2月22日、朝。


「仕事の後チェ・グソンと外で会う用があるから、夕飯には間に合わないと思う」と言って席を立った聖護くん。


素直に頷いて「いってらっしゃい、気をつけてね」と言えば、和やかに笑んで髪を撫でてくれた。


「行ってくるよ」と背を向ける愛しい姿をお見送り。


でもあと少ししたら私も出掛けなければならないから、のんびりもしていられない。


一人になったダイニングで朝食の片付けを始めるついでに、見えやすい位置に朝の情報番組を投影した。


手元は忙しなく動かしながらも、にっこりと笑う女性アナウンサーが告げた日付けと曜日が耳に流れ込んだ。


同時に脳裏に浮かんだのは、少し前に近所の繁華街でバレンタインを教えてもらった時に共に得た知識。


情報番組は後程猫型ドローンの特集をすることを伝え、昨夜起きた交通トラブルの報道へと移り変わっていった。


猫型ドローンについてが偶然か意図的か知る由もないけれど、旧時代の日本では猫の日と呼ばれていたらしい今日。


だけどそんな特集まで見ている時間はなく。


食洗機に食器を並べ終えスタートボタンを押し、投影していた画面を消した。


そうして今一度身だしなみを整え、コートを羽織り私も出勤をした。


いつもと似たような朝。


いつもと違うのは、猫の日という単語が頭の片隅で好奇心を広げていること。


猫と暮らせる幸せに感謝し猫と共に喜びを噛み締める記念日、とも聞いた。


猫は好きだけど、猫と暮らしている訳ではない。


でも、聖護くんが時々、私のことを“気儘な猫”だって比喩するから。


猫のフリして聖護くんの帰宅を待っていたらどんな反応を貰えるのかな、なんて。


猫の日に乗じてちょっとした好奇心。


だから仕事の休憩中もこっそり、猫を模したホロコスチュームを検索してみた。


着ぐるみからランジェリーのようなものまで様々な形があったけれど、中でもしっぽの付いたワンピースが可愛いと思った。


だけど結局購入には至れなかった。


友人とパーティーなどという名目で纏って楽しむ分にはそれで良かったのかもしれない。


でも今日の目的は聖護くんだけ。


ならば実際に触れたときの心地にも気を配りたかった。


邪な考えでしかないのかも知れないけど。


今日もまたあの綺麗な所作で奔放に扱われたい。


そんなことを密かに想い悩みつつ業務をこなせば、あっという間に退勤時間。


聖護くんが帰ってくるまで悩む猶予はあるし、廃棄区画内のショップも見て行くことにした。


廃棄区画の方が旧時代の記念日が生きている可能性が高いし、何よりホロではないものが手にも入る。


それでもし気に入ったものが見付からなければ残念だけど今年は諦めて来年の楽しみに取っておこう、などと考えながらアパレルショップが多く並ぶ通りへ向かった。


すると今までに入ったことのないショップのショーウィンドウのマネキンが猫耳を付けコスプレのような格好をしていて。


しかもそのうちの一つが、検索をしたときにかわいいと思ったワンピースのホロに似ていた。


迷わず店内に入れば、クラブミュージックに歓迎される。


明るい髪色でくるんとカールしたボリュームのある睫毛が印象的な女性が「いらっしゃいませー」と声を掛けてくれた。


一体のマネキンを指さし気になったことを告げると「これ可愛いですよねー」と言いつつ、マネキンからワンピースを脱がせ猫耳と一緒に渡してくれた。


ふんわりとしたミニのワンピース。


背面も確認してみれば毛並みの良さそうなしっぽが付いていた。


「耳もしっぽもふわふわ…」

「ふわふわ感癖になっちゃいますよねー、おねーさん今日が猫の日って知ってて気になってくれた感じですか?」

「そうなんです」

「まじかーこっちも猫の日意識してそこ飾ったから気付いてもらえて嬉しい」


やっぱりここだと猫の日が通じる。


明るい店員さんに親近感も相俟って、自然と笑みが零れた。


しかもこのワンピースは一点物らしく、ホロならば絶対になかった出会いだろう。


さっきまであれこれ悩んでいたのが嘘みたいに、すんなりと購入を決めることができた。


「おねーさんこれ絶対似合うからね」

「ほんとですか?着るの楽しみだな」

「あー今のはにかんだ笑顔めっちゃ可愛かった!もしかしてこれカレシの為とか?」

「ぁ…そんな感じなんですけど……改めてそう思うとなんか恥ずかしい」

「えー全然!全然アリですよー!」


会計を済ませながらも会話は弾んでいた。


几帳面に畳まれたワンピースがショッパーに入れられたことを眺め、受け取ったら今日はもうまっすぐ帰ろうと思う。


でもショッパーはまだ手渡されずに、店員さんは不意に自分の顔の横で両手を軽く握った。


「おねーさんがこれ着て“ニャンニャンしよ?”とか言えばカレシ寝る暇ないからね」

「ふふ、ニャンニャン?」


そうして小首を傾げ、 何かと思えば台詞らしきものまで伝授してくれて。


「そりゃあもうエロいことしまくっちゃうでしょ」

「あはは、ニャンニャンしよ?で?」


軽い空気の中、私も同じように猫のポーズをしてみせた。


本当にこれで聖護くんがそんな風になるかは謎だけど。


店員さんは変わらずのテンションで「はい、かわいー、間違いなくニャンニャンしちゃいますねー」なんて褒めてくれた。


そのまま入り口までショッパーを持ちお見送りしてくれた店員さんにお礼を伝え、ワンピースを大切に持ち家へ帰った。


夕飯を食べ終えた頃、用が済んだらしい聖護くんからも“22時には帰れそうだよ”と連絡があったから、その前にシャワーも済ませた。


パジャマではなく猫のしっぽ付きワンピースに袖を通す。


リビングへ行き、投影した鏡の前で猫耳も付け自身の姿を確認する。


サイズもちょうどいいし、ワンピース自体もやっぱりすごくかわいい。


買ってよかった。


そう思う反面、まじまじと今の自分を見ていると、本当にこんな格好で待っていて聖護くんは引かないだろうかとか、少しずつ不安も膨らんできた。


せっかくお気に入りに出会えたのだから無駄にはしたくないけれど、例えばどんな風にお出迎えをすれば聖護くんに一番響くのかも纏まらない。


どうしよう。と、思わずフリルのスカートをぎゅっと握った瞬間。


こんな格好の私が答えに辿り着けるのなんか待ってくれるはずもない聖護くんが帰ってきた。


「ただいま、ヒロイン」

「に……にゃんにゃん」


咄嗟に、店員さんの前で唯一練習のようなものをした台詞の一部とポーズが出た。


聖護くんは一瞬目を開いて驚いたような顔をしたけど。


すぐにたおやかな面持ちで近付いてきて。


「今日も利口に留守番ができたようだね」


いつもと変わらず、長い指で頬を撫でてくれた。


心地好い感触に思わず擦り寄る。


「紅茶を淹れようと思うんだ、ヒロインの分も用意するから待っていて」


あたたかな視線で私を見下ろしたままの聖護くんは紅茶の提案までしてくれた。


ひとまずは引かれていないらしいことに安堵する。


でもこの格好に触れられることもなく。


拍子抜けして、聖護くんの言葉にはただ頷くことしかできなかった。


上機嫌に見える聖護くんはキッチンで紅茶の準備を始めたようだった。


だけど考えが纏まらなかったとはいえ、つい先程突発的に出た言葉とポーズを思い返すと、羞恥心にじわじわと支配される。


居ても立ってもいられず、もう一度きちんと聖護くんの様子を窺いたくなり、私もキッチンへ行く。


すると何故か、聖護くんはケトルで紅茶用のお湯を沸かしながらも、お鍋ではミルクを掻き混ぜ温めていた。


「……ミルク?」

「ヒロインの分だよ、冷えたものは心配だからね、あとは腹を下さなければいいんだが…」

「…?」

「何だか不安げに覗いているけど…大丈夫だよ、後で構ってもあげるから向こうで座っているといい」

「……?」


聖護くんは当然だと言わんばかりにミルクを温めているけど、ホットミルクに心当たりはなかった。


ミルクティーでも作るつもりなのだろうか。


それにしても、牛乳でお腹を下しやすい体質だなんて身に覚えがなければ、ミルクティーを飲みたいと言ったことも近い記憶にはない。


おまけにまたこの格好にも触れてもらえないし。


あの店員さんのように可愛いなんて言ってくれなくてもいいから、何かしら反応が欲しかったのも本音。


聖護くんなら無反応ってことはないだろうとも期待していた。


だけどそうじゃなかった。


今更この格好をどうしたらいいのかも分からず、とりあえず言われた通り待つことにした。


数分後、ティーカップとマグカップの乗ったトレイを持った聖護くんが戻ってきた。


「お待たせ」と言いながら聖護くんは隣に座った。


…そして私の前にはミルクティーですらなく、ホットミルクの入ったマグカップ。


作ってくれたのは嬉しいけど謎のホットミルクだし、その上お腹の心配をされるなんて誰かと勘違いをされている気もしてきてしまう。


スルーされた格好を改めて見られるのも恥ずかしいし、少しだけ拗ねたくもなり、聖護くんと距離を取るように居場所をずらした。


それでも気にはなるからチラリと見れば、聖護くんは私の態度に眉尻を下げこそすれ、穏やかなままで。


「自分からは構ってほしがる癖に、近付くと逃げてしまうんだね」なんて言いながら、これ以上距離を詰めることはせず紅茶に口を付けた。


「さあヒロインも召し上がれ、熱すぎても飲めないだろうと思って人肌にしてあるよ」

「………いただきます」


熱かったら飲めないなんて、また訳のわからないことが増えた。


でも聖護くんの作ってくれたホットミルクを飲まない選択肢もないから。


静かに手を合わせいただきますと言うと、そんな当たり前の行動には反応を示した聖護くん。


「そういえば…さっきも“ミルク”と言ったように聞こえたけど、今も“いただきます”と聞こえたよ、時々人間の言葉を話すように感じるのは本当だったんだね」

「……え?」


今のは今日一番理解し難い発言だった。


人間の言葉を話す?


聖護くんは今の私を一体何だと思ってるんだろう。


疑問で頭がいっぱいになりながらも、ホットミルクを飲みつつ帰ってきてからの聖護くんの発言を思い返していた。


「あ……、」


冷静に考える。


そうしたらなんと、答えはいとも簡単だった。


「ふ……ニャンニャン…?」


猫。


猫だった。


聖護くんは私の格好を見て瞬時に本物の猫扱いを始めてくれていたに違いなくて。


そう思えば全てに合点がいき、無反応な訳ではなかったと気付く。


それどころか最大の反応を貰えていた気もしてきて、自然と頬が緩んだ。


「可愛い声で鳴いてどうしたんだい?」


思い当たり小さく呟いてしまったけれど、聖護くんはそれも余さずに拾ってくれた。


その上、紅茶を飲みながら本を読み始めようとしてたみたいだけど、一度本を置いて。


腕を伸ばし、座っても形の崩れることのなかったしっぽへと、初めて触れた。


「おいで、ヒロイン」


それからあやすように柔らかな声で呼ばれる。


一人でややこしくなっていた気恥しさは拭えないけど、こうなればもう喜んで従うだけ。


ソファの端から隣まで戻り、あっという間に甘えたくなる。


見つめれば、今度は猫耳を撫でてくれた聖護くん。


「とても触り心地のいい毛並みだね、健康的な食事のおかげかな」


慈しむように触れられていることが分かる。


手触りに満足してもらえたことも嬉しい。


でも言わずもがな、本物の私の一部ではない。


こんなに大切に触れてもらってるのに。


ううん、大切に触れてもらってるからこそ、物足りなさが芽生えてきて。


甘やかな眼差しや繊細な手付きに見惚れていれば、もっともっと私自身に触れて欲しくなる。


でも人間の言葉は喋らない方がいいから、表情で伝えようとした。


「…なんだか不服そうだね」


聖護くんはすぐに変化にも気付いてくれた。


だけどどこまでも猫扱いで。


「あぁ……耳や尾に触れられるのは好まなかったかな、すまなかった」


謝罪を口にしながら一度は頬に触れてくれたけど、それ以上何かに進展することもなく。


再び本を手にして読書を始めてしまった。


きっといつもの意地悪ないたずらをされてる部分もある。


構ってって言ってじゃれつきたいのに。


言葉が使えないってこんなにももどかしい。


こっちを向いて欲しくて、そっと聖護くんの太腿に手を置いてみる。


でも本を持っていない方の手で顎の下を撫でられ宥められただけだった。


この程度の触れ合いでは振り向かせるには足りないらしい。


今度はソファの上で膝立ちをし、からだごと聖護くんへと向けた。


それから頬や耳に、軽い口付けを何度か落とした。


「くすぐったいよ、ヒロイン」


微かな笑い声を洩らしながら、聖護くんはこちらを見たから、視界に収まることはできた。


構って、と心から声を送る。


「……本当に可愛いね、ヒロインは、」


言いながら聖護くんの手が私の後頭部に回ってくる。


念が通じて、やっとキスをしてもらえると思い、瞳を閉じた。


でも期待していた唇ではなくて。


鼻に、唇とは違う感触が残り、離れていった。


どうやら鼻と鼻とが触れ合っただけみたい。


だけどそれだけで、聖護くんは満足気に読書に戻ってしまうし、私の欲しい触れ合いには近付けない。


あとはもう膝に入るくらいしか思い付かない。


だから最終手段として行動に移し、対面の形で聖護くんの膝に跨った。


首に腕も回し顔を埋めぎゅうっと抱き着く。


「ハ……」


耳許で、観念したかのように吐かれた溜め息は、やさしかった。


「読書どころではないな…」


聖護くんが本を閉じた気配を察知し、顔を上げる。


「さっきから……ヒロインは、一体どうしたいんだい」


目が合えば、全く棘のない口調で問われる。


どうしたいかと聞かれれば、もっといっぱい構ってほしいし触れてほしい。


そしてここであのショップの店員さんと練習をしたことを伝えるのが最適な気もして。


「――…聖護くん…にゃんにゃん、しよ…?」


人間の言葉が含まれることはこの際置いておいて、意を決して口にしてみた。


けれど聖護くん相手に言葉にすると、やっぱり照れくささが勝ってしまい、返答を待つ時間も長く感じ落ち着かなくかる。


それでも目を逸らすことだけはしたくなくて見つめていた。


すると聖護くんはゆったりと瞳を細め。


「……こんなにも強く不可抗力という言葉を体感するのは初めてだ…」と独り言のように呟いた。


それから私の本物の耳に聖護くんの唇が近付いてきて。


とびきり艶やかな声色で「ニャンニャンしようか、ヒロイン」と囁かれる。


驚くほどの色香に当てられ、とろけそうな心地すら覚える。


思わず「……いいの?」と聞き返してしまえば、「猫相手に欲情するなんて思いもよらなかったけどね」と触れるだけのキスをされた。


「単純に猫の君と過ごす時間も楽しませてもらったよ、だが君のせいで楽しいだけでは済まないようだ」

「ほんと?これ気に入ってくれた?」

「ああ…だからきっと、ヒロインが焦らされたと思う感情と同じくらい、」


僕は我慢をしたよ―――と、素肌に聖護くんの指が這い始める。


優しいだけじゃない触れ方から、さっきまでは本当に制御してくれていたんだろうと思えた。


このひとの手の平でなら、目一杯弄ばれたい。


猫のまま。


聖護くんの気が済むまで、存分に戯れた夜。




一晩中ニャンニャンした


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