※無理矢理のような描写があります



泉宮寺との通話を終えた。


終える少し前にヒロインの帰宅を察した。


故にヒロインはすぐにリビングに入ってくるだろうと思い、端末を手にしたままドアに目をやった。


しかし予想と反してヒロインは顔を出さずに。


違和感を持ち、僕の方から腰を上げドアを開けた。


すると目に入ったのは、目の前で呆然と立ち尽くし、ぼろぼろと涙を流すヒロインの姿だった。


もしも外で泣きたくなるようなことがあったのなら、僕の前で泣けばいい。


言わずともヒロインもそうするはずだ。


裏腹に僕に見られたくない涙が存在するならば、ヒロインは意地でも我慢を貫こうとしただろう。


その痩せ我慢が僕に気付かれないかは別として。


だが今、こんな場所で独り泣いている。


思い当たる節は何一つなかった。


「ヒロイン、」


声を掛けると、虚ろに涙を流していたヒロインの表情は悲痛に染まり、濡れる瞳が僕を見上げた。


この女の涙は、僕の目には相も変わらず清らかに写るが、どう見ても平常な状態ではなかった。


とりあえずは涙を拭ってやろうと思い、手を伸ばす。


それから抱き締めつつ話を聞いてやれば、すぐに落ち着きも取り戻すだろうと思った。


しかしヒロインは僕を拒否するかのように、伸ばした手を避け後退りをした。


ヒロインがこんな風に僕を否定する理由が浮かばない事実は自惚れだったのだろうか。


行き場のなくなった右手に小さな痛みを感じはしたが、無視をし言葉を続ける。


「ヒロイン、どうかしたのかい」

「………聖護くん…好きな人ができたの…?」

「好きな人?」

「年上の綺麗なひと…?」

「年上の?」


おずおずと口を開いたかと思えば、全く見当の付かない発言で、思わず二度とも聞き返した。


持てる限りのピースを繋ぎ合わせようとしてはみたが、一つとして形になるものはなかった。


だが僕を見るヒロインの瞳は真剣そのものでしかなく。


どうやら本当にそういった理由で止めどなく涙を溢れさせているらしいが、ヒロイン以外の女とそういった感情を基に関係を築くことに未だ興味はない。


「だって……さっき、電話で………」

「確かに会話はしていたけどね、」


通話の相手は間違いなく泉宮寺だった。


ヒロインにこのような感情を抱かせる会話をするわけがない。


だがおそらくヒロインは帰宅後ドアの前で僕の言葉を耳にし、この状況へと陥ったのだろうから、通話を終える直前自身が紡いだ音を思い返す。


そうしてすぐに合点がいった。


“大好きですよ”

“まさか…貴方だけです”

“ええ、では明日、楽しみにしています“


ヒロインが耳にしたであろう言葉はこのようなもので。


この言葉だけ切り取ればヒロインの思考があらぬ方向へ向いてしまうことは無理もないのかも知れないと思えた。


「ああ……、聞こえていたのか」

「っ……やっぱり……」


ヒロインがしている大きな履き違えの謎が解け、自然と口角は吊り上がった。


しかしヒロインは僕のこの表情を肯定と捉えたのだろうか。


一層傷付いたように瞳を歪ませた。


「聖護くん………そのひとといて、幸せ…?」

「幸せと呼べるのかは分からないけど、楽しませてもらってはいるよ」

「そっか……」


瞼を伏せ唇を噛み締めるヒロイン。


落下する涙に見惚れる。


こうなってくると僕の中ではヒロインの反応を楽しみたい気持ちも芽生え。


早く種明かしをしてやればいいものの、核心には触れず会話を続けた。


だがそんな僕の胸中を知る由もないヒロインは一息呑んでから、か弱く台詞を絞り出した。


「聖護くんに…好きなひとができたなら、私出ていく…」

「どうして?」

「聖護くんの幸せが一番大切だし…それに…つらいよ……聖護くんが他のひとを想ってるのに、傍にいるのはつらい…」

「でも僕は君に出ていってほしいなんて思ってはいないよ」

「なんで………?」

「ヒロインと過ごす日々も楽しいからだよ」

「そんなこと言わないでよ…!…だって明日もそのひとと会うんでしょ…?」

「そうだね」

「盗み聞きみたいなことをしてごめんね……、だけど…知ってしまったのに今まで通りにはできないよ…」


震える睫毛。


僕への想いだけで構成されている澄んだ雫。


華奢な肩が尚更小さく見えた。


厄介な感情の起こり。



「あなただけって言ってたでしょ…?聖護くんがそのひとといて幸せなら、そのひとと暮らした方がいいから…」

「だから君は身を引く、と?」


おそらく張り裂けるような痛みを抱え、首を縦に振ったヒロイン。


時間の許す限り僕の傍にいようとする女だが、こういった局面では自ら離れる選択をするのだと知る。


「いままで…ありがとう、聖護くん」

「ヒロイン、まだ話は終わっていないよ」

「ううん………荷物、まとめるね」


そうしてヒロインは背を向け、クローゼットのある寝室へ向かおうとした。


以前の恋人から離れる際もヒロインはこうして独りを選んだのだろう。


あの時のヒロインは哀しみの中に呆れや諦めを持っていたが、今はただ悲壮の渦の中。


それでも結果的には、表面上今の僕も似たようなことをしている。


ここで止めずに本当にヒロインが出ていってしまったとして。


僕はどれだけ大切なものを失うこととなるのか。



「―――ヒロイン、」

「…ッ……やだ、聖護くん…!はなして…」

「だめだよ、ヒロイン、離したくない」


二の腕を掴み引き寄せ背後から抱き留める。


耳にキスをしてから優しく名を囁いた。


「ヒロイン」

「やめ…て……やだ、しょうごくん……」


腕の中のヒロインは精一杯の力で抵抗を示した。


勿論そんな力が僕に影響を及ぼすことはなく、舌先で首筋をなぞり、首の付け根に紅い跡も残した。


いつもならば至福に混じる吐息。


だが今は聞こえては来ずに、ヒロインの抵抗は増す一方。


真実を伝えればヒロインはすぐにでも泣き止むだろうというのに、馬鹿げた話だ。


この状態のヒロインもひどく愛おしく、僕を欲情させた。


「……君のせいだよ」

「ッ…………、わたしに、なにかわるいところがあったから、他のひとに惹かれてしまったの…?」

「フ……」


この期に及んでヒロインの履き違えは上塗りをされていく。


このままのヒロインをあやしてやりたいのは僕の身勝手。


逃がさぬよう腹の前に腕を回し、もう片方の手をワンピースの裾から侵入させ太ももや臀部を撫でた。


「なんで……、やだ…!聖護くん!」


それからショーツの中へと指を忍ばせれば濡れ始めた感触。


夜毎抜かることなく伽、馴らした身体はどこまでも従順だった。


ヒロインの官能のスイッチなど熟知している。


「ああ…ヒロインは悪い子だね」

「やだって……聖護くん、やめて…!」


こんなにも抵抗をしたがっている癖に、心とは裏腹な感情を帯びる身体。


溢れ出る蜜を指先に纏い、蕾に刺激を与えた。


粘着質な水音が涙声に混じる。


僕に幻滅をする可能性だって充分に考え得るが、やはり想いを断ち切ることは不可能なのだろう。


「なんで……なんで、聖護くん……こんなことをするの…」

「さぁ……ヒロインは、どうしてだと思う?」

「わかんないよ……!」


未だ大粒の涙で頬を濡らし、僕の腕から抜け出そうとするヒロイン。


いじらしく仕方がなく。


いつもよりも愛撫の足りぬ、だが難なく僕を受け入れる身体へ、そのまま欲を貫いた。


「…ぃゃ…!いやだよ…………やだぁ…聖護くん…!」

「どうして分からないのかな」

「……っ、ふ………」


僕がここまでして求めるのは、この女だけだというのに、未だそれには気付かずに。


傷付き、泣いて。


喘ぎも、僕への感情も圧し殺して。


「ねぇ、ヒロイン、僕はいつもみたいに、君の可愛い声が聞きたいんだけど」

「……それだけのために……、こんなことを、するの……?」

「まさか、そんなわけないだろう、…でも君の声が聞けないと少し淋しいよ」

「…………むり……」


必然的に壁に手を付いているヒロインの後頭部がふるふると揺れる。


一番よがる場所へと集中的に擦り付けても、ヒロインはひたすらに隙を見せまいとしているようだった。


支えがなければ膝から崩れ落ちるのではないかと思える程に感じているというのに。


「聞かせてはくれないのかい」

「……ゃ…」


激しく攻め立てる行為とは対照的に、耳許では甘く囁き続け、手のひらや指での愛撫は至極柔く続けていた。


「でも……もう」

「も……やだ、だめ……だめ……」

「うん…イキそうだ…ね?ヒロイン」

「……っ……!」


するとヒロインの締め付けは一層増し、身体を震わせ一度目の絶頂を迎えた。


同時に、ヒロインの制御は限界を超えらしく。


「………ん……っ、は……あぁ…!」

「やっと聞かせてくれた」

「ちが………聖護くん、だめ、……やぁ…!」


小さく、だが恐ろしくいやらしい喘ぎが僕を揺さぶる。


コントロールが効かなくなり漏れたのだと、手に取るように分かるその音は、劣情に拍車を掛けた。


「…もう……やめてよ…っ…聖護くん…」

「君の機嫌が直るまで無理かな」

「やだよぉ……」


ヒロインが達しても尚、腰を動かし続けた。


セックスの度にヒロインの唇から惜しみなくに織り成される“好き”がないことにも物足りなさを感じ始める。


喘ぎ声すらここまで抑えているのだから当然だろうが。


相当拗ねさせてしまった。


身体は簡単に屈服しても、離れると決めた男に心を預けることはないのだろう。


他の人間にされるのなら興醒めをするだけだが、ヒロインにだけは縋られても良かったとまで思えるというのに。


どんなヒロインでも庇護したかった。


例え今此処に、望んで壊した形があったとしても―――。


愛でて、壊す。


この二つは僕の中で、並行し確立していた。


歪んでいると自覚できた。


しかしおそらくヒロインも最終的には僕を許す。


歪んだ僕に応じるヒロインもまた歪だ。


けれど、だからこそこの女とは、綺麗に適合できることを知っていた。


「ヒロイン、可愛いよ」

「…っ……ん、ぅ………やぁァ…!」

「…ハ……またイッたね」

「だめ……しょ…ごく……」

「もう身体は言うことを聞かないみたいだけど」


耳に口付けをしつつ可愛いと密めくと、ヒロインの身体は再び絶頂を知らせた。


こうなるとヒロインは止まらなくなる。


今も抵抗を続けたい意志はあるようだが、力は完全に抜け落ちていた。


こんなにも快楽を与え合え、心地の好いセックスができる相手も互いに初めてだった。


「僕がこうする理由はまだ分からないようだね」

「……も…本当に、やめて……聖護くん…」


例えば今後、僕がヒロイン以外の女を抱けるかどうか思い計った際、必要性があるのなら容易いのは確かだった。


最も僕ならばその必要性を回避する案を提示できることが前提だった故、そのような日が訪れることもないだろうが。


他の事柄に比べ、ヒロインに対しての先見の明は不明瞭だったとしても、欲するのはヒロインだけという事実は言い切れた。


しかし、例えば、この状況が逆の立場だったとして。


ヒロインが今夜の僕のように、他に好きな男ができたと告げたとする。


その瞬間から、ふわりとした笑みも、きらめく涙も、甘やかに順応する身体も、僕以外の人間の為に作られることとなる。


その時の僕は、ヒロインのように簡単に離別を選択できるだろうか。


引き留める術を模索するのではないか。


ヒロインと共に生きたい心は一体何処へ向ければ解消されるのだろう。


犯罪を今以上に重ねたとしてもきっと置き去りのまま。


ヒロインの自由を最大に活かせるのは此処だという確信も邪魔をする。


それでも、何よりも尊重したいのはヒロインの意志なのだから、手放すべきなのだろう。


想像をすると、焦れる胸が、どうしようもなく鬱陶しかった。



これでは、まるで、僕の方が―――。



「―――…ヒロイン、」

「………はなして、聖護くん…」

「酷い真似をしてすまなかった」


今宵、手籠めにした実態は消えない。


付けた傷の深さを実感し、ヒロインが僕の想いに気付くまで、今度は優しいだけの行為をしてやりたくなった。


「あやまるくらいなら、最初からこんなことしないでよ…」

「ヒロインの言う通りだね」

「なら…もう、やめて…」


横抱きにし、寝室のベッドへと場所を移す。


達したことにより、言葉も抵抗も力ないヒロイン。


「………やめてって言ってるのに……」


そっとベッドへ寝かせても、大粒の涙は降り続けた。


覆い被さり、頬に触れつつ、優しく触れるだけのキスをした。


するとヒロインは狂おしい程にやり切れぬ表情を見せた。


「なんで………いきなり、こんなに…優しいキスを、するの…」


そのやり切れなさは僕にも伝染し、ヒロインの問いには答えず、もう一度唇を塞いだ。


快楽は二の次に、緩やかに舌を絡めた。


足掻く気力の残っていないヒロインもゆっくりと応じている。


「はぁ………ん…」


キスだけでも甘い吐息が漏れるようになり。


現在のヒロインの表情を確認したくなり、名残惜しいが唇を離した。


だが僕が顔を覗き込むよりも先に。


「……もう、」


やだ、と言いつつ、ヒロインは両方の手のひらを使い瞳を隠した。


果てのない涙は静かに流れているようだった。


「ヒロイン?」

「最後にこんな…………ほんとうに、やだ……」

「……最後、ね、」


もう充分楽しんだ。


おまけに想定外の痛みも抱えた。


最後にするわけにはいかず、いい加減真実を伝えてやろうとした。


しかし。


「きらい…………聖護くんなんて、大嫌い」


ヒロインの口から吐かれる台詞に、束の間停止した思考。


嫌い。


ヒロインの声で僕に向けられ、初めて耳にした言葉だ。


その一言はずしりと心にのし掛かり、思いの外応えている実感があり。


そんな自分自身にも驚き、思わず声を出し軽く笑ってしまった。


「フッ……ハハ……」

「聖護くんのばか…!きらい…!」

「本当に悪いことをしたと思っているよ、ヒロイン、だから僕の話を聞いて」

「やだぁ…!」


目を見てありのままを伝えることが先決だ。


だからヒロインの手首を握り、少し力を込め手を退けながら告げる。


「今夜の出来事は、全て君の思い違いだよ」

「………ぇ…?」

「ヒロインが、僕が想いを寄せていると思い込んでいる相手は、泉宮寺さん」


言えば、怪訝に眉間を寄せたヒロイン。


当然、こんな言葉だけで覆る出来事ではないのだろう。


ヒロインの疑念を晴らすべく、一つずつ紐解いていく。


「うそ……」

「嘘ではない―――泉宮寺さんが、梨をくれると言ってね、」

「なし…?」

「“ヒロインさんも梨は好きかね”と聞かれたから、“大好きですよ”と答えたんだ」


始めは次の獲物についての話をしていた。


それから用件が済んだ際、“そういえば槙島君”と、振られた話題。


独りでは食べきれぬほどの梨が手元にあるから明日時間があれば取りに来たまえとのことだった。


“好きなだけ持っていったらいい”と。


わざわざこうして僕に伝えるということは、おそらく泉宮寺もヒロインを見越しているのだろうから、“喜びます”と返事をした。


ここからヒロインがこの状況へと陥った会話へと繋がったのだが。


それにしても……まったく…本当にタイミングの悪いところから耳にするものだと、関心すら覚えそうになる。


「それから“まぁ…あの子ほどの人懐こさがあれば私以外の人間からも贈られているかも知れんがな”と言うから“まさか…貴方だけです”と返した」

「……じゃあ最後の“明日、楽しみにしています”っていうのは……」

「当然梨のことだよ―――…いや、正確に言えば、僕にとっては、君が喜ぶだろうからそんな君を眺めることだったけど」


今はどんな偉人の言葉を語るよりも、自身の言葉で紡ぐことが意味を成した。


ヒロインの表情から褪せていく悲痛の色。


まだ完全に信用しているわけでもないようだが、猜疑よりも上回り始めたものがあるようで。


ヒロインが瞬きをする度に、涙が睫毛で遊んだ。


「何なら今から一緒に泉宮寺さんの所へ行くかい」

「一緒に…?」

「泉宮寺さんの口からも真相を聞けば安心できるだろう、僕と泉宮寺さんに口裏を合わせている隙がないことはヒロインが一番分かっているだろうしね、…行くかい?」


ヒロインが安堵できるならば、今から車を走らせることくらい造作もなかった。


しかしヒロインは僅かに思案し、それから静かに首を横に振った。


泉宮寺を訪ねるまでもなく、僕の話に偽りはないと受け取ったようだ。


ヒロインに広がる安堵を見て、穏やかに零れる溜め息。


宥めるようにヒロインの髪を撫でた。


「……それなのに独り早とちりをして、出ていくなんて言うから…」

「ごめんなさい…!…でも、じゃあ…聖護くんも、すぐに本当のことを言ってくれたら良かったのに」

「ああ、その点に関しては全面的に僕がいけないね、悪かった」

「なんであんなことをしたの?理由は結局分からないままだったよ…」


眉を下げ僕の瞳を探るヒロイン。


涙は止まったようだが、泣き腫らした目元が痛々しく、恋しい。


目尻に口付けを落としてから、言葉を続ける。


「僕が君の涙に弱いことを知っているだろう」

「ん…?」

「単純に欲情した」

「え…!」

「憤慨してくれて構わないよ、我ながらどうかしてると思うから……だけどさ、ヒロイン」

「うん?」

「僕がここまでして求める女は君だけだということをきちんと自覚した方がいい」


少しの間があり、ヒロインは頬を桜色に染め、ときめきを露にした。


僕が執拗に求めていた理由が、やっと理解と結び付く。


「駄目だよ、ヒロイン……そんな顔をしたら、」

「だって…」

「僕は酷いことをしたんだから…」


その表情を確認してから抱き締めると、抑止なく僕を受け止める一途な身体。


どうしようもない事実を浴びせる。


「僕にとって、女は、この世で君だけ」

「…だったら私以外の女の子は?」

「人間だよ」

「ふ……じゃあ、わたしは?」

「人間の女だね」

「あはは、なにそれ」


ようやく転がる笑い声。


ヒロインは笑うが、現にヒロイン以外の女を女として見られるようになれば、ここまで負担を掛ける必要もなくなる。


けれどそんなことはこの女が最も望まない。


泣かせたい癖に、笑っていても歓びを感じるのだから、ヒロインに対してはやはりとんでもなく身勝手だ。


許されたことを認め、もう一度顔を覗き込んだ。


「機嫌は直ったかな」

「うーん……どうかなぁ」


するとヒロインはあからさまにわざとらしく拗ねて見せた。


「あれだけ感じていたから、セックスの最中に直るかと思っている部分もあったけれど…」

「あんなのはご機嫌取りじゃなくて強姦だよ、聖護くん…!」

「それはもっともだ」

「ね、でしょう」


それから二人でくすくすと笑えば、毎夜の如く甘美な時間の始まりだ。


「ならばヒロインに機嫌を直してもらうにはどうしたらいいんだろう」

「んー……聖護くん、考えてみて」


機嫌など直っていることは一目瞭然だったが、この時間を延長させる為だけに設けられた問い。


ヒロインの気が済むまで、好きなようにしたらいい、と心底思う。


「僕は君の言うことなら何でも聞いてあげたいと思っているけど…それでは駄目かな?」

「何でも…、…ずーっと?」

「ああ、これから先も、ずっとだよ、とりあえず今手近な所でも何かあったら言ってごらん」

「えっとね……じゃあ、明日梨をいただいたら、聖護くんに剥いてもらいたい」

「もちろんいいけど……、そんなことでいいのかい?」

「うん、贅沢すぎるよ、……ぁ、でも、聖護くんって梨とかちゃんと剥ける?」

「まだたどたどしい手付きの君に心配されるとは心外だな、刃物の扱いには人一倍慣れているつもりだよ」

「ふふ、そうなの?」


今のやり取りで更に明確になったことが一つ。


ヒロインが僕に求めることなどどれも些細なもので、自身の意思の元で容易に叶えてやれるものばかりだ。


そんなことよりも、ヒロインにとっての最大の幸福は、ただただ僕の隣にいること。


「……僕が傍に居る限り、君は永遠に上機嫌なんだろうだね」

「さすが聖護くん、正解」


右手で頬を包みながら言えば、ヒロインは満ち足りて目を細めた。


確約もないこの先に、口約束なんて馬鹿げたことをする気も起きないが。


シビュラではなく、自ら造り出す未来だからこそ、ヒロインの幸福を継続させてやることは容易いと思えた。



「ならば、もう、今夜の無礼も許してくれるかい」

「許せないわけないよ、だってこんなに、」


好き―――そう言いながら、僕の首に腕を回したヒロイン。


ほんの数分前に吐かれた嫌いは、夢の中での出来事のように現実味のないものへと変貌を遂げた。


再び優しいキスから始める。


常しえなどと形のないものを、今はただ壊さぬよう抱き締めて。




ご機嫌とりマニュアル


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