そうな男は、やはり会話は得意ではないのか。そうさとった緋咲も、ステーキをにらみつけ歯痛に悩んでいた龍也の痛みを、だまって受け止めてやる。

痛みなら、緋咲もこらえているところであるからだ。
素肌一枚にスーツをまとうところを、今日は、土屋のようにシャツを着込んでいる。
昨夜の乱闘で、ナイフで脇腹を裂かれた。かすり傷程度のつもりであれど、やや疼いている。
縫うほどではないと思っていたが、この分であると警愛会病院にまた世話になるかもしれない。

土屋だけがそれを悟った。妙に敏いアイツは、敏いかわりに解決能力は年相応だ。
別に、ヤツに心配されなくても、独りで勝手に治すつもりだが。

そして、龍也が、たばこを楽しみ続ける緋咲の脇腹に、視線をおとす。

「オマエも、そこか」
「ああ?」
「……ニオイ、ごまかせてねーぞ……」
コロンでもよ…………

龍也のするどい瞳がきまじめに緋咲をとらえたあと、まがまがしい気配も同時にただよわせた。
緋咲がみがまえようとしたとき、龍也が、いっそうきまじめな瞳でとがめた。
何者かもわからない少年。
あきらかに龍也より年が下だ。
そして、龍也の相談を真面目にとりあってくれた男。
まがまがしい気配は、自分をそまつにする気配のある若い男をたしなめるためのものだ。
龍也は、穏やかなバリトンで緋咲のケガをいたわった。

「オマエこそ、休んで血ぃとめろよ」
「はっ、同情かよ」
「……」

沈黙は、緋咲の幼い反応に怒ったからではない。
歯が、再びうずきはじめたからだ。
家に帰れば、以前歯科でもらったジスロマックが残っていたはずだ。
いい加減、この疼きをどうにかしたい。
そして腹も減った。

龍也のそばにいる少年。
緋咲は、龍也にいたわられたことがプライドにさわったのか、ネコのように気配を逆立てはじめている。

「ココのモンじゃねーんだろ」
「ああ」
「いちおーきーとくけどよ……」

コロンのにおいが歯にさわりはじめた。
そして、目の前にあるステーキ。
疼きをこらえた龍也は、それを、緋咲のもとによせる。

「……オマエ、これくえよ」

いちおーきーとくけどよ、おまえ、外道のモンか。
ここのモンではないと、緋咲のそばにいる背の高い男は確かに言った。
では、確かめる事実がある。
それを確かめる義務がある。
緋咲のどもとまで出かけた言葉が、龍也の意外な言葉と意外な振る舞いにより、またもひっこむ。
すっかりさめたステーキセットのトレイが、緋咲の目の前にあらわれた。

「んだよこれ、オレぁしつけー味のもんぁきれーなんだよ」

たっけースーツ着てやがんやつの言うこたちげーな……。
そんな長い言葉をつむぐことすらつらいほど、奥歯が痛い。
初対面の龍也と理性的に会話ができるほどには精神が成熟しているが、同時に血の気も多そうな少年。どうせ肉食だろうと思っていたが、そうではないのか。あきらめた龍也が、トレイを引き戻そうとする。龍也の祖母は教師だ。教育をなりわいとする厳しい性分の祖母に幼いころから今にいたるまで龍也が厳しく注意をうけてきたことは、素行についてではない。暴走行為についてではない。
食べ物を粗末にするな。農業や畜産業に従事する人間のことを想像して味わえということだ。

「……くうか……」

力なくフォークを持ち上げようとしたとき。
緋咲が、トレイを乱暴にうばった。

「かせよ」
「あ?きれーなんだろ?」
「ああ、くえんべ、かまわねーよ、オレが食ってやるっつってんだろ!!」
「こんなモンで意地はんじゃねーよ……」
「はってんのぁおめーだろ」

歯痛には波がある。
どうも、波がひきはじめたようだ。

緋咲が、やけくその如くフォークをとりあげた。
龍也は、なぜか添えられていた割り箸をとりあげる。
おいガキ、無理すんなと緋咲のことをたしなめてやりたいが、ガキと揶揄すれば怒るタイプだろう。そういえばこの前馬車道で遭遇した少年。あれはガキと煽っても、簡単には乗らないが、もう一発あおりをくれると快くケンカを買うタチであろう。この、紫の髪を逆立てた少年とかち合うと、どちらが優勢か。龍也は、すでに切り分けられているサイコロステーキをひとつひとつ箸でつかみあげながら、食べ方がこぎれいな緋咲について、そんなことをおもう。固い肉をあじわいつづける緋咲は、いやに箸の使い方がうまい龍也のことをちらりと見遣る。落ち着いた瞳は、肉だけに集中している。

中途半端に腹がみたされると思考のキレはにぶり、ねむけもおそいかかる。
昨夜の疲れもあるぶん、ふたりの思考はまるみをおびはじめた。
最上階のフードコート、磨かれた窓からのぞくのは、開発途中の公園と、きらきらとひかる海に鎮座する、米軍の艦船。
肉を食む龍也が、緋咲にたずねる。

「あの公園なんつーんだ」
「整備中でよ、名前これからきめんだと」
「おまえぁ、ここにたまってんのか」
「しりたきゃよ、また土曜日にきやがれ」

ステーキ皿の上に、同時にフォークと箸をなげだした。
ステーキとコーヒーは、不可思議なバランスだ。
歯の痛みがおさまっているうちに水で口内を整えた龍也。そのこめかみの痛みは、気づけばすっかりおさまっている。

「おい」
「…………んだよ」
「つぎぁもっとバランスとれてんやつ頼め」
「しるか……。んなことよりよ、ドブ板っつーのぁ混んでんべな…………」
「いつ行ったんだよ」
「2時くれー…………だな……夜のよ」
「へーじつぁすいてんぜ?」
ま、店選んではいれよ?どーなっちまうか、オレぁ責任もたねーぜ?

またも歯がうずきはじめた。

またも傷口がうずきはじめた。

次の波をむかえるまで。妙に落ち着いて話せるこの男と。
妙に頭のキレるこの年下の男と。
しばらく、時間をともにするとするか。
緋咲は、ジョーカーに火をともす。龍也は、その不思議なにおいをただよわせるそれを、黙って見守る。



「朧童幽霊ッスよ!!!ハマぶっこんで、ぶっちめるしかねーっすよ!」

夕暮れのドブ板の一角。
特定の者以外よりつかぬ、とあるライブ喫茶を模した店がある。
その店の分厚い扉の向こう側で、相賀がさわいでいる。

ジュークボックスで好みの曲を選んだ緋咲は、ひとまずおさまった脇腹のいたみを一度確かめたあと、定位置にどさりと腰をおろした。

「そいつ、ここに傷あんらしー。なんでも、元バクラ天のヤツとやりあったときについた傷で、元爆音の特隊らしーっすよ!!」

相賀の人差し指が、彼の頬をじっくりと横断した。
中央で暴れた横浜のチームについて、詳細な情報を手に入れた相賀が、爆音で音楽が流れるなか、さきほどからわめきちらしている。
相賀の情報に耳をそばだて、今後の出方をうかがっている土屋を、緋咲が指一本でよびよせた。

「土屋」
「は、はい?」
「オマエ保険証もってっか?」
「……えーっと、サイフんなかに……」

昨夜の乱闘の傷跡は、土屋の顔に痛々しく残る。
我流の雑な手当てを施した頬を指先でぽりぽりとかいた土屋が、謎めいた文脈をもつ緋咲の問いかけに素直にこたえたあと、妙に、しなをつくりはじめた。

緋咲が、くねくねと次の言葉を迷っている土屋をぎろりとにらむ。

「あ、あとっすね……」
「…………あ?」
「緋咲さんの保険証のコピーもあるんで……デージョブっすよ……?」
「っ……うすきみわりーことすんじゃねえ……!!!オレの個人情報おさえてんのか、てめー…………」
「こ、個人情報も何も…………と、特隊っつーのぁ、いや、ウチ以外だと親衛隊のヤツがやるんでしょーけど……頭についてんやつぁ、どこもこんくれー準備してると思いますよ?」
オレだけじゃねえッスよ!

両手を顔の前にあげて、緋咲の剣幕を懸命になだめながら、土屋が言い訳をつづける。
そのとき、土屋のあげた言葉。土屋に与えた役割。
緋咲が、それに反応をしてみせる。

「さっき、元特隊っつったな?」
「へ?……あ、ああ、そのロードスペクターの初代っすか、はい」
「へー…あいつもそーなんか……?」
「は?ヒザキさんまさか」

緋咲が、妙に敏いくせに、さとったことを解決する能力はまだまだである土屋をぎろりとにらんだ。
そのにらみには、好戦的な色が濃厚である。
すくみあがった土屋のボトムからのぞく財布をとりあげ、中をあさりはじめた。
あっけにとられた土屋は、緋咲のきまぐれな手元を、大人しく見守るほかない。
みつけだしたコピーは、たしかに緋咲のものだ。
あの背の高い男の財布にも、こんなものはおさまっていたのか。
保険証を持ちあるく律儀な男。緋咲のことをフラットにとらえ、生真面目に語り合ったその男の、妙に世話めいた語り口は、けしてわるいものではなかった。
いつか、あの男と己がカチあうとき、これはきっと必要ない。

ヒザキ カオルと書かれた保険証のコピーをぐしゃりとにぎりつぶした緋咲は、ニタリとわらって、土屋のポケットに、財布を乱暴につっこんだ。