廃棄区画。


新宿、歌舞伎町。


足を踏み入れたことのない界隈に落ち着きは失われた。



そもそも本当になんなんだろう…このひと。


私の名前を知っていた。


それはきっと彼が私の名を呼んでいるのを聞いていたからで。


興味がある、なんて言ってたけど…、あんな別れ話のシーンを見て?


その上公園まで付いてきたということで。


正直自暴自棄になって連れて行ってなんて言ってしまった部分もあるけれど。


「ヒロイン」

「っ!…はい、」


このひとについて分からないことが多すぎて。


一歩先を歩くまきしまさんを凝視してしまっていた。


するとふいにまきしまさんが振り向いて、目が合い心臓が軽く跳ねた。


まきしまさんは優しい微笑みを私に向けた。


やっぱり何を考えているのかさっぱり分からない。


「怖がることはないよ」

「でも…」

「ここにはね、セーフハウスがあるんだ」

「セーフハウス…?」

「別荘と言えば聞こえはいいかな」


だけど僅か数分で、このひとから目が離せなくなったのも事実。


白銀の綺麗な髪がなびく。


低く柔らかな声色は私の心を包むように響いて。


このひとだけ、この世界から切り取ったように見えた。


彼と生きてきた世界に、自らの手で幕引きをした。


独りで歩き出す。


何ら変わりのない風景も、別れを境に知らない世界になったように思えた。


心細くないと言ったら嘘になる。


そんな時に出逢ったこのひとはとても不思議な魅力を持っていた。



しばらく歩くとまきしまさんがセーフハウスと呼ぶ地下にある部屋に着いた。


まきしまさんは端末をかざしエントランスでロックの解除を始めた。


「ロック?」

「自分の身を守れるのは自分だけだからね」

「…じぶんの……」


私の脳内では、この間散歩で行った公園での出来事が思い出された。


たまたま居合わせたお年寄りとの会話。


一人でいると老若男女問わず話し掛けられることがままあって。


時間に余裕のある時は話し相手になることも多い。


そしてこの間は昔はどこの家庭でも防犯の為にロックを掛けておくのが当たり前だったと聞いた。


今も少なからずそういった人間は残っていると、お爺さんは言っていた。


だからもしかするとまきしまさんは、若そうだけどそういう類いのひとなのかな…?



「ヒロイン、おいで」

「はい、お邪魔します」


ロック解除をしたまきしまさんはリビングへと招いてくれた。


するとリビングのソファにはノートパソコンに向かう男性が座っていた。


まきしまさんと私に気付くと、パソコンを閉じてからこちらを向いた。


「今帰ったよ」

「これはまた随分とかわいらしいお嬢さんとご一緒で…、どうかしたんですか」

「ああ、公園で声を掛けてね、しばらく泊めることになったから」

「あ…えっと、ヒロインです、まきしまさんに拾ってもらいました」


言えば男性はほんの少し眉を下げ、フと息を吐き笑って、立ち上がり近付いてきた。


そうして薄く眼を開け私を見た。


赤い義眼が見えた。


「おやおや、この国にもまだ捨て猫がいましたか」

「…ふふ、はい」


捨て猫。


その言葉に胸がズキッと痛んだことを感じる。


あの恋を、最終的に捨てたのは私。


だから捨て猫というより野良猫に近かったのかも知れない。


自分から捨ててきたのに、胸を痛めるなんて勝手な気もするけど。


だけど本当に好きだった。


キラキラ輝く本物の恋だと信じてた。


でも結局それは本物じゃなくて……。


ああ…どうしよう。


考え出すとまた泣けてきそう。


「…では可哀想なヒロインさんに紅茶でも淹れてきましょうかね」

「悪いね」


少しの間の後に男性が発した声に我に返った。


男性がカウンター越しのキッチンへ入っていくのをぼんやりと目で追った。


「彼はチェ・グソン、彼もここへ出入りするが信頼のできる男だよ」

「えっ!!?外国の方…!?」


そうして今まきしまさんから男性の紹介をしてもらったけれど。


聞き慣れない名前に衝撃を受ける。


だって外国人が帰化もせずに日本にいるなんて…どうやって…?


そんな私の反応にも、グソンさんというらしい男性は穏やかに声を掛けてくれた。


「はい、以後お見知り置きを」

「すごい……純粋な外国の方なんですね」

「そんなに見られたら穴が開いてしまいますよ」

「あぁ…!ごめんなさい…!!」

「ヒロイン、座るといいよ」

「あ…はい」


ついついグソンさんから目が離せずにいると、先にソファに座ったまきしまさんに呼ばれた。


まきしまさんの向かいのソファに遠慮がちに座る。


革のソファのひんやりとした感触が皮膚に伝染をして。


どことなく感じたのは違和感。


「ぇ…?」

「ヒロイン、違いが分かるかい?」

「うん…なんか…このソファちがう」

「このソファは本物の革で作られているからね、この部屋は内装もこだわって僕が改装したんだ」


程よい弾力で受け止められ、触れる部分はソファにフィットした。


これがホロではないソファの感触。


ソファだけじゃなくて、この部屋には他にもきっと本当にその姿をした家具があるんだろう。


でもカーテンのない大きな窓の外には、地下なのに樹々が生い茂っている。


ロックをしたり本物の家具にこだわったりしてるけど、ホロも活用してるしただ単に時代錯誤なひとってわけでもないのだろう。


「どうぞ」

「ありがとうございます、…グソンさん」

「いいえ」


部屋に意識を取られていると、グソンさんがほっとできる香りの立つ紅茶を運んできてくれた。


目を見て、覚えたばかりの名を口にして。


にっこりと笑いお礼を言えば、グソンさんも同じように返してくれた。


「ではダンナ、俺は今から例の件で少し出ますが」

「ああ、頼んだよ」

「それではヒロインさん、ごゆっくり」


今から出掛けるらしいグソンさんは最後にもう一度私に微笑み掛け、ノートパソコンを片手に部屋を出ていった。


目の前に座るまきしまさんは瞼を伏せ早速紅茶の入ったカップを口にしている。


グソンさんが淹れてくれた紅茶。


もしかしてこの紅茶も……。


カップを持ち鼻先に近付けてみる。


すると知っているものとはどこか違う紅茶の香りが色濃く体内を満たした。


「わ…いいかおり…」

「当然だよ、その紅茶も茶葉から厳選しているからね」

「やっぱりこれも本物なんだ……すごい…おいしい」

「ヒロインに違いが分かるのなら喜ばしいことだよ」


口にして広がる味も体感したことのあるものとは違い、知らない深みがあった。


それを告げればまきしまさんはゆったりと口角を上げた。



それにしても廃棄区画のセーフハウスに外国の方に、本物の高級そうな家具や本物の紅茶…。


つくづく何者なのかな…と、疑問は深まるばかり。



「僕を怪しんでいる?」

「え…!」


カップに口を付けたまま思わずまきしまさんをじっと見つめてしまっていた。


カップをソーサーに置こうとしていたまきしまさんが私の視線を感じたように顔を上げたから視線がぶつかる。


まきしまさんのカップとソーサーが触れ合い、小さくかちゃりと音を立てた。


心を見透かされたようでドキッとした。


「私立桜霜学園で教師をしているよ」

「教師…あの全寮制女学校の?」

「ああ」

「どおりで…、まきしまさん、すごく賢い感じがするもんね」

「賢い感じ……、ヒロインのその物言いは利発さの欠片もないね」

「え!?……ふ、まきしまさん、ひどい」


相変わらず口調は柔らかいのに、少し辛辣なことを言われ驚いた。


でも確かに、と思い、思わず笑ってしまった。


「フフ、笑うとそんな顔をするのか」


するとまきしまさんも笑って。


しかもその笑みは今までとは少しだけ違い、どことなく少年らしさも感じさせるもので。


ちょっとからかわれたのかも。


だけどその癖あまりにも綺麗に笑うものだから見惚れてしまいそうになる。


改めて思う、本当に美しいひと、と。


静かに笑い声を溢しながら紅茶で満たされた。


それと同時にまた冷静にもなってきて。


まきしまさんと出会ってから私は、さっきまで一度もこんなふうに笑ってなかったのかと気付かされ、複雑な気持ちになった。


「…さて、僕の話はこれくらいにしておいて」


謎が多いから、まだまだたくさんまきしまさんの話を聞きたい気もあった。


だけど複雑な気持ちが顔に出てしまったのかも知れない。


「ヒロイン、今日は疲れたろう」

「あ…」

「先にシャワーでも浴びてくるといいよ」


まきしまさんは気を遣ってくれたのだろうか。


彼と私の別れに興味を持ったらしいから、もっと彼のことも聞かれるかと思ってたけれど…追求されることもなく。


本当のところ、まだぺらぺらと彼とのことを話せるような気分でもなかったから。


まきしまさんの振る舞いに二度救われたような気がした。


「だがヒロイン、生憎ここには寝室は一部屋しかなくてね、僕と一緒でも構わないかな」

「え!いいです、いいです、そんなのまきしまさんに悪いし、こんなに良くしてもらってるんだから、私はここでも、むしろ床でも、」

「そういうわけにはいかないよ」


今度は眠る場所について触れたまきしまさん。


でもいきなり転がり込んでまきしまさんの眠る場所まで借りるのは気が引ける。


だから全力で遠慮した。


「フ、大丈夫だよ、僕には無理矢理女性を組み敷くような趣味はないしね」

「あー…ふふ、はい、」

「それに僕は帰ってこられない日もあるし、遠慮せず使うといいよ」

「本当に…?いいんですか?」

「構わないよ」

「ありがとう…まきしまさん」


結局ベッドまで好意に甘えてしまうことになった。


そうしてにっこりと微笑んだまきしまさんはバスルームへ案内してくれて。


寝室で待っているよ、と言葉を残し踵を返した。


案の定バスルームもシックで素敵。


なんだか…本当に、いきなり贅沢過ぎるというか…。


まきしまさんにあそこで声を掛けられなければ、もしかしたらまだあの場から動けずに涙していたかも知れない。


下手したら色相が濁ってしまう可能性だってあった。


でも驚きの連続も手伝って、感傷に浸り過ぎずに済んでいる。


まきしまさんが何を考えているのかは未だ分からないけれど、お年寄りに聞いたことのある“危ないひと”は今の日本にはいないし。


不思議な出会いに感謝の一言だった。


洋服のホロを解除してシャワーを借り、持ってきた荷物の中から部屋着に着替える。


寝室と教えてもらった部屋の扉を開けると一人掛けのソファで脚を組んで座っているまきしまさんが目に入った。


手には、紙の本…?


まきしまさんはこれもまた私は触れたことのない本らしきものを読んでいた。


更に見渡せばこの部屋には夥しい数の本が並べられていることに気付いて。


圧倒される。


「すごい…本…?」

「ああ、電子書籍は味気なくてね」


シャワーのお礼よりも先に本のことが口から出てしまった。


私の声に反応したまきしまさんは本を閉じながら顔を上げた。


「ヒロインは本は好きかな」

「はい、時間があれば読むようにしてます」

「ならここにある本も読んでみるといいよ」


まきしまさんは聞くまでもなく本が好きなんだろう。


どうして紙の本なのかは、新たに増えたまきしまさんの謎だけれど。


「それから、ヒロイン、悪いがチェ・グソンから連絡が入ってね、少し出なければならなくなった」

「…そうなんですか…」


まきしまさんといると聞きたいことが次々と溢れてくる。


だけど今日はもうそんな会話はしていられないらしい。


「ヒロインが眠るまで傍にいたいのは山々なんだが」

「…大丈夫ですよ」


まきしまさんは私の前まで来て、本心からか分からないけど、心配そうな顔を作って私の顔を覗き込んだ。


でも私の意識はまきしまさんの手に収まっている本にも奪われていた。


「気になるかい?」

「あ…ふふ、いろいろと、」

「ジョージ・オーウェル、1984年、」


言いながらまきしまさんはその本を手渡してくれた。


初めて触る紙の本。


厚みや重みがずっしりと指に伝わってくる。


しかもこれ…すごい年季が入っていそうな。


「僕が持っている本は全て初版なんだ」

「初版…」

「それは、1949年に刊行されている」

「1949年!?」


…今が2111年だから……。


それは咄嗟に計算すらできない程むかしのこと。


「原語も日本のものではないから、ヒロインに読めるか分からないけどね」

「ほんとうですね…」

「気になるようだったら好きに読んで構わないよ」

「じゃあ…とりあえず眺めてみます…」

「フフ、そう、じゃあ行ってくるよ」


読んでいいと言われても、これは読めない。


でも紙の本が気になるし、まきしまさんに渡された本を丁重に両手で持った。


それからまきしまさんの背中が扉へ向かうのを見送った。


「そういえば、ヒロイン」


するとドアに手を掛けたまきしまさんが何かを思い出したように振り返り。


「はい」

「公園で噴水を見ながら何か呟いていただろう」

「ぁ……」


問われたのは、彼を失い独りになった世界で浮かんだ疑問。


本物だと思っていた恋は偽物だったから。


「本物って…」

「うん?」

「本物ってなんなのかな…って」


当たり前に在りすぎて、普段は気になったことすらないけれど、ホログラムだって偽物。


そう思った途端見慣れた公園の風景にも少し嫌気が差した。


生きることの基礎となる食事だって単一種から作られているし。


結局何もかも見た目を偽るだけで。


あの恋もきっとホログラムだった、そう思った。


でもいつかまた恋だってしたい。


偽りが溢れ返る世界でしか生きたことのない私に、本物を見抜く力なんてあるか分からないけど。


その時の恋は、どうか本物でありますようにと願うばかりで。



だけど今の世を当たり前に受け入れる環境で、馬鹿げたことを言ってしまっているのかも知れない。


まきしまさんだって理解できないと嘲笑うかも知れない。


口にしてから、はっとした。



でも、まきしまさんは。


「…それは興味深いね、ヒロイン」


嘲笑うどころか、嬉しそうに微笑んでくれて。


「僕と一緒に追求していこうじゃないか」


全てを口にしたわけじゃないのに、理解してくれたみたいで。


その瞬間、彼を失った世界が、とても輝いて見えた。



「じゃあおやすみ、ヒロイン」

「はい、いってらっしゃい」


今度こそまきしまさんが出ていくのを見届けて。


ふかふかのベッドに横になった。


それから俯せになり、紙の本をめくってみる。


やっぱりこの原語を読むことはできないけれど、不思議と心は更に落ち着いていった。


そうして徐々に睡魔が襲ってきた。


…独りで眠るのは、とても久しぶり。


だけど涙することもなく、深く眠りに就けた。


きっと全部まきしまさんのおかげ。



翌朝目が覚めると枕元に洋服が畳んで置いてあった。


「本物の服…?かわいい…」


まきしまさんが用意してくれたものだとすぐに分かる。


ホロでコーデを楽しむことが当たり前だった私には、本物の洋服でお洒落をするなんて考えたこともなかった。


そもそも本物の洋服だってとても貴重なはずだから、こんなに簡単にもらってしまっていいのか少し戸惑ってしまう。


だけど、これを着ないという選択もできなくて。


袖を通せばまるで私の為に仕立てられたかのように、ぴったりなサイズだった。


それからリビングへ向かうと、ここにもまきしまさんの姿はなかったけれど、朝食の仕度もしてくれてあって。


おそらくこれも本物なんだろう。



本物の素敵な洋服に身を包まれて、本物の素材から作られた健康的な食事を口にする。


「おいしい…」



早くちゃんとお礼を言いたい。


まきしまさん。


ホロで彩られた世界を歩いて会社へ向かいながら、今夜も絶対にあのセーフハウスへ帰ろうと誓った。




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