ものかきさんに100のお題。


▼ 99.秘密

葉山。
国道207号線を走る。
防砂林や海沿いのマンションのむこうがわに広がるのは、森戸海水浴場だ。
相模湾のむこうには入道雲がそびえ、海辺は海水浴客でにぎわっている。
八尋の腕を、直射日光がじりじりとやきあげる。そのきびしい日差しをものともせず、蒼い砲弾のようなスピードで、八尋のあやつる蒼紺のフォアが、脈々と受け継がれる古い町並みを駆け抜けてゆく。

森戸神社の手前で左折して、数分ほど直進すると、鬱蒼とした緑に覆われた豪奢な和風建築の家にあたる。豊かな庭の大木にしがみつく蝉が、大声で鳴き続けている。
しずかに閉ざされた引き戸の前に、八尋は、蒼紺のフォアをとめた。

チャイムをおすと、顔見知りの老婦人に、あっさりととおされる。玄関のそばでねむっていた賢い柴犬が、ねむたそうに瞳をあけて、しっぽをふりあげて八尋にあいさつをした。しゃがみこみ、柴犬を二度なであげる。

あの子は一昨日の夜から体調をくずし、部屋でずっと休んでいるとつたえられた。

静かな日本家屋。古い階段を、八尋はゆっくりとのぼってゆく。ギシギシときしむ階段。なるべく足音をたてずに、ゆっくりと。あの子を、おびえさせないように。

一階の古い趣とうってかわり、二階は洋風にしつらえられていて。すこしだけ開いているドアを押してみると、そこにはさっぱりと片づいた洋間が広がっている。

「あすか」

カーテンがあけはなたれている、真っ白な部屋。
大きな窓から、まぶしくきらめく相模湾が見渡せる。

真っ白な自然光のなか。
部屋のなかが、澄んだ光で染めあげられているようだ。

そして、この部屋でもっとも白いもの。

キングサイズのベッドのうえに、時間がとまったように眠っている少女。

寝息ひとつたてずに、あすかが、しずかに眠っている。

八尋が呼んだ名前に、あすかが反応することはない。

夏のはじまりの時節にしては分厚い毛布に、その華奢な体はおおわれている。白い調度品でそろえられた清潔な部屋には、ゆるやかな冷房がきいている。さえぎるもののない直射日光の下を、ノーヘルで走り続けた八尋。汗と潮風でややべたついた体を、すみわたった冷気が覆った。

大きなベッドの端に八尋が腰をおろすと、スプリングがギシっとしずんだ。八尋の体のおもみによる変化に、あすかが気づくことはない。

厚めの毛布をひらりとひるがえしてみると、あすかのほっそりとした体がのぞく。ノースリーブの、真っ白なワンピースを着ているようだ。やわらかそうな素材におおわれた細い体を、八尋はふたたび毛布で守った。

毛布のさきから、きゃしゃなつまさきがのぞいている。

ちいさな猫が体を投げ出してねむるように、あすかは横をむいていて、毛布をはさんでいる二の腕には、正方形のシールのようなものが貼られている。
いつだったか。このシールをはっておけば、喘息の発作が比較的おさえられると話していた。

枕のうえに、大輪の花のように広がった、ゆたかな黒髪。八尋は、それをひとふさとったあと、そっとなでるように辿った。

血が通っていないのではないかとおもえるほど、その肌は、青白い。
息をとめたように眠り続けるあすかのぬれた口元に耳を近づけてみると、たしかに呼吸をしている。

穏やかな顔で瞳をとじ、細い肩がゆっくりと上下する。
八尋は、この濡れたくちびるに、一度もふれたことがない。

毛布の上から、あすかのなだらかな体を、耐えきれずに、撫でようとしたとき。

「ん・・・・・・」

ほっそりした体が身じろぎしたあと、長いまつげに縁取られたまぶたが、ふるえた。そして、大きな瞳が、おそるおそるひらく。

手をとめた八尋が、ベッドにこしかけたまま、あすかの青白い顔を、おだやかにのぞきこんだ。

「わりぃ、起こしたか」
「・・・・・・八尋、先輩……?」
あ、おばあちゃんが、とおしてくれたんですか・・・・・・。

長い黒髪をかきあげて、あすかは、もうろうとする意識をこらえながら起きあがろうとした。

「寝てろよ?」
「……ん……、・・・・・・大丈夫です」

あすかは、けだるい声を、喉の奥から滑り出させる。八尋の慈愛のにじむ落ち着いた声が、起き上がろうとするあすかを制止するものの。
両手をついて、華奢な体をゆっくりと起こしたあすかは、毛布をベッドのかたすみによけて、丁寧にたたんだ。
そして、どこかせつなそうな、どこかせっぱつまった、それでいて、ほっとしたような笑顔で、八尋に向き直った。

「先輩、こんにちは・・・・・・」
「熱はよ?」
「もう、そんなに・・・・・・」

八尋の、温度の低い手が、あすかの賢そうな額にそえられた。長い前髪は左右にわけられて、黒髪のロングヘアとなっている。あすかのむきだしの白い額に、大きな手があてられて。その冷たさにさそわれるように、あすかがおだやかに目を閉じる。エアコンの冷風が、あすかの髪の毛をすこしだけもてあそんだ。閉ざされた窓からも、蝉の声がなだれこんでくる。

「まだ、熱いぜ?今日も休んでろよ」
「はい・・・・・・」

微熱は、いまだあすかの体に残っているようだ。ふかふかのベッドの上にぺたりとすわりこみ、間近にすわる八尋をみあげておとなしくうなずいたあすかの姿を見やった八尋の、つめたいまでにととのった顔が、穏やかに綻んだ。

「喘息は?」
「ずいぶん、よくなりました」
「そーかよ、ここに越してきて、よかったな」
「・・・・・・少し、元気になりました。」
「着とけよ」

ベッドのすぐそばにあるあすかの勉強机。イスにかけられていたシルクのカーディガンを、八尋がとりあげた。

「あっ、ありがとうございます」

八尋に手渡されたそれに、あすかはおとなしく袖をとおしながら。

「ガッコは行けてんかよ」
「七月は、二回休んだだけで」
やっと、夏休みになりました・・・・・・

あすかは、すこしかすれた声で、八尋の問いかけにこたえる。白亜の壁にかけられている清楚なセーラー服をちらりとみたあと、目をふせた。

「がんばったな」
「ぜんぜん、だめなんですけど・・・・・・」
「がんばってんな、あすかは」

八尋にそういわれるだけで、泣いてしまいそうになる。
でも、ここで泣いてしまうと、今までと同じだ。
少しは成長したところを、八尋にみせたくて。
うるむ目はそのままに、あすかは八尋を気遣った。

「八尋先輩は・・・・・・。お元気でしたか?」
「ああ」
「お外、暑かったでしょ。あ、あの、最近は、ケガとか・・・・・・なさってませんか?」
「心配いらねーよ」
毎日退屈なもんだ。

ベッドからたちあがり、八尋は、あすかの広々とした部屋のなかをながめまわしたあと、本棚にささっている本を、きまぐれにひとつひとつ、ぬいてゆく。ページをぱらぱらとくったあと、きれいに元に戻してゆく。

「あ、あの、ご、ごめんなさい、わたしこんな格好で」
八尋先輩、今日もおきれいな格好なのに。

あまりにリラックスをした、己の格好を恥じるあすか。昼下がりだというのに、だらしなく眠っていたし、寝汗もかすかにかいている。
ちいさくなってしまったあすかの姿を、しずかに据わった瞳で、八尋は遠慮なく物色した。
あすかのほっそりとした体をつつむ、コットンのワンピース。よくみると真っ白ではなく、オフホワイト。裾にはレースがぬいつけられている。

「男にキレーって、あすかよ・・・・・・」
「ごめんなさい、でも、いつも清潔にされてるから」
「あすかのが、よっぽどキレエだぜ」

八尋の、精悍な背中。素材のいいTシャツごしの背筋が動くたび、エクステが遊ぶように動く。

「ガッコ、楽しいか」

清潔で清楚な部屋のなかをうろついたあと、八尋は、あすかの勉強机のイスに腰をおろし、机上におかれた問題集を眺めながら、ぽつりとたずねた。

「お友達、何人かいて……」
「中途半端な時期の転校でよ、あれから大変だったろ?よくがんばったな」
「・・・・・・優しい友達のおかげで、でも、わたしはぜんぜん・・・・・・」
あっ、何かもってきます。

か細い声でそうささやいて、ベッドから降りようとするあすかを、静かな瞳はそのままに、ととのった口元にだけソフトな笑みをうかべて、八尋は優しくあすかを制止した。

あすかの前では、八尋はたばこも吸わない。

「なんかあったらよ、すぐオレに言え」

あすかが力なくうなずくと、さらりとした黒髪があすかの頬にたれた。

「携帯の番号、教えただろ。どうしてかけてこねーんだ?」
「八尋先輩、忙しいかも、しれないから」
「オレだって、勝手にこうして来てんだろ。気にすんじゃねーよ」
「ありがとう、ございます。何から、何まで」
「あすかが、がんばってるからよ」

体も、こころも、当たり前のことを当たり前にこなすだけで精一杯の毎日で。
分不相応なやさしいことばをかけられてしまうと、どうしようもない。
うつむいたあすかのそばに、八尋がすわりなおした。
ギシリとしずんだベッド。
あすかのからだに、八尋はふれない。
そのかわり、あすかの間近に寄った八尋が、うつむいて涙をためたあすかの清楚な顔をのぞきこむ。

「八尋先輩」
「あすか、ちゃんと休めよ」

八尋のかわいたくちびるが、あすかの額を、かすめる。
白く聡明な額に、八尋が、ふれるだけのキスをおくった。

すこしひらいてしまった、あすかの潤んだくちびる。
八尋は、そこを、一度もおかしたことがないのだ。

あすかの髪の毛を撫でることもせずに。
八尋はそのままベッドからたちあがった。

「帰られるんです、ね……」
「あすか、具合よくねーだろ」
「……そうですね、うつるかもしれない……」
「おれぁ、んなヤワじゃねーよ?」

八尋のことを、階下までおくるために。
あすかのほっそりとした裸足。まっしろの足が、フローリングにぺたりとおりた。

とたん、あすかの頼りないからだがふらつく。

少し狼狽した八尋が、あすかの細い腰をとった。
あまりに痩せた背中を、八尋の精悍な腕がささえて。

そのまま、分厚い胸板に、華奢な体を抱き寄せる。

「おまえに、指一本ふれねーっつったよな、オレぁよ」
「・・・・・・まだ、中3のとき・・・・・・」
「指一本、ふれずに守りてーのによ」
「八尋先輩」
「またさわっちまったな」
「わたしが、足手まといで・・・・・・」
「大丈夫か」

あすかの心の平穏と、あすかの体の平静を問いかける言葉とはうらはらに。
八尋のたくましい腕には、あすかの真っ白な姿を目にいれてから、耐え続けていた欲が、みなぎりはじめた。八尋の体におしつけられた、あすかのやわらかな胸。あすかの清潔なかおり。みるみるうちに、八尋の腕に、逞しい力がこめられ、あすかのことを離すことができない。

「八尋先輩だけ・・・・・・」
「無理するな、発作ぁ、おきねーか」
「大丈夫、です・・・・・・」

ぎこちない体勢で、八尋に、あすかはただ抱かれたままでいる。肩がひきつり、腕のおきどころが所在なくて。
八尋の力強い腕に、ただ、包まれたまま。
その分厚い胸板に、ほっそりとしたからだをあずけている。

かつて、ふたつ年上の八尋と同じ中学に通っていたころ。あのころのあすかは、今よりすこしだけ明るかった。おとなしく、内向的な性格は変わらないけれど、あすかは、今より、うつむくことなく生きていた。
整った容姿にくわえ、成績もよく、スポーツの才能にもすぐれ、慕うものも友人も多く、美しい女子生徒をつねに周囲にしたがえ、カリスマ性にあふれていた八尋が、おとなしいあすかのことをかまっていたのは、裕福な八尋の実家が、千冬の近所である材木座のはずれから、茅ケ崎に引っ越してきたとき。あれは、八尋が中学校に進学するまえのことであった。豪勢な新築の八尋の新居から、住宅街の通りをふたつ隔てた、徒歩数分の家。そこが、あすかの家であったからである。幼馴染でも、ごく親密な後輩でもないけれど。越してきた町の近所に暮す、おとなしく礼儀正しいあすかに、八尋は好感をもち、ときおり挨拶や会話をかわしていた。

八尋とあすかが学校生活をともにしたのは、一年生と三年生のあいだだけであった。恋人ではなかったけれど、八尋は、体が弱くたよりなく、その儚い容姿と純朴で擦れない性根から、ときに目立つあすかを、ずっと気にかけつづけていた。八尋にまとわりつく女はいくらもいて。そのうちの一人にすぎないと周囲に思わせるには、八尋のまわりにいる女のなかで、あすかの初な存在感は、ひどく目立ちすぎていた。
いつかこういうことが起きるかもしれないという危惧は、そばであすかをかまいつづける時間により、いつしかすりへってしまっていた。その隙をうまく突いた族があったのだ。中学三年の、ちょうどこの季節。蒸し暑いころ。あすかは、少し遅くなった、塾の帰りに、八尋を疎んじる族に、突如連れ去られた。幾台もの単車に囲まれ、脅され、むりやり車に連れこまれ、拉致された。平塚の古びた倉庫へさらわれた。言葉と視線で嬲られ、誰にも触られたことのない体も弄られた。口を塞がれ、ガムテープで縛られ、集団で、体を嬲られそうになったあすかの、猿轡の奥から聞こえたくぐもった悲鳴が、今も八尋の耳にやきついている。強姦はされずにすんだ。すんでのところで八尋と千冬が助けだしたからだ。あっという間に八尋が片付け、致命的な被害こそまぬがれたものの、おとなしい少女を更に黙らせるための暴力を受け、男たちの不潔な手や視線に蹂躙され、体も、心も、あすかはいたく傷つき。もともと、弱かったあすかの体。あれ以来、とみに喘息がひどくなり、母方の祖母を頼って、あすかは、茅ヶ崎の海辺から、空気のきれいな葉山にうつりすんだ。

男子生徒がいる空間には耐えられなくて、夏休みが終わってすぐに、あすかは、公立中学から鎌倉駅の近くの古い中高一貫の女子校に転校した。中途編入はずいぶんめずらしい学校だけれど、あすかの学力と母方の家柄が、それをゆるした。
しずかな海の町と、厳しい規律と厳しい教師に守られた学校に身をおき、あすかは、ひとまず、穏やかな暮らしを得た。

今も、このしずかな町に、八尋はときおり訪れる。
そして、あすかを、守り続ける。父親は、とみに八尋を引き離したがった。それはいたって当たり前のことだと八尋は思っている。
だけれど、あすかが、心の底で頼り続けている八尋を、祖母はけして拒むことなく招き入れ、母親もそれを理解している。

湘南のいたるところにはびこる族のネットワーク。それが、この町まで及んでいないことを、悲しいほど大きな立場にある八尋は、知りすぎるほど知っている。
八尋のまわりには、違う女もいる。八尋のそばに、あすかという少女がいたこと、あすかが襲われたことを、今も覚えつづけ、その事件による痛みを八尋と共有しつづける者は、八尋とあすか以外には、千冬だけだ。
海辺の静かな町での、こうした逢瀬は、八尋とあすかの、秘密の時間なのだ。

「ごめんなさい、八尋先輩」

折れてしまいそうな細い腕で、八尋の広い胸板をそっと押し返した。質の良い衣服の下の傷跡。
あすかはあのとき、一度だけ、見たことがある。

「これじゃ、私・・・・・・」

八尋が大切にするものが、自分だけではないことくらい、わかっている。
そして、八尋の腕のなかにいられる女性が、自分だけでは、ないことも。
ずっと八尋に甘え続けて、守られ続け、頼り続けることなんて、できない。
少しずつ立ち上がっていかなければならないのに。

あすかは、渾身のちからで、八尋からはなれた。

「先輩に、こんなこと、させちゃ、いけない・・・・・・」

ほんの少しだけ血走っていて、いつも緊張感をたたえている八尋の瞳。それは、あすかのまえで、やわらかくなる。

立ちくらみをおこしかけたあすかの背中をささえたあと、そのほっそりとした膝に、思い切り手をさしいれて。

八尋は、あすかのことを、お姫様のように抱き上げた。

目に見えて狼狽するあすかのことを、八尋の端正な顔がすこしやわらかくくずれたあと、穏やかに眺める。

きゃっ、と、短い悲鳴をあげたあすかの、あまりにも軽量なからだを、八尋は、大きなベッドに、そっとよこたえた。

「なまえで呼べっつっただろ」
「・・・・・・渉、先輩・・・・・・」

たたまれていた毛布をとりあげて、八尋は、あすかのほっそりした体の上に、そっとかぶせた。

「言っただろ?あすかはオレが守るってよ」

数千もの人間をしたがえて、
幾人もの女に愛され、
両の手をこえるほどの女を抱き。

八尋がふれることをためらう女は、あすかだけだ。

「よく休んでろ」
「渉先輩・・・・・・」
「おまえが夏休みの間、またきてやるよ?」
「ありがとう、ございます・・・・・・」
「夏のあいだは、ここもちっと騒がしいな」
「あ、でも、海水浴場だけで、ここはしずかです」

寝かされたあすかの額に、もういちど、かるいキスをおくって。
八尋は片手をあげて、階段をおりてゆく。

あすかは、めまいをこらえて起き上がり、ひざをついて、ベッドのそばの大きな窓をあけた。
庭の大木にしがみついてなきつづける蝉の声がとびこんでくる。

開いた窓から、冷気がするりと逃げてゆくかわりに、鈍い熱風があすかのほっそりとした顔にぶつかり、ねっとりとまとわりつきはじめる。

雨上がりの夏空は、くっきりと濃くて、防砂林の緑も普段より生命力に満ちて見える。
そして、林の向こうに、果てしなくきらめく、コバルトブルーの宝石のような相模湾。

蝉の声。

あの人がいるから、あすかは今ここにいる。
あの人がいなければ、あすかは今ここにいなかった。


あすかをかすめる潮風。
海の近くの、あすかの祖母の家。
そこにずっとバイクをおいておくと、あっという間にさびてしまう。
でも、それもわかっているのだろう。
こうして時折会いに来て、すぐに去ってしまう。

力任せにおられてしまったナンバープレート。
この空、あの海よりも蒼いタンク。

「渉せんぱい!」

身を乗り出して、あすかは、窓辺から、力一杯さけんだ。
あすかの精一杯の大声のつもりだけれど、それは、力に欠けていて、夏の大気に、悲しくすいこまれていく。

バイクにまたがった八尋が窓辺をみあげた。

肩胛骨を隠すほど長くのばされたあすかのしっとりとした黒髪が、窓辺から潮風になびいている。

「すき、です」

あすかが、かすかにつぶやいたことば。
あすかの頬を、しずかにつたった涙。
八尋は、すべてをしずかにさとった。

すべて、ふたりだけの秘密。

その、おそろしいほど整ったしずかな顔を、少し破顔させて、特徴的な音とともに、あすかの愛しいひとは、静かな町から、消え去った。

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