時折足を向ける書店で知り合った女。 偶然同じ書籍へ手を伸ばしたことがきっかけだった。 それからというもの女は僕の趣味を理解し、何処からか興味深い本を調達してくるようになった。 書店で会った際に「あの…良かったら、これ…」と差し出されるハードカバー。 シビュラに弾かれたこのような物を入手することは決して容易くはない。 故に受け取る義理もなかった為、「こんなに高価な物を理由もなくいただくわけにはいかないよ」と断った。 しかし「槙島さんにもらってほしいんです…!…理由はそれじゃだめですか…?」と差し出されるハードカバーを無下に扱う口実もなかった。 女の声にも指先にも緊張が走っていることが見てとれた。 「じゃあ…ありがたくいただくよ、読むのが楽しみだ」と受け取れば、女は照れくさそうにはにかんだ。 そんなやり取りを五度程繰り返した。 五度目に、何の気なしに「今更だけど…ここで売り物以外の本のやり取りをする僕達は可笑しいのかも知れないね」と言うと、女は瞬時に頬を紅く染めた。 無意味な期待をさせてしまったらしい。 女の好意は明白だった。 「なら…今度はここではない場所で会っていただけますか…?」と言われ、女の本のセンスは嫌いではなかったし、申し出を受け入れた。 そうして訪れた六度目の約束の日。 僕が天然の食材を好むと伝えたことがあったからか、料理が好きだと言う女の家へと招かれた。 料理は趣味だが他人に食べさせたことはないらしく、誰かに手料理を振る舞ってみたいという理由が付けられていた。 仕事の後、夕食を共に取ることになっていた。 待ち合わせ場所から住み処へと案内され、女性らしい内装ホロの部屋へと入る。 するとテーブルの上に置かれている文庫本が早速目に付いた。 しかしその本。 偶然か、はたまたこの女が僕の傍にいる女を調べあげたのか。 後者の可能性は極めて薄いだろうが、ヒロインが気に入っている作家の物だった。 けれどヒロインはまだ持っていないタイトルの物。 僕の視線の先に気付いた女は「それは…槙島さんに渡す物ではなくて、私が今読んでいる物です」と触れた。 「へぇ…恋愛小説も読むんだね」 「ぁ…はい、たまには読みます、そういう気分に浸りたい時もあるので…」 「僕も少し読んでみてもいいかな」 「もちろんです、…でも…槙島さんこそ、そういった内容には興味がないんじゃないですか?」 「そうかもね、でもこの作家が好きな女性には興味があるんだ」 当然主語に在るのはこの女ではない。 この女に関しては、本を通した繋がりはあってもいいが、それ以外に向けられる期待はそろそろ裏切っておきたかった故の布石。 ぬか喜びさせる言い方は承知の上だった。 すると女は一瞬固まり、それから「えっと…じゃあご飯の仕度をしてくるので、槙島さんはそれを読んでてくださいね!」と恥じらいながらあたふたとキッチンへ向かった。 今の反応を見て、ヒロインのことは認知しているわけではないという前提が有力になった。 小さく溜め息を吐きつつソファに腰掛け、本を捲る。 天然の食材が調理されている音が流れる中、文字を追う。 恋愛を主体にした日常を切り取った短編集のようだったが、やはり幸福なだけではなく、一話目の女は僕から見てもろくでもない男に惚れていた。 理解に苦しむ。 ただ―――何かの中毒患者のように私はそれを貪りそれに飢える、という文には心当たりがないわけではなかった。 昔の僕なら何一つ汲み取るとこができなかっただろうが、今はヒロインが僕の中に棲みついている証拠なのだろう。 そう思えば自身に呆れながらも、秘かに口角は吊り上がった。 やがてオートサーバーでは表現しきれない香りが漂い、野菜のポトフやサーモンの香草焼き、きのこのリゾットが目の前に並べられた。 「美味しそうだね」 「槙島さんのお口に合えば良いのですが…」 言いながら女はグラスにワインを注いだ。 このワインはいつもの本の礼にと僕が持ち合わせた物だった。 本を閉じ「いただきます」と微笑んで、暖かな料理を口に運ぶ。 グソンの手引きを受け僕好みの味付けを熟知したヒロイン程ではないが、これも悪くはなかった。 そう言えば、ヒロイン以外の女と向き合って食事を取ることは随分と久しい。 「味…大丈夫ですか?」 「ああ、美味しいよ」 傍らに置いた本の二話目は、恋人と取る食事を中心に掘り下げた内容だった。 その影響もあるのか、他愛もない会話をしつつも、女の仕草に気を取られた。 その上で蔓延るのは違和感だった。 「良かった…!槙島さんお肉と卵を食べないって言っていたし、何を作るか悩んだんですけど…」 「僕の為に色々と考えてくれたんだね」 食事をする為の道具を持つ指先も、それを口に運ぶ動作も、天然の食材をきっちりと収める唇も。 幾度となく絡む視線も。 「いえ……楽しかったです、…槙島さんのことを考えながら献立を考えること」 「そっか、ありがとう」 ヒロインの織り成すものが、僕にとっては一番正しかった。 ヒロインと取る食事は思っている以上に心地好いものだと身体が記憶していた。 「その本、どうですか?」 「うん、そうだね、何度か興味深い表現に行き当たっているよ」 ヒロインと出逢い、僕とヒロインは多くの食事を共に取るようになった。 単一種から作られた訳ではない様々な食材を使った料理。 本の思想を借りるとすれば、僕達の身体はもうかなり同じものでできている。 栄養素というか、肉体的組織の構成成分として―――。 こんな考えがしっくり来る時点で、やはり既に何処か毒されているのだろう。 「槙島さんでもそんな風に思うんですね」 「まぁ…影響を受けている部分もあるかもね」 「影響?…誰に、」 「さっきも言ったけど、この作家が好きな女性」 「ぇ……」 「一緒に暮らしているんだ」 ヒロインのことを告げれば、女の目はあからさまに泳ぎ動揺をした。 食事も残すところ四分の一程度。 今夜はこの女と同じ栄養素が僕の体内を巡っている。 今夜ヒロインは、一人で、もしくはグソンと、何を食べただろうか。 「……か、彼女がいるんですか?」 「そういう型にはめて考えるのは好きではないけれど、客観的に見ればそうかもね」 「じゃあ…どうして……?」 「どうして?どういう意味かな」 「どういうって……だったら、私なんかとこうして会っていてもいいんですか…?」 苦々しい表情で向けられる視線。 だがその中に捨てきれない一縷の期待があることも捕らえた。 おそらく、彼女よりも自分に気が向いているから、という台詞が僕から零れることを待ち侘びている。 しかし僕の中にそんな想いは欠片も存在せず。 「彼女は僕の行動を干渉するような人間ではないよ」 「でも普通…嫌じゃないですか?自分の彼が他の女の子と二人きりで食事なんて…」 「さあ…どうだろう、ただ彼女は自分が特別だということを自負できているはずだ」 「特別…」 「現に僕もそれだけの想いは与えているからね」 この女とこうしていることは、ヒロインと造る時間には到底及ばない。 最後の期待も裏切り、食事もまとめ、グラスのワインも飲み終えた。 腹は満たされた。 けれど何処か空腹なままで。 「…わたしも、」 「うん?」 「槙島さん優しいから…、私も、特別になれるのかと…ちょっと勘違いしちゃいました」 意識は、ヒロインの待つあの家へと、完全に傾いていた。 だがそんな中、無理に作られたような笑みから僅かに早口で発せられた台詞。 ひどく落ち込むのかと思っていたが、予想とは裏腹に語気が若干荒くなった。 苛立ちを感じ取る。 女の皿はまだ空にはなっていなかったが、女は皿を重ね立ち上がり片付けを始めた。 まるで僕からの返答を遮るような態度だった。 僕としても“勘違いをさせてしまったのならすまなかったね”という返答しか用意できなかった為、これ以上を言及することはやめた。 この女の機嫌を繕う理由もない。 「片付けちゃいますね」 「悪いね」 「そうしたら槙島さん…最後のお願い、聞いてくれますか?」 「最後の?大袈裟だな」 「だってそれくらいの気持ちなんですよ」 「そう、じゃあ聞かせてくれるかい?」 「あの……一緒に…食後の紅茶を飲んでほしいんです」 「そんなことか…いいよ」 「嬉しいです…!では少し待っていてくださいね」 そう言って口角を上げる女の瞳には、静かな怒りと強い意志があった。 紅茶。 女の雰囲気からして、それに仕掛けを施してくることが予測できた。 何か見出だせる訳でもなし、これ以上の長居は無用かも知れぬが。 挑まれるのなら、臨んでやろうと思う。 「お待たせしました」 「アップルティーかな」 「そうです、どうぞ」 程なくして、ソーサーに乗ったティーカップがテーブルに置かれた。 対になっているそれは真新しく、今夜の為に用意された物のような気がした。 持ち手を摘み、鼻先に近付け香りを取り入れる。 香り自体には異常は見られなかった。 通常通りそのまま口へも運んでみたが、苦味が強いものの味にも際立った異常があるわけではなかった。 しかし女はじっとりとした目付きで僕を見つめ、紅茶が喉を通ったことを確認すると嬉しそうに目を細めた。 品質自体に変哲はないが、女の目的が紅茶にあることは確定だろう。 「お口に合いましたか?」 「合成ではない味は好きだよ、…だが君はこれに何か混ぜたんだろう?」 「あぁ…気付いちゃいましたか」 「君の態度を見ていればね」 「なら話は早いです、すぐに薬も効いてくるはずですし…」 そうして女はブラウスのボタンを外し、スカートも脱ぎ去った。 紅茶に混入していたものは媚薬だと合点がいく。 現に体内ではヒロインを抱くときの感情が起こり始めていた。 かつてヒロインが摂取されそうになっていた物と類似、あるいは同一だろうかと頭を過る。 事なきを得て済んだものの、ヒロインがこの効力を体感する瀬戸際に置かれていた事実が刹那だけおぞましくなった。 一度、深く息を吐く。 下着姿になった女は僕の前にやって来て手を取った。 「槙島さん…抱いてください」 「こんな薬を使ってまで僕に触れられたいうことか…」 「はい……からだだけの関係でもいいから…槙島さんに触れてもらいたい…」 「へぇ…」 「それに…こうでもしないと槙島さん、彼女の所に帰ってしまうでしょう…?」 余計な詮索に過ぎぬが。 気弱な印象だったこの女が廃棄区画で暮らすことになった要因には、本から分かる嗜好の他に、こういった突飛な発想が災いしている部分もあるのだろうと思えた。 「ああ…帰るよ」 「っ……でもっ…槙島さん、からだ、つらいはずですよ」 女は意を決したように僕の背に腕を回し抱き付いてきた。 ヒロインではない香りと温度と柔さ。 「一度でもいいんです……槙島さんに触れてもらえたら私はそれで……」 「そっか……じゃあ…君の言う通り身体も熱を帯びてきたことだし…」 顎に手を添え軽く上を向かせ囁けば、夢見心地の瞳に僕を映した女。 「事を済ませてから帰ることにするよ」 「槙島さん…」 無抵抗な身体をそっと抱き締めると、女は甘えるかのように擦り寄ってきた。 まるでヒロインのように。 だがヒロインとは違う全てで。 「…でも、こんなこと知ったら…彼女さん、泣いちゃいませんか?」 「泣くかも知れないね、だがわざわざ言う必要もないし、今までもそうしてきた」 「…常習犯だったんですね」 「必要があれば、ね、」 煩わしかった。 確かに、この疼きをここで吐き出せたなら、楽になるのかも知れないが。 何一つ欲しくなかった。 僕に挑んだのだから、それなりの結末は用意させてもらう。 すかさず剃刀を取り出し、女の背に刃先を立てた。 「ぇ……?なに、槙島さ………なにして……」 「It's not safe or suitable to swim――か…」 「いた……痛いです!槙島さん!いやぁ!!」 沈めやすい箇所を選び、ゆっくりと薄い皮膚を裂く。 異変に気付いた女は漸く僕を押し返し突き放そうと暴れ始めた。 だがもう何もかもが手遅れだ。 「君ごときの策略に僕が流されると思うかい?」 「なん、で、……ッ!?」 女の抵抗を封じ、体内へと刃をめり込ませて行く。 声にならない叫びを上げる女。 「僕にこうして触れられたかったんじゃないのかな?」 「ち、が…ッ!……ちが…」 「ふぅん……だが、ヒロインならば、きっと」 「…っ…ヒロイン……?」 「この状況でも、僕の腕の中で逝けるのなら本望だと言うだろうけどね」 吐血する前に腕を解き、剃刀を引き抜けば、女の身体は崩れ落ち大袈裟な音を響かせた。 傷口と唇から生暖かい血液が溢れ出る様を見下ろす。 この女にはもう何の使い道もない。 「まきしま、さん……」 「まぁ…君にはそこまでしてやる義理もないし」 「……あつい……くるしぃ……」 「独りで逝きなよ」 「いや……ま…しま…さ………たすけ…」 女は虚ろな目を動かし僕に助けを求めてきた。 それに対し僕は柔らかな笑みを作って返した。 「あぁ……でも一つだけ、感謝もしてる」 「……うぅ……ッ…」 「僕にとっても、ヒロインが、どれ程までに特別な存在になっているか実感できたから」 ヒロインの待つ場所へ帰る為に、滴る赤を拭ってから剃刀を畳みポケットへと戻した。 帰ったらヒロインに伝えたい。 痛切したこの想いを。 「君と出会えて良かったよ」 伝えるべきことも全て吐いた。 言葉を発することもできなくなった女の瞳からは一筋の涙が零れた。 多少は関わりを持った筈の人間の涙だとしても、別世界の出来事でしかなかった。 僕の居場所は此処にはない。 放っておけば息絶える女に背を向け、そのまま部屋を後にした。 今はまだ行き場がなく、体内で燻る熱だけが不快だった。 しかし、帰路を辿りながらも何人かの女と擦れ違ったが、一人として僕の欲しい形ではなかった。 求めている輪郭など、疾うに描ききっていた。 どれだけ思考を張り巡らせても今は報われることなどないだろうから、身体が求めるがままに見慣れたドアを開ける。 浅くなる呼吸が耳障りだった。 ヒロインの声が聞きたい―――。 「―――ヒロイン、」 まずはリビングへと入ると、欲しい形がすぐに視線を奪った。 「聖護くん、おかえりなさい」 ソファで本を読んでいたらしいヒロインは、優しい微笑みで僕を迎えた。 一瞬にして華やぐ間合い。 その空気の範疇に足を踏み入れた途端、ただ籠っていた熱が如実に欲をもたげ、目眩を覚える。 「今ね、音がしたから行こうと思ったんだけど……って聖護くん?」 「ヒロイン……」 「聖護くん!大丈夫!?」 いつもとは様子の違う僕を見て、ヒロインは本を投げ出しすぐさま駆け寄ってきた。 目の前までやって来たヒロインの肩口に額を預ける。 求めていたものが手中に落ち、身体の芯から安堵すると共に、相反して壊してしまいたい衝動に駆られる。 きつくきつく抱き締め、噛み付くようなキスをしながら、声が枯れる程犯して。 逃げ場のない極限まで追いやりたい。 別々の食材を流し込んだ分をも中和できる程に長く深く―――。 「聖護くん!どうしたの、大丈夫!?」 「…薬を、盛られたんだ」 「くすり…!?」 だが、それでも。 今夜の僕とヒロインを混ぜ合わせるような真似は絶対にごめんだった。 崩れるように膝を付き、頼りない腰に腕を回し。 僕次第ではいつだって生命を宿すことのできる腹に頬を寄せた。 「ヒロイン…そのままでいて」 「でも…聖護くん…!薬って………」 「…大丈夫だよ、ヒロイン、こうしていれば収まるだろうから……」 こんなにも求めて止まなくなっているのだから、きっと収まるわけなどない。 しかしヒロインならば、傍にあるだけでもいいような気さえしてきて。 何の意味もないまやかしだって口にしてみたくもなった。 実際抱く気もないのだから、こうしていることが最善でもあった。 僕はヒロインを性欲処理に使ったことなどない。 しかし相手がヒロインでなければもうそれすら処理できぬようで。 そんな低俗なことの為に、ぞんざいに扱うつもりは欠片もないのに。 矛盾だらけだ。 どうしようもない現実を新たに突き付けられ内心で自嘲する。 「だって聖護くん…つらそうだよ…?」 しかし当然ヒロインが今の僕の言葉に欺かれることもなく。 膝を落とし僕と目線を合わせ、不安で濡れた瞳に僕を映した。 近付いた、僕を惑わす表情。 何度キスをしても足りない唇。 本当に中毒のようだ。 「ヒロイン……従順な癖に君は………何故、今言うことを聞かないんだ…」 「だってこんな聖護くんを放っておけるわけないでしょ…!」 「君は居るだけでいい」 「そんなのいや…何もしないなんて無理だよ」 「居てくれるだけでいいと言っているだろう」 珍しく心から噛み合わない僕達の会話に笑い出したい感情も芽生えた。 だが余裕のなさから、座り込み目を逸らし、貪りたい唇を遠ざけることしかできなかった。 しかし今夜のヒロインはおとなしく引き下がってもくれず、同じように座り僕の顔を覗き込んだ。 交わる視線が憎らしくいとおしかった。 「聖護くん、ひどくしていいよ」 「ハ……馬鹿だな、こんな薬に任せ…君を抱きたくはないんだよ」 「でも………」 ヒロインを汚すも守るも、思うままにできるのは僕だけだ。 他人を介在させてたまるものか。 けれど、その時。 僕の気持ちも状況も充分に察することのできたらしいヒロインの手が動き。 「じゃあ…これならいいでしょ…?」 布越しに制御が利かぬ欲に触れた。 「ヒロイン…っ」 僕の顔を見ずに俯くヒロインの視線は一点に集中する。 ヒロインは僕のパンツのファスナーを下ろし、窮屈な場から欲を晒した。 それから先端に先走っていた液を指で掬い、そのまま根本まで滑らせた。 もどかしさから一層熱くなる吐息だけがヒロインの耳を犯す。 「聖護くん……もぅ…こんなになってるのに……」 「は……」 「…ばか」 そう言いながら顔を上げたヒロインの面は今にも泣き出しそうで。 そんなヒロインと、もう一度視線が絡み合えば、限界だった。 「ヒロイン…、…ッ……」 勢いよく吐き出される熱。 たったこれだけで吐精できてしまう程、僕はヒロインに毒されているのだと思い知る。 だが一度吐き出したとしても不快感が全て消え失せることはなかった。 ヒロインもそれを察してか、今度は包み込むように握り。 「聖護くん…まだつらそう」 ゆっくりと上下に動かし始めた。 新たに襲い掛かる刺激。 こんなことをさせる為に傍に置いているわけではない僕の気持ちも察した上で、いなし続けるヒロイン。 「……馬鹿な女……」 「っ……!」 馬鹿で、そして、どこまでも愛おしい女。 本当は食いちぎれる程強くしたかったが、相当加減をして首筋に噛み付いた。 加減をしてやれる程度の余裕は取り戻せたというよりも、ヒロインに傷は付けたくない潜在的な本能が己を制御させているようだった。 しかしそれでも痛みは伴ったはずだし、驚きも相俟ったのだろう、ヒロインの肩は竦んだ。 瞬間的に眉間も寄り、声も漏らしそうになったようだが、ヒロインが怯むことはなかった。 痛みにも耐え、僕から逃げる姿勢は一向に見せずに。 ひたすらに、ひたむきに僕を受け止めようとしていた。 早く抱き締めたくなり、こんな行為は早急に切り上げるべきだという思考へと切り替わっていった。 ヒロインの手を覆うように自身の手を重ねて、吐精を急かす。 途中、先程噛み付いた箇所に優しく唇を乗せた。 「ヒロイン……痛かったかい」 それからゆっくりと舌を這わせれば、ヒロインの唇からも扇情的な吐息が小さく零れた。 おそらく無意識のうちだろうが、包み込む手のひらにも力が込められた。 「ん…平気だよ」 「ッ……すまなかった」 「んーん、大丈夫、私のことは気にしなくていいから、聖護くん…」 「ヒロイン…」 再度白濁が吐き出されるまでに、さして時間は要さなかった。 二度の果て、腹の底に沈んでいた疎ましさは少なからず軽減された。 咄嗟にヒロインを抱き寄せる。 慣れ親しんだ身体は柔軟に僕の腕の中へ収まった。 「…聖護くん、もう、大丈夫…?」 「ああ」 「よかった、………それにしても、」 「うん?」 僕の平静を確認したヒロインは、心からの安堵を示し、それから控え目に笑い声を転がし。 「今夜の聖護くんはいつもより強情だったね」 「…だが、それを言うなら君もだろ、今夜はヒロインも強情だったよ」 二人でくすくすと笑い合えれば、それだけで今宵のいざこざだってリセットされる。 僕に聞きたいことが山程あってもおかしくないというのに、ヒロインは今こうしている事実を大切にしているように見えた。 ひとしきり静かに笑った後に、おもむろに顔を上げ純粋な視線を僕に注ぐヒロイン。 「ね、聖護くん」 「なにかな、ヒロイン」 「好きよ、だいすき」 そうして、日々欠かさず紡ぐ言葉を―――。 だから、僕も好きだよ、と。 今まで口にしたことのなかった言葉を伝えたかった。 だが、今告げるには余りにも滑稽過ぎる気がして。 代わりに、こめかみに唇を落としてから、回している腕に力を入れた。 それだけでヒロインは世界一幸福だと言わんばかりに笑う。 「ヒロイン、」 「んー?」 「明日の晩はヒロインの手料理を食べさせてくれないか」 「言われなくても聖護くんと一緒に食べられる日はいつだって二人分作るよ?」 「フ、そうだね」 「うん、ふふ、」 今晩身に染みた想いを告げるのは、明日、二人で向かい合って食事を取るシーンにしよう。 それはヒロインにとって、どんな高級な食材を使用するよりもとびきりのデザートになるだろうから。 「聖護くん、何か食べたいものはある?」 「君と同じものが食べられるなら、何でも構わないよ」 「ふ、了解です、じゃあ丹精込めて作るからお腹を空かせて帰ってきてね」 「ああ、ヒロインもね、腹を空かせておくといいよ」 「…私が作るのに?」 「ああ、うんと腹を空かせておきな」 「あはは、なんでか分からないけど、わかった」 僕達はきっと一層心地好く縺れることができる。 同じもの、同じ言葉で互いを満たして。 We must be famished ← top ← contents ×
|