(無窮花ネタバレ)



外では粉雪が舞ってきた。


雪が降ると一層強く思い出す。


スソンを喪くしたあの日を―――。



槙島のダンナは留守だ。


後からヒロインが帰ってきて、二人きり。


「グソンさん!雪が降ってきたよ、寒いねー」なんて言いながら、無邪気に部屋に入ってきたから。


「では温かい紅茶でも淹れましょうかね」と立ち上がりキッチンへ向かった。


ヒロインは脱いだコートをハンガーに掛けながら、ふんわりと笑い「ありがとう」と言った。


今日はどの紅茶を淹れてやろうか考えながら、茶葉の入った瓶を眺める。


するとヒロインが隣までやって来て、ふいに俺をじっと見つめた。


「ねぇ、グソンさん」

「はい、なんでしょう、ヒロインさん」

「聖護くんはグソンさんの淹れた紅茶が好きだよね」

「さあ…どうなんでしょうねぇ、苦言を呈されたことはありませんが」

「だよね、きっとそれは好きなんだと思う」


まぁ…あのひとは興味が失せれば始末をするから。


例え紅茶一つに限っても、あながち間違いではないのかも知れない。


ヒロインは嬉々とした表情を俺に向けたまま言葉を続けた。


「それでね、グソンさん!私も聖護くんに美味しい紅茶を淹れたいの」

「フ、すっかりダンナに夢中ですねぇ」

「んー…ふふ、それは恋って意味でだよね?…どうなんだろう、そう考えるとまだよく分からないけど」


端から見ればこの女も日に日にダンナの魅力にのめり込んでいっている印象を持つ。


だがまだそれを恋心だと自身で認める範囲には達していないようで。


ヒロインはただ僅かに恥じらいを見せた。


「もしかして…グソンさんから見たら、そう見える?私が聖護くんに恋しちゃって夢中…」

「はい、とても」

「わーそうなんだ…!なんか恥ずかしい」

「俺に対して照れる必要はありませんよ」

「くすくす、まあそうなんだけどさ、」


軽やかに転がる笑う声。


不思議と不快ではなかった。


それはおそらくこの女からへつらうようなものを一切感じないからだろう。



―――もしもスソンが健やかに成長を遂げることができたなら。


こんなふうに恋の相談に乗ってやる日も来たのだろうか。


むしろ俺はそんな日を夢見ていた。


ヒロインとのおおよその年齢差や、外の天気も相俟って、不覚にもそんなことを考えちまった。


「…グソンさん?」

「ああ…はい、」


若干遠退いた意識。


ヒロインの真ん丸な瞳に下から捕らえられ、そのまま過去に連れ戻されることはなかった。


「今日はどの紅茶にしましょうかねぇ」

「グソンさんの今日のオススメは?」

「では、アールグレイにしましょうか」


瓶を手にして微笑めば、ヒロインも嬉しそうに首を縦に振った。


まずはケトルで軟水を沸かす。


ヒロインは陶磁器製のポットとカップのセット、それからティースプーンを出してきた。


二人分。


言うまでもなくヒロインと俺の分だろう。


当然のように用意されるそれが妙にいじらしく思えた。


「では先にポットとカップを温めます」

「はーい」


沸いた湯を浸し、少しでも長く適温を閉じ込められるよう調整する。


その間に瓶の蓋を開け、ヒロインの鼻先に近付けてやれば「いい香り」と満面の笑みが返ってきた。


「でも、まだまだ、これから、」

「ふふ、そうなんだよね」

「ではヒロインさん、茶葉を入れてみますか」

「うん!」

「二人分なのでティースプーンで二杯を目安にしてくださいね」


温めたポットにヒロインが慎重に茶葉を二杯入れた。


それから沸騰した湯を注げば、茶葉は気品高い香りを放ちながらポットの中を踊った。


「うん、やっぱりいい香り」

「この香りは合成では味わえませんからねぇ…」

「聖護くんがこだわるのもよく分かるね」


ダンナの名を口にするヒロインは、やはり特別な感情を伴っているように見えて。


何の変哲もない女のように見えるが、あのひとの中でも存在を確立しているようだし。


この二人が今後もどんな関係を築いていくのか、時々こうして関わりながらも傍観するのは悪くないと思っている。


「ではこのまま少し蒸らしますので」

「どれくらい?」

「茶葉の細かさにもよりますが…だいたい三分くらいですかね」

「了解です」


説明することも一旦なくなり、仕上がりに向けて待つ間に、ほんの数秒沈黙が流れた。


するとヒロインが改めて俺を見上げて。


「グソンさんって、妹さんがいたりするの?」


唐突な問い。不意打ちをされ。


「…ダンナから聞いたんで……?」


思わず馬鹿げたことを返しちまった。


「うん?ちがうよ、聖護くんは他人に他人のことを話したりするひとじゃないでしょ」

「そう、ですよね…これは失言を……」


そうだ。その通りだ。


いくらヒロインを此処へ置いているからと言って、ダンナがヒロインにわざわざ俺のことを話すわけがない。


そもそもヒロインの聞き方から、いると断定しているわけでもないことが伺えるのに。


なに動揺しちまってんだ。


だがこんな時でも、ヒロインがダンナから見て自分を他人、俺のことも他人と捉えたことを心地好く感じ。


この女の、ひととの距離の取り方は嫌いではなかった。



「ただね、私兄弟いないんだけど、お兄ちゃんがいたらグソンさんみたいなんだろうなぁとか思ったり、一緒にいるとほっとするし、」

「……」


ただし、スソンのことを他人に話す気にはなれない。


簡単に口にしてほしくもなく。


故にいつものような笑みを浮かべる余裕はなくなった。



何年か前に、スソンの命日にも雪が舞ったことがある。


どうしようもない気持ちに見舞われ、興味もないのに女を侍らせ、酒を煽った。


そして酔いが回り混沌とする意識の中、うっかり妹の名を口にしちまった。


すると女共は「スソン?彼女さんですか?」等と興味を示しやがったから。


それ以上口にする気はない俺は、それだけ否定をして、また酒を流し込んだ。


だが女共の興味は冷めず。


「じゃあスソンさんって、妹さん?」

「グソンさんから女の子の名前が出るなんて珍しいから気になっちゃう、スソンさんはどんなひとなの?」


浴びせられる問い。


媚を売るために会話を途切れされる訳にはいかない女の無遠慮な甘ったるい声が耳にへばりついた。


軽々しく呼びやがって。


反吐が出る。


殺してやりたくなった。



まさか、この女もそんな悪夢を再演するのだろうか。


ヒロインに対して俺は今まで笑顔を途切れさせたことはない。


だからきっと俺の雰囲気が変わったことにも気付くだろう。


俺の表情を見て、ヒロインの顔からも笑みが消えた。


だが、ヒロインは澄んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめ。


言葉を発することはなく、片腕を伸ばした。


そうして何をするのかと思えば、背伸びをして。



俺の頭を撫でた。



「え…」

「ふふ、じゃあグソンさん、もう三分経ったかな」

「ああ……はい、……では先にスプーンで一混ぜ…」


あまりに予想外な出来事に拍子抜けした。


既にヒロインは柔らかな表情を取り戻し、俺に微笑み掛けた。


「そうしたら茶漉し?」

「…はい、そうです」


俺が思う以上にヒロインは、察しが良く、他人の領域を守れる女ということを思い知った。


だからきっとあのひとも愛想を尽かさない。


あのひとは疾うに、本質的にそのことにも気付いているはずで。


本当に敵わねェなぁ…槙島のダンナには。



「注ぎ方、むずかしい?」

「あー…どうでしょう、では今日は俺がやるんで見ててください」

「わかった」

「そうしたら次回はヒロインさんの番です、俺が見てますんで」

「うん、約束だよ、グソンさん」

「はい、約束、ですね」


濃さが均一になるように軽く回しながら注ぐ。


カップを満たす紅茶のあたたかな空気と香りに包まれる。


「綺麗な色、ね、グソンさん」

「そうですねぇ…ではいただきましょう」


二人分のソーサーに乗ったカップを俺がテーブルまで運び向き合ってソファに腰掛けた。


もう何事もなかったかのような空間。


ヒロインはそうっと息を吹き掛けつつ、カップを口に運んでいる。


悪気のないヒロインの問いに笑顔を絶やしちまったことが、今になって罪悪感として芽生え始めて。


「…聞かないんですか…?」

「うん?」

「――……スソン、のこと、」


あえて口にしてみた名。


するとヒロインは一瞬目を丸くさせはしたが。


「私はただね、グソンさんのこと、お兄ちゃんみたいに好きだよって伝えたかっただけだから、」

「そうですか…、それは光栄です」

「光栄と思ってもらえて私も光栄です」


花のように咲く笑顔。


ありもしないのに、鼻腔は無窮花の香りを追憶した。



「あーなんかお腹減ってきた、聖護くんももうすぐ帰ってくるかな」

「帰ってくると思いますよ、これを飲んだら夕飯の仕度もしましょうか」

「うん!一緒にさせてください」

「もちろんです」


それから夕飯の仕度も、ヒロインに教えつつこなし。


出来上がった料理をテーブルに並べ終えた頃に、ダンナも帰ってきた。



「今日はヒロインと二人で何をしていたんだい」


ダンナの座るソファの後ろで、ダンナのコートをハンガーへ掛けていたヒロインが必死で唇の前に人差し指を立てた。


ダンナの為に美味しい紅茶を淹れる練習をしたことは内緒ということだろう。


「フ…いや、特に何も」

「そう」

「ああ…でもヒロインさんは俺を兄のように慕ってくれているそうです」


言えば光を吸収する金色の眼が俺を見据えた。


そして俺の表情から、悪くは思っていないことを悟ったのだろう。


「まぁ…それで君の心に良い影響があるのなら結構なことだよ」


ゆったりと目を細め、流麗に口角を上げた。


「それからあとは…今日はヒロインさんに頭を撫でてもらいました」


しかしこれも伝えればダンナの眉間は軽く寄り。


「……僕の理解には及ばないけどね」


と、付け加え、僅かにむくれた。


まるで子供が気に入っている玩具を横取りされたような態度だ。



「…案外夢中なんですかねぇ……」

「どういう意味かな」

「フフ、いえ、ヒロインさんが…」

「…!グソンさん!だからまだ分からないって…!!」

「ああ、ヒロインの話か」

「え、なんで聖護くん、今納得したの?なんで」

「さあ、どうしてかな」


こんなダンナを見て少しばかり楽しんだとしても罰は当たらないだろう。



降り積もる雪の見えない地下室で。




ノスタルジアの融雪


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